ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

皆さんは、〝21〟という数字から何をイメージしますか?

21世紀、ブラックジャック、江夏の21球、映画 『21g』 etc。


映画と言えば、『ラスベガスをぶっつぶせ』 の原題が 『21』 だった、なんてマニアックなネタもありますが・・・私がまず最初に思い浮かべるのは、〝かい人21面相〟。

 

昭和の終わり頃、日本中を震撼させた

 

 グリコ・森永事件

 

の犯人が自らをそう呼んだ忌まわしい名称ですが、この事件の発端となったのが江崎グリコ・江崎勝久社長誘拐事件。

 

自宅で入浴中に拳銃等を所持した3人組の男に急襲され全裸のまま連れ去られたのが、今から41年前の今日・1984(昭和59)年3月18日のことでした。

 

翌日犯人からの身代金(現金10億円と金塊100kg)を要求する脅迫状が会社側に渡されましたが、受け渡し場所に指定した場所に犯人は現れず。

そして3日後の3月21日、江崎社長は自力で脱出して保護され、事件は収まったかに思えました。

      

          脱出後記者会見に応じた江崎社長

 

ところが4月10日にグリコの工場などが放火の被害遭い、同月22日にマスコミ各社に届いた脅迫状から犯人グループが〝かい人21面相〟を名乗り出します。

 

「けいさつの あほども え・・・」

 

などと警察をあざ笑うかのような挑戦状・脅迫状はその後もたびたび出され、同年10月7日には

 

「どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相」

 

と書かれた紙が貼り付けられ、実際にシアン化ナトリウムが混入された森永製菓の商品が兵庫県内のコンビニで見つかったのです。

 

その後も〝かい人21面相〟名義の脅迫状が丸大食品・ハウス食品他、複数の食品会社に送りつけられました。

 

その間、コンビニに毒入り商品を置いた犯人と思われる野球帽をかぶった背広姿の男の姿も、ニュース等で全国に放映されました。

 

       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

またハウス食品が用意した1億円の引渡しを行おうとした際、名神高速・栗東IC付近で不審車が発見されたものの、警察の連携不足により取り逃がす・・・という失態もあり、この一件で当時の滋賀県警本部長が焼身自殺するという痛ましい悲劇も起きました。


その後いくつかの動きがあったものの、翌1985(昭和60)年8月12日に犯人側から

 

「くいもんの 会社 いびるの もお やめや・・・」


という終息宣言が一方的に出されます。


奇しくも、あの日航ジャンボ機墜落事故の起きた日・・・しかも、その123便には、脅迫されたハウス食品の浦上郁夫社長が事件の終息を創業者である父・靖介氏の墓前に報告するため乗り合わせて亡くなる、という悲運もありました。


この宣言以降、犯人側の動きは完全に止まり、2000年2月13日に一連の事件全ての時効が成立。

投入された捜査員述べ131万人以上、犯人としてリストアップされた捜査対象者12万5千人という複数県・複数企業を相手にした脅迫事件は現在に至るまで犯人の正体が分からないまま〝お宮入り〟。


予め商品に脅迫状を貼ったりしたため、実際に毒を口にした方や死者が出ることがなかったのが、不幸中の幸いといえましょうか。


一体、この犯人は誰で、何が目的だったのか?

元グリコ関係者や暴力団組長、中には北朝鮮工作員などを犯人とする様々な仮説が唱えられていますが、動機が怨恨ならばなぜグリコ以外の企業も狙ったのか判然としません。

また金が目当てなら、どうして受け渡し場所に現れなかったのか?

・・・これは私の個人的な推測ですが、グリコは極秘裏に犯人グループと交渉し、身代金を支払ったのではないでしょうか?

グリコ側は口をつぐんでいますが、そうでもなければ当時の現金10億円という巨額な身代金を要求している大事な人質を犯人が簡単に逃がすわけがない、と思うから。

そしてこれに味をしめた犯人グループが2匹目のドジョウを狙って次々と食品会社を脅迫したものの、警察の捜査が身近に迫ってきたため一方的に終息宣言を出した・・・と睨んでいるのですが、皆さんの見立てはいかがでしょう。

もし犯人が生きているならば、時効が成立しているのですから是非その姿を見せ真相を明かして欲しいものですが・・・・果たして?

 


            人気ブログランキング

発明王トーマス・エジソンの名は皆さんご存知でしょうが、彼が新渡戸稲造の『武士道』を愛読する程の親日家であったことは、それほど知られていないと思います。

それは、彼が発明(というより改良)した白熱電球のフィラメントに日本の竹を使ったから、というわけではありません。

そのフィラメント発明後のエジソンを支えた、日本人助手の存在があったからなのです。 今日は、その

 

     よしろう
 岡部 芳郎 
 

の命日・没後80周年にあたります。

 

     

1884(明治17)年に神戸で生まれた彼は、山口県立大島商船学校を卒業後、海軍予備少尉に任官。

 

22歳の時にイギリス商船レイキャッスル号に3等機関士として乗船し1904年に渡米した際、ニューヨーク停泊中に急性盲腸炎になり下船を余儀なくされました。


治癒後もそのままアメリカに残った彼は、特許弁理士の下で製図の仕事にありつきます。

その後ウェスティングハウス・エレクトリック社に雇用されると、同社の技術長からエジソン研究所技師長のポストを紹介されて採用となり、以後6年間エジソンの助手を務めました。 

 

エジソンは、

「自分の子供たちはしょっちゅう自分の周りから金品を勝手に持ち出していくが、この日本の青年はテーブルの上にお金が置いてあっても、手をつけることなど全くない。」

と彼の誠実さと真面目な働きぶりを評価。

 

またエジソンが暴漢に襲われた際柔道技で撃退したり、ヘンリー・フォードやハーベイ・ファイヤストーンらとのキャンプ旅行の世話を細やかにした事で岡部助手を大変気に入ったとのこと。

 

      

 

研究所ではトーキーの音声を拡大する研究や金粉末密着法の設計製図、電池を用いた自動車モーターの研究に従事したり、時には三井のニューヨーク支店等との交渉をも担当したとか。

 

そして1914年に日本キネトフォンの専任技師として帰国し、エジソンのキネトフォンを使って松井須磨子の『カチューシャの唄』の映画版を制作。(同作は浅草日本館で上映されました。)

エジソン没後の1934年に京都府八幡市男山のエジソン記念碑の除幕式に、彼と最も親しかった日本人として参列した岡部氏は、その後神戸で鉄工所を経営。

船舶修理などで財を成したそうですが、彼の未来を奪ったのは戦争でした。

英米との衝突が色濃くなるにつれ事業の縮小を余儀なくされたのですが、それは渡米経験があったことで憲兵からスパイ容疑で尋問を受けたことが影響したといわれています。

そして1945(昭和20)年3月17日・・・神戸大空襲によって61歳で戦災死してしまいました。

エジソンから譲り受けた貴重な品々も、その際に焼失したとか。

 

彼の薫陶を受け、アメリカから最新技術の映像技術を持ち帰りながら最後はそのアメリカによって殺された岡部氏の思いは、いかばかりだったのか・・・。

〝発明王が雇った唯一の日本人助手〟のご冥福を、あらためてお祈り致します。🙏

 

 

           人気ブログランキング  

今から138年前の今日・1885(明治18)年3月16日、『時事新報』という新聞に

 

 脱 亜 論

 

と銘打たれた、字数2,200・400字詰原稿用紙5枚半分の社説が掲載されました。

 

     

当日は無署名だったものの、後日『続福澤全集』に収録されたことで、執筆者が慶應義塾の創始者・福澤諭吉先生であることが判明したこの主張は、現在日本の隣国との関係を予見したかのような内容であり、私は大いに頷けるものだと思います。

時事新報自体、福澤先生が1882(明治15)年に創刊した新聞。

 

元々慶應義塾は1881(明治14)年から朝鮮人の留学生を受け入れており、福澤先生は彼らを通して朝鮮への理解を深めておられました。

そして朝鮮への文化的誘導の必要性を感じ、来日した朝鮮使節の依頼に応じて慶応義塾の門下生数名を紹介し、新聞を発行させるべく現地に派遣。

しかし一旦は認められた発行が守旧派の巻き返しにより頓挫し、また清国からの圧力により一人が帰国させられる事態に。

また朝鮮の内乱により独立党の幹部やその家族が残忍な処刑によって殺害されるに至り、福澤先生は朝鮮および清国に対し大きな絶望感を抱いた中、この小論文が書かれたものと推察できます。

 

      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

その『脱亜論』を以下に現代語訳・抜粋にてご紹介致します。

 
      ◆   ◆   ◆   ◆


世界の交通の道は便利になり、西洋文明の風は東に進み、至るところ、草も木もこの風になびかないことはない。

 

 (中 略)

 

近代西洋文明が日本に入ったのは、嘉永の開国を発端とする。


国民はようやくそれを採用するべきことを知り、しだいに活発の気風が生じたものの、進歩の道に横たわる老害の幕府というものがあり、これは如何ともし難かった。 


ここにおいて、我が日本の人士は、国を重く、幕府を軽いとする大義に基づき、また、幸いにも神聖なる皇室の尊厳によって、断固として旧幕府を倒し新政府を樹立した。
 

幕府を保存しようとすると、文明は決して入ってくることができない。


なぜかといえば近代文明は日本の旧体制と両立するものではなく、旧体制を改革すれば、同時に幕府も滅亡してしまうからである。

 

だからといって、文明を防いでその侵入を止めようとすれば、日本国の独立は維持できなかった。


なぜならば、世界文明の慌しい情勢は、東洋の孤島の眠りを許すものではなかったからだ。 

 

官・民の区別なく、国中が一切万事にわたって西洋近代文明を採り、ただ日本の旧法を改革したばかりではない。


アジア全域の中にあって一つの新機軸を確立し主義とするのは、ただ脱亜の二字にあるのみである。


日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、国民の精神は既にアジアの旧習を脱し西洋の文明に移っている。


しかし不幸なのは、支那と朝鮮という2つの隣国があることである。


この2国の人民も古来よりアジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことは、我が日本国民と異ならない。


だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗の中にありながら遺伝した教育に違いがあるためか、日・支・韓の三国を比較すると支那・韓国は日本よりかなり近いのである。


この二国人たちは、自分の身の上についても自国に関しても、改革や進歩の道を知らない。


交通便利な世の中にあっては文明の進化を見聞きしないわけではないが、その見聞は心を動かすことにならず、古くさい慣習にしがみつくありさまは、百千年の昔と同じだ。

 

現在の急激な文明発達の時代に、教育を論じれば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智といい、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際においては真理や原則をわきまえることがない。


そればかりか、道徳さえ地を掃いたように消えはてて残酷破廉恥を極め、なお傲然として自省の念など持たないようだ。


筆者からこの2国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあって、とても独立を維持する道はない。

 

 (中 略)

 

「輔車唇歯」とは隣国が相互に援助し合う喩えであるが、今の支那・朝鮮は我が日本のために髪一本ほどの役にも立たない。


のみならず、西洋文明人の眼から見れば三国が地理的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・韓国の評価で我が日本を判断するということも有り得るのだ。


例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制で法律が信頼できなければ、西洋の人は日本もまた無法律の国かと疑うだろう。


支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなければ、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違いない。


支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もその影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もまた無情と推量されるのだ。


事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。


(中 略)


その影響が現実に表れ、間接的に我が国外交上の障害となっていることは少なくなく、日本国の一大不幸というべきである。


それ故現在の戦略を考えるに、我が国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのだ。


むしろその仲間から脱出し、西洋の文明国と進退を共にし、支那・朝鮮に対する接し方も隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人が彼らに接するように処置すべきである。


悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。

筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。     

 

       ◆   ◆   ◆   ◆


時代の相違や福澤先生の当時の感情が移入しているため、一部現代と馴染まない表現はありますが、隣国に対して日本が取るべきスタンスを誠に鋭くかつ的確に見抜かれていると思います。

脱亜の亜とは、アジア全ての国ではなく、支那・朝鮮の〝特亜〟を指す・・・そう考えれば、全く違和感がありません。

よく「お隣り同志なんだから、仲良くすべき」と仰る方がいらっしゃいますが、全ての人が隣人と仲良くしているのでしょうか?


またそうしなければ、日常生活で何か支障があるのでしょうか?


いや更に言うなら、隣同士仲が良い国なんてあるのでしょうか?

もしあるなら、なぜ国境があるのか。

私はお隣さんであっても理解し合えなければ、個人であれ国家であれ、交流を絶っても構わないと思います。

日本で起業して儲けたくせに日本人をバカにする支那人や、東日本大震災発生後のサッカー試合で非常識な垂れ幕を出す朝鮮人とは、特に。(↓)

    

    

そしてたとえ距離が遠くても、親日国をもっと大切にすることが外交上有益だと思うのですが・・・皆さんはどうお考えでしょうか?


 

           人気ブログランキング  

俗に〝食い物の恨みは恐ろしい〟といいます。


これを実感した経験のある方は、私を含めて多いことと思いますが・・・その極限に達したと思われる出来事が、今から80年近く前の今日・1946(昭和21)年3月16日に起きました。

 

 『片岡仁左衛門一家殺害事件』

 

これは当時その美貌と品位で人気を取った十二代目・片岡仁左衛門(65)と元・日活女優の妻(26)と三男(2)、更にお手伝いさん(69)と住み込みの子守(12)合計5人が自宅で頭を斧で割られるという、凄惨なもの。

 

犯人は1年前の東京大空襲で焼き出され、父親が座付作者だった縁から仁左衛門の台本整理や台詞書きとして住み込みで働いていた〝〟(22)。

 

事件から4日後、宮城県の温泉旅館に投宿しているところを逮捕されました。

 

何故自分を拾ってくれた恩人であるはずの仁左衛門を殺害したのか?・・・その原因は、『食糧』でした。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

           十二代目・片岡仁左衛門

 

当時は敗戦から半年・・・日本全国が食糧不足に悩まされており、何も片岡家だけが食糧難だったわけではなかったはず。

 

〟の供述によると、片岡夫妻は1日3食おかずつき。
(とは言え、その時代に十分な量ではなかったはずですが。)

 

しかし一方の使用人は食卓を別にされ、1日2食。

 

仁左衛門の孫のような若妻は、配給米を鍵付きの容器に入れ厳重に保管していたといいます。

 

その夫人が1945年末から翌年1月にかけて仁左衛門の京都公演に同行した際、外食券を送るという約束を反故にしたことで、〝〟との間が険悪に。

 

帰京後夫人は〝〟に対し減食を申し渡し、2食のうち1食は水のようなお粥に。

 

最低限1,500kcalは必要なのに、その時の〝〟の摂取カロリーは、その1割程度だったとか。😨

 

まさに栄養失調寸前・・・飢えた〝〟は貯金を取り崩して闇市で食料を手に入れますが、やがてその金も尽きてしまいます。

 

彼に同情して近所の人がご飯を食べさせてくれたのですが、それを片岡夫人は「外聞が悪い」と叱ったのだとか。

 

更に仁左衛門までもが夫人に味方して辛く当たるようになり、〝〟は次第に片岡一家に憎悪を強めていきました。

 

そして事件前夜、片岡夫人は更に2食とも粉食にすると通告。
それに不満を言うと、片岡夫妻は激怒。 仁左衛門は

 

「今夜中に4月公演の台本を書け。 
 その原稿代を払ってやるから、出ていけ!」

 

と言い放ち、〝〟が書いた台本を持っていくと、仁左衛門は 「これでも作家か!」と台本を〝〟に投げつけたといいます。

 

その夜一旦床に入った〝〟でしたが、悶々として寝つけず。

 

早朝6時頃、トイレに立った彼は廊下に置かれていた撒き割り用の斧に躓きます。

 

その斧を見た瞬間、ムラムラと殺意が湧き、〝〟はそれを手に仁左衛門の寝室へ。

 

そして片岡一家3人、更に別の部屋で眠っていた2人を惨殺。

家にあったご飯とザラメ糖を口にして逃走したといいます。

 

〟曰く、仁左衛門に殴り掛かった後の記憶は残っていないとか。

 

おそらく脳内回線が斧を見た瞬間に切れてしまったのでしょう。

 

それが証拠に彼が殺した12歳の子守は、彼の実妹だったのですから・・・。

 

裁判の中で〝〟のことを悪く言う証人は殆どおらず、また精神鑑定の結果心神耗弱状態であったとされたこともあり、死刑の求刑に対して出された判決は無期懲役でした。

 

多分に情状酌量があったものと思われます。

 

ご主人の昼食代にワンコインしか渡さないのに、自分は子供とレストランで優雅にランチを食べている奥様・・・あまりご主人を虐げると、思わぬ逆襲に遭うかもしれませんョ。

 

くれぐれもお気を付けください。


          人気ブログランキング

今日は、一代で巨万の富を築き〝海運王〟といわれた

 アリストテレス・ソクラテス・オナシス

    Aristotle Socrates Onassis

 

の命日・没後50周年にあたります。

 

      

 

オナシスは1906年にオスマン帝国時代のスミルナ(現在のトルコ領イズミル)で生まれたギリシャ人。

超有名人の名を連ねた凄い名前ですが、たばこ商だった彼の父がソクラテス、叔父がアレキサンダーだったそうですから、有名人好きの家系だったのかも。😅

第一次世界大戦後の1922年に政情不安となったスミルナはトルコ領となってギリシャ系住民は弾圧され、叔父アレキサンダーは殺害され、父ソクラテスも投獄されて全財産を失ったため、オナシスは命からがらギリシャに逃亡。

その後父親を賄賂などの手立てを講じて出獄させた後、彼は希望を求めて1923年にアルゼンチンに移住します。

父親譲りの商才を生まれ持ち、更に頭脳明晰でギリシャ語の他英語・ドイツ語、そして後年にはフランス語も操ったという語学力の持ち主だった彼は、たばこ商からスタートして葉巻や食肉の輸出で着実に成功の階段を登っていきます。

しかし私個人としては、というか多くの方は彼のビジネスマンとしてよりも、華麗なる女性遍歴でその名を記憶されているのではないでしょうか。


実は彼、このアルゼンチン時代に女性のハートを射止める天性の素質を開花させています。
 

同地で知り合ったイタリア系女性オペラ歌手クラウディアに目を付けた彼は、メッセージ付きの花束を、彼女が「一体、誰が?」 と関心を持つまで贈り続け、彼女の好奇心が一杯になったところで正体を明かすという演出で彼女との交際に成功。

以後、彼は女性でもビジネスでも、この人心掌握術を駆使して成功を収めていきます。

ギリシャに戻った彼は第二次世界大戦後にだぶついた連合国軍の船舶を安値で買い取り海運業に進出。

1946年にはギリシャの海運王スタブロス・リバノスの娘アシーナと(政略?)結婚すると、1957年にはギリシャのフラッグシップ・キャリアとなるオーリンピック航空を設立するなど、順調に事業を拡大。

しかしその年に世界的オペラ歌手のマリア・カラスと知り合った彼は、1960年にアシーナと離婚。


      

 

しかしカラス(↓)とは交際9年に及ぶも結婚はせず。

 

 

1968年に結婚したのは、あのケネディ大統領の未亡人・ジャクリーンでした。

当時このニュースは大々的に報道され、小学生だった私も「へぇ~!」なんていっぱしに驚いたことを憶えています。

        

      


「私は一隻の船だけでは満足しない男だ。 

 なぜ、一冊の本だけで満足しなければいけない?」

という彼の語録がありますが、船や本を女性に置き換えてもよさそう・・・しかしジャクリーンとの結婚には愛がなかったと言われています。

事実2人は殆ど同居生活していませんでした。

この結婚によってオナシスは名声を、ジャクリーンは金づるを得ただけ・・・と言えましょうか?

実際彼女は結婚後湯水のように金を使い、さすがのオナシスも離婚を考えたそうですが、その決断を下すことなく1975年3月15日に気管支肺炎で69年の人生に幕を下ろしました。

巨万の富を築き華麗な女性遍歴を重ねた一方で、最初の妻・アシーナとの間に設けた長男アレクサンダーは自家用飛行機の墜落事故で、長女クリスティーナは薬物中毒により父親より先にこの世を去るという不幸に見舞われているオナシス。

彼の人生を振り返ると、人間は全てのものを手に入れることはできないものだ・・・と痛感します。

「私は情熱の男だ。
私の持つ残酷さ・狡さの全てを私の情熱が補ってくれている。」


と自負していた彼は、果たして己の人生に悔いは無かったのでしょうか?

 

    

          人気ブログランキング

皆さんも、日本史の授業で習ったことをご記憶でしょう。

 

 五箇条の御誓文

明治天皇がこれを新政府の基本指針として天地神明に誓約する形で公卿・諸侯に示したのが、今から157年前の今日・1868(慶應4)年3月14日のことでした。

       

明治政府は、発足直後から国内をまとめるための国是を模索していました。

1868年1月に参与・由利公正(福井藩)が『議事之体大意』 五箇条を起案し、これを参与・福岡孝弟が修正したものを、3月に入って木戸孝允(長州藩)が加筆し議定兼副総裁の岩倉具視に提出。

これが明治天皇の裁可を受け、3月13日に天皇の書道指南役・有栖川宮幟仁親王の手で正本が揮毫され、翌日京都御所の正殿・紫宸殿にしつらえられた祭壇前で三条実美が読み上げる形で示されました。

 

あらためてその内容をご紹介しますと、

 

一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
(広く会議を開いて、政治は人々の意見によって行うべし)
 
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

(階級に関係なく皆が心を1つにして、国を治めるべし)
 

一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦(う)マサ
    ラシメン事ヲ要ス

(身分に関わらず誰もが志を全うし、その意思を達成する必要

あり)
 

一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

(過去の習慣を捨て、国際社会のルールに沿って行動すべし)
 

一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

(新しい知識を世界から学び、天皇が国を収める基礎を築く

べし)

 

   
              有栖川宮幟仁親王が揮毫した原本

 

原本をご覧いただくと分かりますが、この五箇条の後に

「我が国は未曾有の変革を為そうとしており、朕(天皇)自ら臣民に率先して天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民を保全する道を立てん。 
臣民もまたこの趣旨に基づき心を合わせて努力せよ。」

という意味合いの勅語が添えられています。
 

この御誓文からは、明治天皇始め新政府がこれからの国難を乗り切るために国民の心をひとつにまとめようと苦心惨憺したことが読み取れます。

また敗戦後の1946(昭和21)年1月1日に発せられた昭和天皇の人間宣言において、
この御誓文の全文が引用されていることからも、国難に際して人心をまとめるための名文であると言えましょう。

以前拙ブログにてご紹介した『教育勅語』(↓) 同様、全文を暗記する必要はなくとも、日本国民は今一度原点に立ち返ってその精神を我が身に落とし込む必要があるのではないでしょうか?

 

 

今再び、日本は国難の時期に入っていると思うが故に・・・。

 

 

          人気ブログランキング 

鳥のから揚げが嫌い・・・っていう方は殆どいらっしゃらないと思いますが、いわゆるフライドチキンを日本に根付かせたのは、何と言っても

 

 ケンタッキー・フライド・チキン

 

の存在が大きいのではないでしょうか。

 

この日本第1号店がオープンしたのが、今から55年前の今日・1970(昭和45)年3月14日・・・何とあのマクドナルドより1年以上早かったんですョ。 😲ヘェ~

 

その場所、どこだと思いますか?

 

それは大阪万博(↓)の会場内。

 

 

実験店として、万博の開催日当日に開店したというわけです。

 

ケンタッキー・フライド・チキン(KFC)は、ご存じカーネル・サンダース(1890~1980)が1939年に独自の製法を考案し、1952年に設立したアメリカの会社。

 

そのレシピはコカ・コーラ同様に門外不出の最高機密とされ、ごく一部の幹部しか知らない製法によって作られたフライドチキンは、アメリカで大人気に。

 

それに目を付けたのが、三菱商事でした。

同社の食糧部門担当者がKFCの日本導入を画策。

 

カーネル・サンダース本人と4年越しで粘り強い交渉を続け、1969年に承諾を得て大阪万博会場の出店に成功したのです。

 

   ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-KFC

           大阪万博実験店

 

物珍しさもあってか、フライドチキンは大人気。

 

チキンとポテトにロールパンをつけた350円のセットが飛ぶように売れ、1日の最高売上が280万円を記録したそうな。

 

この成功により、同年7月に日本KFCが設立されました・・・が、ここで同社は大きく躓きます。

 

アメリカのKFC本部は地元と同じく郊外型ショッピングセンターへの出店を望んできましたが、日本側はまだモータリゼーションが普及していないため都心へのオープンを主張し衝突。

 

結局アメリカ本部が主張を曲げず、同年11月に名古屋・ダイヤモンドシティー・名西ショッピングセンター内に正規第1号店の出店を強行。

 

花火やアドバルーンを上げて華々しくオープンしたのですが、僅か半年余りで1億円の負債を抱えて閉店の憂き目に。

 

この失敗で社内の空気が事業撤退に傾く中、都心繁華街に小型店舗を出して知名度を上げる作戦に変更して1972年4月に神戸

・トーアロード店をオープン。

 

目論見は見事的中し、開店4ヶ月後には月間360万円の売上を達成。

 

これをバネに東京・青山にも出店し成功・・・これが現在11,000店舗以上の一大チェーン店に発展した原点だったのです。

 

最初の失敗でメゲず、それを教訓として成功のキッカケにしたところは、モスバーガーと似ていますネ。

 

余談ですが、当初アメリカから原料のチキンを輸入した際、アメリカ人には人気のなかったダークミート(下半身の肉)を使用したそうですが、これがかえって日本人の好みに合ったのだとか。

 

当たり前のことなんでしょうが、やはり味覚って人種によって違うんですネ。

 

それから日本では各店舗に置いてあるカーネルおじさんの立像ですが、あの原型は当初カナダのフランチャイズ店舗でイベント用に作成されたもの。


倉庫に眠っていたものを視察の際に見つけた日本KFCの幹部が日本に持ち帰り、各店舗にトレードマークとして置いたのだそう。

 

来日したカーネル・サンダース本人がこれを大変気に入ったそうで、アメリカのカーネル・ミュージアムには日本KFCから贈呈された立像が展示されているとか。

 

ちなみに立像の身長は173cm・・・これはサンダース本人の60歳時と同サイズだそうな。

 

今度ご家族でKFCに行かれた際には、ちょっと薀蓄を語ってお子さんから尊敬の眼差しを受けてみてはいかがでしょう?😅

 

 

            人気ブログランキング

クラシック音楽ファンでなくても、この曲はご存知のはず。

 

と言うのも、おそらく学校の音楽の授業で聴かされているでしょうから・・・。

それは、ベートーヴェン・ブラームスの作品と並び、〝3大ヴァイオリン協奏曲〟と称される

 メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲ホ短調 作品64

この名曲か初演されたのが、今からちょうど180年前の今日でした。

 

※メンデルスゾーンに関する過去記事は、こちら。(↓)

 

早熟の天才であり、その作品はいずれも美しい旋律に彩られている彼の作品の中でも特にその情緒豊かなメロディーで有名なこの協奏曲は、クラシック音楽愛好家の間で〝メンコン〟と呼ばれ、一流ブァイオリニストの殆どがレコーディングしているはず。

 

この名曲を作曲する契機となったのは、彼の幼馴染みで1歳年下のヴァイオリニスト、フェルディナント・ダヴィット(1810-1873)。

 

     
                Ferdinand David 
 

彼はメンデルスゾーン家と同じアパートに生まれ、メンデルスゾーン一家が引っ越した後も家族ぐるみで交際していました。

メンデルスゾーンと同じユダヤ系だった彼は16歳でベルリン王立劇場のヴァイオリン奏者になり、1835年にはライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターに就任。

その同じ年に26歳で同楽団の指揮者に就任していたのが、メンデルスゾーンでした。

かつての幼馴染みが奇しくも一流オーケストラの指揮者とコンマスになったわけですが、自らもヴァイオリンの名手だったメンデルスゾーンはダヴィットの演奏レベルの高さに感銘を受け、彼のためにヴァイオリン協奏曲の創作を決心。

 

そしてメンデルスゾーンは、ダヴィット宛てに

「翌年の冬までにはホ短調の協奏曲を贈る」

という内容の手紙を1838年に送っていたのですが・・・実際に完成したのは、それから6年後の1844年9月。

多作で作品を仕上げるのが早かった彼が、なぜそんなに時間を要したのか?・・・その原因は、病気でした。

そして本来は彼自身がゲヴァントハウス管弦楽団を指揮し、ダヴィットがソリストを務めるはずだった1845年3月13日の初演では、メンデルスゾーンの体調不良により副指揮者のニルス・ガーデが代役を務めました。

そしてこの2年後、メンデルスゾーンは38歳の若さでこの世を去ったのです。

この名曲の演奏は、数々のヴァイオリニストが演奏・録音していますが、個人的に好きなのはヤッシャ・ハイフェッツ/シャルル・ミュンシュ指揮・ボストン交響楽団による1955年の演奏。 (下写真・左)

そして1980年に録音された、カラヤン/ベルリン・フィルと天才少女アンネ=ゾフィー・ムター17歳の時の共演(同右)も、よく聴きます。

 



高校生時代には、アイザック・スターンのレコードを持っていましたが、CDは買わず仕舞い・・・。

皆さんのお好きな演奏があれば、是非教えてください。


それでは最後に、今までじっくり聴いたことのない方のために、フル演奏動画を。

日本の第一人者・諏訪内晶子さんの奏でる甘く切なく、そして時として力強いストリングスの響きをご堪能いただきたく・・・。

 

 

 

          人気ブログランキング

毎月12日は、語呂合わせから『育児の日』なのだそうです。

でも親御さんにとって、育児は毎日24時間休みなしですょネ。

小さなお子さんの子育てに日々奮闘しているお父さんやお母さん、また将来子供を持つ予定のカップルに、今日は以前拙ブログにてご紹介したソニーの創業者・井深大氏(↓)の著書 『幼稚園では遅すぎる』 から、育児のヒントを2つ程抜粋・編集にてご紹介させていただきます。

 

 

          ◆     ◆     ◆     ◆


今でも、心理学者や教育学者の中には、生まれたての赤ん坊に教育という意図的な躾を行うのは罪悪である、という説を唱える人が少なくありません。

小さな頭の中にいろいろなことを押し込むのは、子供をコセコセした性格に育ててしまうだけだ。

幼児期は、育つがままに放置するのが自然で良いというのです。

中には、子供の勝手気ままさえも、自然であるかのように思っている人もいるようです。

世の母親の多くも、この説に従って〝自然放任主義〟を自画自賛しているようです。 

 

それで、自分か物分かりが良くて優しい、しかも進歩的な母親だと安心しているのです。

ところが、いざ子供が幼稚園や小学校に入るようになると、その放任主義をあっさり宗旨替えしてしまいます。

それまでは赤ん坊だからと、したい放題の我が儘を許していたくせに、もう幼稚園児だから、小学生だからというわけで、厳しい躾と教育を始めます。

やさしい母親が突如として恐ろしい教育ママに変貌するのです。

こうした考え方が、全く母親のひとりよがりなのです。

 

むしろ幼児期にこそ、真の教育ママであって欲しいし、また教育ママであることの効果が期待できるのです。

私は〝厳しく〟する時期と〝自由に〟する時期を取り違えた母親が、世に非難されたり揶揄されたりしている、いわゆる教育ママだと思っています。

 

幼児期にこそ、やさしくしかも厳しく鍛え、自我の芽生え始める3歳以降は、次第に子供の意志を尊重していくべきなのです。

親の干渉は、極端に言えば幼稚園以前に終わっているべきです。

それをしないでおいて、子供が幼稚園に行くようになってから、いろいろな干渉を加える・・・これではせっかくの子供の才能を殺して、いたずらに反抗心を植え付けるだけというマイナスの効果しか生みません。

     

ソニー厚木工場には、2~3歳の幼児を持った共働きのお母さんのために、幼稚園が設けられています。

先日、ここで園児を対象に、どんな音楽が好きかを調査したところ、実に意外な結果が出ました。

幼児が一番興味を示したのは、なんとベートーヴェンの交響曲第5番『運命』だったのです。

テレビで朝から晩まで流している歌謡曲は2番目に人気があり、幼児のための音楽といわれている童謡は、もっとも人気がありませんでした。

私はこの結果に、非常に興味を覚えました。

私たち大人が、少なからず敬遠している高度なクラシック音楽を、子供たちは一番面白いというのです。

幼児には、生まれた時から複雑なシンフォニーを理解できるだけの音楽的感覚が備わっているのでしょうか?

 

ある実験によれば、生後5ヶ月の赤ん坊でも、ビバルディの協奏曲が分かるそうです。 

 

そういえば、私の友人の娘さん夫妻から、こんな話を聞いたことがあります。

クラシック音楽好きのこのご夫妻は、赤ん坊がうまれるとすぐ、1日に数時間バッハの無伴奏チェロ組曲の2番を聴かせました。

3ヶ月ほど経つと、赤ん坊はバッハの組曲のリズムに乗って躍動するようになりました。

曲が終わりに近づきリズムが激しくなってくると、躍動も大きくなり、曲が終わると不機嫌になるのだそうです。

むずがったり泣いたりしている時でも、この曲をかけると途端にご機嫌になります。

ところがバッハの組曲の代わりにジャズをかけたところ、大声で泣きだしたというのです。

この話を聞いて、私は生後3ヶ月の赤ん坊でも、バッハの組曲が分かるのかと、あらためて幼児の音楽的感覚の素晴らしさに目を見張りました。

クラシック音楽が全て良いとは申しませんが、複雑なシンフォニーを感覚的に理解できる能力は驚異です。

これまでの日本人が西洋のクラシック音楽に馴染めなかったのは、幼児期に童謡や歌謡曲ばかりを聴かされたためではないでしょうか。

          ◆     ◆     ◆     ◆

 

私自身クラシック音楽鑑賞やピアノを弾くのが趣味ですが、それはオフクロがモーツァルト好きで、いつも彼の作品を聴いていたことと無縁ではないと思います。

井深氏の著書のタイトル通り、子育ての勝負は3歳まで・・・幼稚園に入る前なのかもしれません。

同書は今から半世紀以上前の1971年に出版されましたが、

 ★おもちゃを与え過ぎると傲慢な性格になる。
 ★整理され過ぎた部屋は子供の成長を妨げる。

等々、その内容は現代でも十分通用するものだと思います。

また井深氏は、この著書の中で幼児教育における母親の役割の大きさを盛んに説いていらっしゃいますが、この点についても私は大いに賛同したいところ。


幼児教育・躾を怠ったり間違えたことが、近年企業や店舗を悩ませているバイト・テロが起きている原因のひとつ・・・私には、そう思えてなりません。😔


          人気ブログランキング