ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

20世紀後半に米ソ間で熾烈な宇宙開発競争が繰り広げられる中、残念ながら人命を失う事故が双方に起きました。

アメリカ側では、1967年に起きたアポロ1号の火災事故。(↓)

 

一方のソ連では、その7年前・・・つまり今からちょうど60年前の今日、それを遥かに上回る被害を出した

  
ニェジェーリンの大惨事

が起きました。

 

事故現場は、現カザフスタン共和国・チュラタムにあるバイコヌール宇宙基地。

    

同基地はソ連がICBM(大陸間弾道弾)の発射場として1955年に建設し、以後ロケットの発射場として使用され、有人宇宙船の打ち上げを行った場所。

 ※ICBMに関する過去記事は、こちら。(↓)

 



ここで1960年10月24日、ミハイル・ヤンゲリが設計した全長30m以上・直径3mもあるICBMのR-16試作機が、発射直前に突然爆発・炎上。

液体燃料を満載したミサイルの2段目エンジンが作業員の誤操作により突然点火したのが原因でした。

ロケットの近くにいた作業員らは即座に焼死。

多少離れていた場所にいた人でも、保安フェンスがあったため逃げることが出来ず、猛火や有毒ガスに襲われ絶命。
 

※その猛烈な爆発・炎上の模様をこちらでご覧いただけます。(↓)

 

 

死者71名を数える大惨事となりましたが、その犠牲者の中に初代ソ連戦略ロケット軍総司令官で、R-16開発計画の責任者だったミトロファン・ニェジェーリン砲兵総元帥が含まれていたため、事故にその名が冠されました。

 

       
 

1902年生まれの彼は、1920年に赤軍入りし一兵卒からスタート。

1923年から砲兵部隊に配属されて以降トントン拍子に出世し、第二次世界大戦末期には南西戦線砲兵司令官として活躍、ソ連邦英雄称号が授与されました。

戦後も軍中枢部の要職を務め、1959年には砲兵総元帥に昇進し初代戦略ロケット軍総司令官としてICBM開発を指揮していました。


その彼を開発していたミサイルの爆発事故で失ったソ連の衝撃は、さぞ大きかったでしょう。 

 

それが証拠に、フルシチョフはこの事故について即時箝口令を敷き、ニェジェーリンは飛行機事故による死亡と発表。

他の技術者らの遺族も、同じ原因で死んだと言うよう当局から指示されたそうな。
 

 

そしてゴルバチョフが行ったペレストロイカによって報道の自由化が実現した1989年4月に週刊誌『アガニョーク』がスクープ記事を掲載するまで、ソ連政府は30年近くこの事故を公式に認めませんでした。

果たしてニェジェーリン本人は、この情報隠蔽をあの世からどんな気持ちで眺めていたのやら・・・。

 

 

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今から56年前の今日、日本中が湧きかえる試合が東京・駒沢体育館で行われました。

それは、前回の東京五輪・女子バレーボールの決勝、


 日本 vs.  ソ連

まさに宿命の対決でした。

 

もともと女性従業員の多かった繊維業界は、レクリェーションの一環としてバレーボールを積極的に取り入れていました。

そして戦後の1950年代に入ると、業界は朝鮮戦争による〝糸へん景気〟に湧き次々と実業団チームが作られ、各チームが会社の看板を掲げて鎬を削るように。

そんな中、大日本紡績が各地の工場に点在するチームを集約し全社的な統一チームとして立ち上げたのが、ニチボー貝塚でした。

そしてチームを任されたのが、当時貝塚工場に勤務していた、あの〝鬼〟の大松博文監督

 ※大松監督に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

彼が厳しく鍛え上げた同チームは、その後1966年までに国内公式戦258連勝という不滅の金字塔を打ち立てますが、海外では当初ソ連に歯が立ちませんでした。

それまで日本のバレーボールは9人制で行われていましたが、ソ連に対抗すべく国際大会に合わせ6人制に移行。

選手全員がボールを打ったり拾ったりとフル活動の必要性があることと、圧倒的な体格差のあるソ連に勝つため、大松監督が〝起き上がりこぼし〟を見て閃いたのが、あの回転レシーブでした。

選手たちは毎日何時間も監督が投げつけるボールに食らいつき、身体中にアザをつくりながら約1年でこれを習得。

その猛練習ぶりは社内はもちろん社会的な問題になりかけたそうですが、それが如何に壮絶だったのか・・・1964年のカンヌ映画祭
短編部門グランプリに輝いた 『挑戦』 という作品で、その模様を垣間見ることができます。

 

 

そして1962年に行われた世界選手権で見事ソ連を撃破し、念願の世界一の栄冠を掴むと、海外メディアから〝東洋の魔女〟と呼ばれるように。

しかし監督・選手らは、この時点で引退するつもりだったとか。

その予定が狂ったのは、2年後に開催される東京オリンピックでバレーボールが正式種目になったから。

それも当初は男子だけだったはずが、世界選手権で勝った女子を有力金メダル候補として日本側がIOCに女子も加えるよう猛アピール。

最終的に時のブランデージ会長がGOサインを出したのです。

もう苦しい練習をしなくていい・・・とホッとしていた選手たちは、国民の大きな期待を裏切ってまで引退することは出来ず、また2年間毎日毎晩ボールを追いかける羽目に。

でもその苦しみが報われる日はやってきました。

1964(昭和39)年10月23日、全勝同士で対決した日ソ両チームが激突。

実力で勝る日本が粘るソ連を3-0のストレートで下し、見事金メダルを獲得したのです。

 ※その模様を、こちらでご覧いただけます。

 



この試合のテレビ視聴率66.8%は総合歴代2位、スポーツ部門では断トツの1位。

今観ても感動する試合ですが、それは監督・選手たちの苦労を知っているからかもしれません。

    

 

大松監督は選手たちにキッチリ定時まで働かせ、その後練習するというアマチュアリズムを貫き通したそうですが、現代なら間違いなくパワハラで謝罪・辞任に追い込まれるでしょうネ。

確かに大松監督はやり過ぎだったかもしれませんが、ちょっとしたことで大騒ぎする現代の風潮は、子供や若者を軟弱にするだけではないか?

勝利や栄光を掴むためには、人一倍の努力が必要なのに・・・体育会出身の私は、首を傾げざるを得ません。


 

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子供の頃、「鳴くよウグイス・・・」で歴史年表を記憶した方が多かったでしょう。 その


 平 安 京

に遷都されたのが、今から1,226年前の今日のこと・・・それまで745(天平17)年に平城京、784(延歴3)年に長岡京と遷都され、それから僅か10年後の794(延歴13)年に誕生しました。

 

この目まぐるしい遷都を決断したのは、第50代・桓武天皇(737-806 在位期間は781-806)。

 

        

 

桓武天皇が平城京から長岡京への遷都を決断したのは、それまで天武天皇系の勢力を支えてきた既存仏教・貴族らと距離を置くため彼らの本拠地・大和国から離れ、新たに父・光仁天皇の代から皇統が戻った天智天皇系の都を作るためだったとか。

そして側近・藤原種継の実家がある長岡を移転先に選んだのでずか、遷都した翌年その種継が反対勢力に殺害されてしまいます。

その後も日照りによる飢饉・疫病の流行や近親者の死去が相次ぎ、更に2度の大雨で都の中を流れる川が氾濫し大きな被害が出たことから、和気清麻呂の建議もあって793年に再遷都の調査を開始、その翌794年に平安京の遷都と相成り、桓武天皇が平城京入りしたのが同年10月22日だったのです。

場所は現在の京都市中心部。 

       

敷地内には現在の京都駅も含まれています。

隋・唐の長安城を模し、東西4.5km、南北5.2kmの長方形で、12~24mの幅がある道路で整然と区画された平安京は、現在の京都市街の基礎ともなっています。

その後平安京は1180(治承4)年に平清盛が福原に遷都した半年間を除き明治天皇が東京に移られるまでの1,000年以上にわたって歴代天皇の皇居がおかれました。

まさに〝京〟・・・ですが、残念ながらその後天皇の威光は武家社会から戦国時代に進むに従って徐々に衰えていき、政治の中心は鎌倉や江戸など幕府に移ることに。

しかしこの遷都から千年以上経った後も、平安京の存在は京都に少なからず影響を及ぼしています。

平安遷都1,100年記念事業として、1895(明治28)年には観光コースとして多くの方が訪れる平安神宮が建設され、また第4回内国勧業博覧会が開催されました。

また1,200年記念事業として、1997(平成9)年には京都駅の改修などが行われていますから。

さて、1,300年記念事業の目玉は何になるのやら?・・・って、残念ながら私がそれをこの目で確かめることは年齢的に不可能ですが。

 

 

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タイトルだけで誰のことか分かる人は、おそらく私より年上の方だけかもしれません。

今日は、戦前・戦後に活躍した時代劇・剣劇スター

 

 嵐 寛寿郎 さん

 

の命日・没後40周年にあたります。

 

       

 

嵐(本名:高橋照一)さんは1902(明治35)年に京都市で、祖父が文楽の人形遣い、叔父が俳優、従妹があの森光子さんという芸能一族に生まれました。

 

家庭の事情で祖母が営む料理旅館に預けられた彼は、10歳の時に「芸事より固い商売を」 という母親の方針で、尋常小学校を中退して衿屋で丁稚奉公に。

これが睡眠5時間・おかずは沢庵2切れ・月給1円で休みは月1日という、今時のブラック企業も真っ青の劣悪な待遇・・・この体験が後の人生に大きな影響を及ぼすことに。


月に一度の休日に活動写真を観に行くことが唯一の楽しみだった彼が17歳の時、やっと手代から番頭に昇格できると思った矢先に主人が死去。

他所の店で丁稚からやり直すのがイヤだった彼は、祖母に頼んで片岡松之助一座入り。

食事には卵と味噌汁がつき月給5円と、丁稚時代に比べて破格の待遇に彼はやる気満々。

いきなり主役級で初舞台を踏んだ彼は、ここでチャンバラを覚えます。

しかし〝飲む・打つ・買う〟の巡業生活にすっかり染まった彼は、オイチョカブにハマッて商売道具の衣装まで質に入れる羽目になり、逃げるように京都に戻ると、初代・中村扇雀が主宰する関西青年歌舞伎に加わり女形に。

 

ここで将来共に銀幕を背負うこととなる長谷川一夫さんと出会います。

酒は飲めないのに女性にはモテモテだったという彼は、年上の女性と駆け落ちしようとした当日、関東大震災に見舞われます。


すると 「阿呆でも名門のセガレは出世がでける、才能があっても家系がなければ一生冷や飯喰わされる」 歌舞伎の世界に嫌気が差し、監督・マキノ省三に月給800円という当時家が1軒買える好待遇で誘われてカツドウすなわち映画界入り。

 

そして 「この中のどの役をやってみたい?」 と手渡された雑誌 『少年倶楽部』 から彼が選んだのが、後の当たり役・鞍馬天狗でした。


1927年に『鞍馬天狗異聞 角兵衛獅子』で銀幕デビューを果たすと、以後マキノの看板スターとして在籍1年半で27本もの映画に主演。

鞍馬天狗の他に、『鳴門秘帖』『百万両秘聞』でもヒットを飛ばします。

以後独立・プロダクション設立・解散・移籍を経験し、その間『右門捕物帖』シリーズで〝むっつり右門〟も当たり役としたアラカン・・・実は、日本映画史上初めて天皇役を演じた俳優としても知られています。

1957年公開の『明治天皇と日露大戦争』で明治天皇を演じると、これまた大ヒット。

       

確かにソックリですょネ。

しかし1961年に移籍した新東宝が倒産して以降はフリーとして脇役に。

東映のヤクザ映画や松竹・日活のギャング映画に出演し、『網走番外地』シリーズでは〝八人殺しの鬼寅〟が当たり役に。

晩年も映画に出演し続けましたが、私が憶えているのはあのフーテンの寅さんシリーズでの殿様役。

 

        

そのアラカンさんが脳血栓で倒れたのは、1979年の夏。

自宅療養を続けましたが、翌1980(昭和55)年10月21日に、77歳でこの世を去りました。

まさに古き良き芸能界の生き字引といえる程長年にわたって活躍したアラカンさんですが、それは単にスターだったからだけではなく、その人間性に多くの方が惹きつけられたからかも。

5回の結婚と4回の離婚を繰り返しましたが、別れるたびに全財産・家屋敷を前妻に譲ったというアラカンさんは、金銭面には無頓着。


戦死したプロダクション・スタッフの自宅を自費で一軒ずつ訪ね香典を出すなど面倒見が良かった彼は、破格の収入がありながら財産を殆ど残さなかったそうです。

そんな人情派俳優のご冥福を、鞍馬天狗の演技を観ながらお祈りしたいと存じます。

 

 

 

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私のような昭和世代には、教師から勧められて読んだことのある方が多いと思います。

大東亜戦争末期、戦地に駆り出され戦没した学徒兵の遺書を集めた、その


 『きけ わだつみのこえ』

が出版されたのは敗戦から4年後、今から71年前の今日・1949(昭和24)年10月20日のことでした。

※〝わだつみ〟とは、日本神話における海神の意。

       

                                     初 版 本

同書は、1947年に東京大学協同組合出版部から出された東京大学戦没学徒兵の手記集『はるかなる山河に』に続いて出版されたもの。

勉学に励もうとしていた若者たちが、戦争という時代の流れに抗えなかった無念や、免れようのない死に直面した心情を吐露した文章は、読む者の心を揺さぶります。

私も親が買ってきて読まされた記憶がありますし、それに触発されて勉学に身を入れようと決意したもの・・・って、ほんの一時期ですが。

出版直後から同書は反響を呼び、これを端緒として翌1950年には日本戦没学生記念会(わだつみ会)も結成されました。

しかし多くの読者を感動させた同書には、その編集を巡って少なからず批判があったことをご存知でしょうか?

というのは、出版前に 「歴史的な記録を世に発表したい」 との呼びかけに応じて遺族から寄せられた遺稿は309人分に上りましたが、実際に採用されたのは75人分。

選ばれたのは戦争に疑念を抱き最後まで戦争を呪って亡くなった学生の手記のみが採用され、祖国の危機に臨んで決然と出陣し散華された学生の手記はボツになったから。

それ故、特攻隊員として散華された学徒兵の遺族から抗議が寄せられ、立花隆さんも自著の中で 「
左側からの歴史の改竄」 だと批判。

また同書が反戦平和運動に利用された、という声もありました。

それを受けて出版された第2集には右翼的な遺稿も掲載されましたが、また一方で
当時ごく少数であった高等教育を受けたインテリの文章を集めたものであり、彼等の死だけを美化したのではないかとの意見や、インテリと教育を受けていない一般民衆との間には価値観の違いがあり、一般民衆の戦争観の視点に編集側が欠けているのではないかという批判も。

東大OBである三島由紀夫氏も同書に関して

「テメエはインテリだから偉い、大学生はむりやり殺されたんだからかわいそうだ、それじゃ小学校しか出ていないで兵隊にいって死んだやつはどうなる」

と、厳しい論評をしています。

更には編集部が原遺稿を無断で改竄したという批判もあり、また1995年に岩波書店から出版された『新版 きけ わだつみのこえ』の内容に関しては、その前年に内紛が表面化したわだつみ会で対立が激化し、岩波書店や旧わだつみ会を相手取って訴訟沙汰まで起きています。

       


こんなゴタゴタを、遺稿を記した英霊たちはさぞ苦々しい思いで草葉の陰から眺めていたことでしょう。

その編集を巡る一連の動きを追った著書があります。


 『きけ わだつみのこえ』の戦後史 

                             (保坂正康・著 文藝春秋・刊)

    

何事にも表と裏がある、と言う意味で併読をオススメ致します。

個人的には、戦後史の方が面白い・・・と言っては失礼ですが。

 

 

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今日は、中高年世代には懐かしい俳優、

 穂積 隆信  さん

の命日・三回忌にあたります。

 

        

  

穂積さんは、1931年に現在の静岡県伊豆の国市で歌人の父・穂積忠さんの次男として生まれました。

 

静岡県立韮山高等学校卒業後、俳優座養成所を経て1959年に今村昌平監督の『にあんちゃん』で映画デビュー。

その後脇役として出演を重ね、またテレビドラマにも悪役などで活躍されました。

個人的には学園ドラマで柳生博さんと共演していたことをうっすら憶えています。

そんな私同様、(失礼ながら)穂積さんの出演作品をスラスラ言える方は殆どいらっしゃらないと思います・・・が、彼の名を多くの方が記憶しているのは、本業でなく有名な著作があったからでしょう。

そう、あの 『積木くずし』 です。

 

        

 

持病とイジメが原因で不良少女となった愛娘との親子・家族関係と葛藤を赤裸々に綴り1982(昭和57)年に出版された同書は、芸能人が実名で出したこともあり300万部を超える大ベストセラーに。

その後更に2冊出した続編も話題となり、穂積さんは各地の講演に引っ張りだこ・・・俳優というより、売れっ子教育評論家に。

しかしその代償は決して小さくはありませんでした。

 

同作が映画・ドラマ化され本人も出演しましたが、その多額の印税収入を巡って悪徳会計士に騙され、多額の借金を抱える羽目に。

また離婚した最初の妻は2001年に自殺し、モデルとなった娘さんも『積木くずし』 発売翌年に覚せい剤取締法違反等で2度逮捕され、一時女優として活動したものの35歳だった2003年には父・隆信さんと同居していた住宅内で病死。

また穂積さん自身は1993年に再婚しましたが、後妻が2010年に脳梗塞で倒れた後は、彼が介護をしていたとか。

本の出版で一躍時の人となったものの、後半生はまさに天国から地獄・・・と言った感があります。

その穂積さんが胆嚢ガンにより87歳でこの世を去ったのは、2018(平成30)年10月19日のこと。


あの世で妻子と再会しているであろう穂積さん、『積木くずし』 を出版して良かったと思っているのかどうか?

ちょっと聞いてみたい気もしますが・・・あらためてご冥福をお祈り致します。


 

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人に信頼してもらいたければ・・・。

 

 

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アメリカで50番目の州となったのがハワイ、というのは有名。

 

その前の49番目・・・1959年に準州から昇格したのが

 

 アラスカ州
 Alaska

      

面積が1,519,000km2 で全米第1位 (第2位のテキサス州の約2.5倍、そして日本の4倍!) ・・・その大きさは、アメリカ本土に当てはめてみるとよく分かります。(

      

しかしその反面、人口は約70万人で逆に全米最少。

うち約15%が先住民であり、更にその半数がエスキモー。

 

その他アサバスカ族、クリンケット、ハイダ、チムシャンの各インディアン族、アリュート族が居住しているとのこと。


アラスカというと、私が個人的に強く印象に残っているのが、同州最大の都市・アンカレッジ。

 

一昔前は飛行機でヨーロッパに行こうとすると、航続距離などの性能の問題で直行便はなく、必ずアンカレッジ空港で給油していたから。


しかし現在は東西冷戦も終わってロシア上空をショートカットでき、なおかつ飛行機の性能もアップしたため、同空港を経由する必要はなし。


今後私がアラスカ州に降り立つことは、まずなさそうです。

 

ところでこのアラスカ・・・元々はロシアの領土だったことをご存じでしょうか?


1648年にロシア人探検家が発見した後、1728年にヴィトゥス・ベーリングが再発見して、アレウト族の言葉で半島を意味する "Alakshak "(アラクシャク)からアラスカと命名したとか。


19世紀前半に植民を行い、アザラシなどの毛皮採集を行ったものの、採算が合わず。

 

更にクリミア戦争で財政逼迫に陥ったロシアは1867年3月、当時敵対していたイギリスではなくアメリカに1km2 あたりたった5ドル、総計720万ドル(現在の貨幣価値で約120億円)で売却。

 

     

        アラスカ購入時に使用された額面720万$の小切手

そして今から153年前の今日・1867年10月18日に、アラスカは正式にアメリカの領土となったのです。


この買収交渉を行ったのは、ウィリアム・H・スワード国務長官。

 

       

             William Henry Seward (1801-1872


しかし当時はアメリカ国民から〝スワードの愚行〟とか〝巨大な冷蔵庫を買った男〟などと酷評されたとか。

 

ところがその後豊富な地下資源が発見・開発され、更に東西冷戦時には東側に対する国防上の拠点としてアメリカに大きな利益をもたらすことに。

 

領土に貪欲なロシアがよく手放したものですが、きっと今は地団駄踏んで悔しがっているでしょうネ。

 

売ったのは冷蔵庫ではなく、宝庫だったのですから・・・。

 

因みに、当初はボロクソに言われた買い物をしたスワードは奴隷解放運動に熱心に取り組み、あのリンカーン大統領からその手腕を高く評価されて国務長官に抜擢された人物。

 

そしてリンカーン大統領が暗殺された同じ日に彼も命を狙われ、瀕死の重傷を負いながらも一命を取り留めました。

 

地下資源のことまでは考えなかったのでしょうが、やはり優れた政治家の決断は国家を救う、という格好の実例といえましょうか。

 

買収どころか自国の領土を敵国に手渡そうと画策している売国奴の如き我が国の特定野党議員とは、比べるべくもありません。うー

 

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バレンタインにホワイトデー、そしてクリスマスに最近ではハロウィン・・・日本人が外国文化をすんなり取り入れる柔軟性は凄いと思いますが、その多くは商業ベースに踊らされていると言えましょう。

それにいちいち目くじらを立てるつもりはありませんが、だからと言って日本の伝統儀式や風習をないがしろにすべきではない、と思います。

 

今日・10月17日が、我が国に古来から伝わる大祭のひとつ、

 

   かん   なめ     さい
 神 嘗 祭

を執り行う日であることを、今どれだけの日本人が知っているのでしょうか?
伊勢神宮では、15日から今日にかけて執り行われます。)

※大祭とは神社の主要な祭祀であり、宮中祭祀のうち天皇陛下自らが執り行う祭祀のこと。  

しかし日本国憲法・現行法では宮中祭祀に関して明文化されておらず、天皇陛下が私的に執り行う儀式と解釈されています。 

それ故に、社会的に広く認知されていないと言えるかも・・・。

〝神嘗祭〟とは、日本神話において天照大御神 (あまてらすおおみかみ) が天上の高天原 (たかまがはら) で初穂(※その年の最初に収穫した稲穂)を食されたことに由来し、毎年の初穂を伊勢神宮にお祀りされている天照大御神にお供えし感謝する祭祀・・・つまり五穀豊穣の感謝祭にあたり、西暦721年から1,300年近く連綿と続く伊勢神宮と宮中での伝統行事。

     

 

元々は宮中が勅使に御酒と神饌を授けて伊勢神宮に遣わし、それを旧暦の9月11日に奉納する儀式として執り行われていましたが、1872(明治5)年以降は新暦の9月17日に変更。

しかしその時期だと稲穂の生育が不十分なため、1879(明治12)年からは1ヶ月ずらして10月17日となりました。


※伊勢神宮の新嘗祭の様子を、こちらでご覧いただけます。

 

 

この儀式自体は知らずとも、天皇陛下が奉納する稲穂を皇居内の水田で刈り取られる様子を、ニュースでご覧になった方も多いはず。

  

       先月15日に稲刈りをされた天皇陛下のご様子

 

拙ブログでも過去記事にしましたが、上皇后陛下は以前 「皇室は祈りでありたい」 と仰られたことがありました。

そのお言葉通り、来月23日に執り行われる大祭 『新嘗祭』 で、天皇陛下は長時間にわたり正座して自ら栽培し刈り取られた稲を供えて収穫に感謝し、国家安泰や国民の繁栄を祈られます。

 

日本人は農耕民族であり、毎年様々な祈りや感謝を神々に捧げてきました。

しかし終戦後、そういった伝統儀式が(GHQの施策等により)軽んじられてきたように思います。

国家の安寧や子々孫々の繁栄を願うなら、1,000年以上続く伝統行事を疎かにしてはならないでしょう。

天皇陛下や伊勢神宮だけでなく、神嘗祭が執り行われる今日・10月17日と新嘗祭が執り行われる来月23日は、日本人として自然の恵みに感謝する一日にしたいものです。扇子

 

 

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ゴルフ界における4大メジャーといえば、アメリカで開催されるマスターズ・全米オープン・全米プロ、そして唯一ゴルフ発祥の地・イギリスで開催される

  全英オープン
The Open Championship
 

毎年7月中旬に行われるこの最古のメジャー大会の第1回大会がプレストウィック(現ロイヤル・プレストウィック)で開催されたのが、今からちょうど160年前の今日・1860年10月17日のことでした。

日本はまだ江戸時代・・・咸臨丸がサンフランシスコに渡航した年ですから、いかに歴史があるか分かります。

栄えある優勝者は、ウィリー・パーク・シニア(1833-1903)でした。


       
               William Park Sr.

 

現在は(原則的に)セント・アンドラュースなど主要5コース持ち回りで開催されていますが、いずれも所謂〝リンクス〟といわれるシーサイド・コース。

マスターズが開催されるオーガスタ・ナショナルと違い、木が殆どなくフェスキューなど枯れ草が生い茂る荒涼とした光景が広がり、所々に点在するタコつぼバンカーに一流プロが苦しめられるのが、この大会の特徴。

以前私の友人がセント・アンドリュースでブレーした時のことを聞いたことがあります。

シングル・プレーヤーの彼がハーフで持って行ったボール1ダースを失くしたことや、ティーグラウンド(現在はティーング・エリアといいますが)に立つと、キャディーがいなければどの方向に打っていいか分からなかった・・・なんて話を記憶しています。

プロの場合は名誉と高額賞金が手に入りますから我慢してプレーするんでしょうけど、私は正直わざわざ行ってプレーしたいとは思いませんワ。

まぁそれはともかく、もうひとつ全英オープンで有名なのは、優勝トロフィー。

 

       

独特な形状をした銀色のトロフィーは、クラレット・ジャグthe Claret Jug)と呼ばれますが、クラレットとはフランス・ボルドーで作られる赤ワインの銘柄で、ジャグはジョッキのこと・・・つまりこのトロフィーの原型はワインを飲むジョッキということ。

当初優勝者には革製のベルトが持ち回りで贈呈されていたそうですが、それは大会がプレストウィック
の単独開催で、3大会連続優勝した場合はベルトを寄贈するという規定があり、1870年の第11回大会でヤング・トム・モリスが3連覇して見事にゲット。

しかしそのおかげで新たな贈呈品を作る余裕がなかったウェストウィックがセント・アンドリュースのロイヤル&エンシェント(R&A 現在の全英オープン主催者)と
アナラブル・カンパニー・オブ・エジンバラゴルファーズの2団体に大会の共催と贈呈品製作費の折半を提案。

しかしその話し合いがもつれ、翌1871年の大会はなんと中止に。

何とか翌年には開催できたものの、トロフィーの製作は間に合わず、手渡せるようになったのは1873年からだったそうな。

現在そのオリジナルトロフィーはR&Aに保存されており、毎年優勝者に手渡されるのはレプリカなんだそうです。

それにしても、イギリスの大会なのに、なんでフランスワインの名がつけられているのか・・・不思議ですょネ。

また今でこそ4大メジャーとして重要視されている同大会ですが、第二次世界大戦後は一時軽視される傾向にあったとか。

それは一流ゴルファーがひしめくアメリカにおいて、その頃全英オープンの賞金はマネーランキングに加算されずPGAの勝利数にもカウントされなかったため、わざわざ渡航費を払ってイギリスに渡ろうとする選手が殆どいなかったから。

その流れを変えたのが、あのアーノルド・パーマーでした。

 ※パーマーに関する過去記事は、こちら。(↓)

 

4大メジャーを制したアマチュア・ゴルファーのボビー・ジョーンズに敬意を表し敢えてグランドスラム達成のため1960年から全英オープンに挑み2位に入った彼は、その翌年から見事2連覇を達成。

人気者パーマーの活躍により、同大会は再び極光を浴びるようになったのです

R&Aの役員は、パーマーのお墓に足を向けて寝られませんネ。

 

 

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