ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

戦国時代、国内各地では数え切れないほどの合戦が行われましたが、その中でも大きくその後の勢力地図や戦法の転換期となったのが

 

 長篠の戦い

 

だったといえましょう。 

 

織田・徳川連合軍38,000と武田軍15,000が現在の愛知県新庄市長篠にあった長篠城周辺の設楽原で全面衝突したのが、今からちょうど450年前の今日・1575(天正3)年5月21日のことでした。

武田勝頼は、この2年前に父・信玄を亡くしたことで動揺の広がる領内に自らの力を誇示すべく、遠州・三河に再び勢力を伸ばそうと画策。

一方そこを領地としていた徳川家康は、将軍・足利義昭を追放し天下統一を目指す信長と同盟を結んでおり、2人は連合軍を結成して対峙します。

前日の鳶ヶ巣山攻防戦で敗戦を喫した武田軍は、背水の陣をもって21日早朝から自慢の騎馬隊で織田・徳川連合軍陣地に総攻撃を開始。

敵に6,000名の犠牲者を出させたものの、連合軍は3,000丁の火縄銃を1,000丁ずつの三段撃ち戦法で反撃。

結局武田軍は12,000名の犠牲者を出し大敗北を喫した

・・・これが学校で教えられたこの合戦の概要・通説でしょう。
 

      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

しかしこの通説にはいくつかの疑問点が指摘されていることも知っておく必要があると思います。

まずは鉄砲に関して。

 

確かに鉄砲を大量導入したことは間違いないようですが、『信長公記』には約1,000丁と記載されていることから、3,000丁はちょっと多過ぎ。

そして有名な〝三段撃ち戦法〟ですが、これに関しては信長公記を含め当時の書物には記載がありません。

また火縄銃の有効射程距離は50~100m未満で、1発撃ってから2発目を発射するまで30秒以上の時間がかかったとされています。

従って第1~3陣が連射した後、2巡目に入る前に、数十mに迫ってくる相手を片っ端から掃射するのは物理的に不可能。

以前某TV番組で再現実験をしていましたが、弾を込めている間に2列目の騎馬隊は鉄砲隊の陣地に到達していました。😅

一方、武田軍の騎馬隊が使っていた馬も現在のようなサラブレッドではなく、ポニーと同程度の大きさの日本在来馬だったとか。

 

当然走るスピードはサラブレッドより遅く、いくら現代人より体が小さかったとはいえ甲冑をつけた武士を乗せれば時速20km前後・・・せいぜい人間の走る2倍程度の速さ。

ですから実際の合戦は映画『ラストサムライ』のラストシーンのようにスピード感溢れる颯爽としたものではなかったはず。

(とはいえ、渡辺謙さんがポニーにまたがって敵陣に突進しても、イマイチ絵になりませんが。)

戦国時代の合戦はドラマや映画の派手な描写とは違った、結構地味というかスローモーな動きでの凌ぎ合いだった・・・と認識した方がいいかもしれません。

従って犠牲者の数も、約8時間の戦闘で両軍合わせて2万人以上というのはいかにも多過ぎで、ゼロがひとつ少なかったとも言われています。

ただしスピードは緩慢でも、命がけの戦いであったことは間違いありませんが。



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今からちょうど50年前の今日・1975年5月20日、最高裁で某事件の再審請求が棄却されました。 しかしその判決内容は

 白鳥決定

 

と呼ばれ、

 

『再審制度においても疑わしき場合は被告人の利益を優先する刑事裁判の鉄則は適用される』

 

とし、これによって

 

『下級審の判断を覆す決定的な反証・証拠がなくともある程度の合理的な疑いがあれば再審の対象となり得る』

 

という判断が示されました。

これにより、財田川事件・免田事件などの冤罪認定に繋がったのです。


この決定が出される契機は、その名の由来になった白鳥事件


1952(昭和27)年1月21日夜、札幌市警察の白鳥一雄警部が自転車に乗って帰宅途中、同じく自転車に乗った犯人に背後から射殺されました。

犯人は逃走したものの、警部が生前共産党を取り締まっていたこと、また同党が事件前から警部を脅迫し、また事件後も 「愛国者の英雄的行為」 と関与を仄めかす声明を出したり党員が「見よ、天誅遂に下る」 というビラを撒いたことから、当局は同党関係者の犯行と睨みます。

 

そして4ヶ月後、共産党員からのタレコミによって同党札幌地区委員だったMらを逮捕。

Mを殺人の共謀共同正犯で、共犯2人を殺人幇助犯として起訴したものの、実行犯とみられる3人は党の手引きによって当時国交のない中華人民共和国に逃亡・亡命。

 

犯行に使用された拳銃は発見されず、唯一と言っていい物的証拠は、犯行2年前に射撃訓練をした際の銃弾のみという状況。

当時の北海道の状況や事件の詳細を知りたい方には、2011年にこの事件の真相を追い、ラジオ・ドキュメンタリー番組同年のギャラクシー賞・ラジオ部門大賞を受賞した『インターが聴こえない 白鳥事件60年目の真実』を制作したHBC(北海道放送) ・後藤篤志記者の著作


 『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇 

                     (筑摩書房・刊)

      

 

をお勧めします。

 

結局最高裁まで行った裁判は、Mに対し懲役20年の実刑、共犯2名については執行猶予つきの懲役刑で有罪が確定。

その後出所したMは1994年に自宅火災で焼死・・・出火原因は不明ですが、覚悟の自殺といわれています。

そして支那に逃亡した実行犯3人はいずれも記者の取材により死亡が判明していますが、同国公安当局から正式な死亡通知がないため、海外逃亡中で公訴時効が停止中の彼らに対し検察は逮捕状の更新を続行中。

我が国において効力を有する最古の逮捕状というおまけつきで。

この事件に関しても冤罪説を唱える方がいますが、その後の共産党関係者の証言等からすると、犯行は彼らによって引き起こされたものと私は推測します。

従って最高裁の判断は妥当だと思いますが、被告の特別抗告を破棄しながら画期的な〝白鳥判断〟が示されたのは、検察が証拠として提出した銃弾が審理過程で犯行に使用された拳銃から発射されたものではないことが判明したため。

要は警察・検察側が焦った末の自爆・・・というか、藪蛇。

しかしこの失態のおかげで再審請求の門戸が広がったのですから、皮肉と言うしかありません。

当時と比較すれば格段に科学技術が進歩し証拠分析が正確かつ厳格になったとはいえ、警察・検察が証拠を捏造することは可能。

 

またいつまでも逮捕状を更新し続けるという異様なまでの意地が、無罪の人間に罪をなすりつける遠因にもなっているのでは?
 

そんな冤罪を防ぐためには、やはり取り調べの可視化が最低要件である、と私は思うのですが・・・。

科学同様、司法制度や法律も進化してもらいたいものです。

 

 

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今日の拙ブログで取り上げた、〝剣聖〟の至言です。

 

 

 
 
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・・・と言っても、大谷翔平選手の話ではありません。

 

今日は日本人なら誰もが知っているであろう〝二刀流の剣聖〟、

 宮本 武蔵

の命日・没後380周年にあたります。

 

        

日本で最も有名な剣豪と言っていい武蔵ですが、その出自については明らかになっていません。


※自著によれば、1584年・播磨国(現・兵庫県南西部)の生まれ。
 

父親は赤松氏の支流・新免氏の一族・新免無二とされていますが、これにも異説が。

本人曰く、13歳の時初めて新当流・有馬喜兵衛と対決して勝利して以来29歳までに60回以上の勝負を行い全勝だったとか。

その中には、吉岡一門との決闘や佐々木小次郎との〝巌流島の決闘〟(↓)が含まれているのは、皆さんもご存知でしょう。

 

しかしあまりに有名になったためか、その戦績や試合内容に関してはかなり脚色されていることもあり、史実としてはこれまた確定はしていません。

 

が、その後大阪の陣で徳川方に参陣し活躍したことは、複数の資料で確認されています。

更に姫路藩主・本田忠刻との交流の中で都市計画の策定や庭造りを行ったり、尾張国周辺で剣術(円明流)を指南。

また1638年の島原の乱にも参戦した記録も残されています。

 

その2年後には熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ、300石を支給されるなど破格の扱いを受けますが、その4年後・・・1645(正保2)年5月19日、熊本城東部の千葉城にて死去。 61歳前後の生涯でした。

若い時分の戦績については詳しく分かりませんが、彼が遺した 『枯木鳴鵙図』や『芦雁図』などの絵画を見ると、確かに剣術だけでなく文武両道の二刀流であったことが分かります。

      
          
芦雁図(永青文庫・蔵)

 

そして剣術家・兵法家としての真骨頂は、『五輪書』を遺したことでしょう。

熊本で過ごした晩年に記されたこの書は、剣術とは無縁の私たち現代人が読んでも多くを学ばせてくれます。

何冊も関連本が出版されていますが、私がオススメするのはこちらの一冊。

 

 『決定版 五輪書現代語訳』 (草思社文庫・刊)

 

     

 

タイトルの通り現代語訳されており、原書よりもはるかに読みやすく理解しやすいものです。

単なる剣豪としてではなく、思想家・兵法家・芸術家としての武蔵に是非触れてみて下さい。

 

 

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今日は5月18日・・・ということで、518の語呂合わせから

 

 ファイバーの日

なのだそうです。

ファイバーとは繊維のことですから衣料関係の記念日かと思いきや、制定したのが『ファイバーアカデミア』という食物繊維に関する情報提供を行う学術団体・・・そう、繊維は繊維でも食物繊維(dietary fiber )の記念日なんですネ。

皆さんは食物繊維について、どれくらいご存じでしょうか?

私自身、初めてこの単語を耳にしたのは、1988年・・・大塚製薬から発売された『ファイブミニ』という小型ドリンクのCMでした。

     

ファイバーと、100mlという小型サイズの“mini ”の合成した商品名よりも、食物繊維という耳慣れない単語が妙に耳に残ったことを憶えています。

食物繊維というからには、液体の中に細かな糸くずのようなものが入っているのか? と思い早速買ってみたものの、中身は液体だけ。

飲んではみたものの、その効果は分からず仕舞い。

当時はネット検索なんてない時代ですから、食物繊維が何なのかは分からぬまま・・・ってことで、あらためて調べてみました。

そもそも食物繊維とは、〝(植物性食品だけでなく、動物性食品起源も含めて)人の消化酵素で消化されない食物中の難消化性成分の総体〟のこと。

※但しこれは日本での主流定義で、世界では違う定義もある由。

 

古代ギリシャの時代から、小麦のふすまが便秘予防に効果があることは知られていたとか。

科学的には1930年代に入ってケロッグがその小麦ふすまが便秘・大腸炎患者に有効であることが確認され、1953年にイギリスの医師ヒップスレーが、初めて “dietary fiber ” という言葉を使用。

そして1971年にやはりイギリスのバーキット博士が、アフリカ人の発生率が少ないことなどから「食物繊維の摂取量が少ないと大腸ガンの発生リスクが高まる」と発表し、世界的に注目されるように。


この食物繊維は、大別して水に溶けにくい不溶性食物繊維と、水に溶ける水溶性食物繊維の2種類があるそうです。

不溶性は糸状に長い筋で、ボツボツ・ザラザラしているのが特徴で、穀類・野菜・豆類、エビ・カニの表皮等に含まれています。

     
       
  トウモロコシの食物繊維拡大写真

 

一方の水溶性には、ネバネバ系とサラサラ系があり、昆布・ワカメ・こんにゃく・果物などに含まれています。


最新の研究によると、この食物繊維の1日当たりの摂取目標量は、(18~69歳の場合)男性20g以上・女性18g以上とのこと。

それが具体的にどれくらいの食事で賄えるかというと・・・食べられる量100gに対する食物繊維の量は、ざっとこんな感じ。

米0.6g  そば3.2g  

モロヘイヤ5.9g グリーンピース7.7g 大豆17.1g
ひじき43.3g  わかめ32.7g  

ポテトチップ4.2g

ご覧の通り、海藻類以外は含有量が少なく、1日の目標摂取量を達成するのは大変。

またリンゴ1個には4.2g含まれているそうですから、1日5個食べればOK!・・・とは言え、実際には無理な話でしょう。

でもファイブミニには1本あたり6g含まれているそうですから、1日2~3本飲んで普通に食事していれば、大丈夫。

って、なんだか大塚製薬のCMみたいになっちゃいましたネ。😅

とにかく日々の食事で海藻類を多く摂るのが効果的のようです。

ダメですょ、ポテチだけバクバク食べてちゃ。

 

 

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大東亜戦争の終戦前後、ソ連軍が北方領土を不当占拠し更に北海道進出を目論んでいたことは皆さんもご存じのはず。

以後現在に至るまで北方領土はロシアに実効支配されたままであり、北海道常駐の航空自衛隊では頻繁にロシア空軍の戦闘機接近に対しスクランブル発進を繰り返しているのが現状。

我が国の歴史を鑑みるに、北海道周辺の防衛は尖閣諸島など南西方面とならび重要課題であることは論を待ちません。

 

 

その北海道を守るべく、明治維新後〝北の防人〟として政府が募集したのが

 

 屯 田 兵


その第一陣が北海道に移住したのは、今からちょうど150年前の今日・1875(明治8)年5月17日のことでした。


明治政府は樹立直後から対ロシアを想定した北方警備の必要性を認識していましたが、如何せん資金がなく正規兵の配備は出来ない状態。


そこで西郷隆盛が発案し、開拓使長官の黒田清隆が建議して1874(明治7)年に『屯田兵例則』が制定され、翌年には現・札幌市郊外の琴似兵村に兵屋200戸を建設。

そこに宮城・青森・酒田3県及び北海道内から志願した193戸・965人が移住したのが始まり。


   ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

屯田兵とは、その名の通り基本的には兵隊さんですが、平時は開拓など農耕に従事する制度。

従って当初は士族のみを対象としていました (※これは江戸幕府が倒れて以降、士族の失業対策も兼ねていたとのこと)が、実際には養子縁組などで平民も数多く混じっており、またやがて規則も改訂され平民の割合が増えていきました。


この制度は30年後の1904(明治37)年に廃止されるまで続き、述べ37兵村・7,337戸・39,911人が入植、北海道の開発に大きな力となりました。(

 

   ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

しかし政府が決めた制度とは言え、彼らの生活は非常に過酷なものだったといいます。

一戸当たり5町歩(約5万㎡)の土地が支給され兵屋もあてがわれましたが、毎日起床・就業の時間が決められるなど制約が多く、また軍事訓練や農作業の他に道路工事や災害救援等々が課せられるという、まるで自衛隊と農家の掛け持ちの如き生活。

 

移住後3年間は米や塩などが支給されたそうですが、彼らはそれを売って換金し日用品を買い求め、代わりにジャガイモや雑穀を常食としていたことから、一般の移民からは〝芋屯田〟とバカにされていたとか。

 

また北海道・東北出身者はまだしも、九州・中四国からの入植者はその寒さに悲鳴を上げたといいます。

以前から私は北海道に北広島市という地名があるのが不思議だったんですが、調べてみると最初に入植したのが広島県民だったとのこと。

 

この他にも町名に土佐・岐阜・栃木など他県の地名がつけられている場所がいくつもあるそうですから、屯田兵や開拓民として入植した人々が、その辛い生活から故郷を懐かしんで名付けたことがしみじみと伺えます。

 

その彼らが開拓してくれたおかげで、現在の北海道にアメリカ型の合理的な土地区画制度や大規模農業・牧畜が根付いたと言えましょう。

私たちが北海道の名産品に舌鼓を打てるのは、4万人に及ぶ屯田兵とその子孫の奮闘があったればこそ・・・それを忘れずに感謝すべきですネ。🙏



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今日は、クイズからスタートです。

今からちょうど20年前の2005(平成17)年までは、毎年今日・5月16日に発表されていたのに、翌年から廃止になったものは、何でしょう?

ヒントは、私を含め殆どの方は縁がないもの・・・って、これじゃ分かりせんょネ。 正解は、

 高額納税者公示

そう言われてみれば、毎年マスメディアがこぞって報道していたなァ・・・と、思い出す方も多いでしょう。

この『高額納税者公示制度』が始まったのは、戦後まもなくの1947(昭和22)年。

毎年5月31日まで公示されていました。

目的は、〝高額所得者の所得金額を公示することにより、第三者のチェックによる脱税牽制効果を狙う〟こと。

信じられないことに、開始初期には(脱税の)情報提供者にその額に応じた報奨金を支払っていたそうな。

 

まるで共産主義国家の密告制度の如き手法ですが、さすがにこれは怨恨や報復を生むため1954年に廃止。

また当初は収入額を発表していましたが、1983年からは納税額に変更されました。

 

しかし、この制度により氏名を公表されることは、即ち金持ちであると世間に知らしめるようなもの。

実際氏名が公表されたことで神戸の資産家家族が暴力団に殺害されたり、多くの高額納税者が空き巣や窃盗の被害に遭いました。

つまりは役所の意図と違い、役所が犯罪に加担するような形になってしまったわけ。

 

またこの公示は個人の所得税に限られたため、当該個人が法人を設立し、それを利用して親族に所得を分散することにより、節税や公示逃れを合法的に行うことが一般化したため、個人としての高額所得者を公示する意味がほぼなくなってしまいました。

更にこの制度の公示対象が3月31日までに提出された申告書に基づくという規定を逆手にとって、同日までは所得税額1,000万円を超えない所得で申告し、4月1日以降に修正申告するという抜け道を利用する人も続出。

このやり方だと追徴課税を取られるのですが、そこまでしても自分の名前が公表されるのを嫌がったんですねェ。

私のような凡人には分からない感覚ですが・・・免許証に本籍すら掲載しない個人情報保護に煩い現代では、納税額公表なんてとんでもないって話。

実際、廃止になった直接の理由は、2005年から個人情報保護法が施行されたことでしたから。

 

 

上の表は、この公示制度の最後となった2005年の高額納税者名簿ですが、20年前からユニクロの柳井氏が載っているのは、さすが。

この公示制度は廃止になりましたが、某海外雑誌は現在でも毎年高額所得番付を発表しています。

公的な納税額が公表されていないのに、どうして所得が分かるのか実に不思議ですが・・・。

ただひとつ気になるのは、少なくとも日本ではその所得番付と高額納税者のランキングが必ずしもリンクしないこと。

何故か?

それは、高額所得があってもそれに見合う納税をしていない人がいるから。

そういう人には、ある共通項があるのですが・・・っと、ここから先の解説は控えさせていただきます。

気になる方は、ネットで検索してみて下さい。

その理由を知った方は、皆怒りがこみ上げてくるニダ。💢
 

 

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1971年6月に東京~ワシントンの宇宙中継によって締結された沖縄返還協定が発効したのが、今から53年前の今日・1972(昭和47)年5月15日のことでした。

これにより沖縄の施政権が日本に戻され、『沖縄県』が誕生。

〝戦後〟のひとつの節目を迎えた瞬間だったとも言えましょうが・・・今日は、その戦後に関して皆さんに是非お読みいただきたい書籍をご紹介致します。 それは、

 

『日本が二度と立ちあがれないように

     アメリカが占領期に行ったこと』 

                                                         (致知出版社・刊)

 

   

 

青少年健全育成調査研究委員会座長や埼玉県教員委員長を歴任された高橋史朗氏が渡米し、占領文書約250万ページを読破すると共に当時のGHQ関係者等にインタビューして戦後占領政策・教育の実態を明らかにした一冊です。

1945(昭和20)年8月15日、天皇陛下の玉音放送を以って日本軍は連合国軍に敗戦 (※厳密には翌月2日に戦艦ミズーリ艦上での降伏文書に調印した時)してから、1952(昭和27)年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効するまでの6年8ヶ月間、日本は有史以来初めて外国人に支配・・・すなわちGHQの占領下におかれました。

元々アメリカ人にとって、日本人は〝東洋の神秘〟というか理解できない、恐怖感を抱かせる人種だったようです。

それ故に彼らは早くから学者らに命じて日本人に関する調査をさせたのですが、そこから生まれた代表的な著書が女性文化人類学者ルース・ベネディクトの筆による 『菊と刀』 (↓)でした。

 

 

それら学者の研究を元に、アメリカは我々日本人を占領中の短い期間に〝2度とアメリカ(をはじめとした西洋人)に刃向かわない〟ように精神的な去勢を試みたのです。

例えば終戦前、日本では〝あの戦争は大東亜共栄圏の樹立を目的とする〟ことから『大東亜戦争』と呼ばれていました。

 

しかしGHQはそれを侵略戦争と位置づけるため、その使用を禁止し『太平洋戦争』と表記するよう命じたのは、その典型例。

そして彼らは、終戦直後の1945年10~12月にかけて

1.日本教育制度に対する管理指令

  文部省がGHQの指令に従って政策を実施し、その結果報告

  を求める

2.教員及び教育関係者の調査・除外・許可
  教職員・官僚の思想調査を行い、軍国主義等を持つ者や

  GHQ指令に反対する者を解雇または退職勧告

 

3.神道指令
  学校での神道行事の禁止、また神道・皇室に関する教育を

  禁止

4.修身・日本歴史・地理の停止に関する指令
  これらの授業をGHQの許可があるまで停止


という指示を次々と打ち出したのです。

以前拙ブログでご紹介したNHKラジオ放送 『眞相はかうだ』 も、この洗脳政策の一環でした。(↓)

 


いかに敗戦国とは言え、その国の古来からある宗教を否定したり教育方針を変えることなど許されないはずですが、残念ながら日本はそれをすんなり受け入れてしまいました。

その結果、日教組などが行う偏向教育により国民に自虐史観が定着・・・まさにアメリカの思う壷にハマッたわけです。😣

国民としての義務を教えずに権利主張ばかりを刷り込み、道徳教育(修身)や躾をないがしろにしたツケが、学級崩壊やイジメそしてモンスターペアレンツの大量出現という教育現場の荒廃を招いた・・・私にはそう思えてなりません。

戦後80年になろうとする今、私たちは今一度当時の占領政策について学び、日本人としての誇りを取り戻すべきでしょう。

教育改革は待ったなし・・・私の読後感はこの一言に尽きます。

この本が学校で取り上げられることはまずないでしょうから、是非皆さんに読んでいただいた上で中・高校生ら若者に真実を伝えていただきたいのです。

そして、(本書には記載されてはいませんが) マッカーサー元GHQ司令長官が退任後の1951(昭和26)年5月3日、アメリカ上院・軍事外交合同委員会で、

There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm.

 (日本には、蚕を除いては国産の資源はほとんど何も無い。)

They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack a great many other things, all of which was in the Asiatic basin..

(彼らには、綿・羊毛・石油製品・スズ・ゴムが無く、その他にも多くの資源が欠乏している。それら全ての物は、アジア地域に存在していた。)

They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan.
(これらの供給が断たれた場合、日本では1,000万人から1,200万人の失業者が生まれるという恐怖感があった。)

Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.
(つまり彼らが戦争を始めた目的は、主として自己防衛の必要に迫られてのことだった。)

と証言し、あの戦争は追い詰められた末に窮鼠が猫を噛んだ如きものであって侵略戦争ではなかった、と明言していることも。

もしお子さんが学校で「日本は侵略戦争を行った」と教えられたら、このマッカーサー証言をその教師に突き付けて欲しいもの。

嗚呼、それにしても日本人はなんと素直で従順なことか。

 

えっ、表題の〝義眼〟は何の意味かって?

それは本書におけるキーワードなのですが・・・その意味は、読んでいただければお分かりいただけるかと



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子供の頃、郵便受けに新聞を取りに行くことと玄関横の柱に打ちつけてあった寒暖計(温度計)の気温をオヤジに報告することが、私の毎朝の日課でした。

 

しかしいつの頃からか、テレビのニュース番組で毎朝綺麗なお天気おネエさんが

 

「今の気温は○○度、今日の最高気温は○○度です!」ラブラブ

 

と教えてくれるようになってから自分で気温をチェックする必要はなくなり、我が家の温度計は出番(?)がなくなってしまいました。

 

でも今日は、その

 

 温度計の日

 

なんですって。

 

その由来は・・・後回しにするとして、皆さんは温度の単位が2種類あることをご存じですょネ。

 

そう、「摂氏」と「華氏」。 

 

で、現在我が国が採用しているのは「摂氏」の方。

 

温度計をお持ちの方は確認いただきたいのですが、必ず〝C〟あるいは〝℃〟と表記されているのがその単位を表わしています。

 

                

 

この単位を1742年に考案したのは、スウェーデン人天文学者のアンデルス・セルシウスという人物。

 

     
       
 Anders Celsius (1701-1744)

 

1気圧下における水の凝固点を0度、沸点を100度(※当初はその逆)とし、それを100等分したもの。

 

現在の定義は「ケルビン (K)で表した熱力学温度の値から 273.15を減じたもの」 となっているそうですが、一般人には上記の定義で十分でしょう。

 

この正式名称 ・セルシウス度 を〝C〟と表記するのはセルシウスの頭文字をとったものであり、また 「摂氏」 と呼ぶのは彼の名を漢字表記にすると「摄尔修斯」 ・・・その頭文字と人物名の接尾辞 「氏」をくっつけたものなのだそうな。

 

一方の 「華氏」はというと、セルシウス度より少し早い1724年にドイツ人物理学者ガブリエル・ファーレンハイトが提唱。

 

     

     Daniel Gabriel Fahrenheit (1686-1736) 

 

塩化アンモニウムを寒剤として得られる当時人間が作り出せた最低温度を0度、彼自身の体温を100度とし、それを96分割したもので、表記は〝゜F〟。

 

やはり〝F〟はファーレンハイトの頭文字であり、漢字表記で彼の名が「華倫海」になることから「華氏」となったわけです。

 

当然華氏の方が目盛りが細かくなり、華氏0度が摂氏-17.78度、摂氏0度では華氏32度。 

 

私たちは沸点100℃と認識していますが、華氏では212゜Fとなります。

 

冒頭でご紹介した温度計の日は、先に温度単位を提唱したファーレンハイトに敬意を表し、彼の誕生日である5月14日を記念日とした由。

 

現在は摂氏を採用する国が多いのですが、このきっかけとなったのは1970年前後に行なわれたメートル法への切り替え。

 

私が子供の頃毎朝見ていた温度計には、摂氏と華氏2つの目盛りがあった記憶があります。

 

現在の日本ではほぼ完全に摂氏が採用されていますが、ヤード・ポンド法を採用しているアメリカや英語圏の一部では、未だに華氏が標準とか。

 

してみると、新し物好きなように思われがちなアメリカ人が意外とイボ痔 ジャナカッタ 意固地で、日本人の方が柔軟性があるってことでしょうか。

 

と言いつつ、未だに尺貫法は残ってますけどネ。😅
 

 

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皆さんは〝サーカス〟という言葉から、何を連想しますか?


ボリショイとか木下、キグレなんて名前が浮かぶ方は、おそらく私と同じ昭和世代の方が多いのでしょうけど、今日のサーカスは、こっちのお話・・・。


 フォーミュラ 1

  Formula One 


そう、俗に〝F1サーカス〟と言われる、世界最高峰の自動車レースです。

 

このレースの記念すべき第1回大会がイギリスのシルバーストン・サーキットで開催されたのが、今から75年前の今日・1950年5月13日でした。 

四輪の自動車レースは早くも1906年にフランスで開催され、年月と共に様々な規定が設けられつつ欧州各地でグランプリ・レースが行われていました。

 

しかし第二次世界大戦で中断された後1946年に国際自動車連盟(FIA)が「自然吸気式4,500cc、過給式1,500cc」のマシンをフォーミュラカーレースの最高峰と位置付け、1949年には主要グランプリレースを選手権レースに指定。

 

更に総合ポイントで年間王者を決定するシステムをその翌年からスタート。


下の写真は、その第1戦に優勝し1950年度の初代チャンピオンとなった、アルファロメオ社のジュゼッペ・ファリーナEmilio Giuseppe Farina ) の雄姿。


葉巻にタイヤをつけたようなフォルムが、時代を感じさせます。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

〝フォーミュラ〟とは 規格・規定という意味。

 

出場するレーシング・カーにはタイヤ・シャーシ・エンジン等あらゆるパーツに厳格な規定が設定されており、これに違反した場合にはペナルティーを科せられる厳しいもの。

 

一時期はタイレルのような6輪も認められていましたが、1983年以降は4輪・一人乗りに限定されています。

 

当初はヨーロッパを中心開催していましたが、商業化・メーカーの参入と共にアメリカやアジア地域にも開催地が広がり、最近では世界中て20戦以上・・・このハードな転戦ぶりから〝サーカス〟という異名がつけられました。

 

各自動車メーカーが開発に多額の資金を投入してきたF1レース

・・・その新技術は一般の自動車にも応用され、ターボ・エンジンやエア・スポイラー等が装着されてきたことは皆さんもご存じの通り。

 

ホンダが6年連続チャンピオン・カーにエンジンを供給し、また同時期に中島悟選手がレーサーとして活躍した1980年代後半には日本でも空前のF1ブームが巻き起こり、フジテレビの中継では視聴率20%超という数字を叩き出しました。

 

そして鈴木亜久里選手が日本GPで3位に入賞し、日本人で初めて表彰台に登った辺りが人気最高潮だったでしょうか。

 

その後バブル崩壊と共にホンダが1992年に撤退。

(2000年に再参戦したものの、2009年に再撤退。 

 但しエンジンサプライヤーとしてその後も関わっています。)

 

さらに1994年、スーパー・スターだったアイルトン・セナが事故死したことが大きく響いてか、ブームは急速に萎みました。

 

FI自体にも大手スポンサーだったタバコ産業が撤退したり環境問題も浮上するなど、様々な問題が山積しています。

 

現在ではドライバーの安全を優先してマシンのパワー抑制を主眼としたフォーミュラとなり、興行的にもスリルが薄れたといわれるF1・・・・果たして今後どんなコース取りをしていくのでしょうか?

 

近い将来、FIに 〝ソーラーカー部門〟 が出来たりして。晴れ 

 

そうすれば、日本企業もこぞって参戦するかも?


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