ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

今日・明日と、拙ブログでは学校で絶対に教えない、終戦直前に起きた日本人襲撃事件について記したいと思います。

まずは、81年前の今日・1945(昭和20)年8月13日に起きた、

 

 しょうさんこく
小山克事件

 

事件現場の小山克とは、満州国吉林省を走っていた南満州鉄道京図線の九台駅-吉林駅間の地名。

 

   

    (現在の)吉林省        九台駅と吉林市の位置


同年8月9日、ソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州国に侵攻。

 

これを受けて、満州国を守る関東軍は総司令部を新京(現・長春)から通化に移し、満州南部と朝鮮半島を最終防衛ラインとしてソ連軍と対峙する作戦を立案。

 ※関東軍に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

 

8月10日早朝から連絡のつきやすい軍人の家族を第一陣として新京駅から避難民の移送を開始しました。

そして翌日昼までには約38,000人の移送を終えましたが、更に日本人が新京駅に殺到。

8月13日には満州国皇室一行が一番列車に乗って新京を出発。

 

そして午後2時過ぎに出発した2番列車に乗った日本人らが、事件に巻き込まれてしまったのです。

同列車が九台駅に到着すると、鎌などを手にした支那人が持ち構えており、客車に乱入して避難民から金品を略奪。
(この時満人鉄道公安官は見て見ぬふり。)

そして列車は同駅から吉林駅に向けて発車したのですが、吉林盆地に抜ける小山克トンネルに差し掛かったところで、今度は小銃で武装した支那人らが線路を焼き払って待ち構えていたのです。

 

止む無く停止した列車に乗り込んできた暴民らは、鉄道公安官を縛り上げて拳銃を奪い、日本人女性を車外に引っ張り出して輪姦を始めました。

女性が抱いていた乳児は窓から放り投げられ殺されたそうで、これを見た女性100人以上が線路脇の崖から谷底に身を投げて集団自決。

避難民は事件を知らせるため何人も使者を吉林駅に送ろうとしましたが、悉くトンネルに辿り着く前に射殺されてしまいました。

しかし運よく谷底に転落した13歳の少女がケガを負いながらも吉林駅に辿り着き、事件を知らせました。

報告を受けた関東軍は、直ちに一個大隊600名を列車で現場に派遣し、翌8月14日午前5時半頃に到着。

日本人女性を抱きながら眠り込んでいた暴民を鎮圧すると同時に線路を復旧させ、列車は吉林駅へ向かいました。

その後列車は目的地の通化に到着し、避難民は収容所に収容されたのです。

 

         事件現場と通化市の位置

その直後、『通化事件』(↓)に巻き込まれることなど知る由もなく・・・。 

 

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子供の頃、空想科学・・・いわゆるSF(Science Fiction ) 小説を読んで、胸躍らせた方は多いと思います。

 

かく言う私もその一人だったのですが、今日はその分野において草分け的存在であった

 

 ハーバード・ジョージ・ウェルズ 
    Herbert George Wells 

 

の命日・没後80周年にあたります。

 

     

 

一般にH.G.ウェルズの名で親しまれている彼は、1866年にイギリス・ケント州の中流家庭で生まれました。

 

父親がケガで働けなくなり母親が家政婦として一家を支えたそうですが、彼女が住み込んだ貴族の邸宅についていった彼は、そこで様々な書物に接します。

 

奨学金を得て科学師範学校に入学し生物学を学んだ彼は、早くも後のタイムマシンに繋がる小説を学生誌に投稿。

 

そして当初は教師を志望していましたが、病気などで道を閉ざされたためジャーナリストに。

 

いくつかの科学雑誌に寄稿する中、40歳前後に後世に残る名作をいくつも残しています。

 

1895年 『タイムマシン』 (The Time Machine
1896年 『ドクター・モローの島』(The Island of Dr. Moreau

1897年 『透明人間』        (The Invisible Man
1898年 『宇宙戦争』       (The War of the Worlds

 

いずれも後に何度も映画化されるなど、有名な作品ばかり。

 

単なる空想ではなくウェルズ自身の科学知識に基づく内容なだけに、リアリティーがあるところが人気の要因だったのかもしれません。

 

特にT・クルーズ主演で映画がリメイクされた『宇宙戦争』(2005年公開)は、1938年にオーソン・ウェルズ (※全く血縁関係なし) がこの作品をあたかも現実に起こっているかのようにラジオ放送し、全米各地でパニックが起きたことはつとに有名です。

 

1900年に邸宅を購入して執筆活動や他の文学者との交流をはじめた彼は、やがて社会主義に傾倒。


またレーニン、スターリン、ルーズベルトらと会見を行うなど、政治活動も積極的に行いました。


女性関係においても2度の結婚の他に何度も浮名を流すなど、積極的だったようですが・・・。😅


若い頃から肺を患って教職の道を閉ざされ、その後も糖尿病や腎臓病に悩まされ続け自ら糖尿病患者協会を呼びかけた彼が肝臓ガンにより79歳で息を引き取ったのは、1946年8月13日のことでした。

 

彼の凄さは小説の秀逸さだけでなく、その先見性。

 

驚くべきは、第一次世界大戦よりも前に発表した小説『解放された世界』の中で、原子核反応による強力な爆弾を用いた世界戦争と戦後の世界政府誕生を描き、後の原子爆弾の発明や国際連合の誕生を予見していること。

 

いや、むしろこの作品に触発された科学者が核連鎖反応の可能性を見出し、アメリカの原爆開発に繋がったとさえいわれているのです。😯

 

それを聞くと日本人としては手放しで評価したくない気持ちもありますが・・・平和活動に貢献し、多くの子供たちの夢と空想力を与えてくれた稀代のSF作家のご冥福をお祈り致します。🙏

 

 

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地方では、明日から〝お盆〟・・・ご先祖様の魂を祀る、これからも子々孫々に伝えるべき伝統行事ですネ。

 

亡くなった方を偲ぶ気持ちは大切にしたいものですが、それが最も強くなるのはご葬儀の時。

ご遺族が嘆き悲しむ姿は、何度見てもグッと来てしまいましたが

、ご遺族・ご親族以外の会葬者がそれ以上に感情を露わにされる場面もありました。

それは・・・〝戦友〟。

 

大東亜戦争時に旧日本軍兵士として従軍された方々、特に外地から九死に一生を得て生還された方のご葬儀をお手伝いをさせていただく機会が過去しばしばあった(戦後70年を過ぎたてからは殆どなくなりました)のですが、そのご葬儀に嘗ての戦友の皆様が参列された時がありました。

 

       

 

『第○師団○○会』 等と縫い込んだ旗を祭壇横に飾られ、80歳を超えていらっしゃるにも拘わらず背筋をピンと伸ばし矍鑠として椅子に腰掛けられ、静かに遺影を見つめるご老人達。

 

出棺間際にお柩に花を手向けながら、

「お~い、○○。

俺達を置いて先に逝きやがって・・・バカヤロウ! 

もうすぐ俺達も行くからなぁ。

キサマ、あの世で酒でも呑みながら待ってろよぉ~っ!」

 

と大声で最後のお別れをされる戦友のお姿を拝見すると、そこには奥様やお子様らご遺族でさえ入り込めない、強い絆を感じざるを得ませんでした。

私自身体育会出身ですから、チームメイトとは同じ釜の飯を食った仲・・・ですが、やはり生死を共にした戦友はそれ以上の連帯感があるのでしょう。

 

しかし戦友だから全員に連帯感がある、とは限りません。

拙ブログの過去記事・『インパール作戦』で取り上げた〝ムチャグチ〟こと牟田口廉也中将は遺言を残して自らの葬儀の場で自己弁護の書面を会葬者に配り、顰蹙を買いました。

 

 

更に酷いのは、上記過去記事にも名を挙げた花谷正陸軍中将。

 

     

自分のキャリアを鼻にかけて威張り散らし、部下に自決を強要したり陸軍士官学校の同期を部下が見ている前で顔の形が変わるほど殴りつけ、〝酷将〟と言われた人物です。

彼が病に倒れた時、知人が義捐金を募ったものの誰一人として応じる部下はなく、また彼の葬儀の際にも誰一人参列する部下はいなかったとか。

逆に(戦友ではありませんが)元小学校教師だった方のご葬儀には30年以上前に卒業した教え子が100人近くも参列し、祭壇の前で涙ながらに校歌を合唱し口々に感謝の言葉を送られたことがありました。

葬儀の現場には、故人様の生き様が端的に表れるものなのです。

貴方の葬儀には、一体誰が参列して悲しんでくれると思いますか?

なぁんて言ってる私の葬儀には、誰も来なかったりして。😅

 

 

 

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今からちょうど90年前の今日・1936(昭和11)年8月11日、前畑秀子選手がベルリンオリンピックの200m平泳ぎで優勝、日本人女性として初の金メダルを獲得しました。


17歳で両親を亡くしながらも、生前母親から言われた

「やりかけたことは最後までやり抜きなさい。」

という言葉を守り、連日2万m(!)の猛練習を積み重ね、

「負けたら海に飛び込んで死ぬ。」

と覚悟を決めてお守りを飲み込んで臨んだこのレースに、彼女は見事ライバルだった地元ドイツのゲネンゲル選手を1mの差で破り、文字通り涙の優勝を遂げたのでした。


さて、このレースが後世まで語り継がれる伝説となったのは、NHKの


  かさい さんせい

 河西 三省 アナ

 

の実況があったから、ともいえましょう。

 

     

 

河西アナは1898(明治31)年の東京都生まれ。

 

時事新報社から31歳の時にNHKに入局した、いわゆる中途入社組でした。

 

日本人女性初の金メダルを賭けたデッドヒートに、河西アナも大興奮。
 

「前畑ガンバレ!」の連呼は、時差により日本では午前2時過ぎに流されたものの、多くの日本国民を熱狂させました。

この実況を聴いていた名古屋新聞浜支局の支局長が興奮のあまりショック死するという事件まで起こったそうですから、その熱狂ぶりが伺えます。

 

しかし河西アナ自身は冷静さを失った実況を良しとしなかったのか、後年この件については語りたがらなかったそうな。

実はこの実況、国民から再放送の要望が数多く寄せられたものの、肝心のNHKには録音設備がありませんでした。

 

しかし奇跡的(?)にポリドールレコードの技術者がレコード録音をしていたのです。

それではこの伝説のレースを、3分余りのフルバージョンでお聴きください。(

 

 

当時のラジオは短波放送で電波状態が不安定で音声にも雑音が入ってしまっていますが、真夜中に国民が固唾を飲んで聴き入っている姿が目に浮かびます。

この時の河西アナの実況は、むしろ国民を代表した前畑選手への声援だった、と言えるかもしれません。

 

ラスト50mからの実況は、こうでした。

(※繰り返し部分は一部省略)

 

『頑張れ、頑張れ、頑張れ。 あと40、あと40。

前畑リード、前畑リード。 ゲネンゲルも出ております。

ほんの僅か、ほんの僅か。 前畑僅かにリード。

 

前畑頑張れ、頑張れ。 あと25。

僅かにリード、わずかにリード。 前畑頑張れ、頑張れ前畑。

ゲネンゲルが出ております。 危ない、頑張れ、頑張れ、頑張れ!

前畑リード、前畑リード、前畑リードしております。

前畑頑張れ、前畑頑張れ。 リード、リード、あと5メートル。

前畑リード、リード、リード。

 

勝った、勝った、勝った、前畑勝った。

前畑勝った。前畑勝ちました!前畑勝ちました!

前畑優勝です。 前畑優勝です!』

 

皆さん、今日は是非前畑選手の代わりにご自分の名前を入れて、自らに声援を送りましょう。 

 

なぜなら今日はこの実況を記念した

 

 〝ガンバレの日〟

 

なのですから!😊


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今日・8月11日は、『山の日』。

「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」祝日です。

まもなくお盆で帰ってくる英霊やご先祖様によく見えるように、
国旗を掲揚しましょう。

 

   

 

 

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今日は、私にとって永遠の憧れである二枚目俳優、

 

 渡 哲也 さん

の命日・七回忌にあたります。

     

渡(本名:渡瀬 道彦)さんは、真珠湾攻撃があった直後の1941(昭和16)年12月、現在の島根県安来市で日立に勤務していた父親の4人兄弟の次男として生まれました。

(長男と四男は戦後の劣悪な食糧事情の影響で夭折、三男は俳優の渡瀬恒彦さん)

その後父親が日立を辞め実家のある淡路島で洋品店を開業したため転居し小学生まで同島で過ごし、三田学園中・高等学校で6年間寮生活をした後、青山学院大学に進学。

同大では空手道部に所属し、空手二段を取得・・・これが、後のアクション・スターの下地になりました。

※因みに弟の恒彦さんも早稲田大学の空手部に所属し二段の腕前

で、一説にはあの安岡力也さんがビビる程の芸能界ケンカ最強説が囁かれた猛者でした。

 

そして渡さんが芸能界入りしたキッカケは、日活が募集していた浅丘ルリ子さんの相手役に、恒彦さんが内緒で応募したこと。

渡さん自身は激怒したそうですが、就職を希望していた日本航空整備士の採用試験に落ちたため日活撮影所を訪問したところ、そこでスカウトされて1964年に日活入り。

日活は高橋英樹さんに次ぐスター候補として大々的に売り出し、記者会見の席で渡さんは瓦割りを披露。

これが翌日のスポーツ紙やテレビのニュースで大きく取り上げられたそうな。

1965年に宍戸錠さんとのW主演でデビューすると、2作目の 『青春の裁き』で単独主演を果たし、乱闘シーンで得意の空手を生かすと、同年12月公開の『赤い谷間の決斗』では、石原裕次郎さんと初共演。

1968年からの『無頼』シリーズは日活時代の代表作に。

しかし日活がポルノ路線にシフトしたため、渡さんは1971年に退社し、石原プロに移籍。

私が最初に渡さんの存在を知ったのは、1974年の大河ドラマ 『勝海舟』で主演に抜擢されたこと。

ただこのドラマでは途中で体調を崩して第9話で降板し、松方弘樹さんが代役を務めることになりましたが・・・。

     

そして私が渡さんに憧れるキッカケとなったのが、1979~84年にかけて放映されたドラマ『西部警察』シリーズでした。

渡さん演じる〝団長〟こと大門刑事が、カッコ良かったこと。

ちょうど私が大学生から社会人になる頃に放映されましたが、偶然渋谷のセンター街でのロケ現場に居合わせ、身長180cmの長身にブルーのワイシャツとスーツに身を包み、サングラスをかけて街を闊歩する渡さんの颯爽たる姿に一目惚れ。

     

サラリーマン時代はブルーのワイシャツを好んで着て、休日にはサングラスをかけて街を徘徊(?)したものです。😎

さすがに頭を角刈りには出来ませんでしたが・・・。

渡さんの活躍で倒産寸前だった石原プロは持ち直し、1987年に裕次郎さん(↓)が亡くなった後は社長に就任。
   

 

 

また1973年にリリースした『くちなしの花』が大ヒットし、翌年には紅白歌合戦に出場。

 

当然私のカラオケ・レパートリーにはしっかり入っており、損保マン時代には夜の営業で散々歌いましたっけ。

しかし〝男が惚れる男〟だった渡さんの大敵になったのは、病気でした。

前述の大河降板を含め、度々入退院を繰り返していた渡さんは、映画の主演を何本も逃すことに。

2000年以降で私の記憶に残っているのは、2001年の北野武作品『BROTHER』での組長役と、2005年の『男たちの大和/YAMATO』での伊藤整一・第2艦隊司令長官(↓)役。



     

 

結果的に、この作品が渡さんの映画における遺作となりました。
 

2015年に急性心筋梗塞で緊急入院し、一旦は退院して日本酒のCМで現場復帰したものの、2020(令和2年)8月10日

・・・肺炎により78歳でこの世を去りました。

渡さんのようにカッコ良く歳を取りたいと願いつつ、『くちなしの花』 を聴きながら渡さんの冥福を祈りたいと思います。🙏

 

 



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祖国の素晴らしさを海外に発信・誇れない民族は、やがて滅びるであろう。
 

 

 

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イタリアを訪れる方なら、この観光スポットは外さないはず。

 

 ピサの斜塔

   Torre di Pisa


高さ55.86m、296段の階段があるこのピサ大聖堂の鐘楼が着工したのが、今から850年余り前の今日・1173年8月9日・・・日本では平家が栄華を誇っていた頃ですネ。

この塔、もちろん最初は鉛直(垂直)に建設されていたのですが

地盤の土質が不均一であったため、1178年に第1工期が終了した後に南側が塔の重量で傾き始めます。

第2工期(1272~1278年)はその傾きを修正しつつ建設が継続されたものの、傾斜したまま。

そして第3工期(1360~1372年)でも傾きが修正できず

、仕方なく最上階のみ鉛直に造られることに。

本来はもっと高い塔の建設が予定されていましたが、断念せざるを得ませんでした。

また傾いていたおかげで、ガリレオは大小2つの鉄球を落とす自由落下の実験ができたわけですが・・・。
※ただしこの実験が実際に行われたという証拠はありません。

     

その後も地盤に薬液を注入するなどの傾き是正が試みられましたが、効果は得られず。

逆に地下水汲み上げによって傾斜がさらに進行し最大5.5度も傾いたため、イタリア政府は1990年から2001年まで観光客ヘの公開を禁止して2001年まで大がかりな改修工事を行い

斜度は3.99度まで持ち直しました。

現在は人数制限があるものの、頂上まで階段を使って登ることができるそうです。

日本の建築技術をもってすれば、この塔を鉛直にすることは可能かもしれませんが、もしそうしたら逆に観光客は激減するでしょうから、今後もこのまま保存することになるんでしょうネ。

さて、こういう傾いた建物というのは滅多にありませんから、きっとこの斜塔はギネスに登録されている・・・と思いきや、今ではもっと傾いている建物がとって変わっているとか。

その建物とは、アブダビに建設された地上160mの超高層ビル


 キャピタルゲート
   Capital Gate

     

 

このビルの斜度は、何と18度・・・といっても、これは最初からそういう設計で建てられているのです。

ピサの斜塔と違って、建物は傾いていても当然フロアは水平。

でも足の下が空間になっているオフィスで、落ち着いて仕事できるんでょうかねェ?

貴方はピサの斜塔とキャビタルゲート、どちらに行ってみたいですか?

私は・・・ピサの方かなァ~。😅

 

 
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今月5日の拙ブログでは、東京・八王子で起きた『湯の花トンネル列車銃撃事件』を記事にしました。(↓)

 

 

そして今日は、その3日後・・・1945(昭和20)年8月8日に九州で起きた同様の米軍による非戦闘員に対する機銃掃射、

 筑紫駅列車空襲事件

を取り上げます。

 

事件が起きたのは、福岡県筑紫郡筑紫村(現・筑紫野市)にある西日本鉄道(西鉄)大牟田線筑紫駅付近。

 

 

同日、西鉄福岡駅朝9時40分発の大牟田行き下り普通列車(100形)は、入営者を中心に200人近い乗客でほぼ満員状態。

        
                 

途中、空襲警報が発令されたため1時間程停車し、午前11時頃に筑紫駅に差し掛かりました。


そしてほぼ同時刻に、久留米から福岡に向かう上り列車(200形)が筑紫駅に差し掛かっていました。

     

この2列車に対し、突如上空に米軍戦闘機P-47(またはP-51)が飛来し、機銃掃射を浴びせたのです。

     

         P-47 サンダーボルト

 

八王子の場合はトンネルがありましたが、筑紫駅周辺は田園地帯で乗客の逃げ場なし。

米軍機は繰り返し機銃掃射を行い、決す両列車合わせて死者84名以上、負傷者100名以上を出しました。

 

しかも同日には、近くの宮の陣駅で列車が、また荒木駅では駅舎と停車中の車輛が機銃掃射を受けたそうですから、もう手あたり次第。

湯の花同様、この筑紫駅周辺の機銃掃射も、到底軍事拠点攻撃とは言えず、一般市民を狙た無差別攻撃と言っていいでしょう。

なお、この機銃掃射事件に関しては、戦闘機搭載のガンカメラで撮影されたカラー映像を大分県宇佐市にある『豊の国宇佐市塾』が2013年にアメリカ国立公文書館の保管資料の中から発見。

 

現在、宇佐市平和資料館で上映されていますが・・・その動画をこちらでご覧いただだけます。

 

 

襲われた乗客の皆さんの恐怖は、如何ばかりだったか・・・。

実は私の母も女学生時代、田んぼのあぜ道を歩いていた時に米軍機が突然飛来し、機銃掃射を受けて逃げ惑ったことがあると話してくれたことが。

おそらく同様の経験をした方は多数いらっしゃるはず。

あらためて終戦直前の米軍による戦争犯罪の数々を私たちは忘れてはならない、そして後世に伝える必要性を痛感します。

 

 

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かわいい動物の写真って、疲れた心を癒してくれる力がありますょネ。 たとえば、こんな感じの・・・。

       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

思わず抱きしめてくなってしまう、アザラシの子供・・・今日はこのような多くの動物や大自然の姿を追い求め続けた写真家・探検家、更には詩人でもあった

 

 星野 道夫 さん


の命日・没後30周年にあたります。
 

       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

星野さんは1952年の千葉県市川市生まれ。


慶應義塾高等学校入学中に移民船アルゼンチナ丸に乗って渡米し

約2ヶ月間アメリカ国内を一人旅したという型破りな学生だった彼は、慶應義塾大学に進学後は探検部に所属。


19歳の時に神田の書店で偶然目にしたアラスカの写真集を見て感動、そこに掲載されていたシシュマレフ村を訪れてクジラ漁などを手伝いながら約3ヶ月間エスキモー宅にホームステイ。

 

そして卒業後、動物写真家・田中光常さんの助手を経て、1978年から4年間アラスカ大学・野生動物管理部に留学。


同大を中退後はアラスカの動物たちの写真を撮影し続け、1993年に 『Alaska 極北・生命の地図』 で第15回木村伊兵衛写真賞を受賞し、頭角を現しました。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

1993年に結婚し、翌年には長男が誕生。

 

家庭を持ってますます今後の活躍に期待がかかった彼に突然の悲劇が襲ったのは、1996(平成8)年8月8日のことでした。

 

       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

TBSのTV番組『どうぶつ奇想天外』の取材でカムチャツカ半島のクリル湖畔を訪れていた星野さんのテントをヒグマが急襲。

 

そのまま森の中に引きずられていった彼は、43歳でこの世を去ってしまったのです。


       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

写真で見れば微笑ましくとも、実物は非常に凶暴。

 

後にTBS側から公表された調査報告書によれば、それまで何度かヒグマと接近遭遇したガイドら同行クルーは星野さんに小屋への移動を進めたものの、彼は「遡上する鮭の多いこの季節には人を襲わない」と取り合わずテントに居残ったのだとか。

 

しかしこの年は鮭の遡上が遅れており、しかも襲ったヒグマは現地テレビ局の社長が餌付けしていた個体で、人間に慣れていたとのこと。

 

様々の要因が重なった事故だったとはいえ、自然界の恐ろしさを思い知らされます。

 

今私の手元には、20年余り前に東京で開催された星野さんの展覧会で買い求めた写真集があります。(


      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

上の動物写真は、全てここから転載させていただいたものですが、他にも沢山の作品が掲載されています。

 

時折ページをめくるたびに自然の雄大さ、厳しさ、そして優しさを伝えてくれます。

 

星野さんの命は尽きてしまいましたが、その作品は永遠・・・ぜひ皆さんにも彼が遺した写真や著作に触れていただきたいと思います。

 

※写真展等の詳細は、こちらの公式サイトからどうぞ。(
 

 

追い求めた野生に志半ばで命を絶たれた我が母校の先輩のご冥福を、お祈り致します。🙏

 

 

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