ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

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皆さんは、

 高橋 景保

という人物を、ご存知でしょうか?

 

現代人でなく、以前、拙ブログでもチラッと登場した江戸時代後期の天文学者なのですが・・・。

その記事は、こちら。(↓)

 

 

景保は1785(天明5)年に天文学者・高橋至時(よしとき)の長男として大阪に生まれました。

19歳で父親の跡を継いで江戸幕府天文方となり、天体観測や測量、また天文関連書籍の翻訳に実績を残し、特に伊能忠敬の全国測量事業の監督・援助を行い、彼の没後その測量を基に 『
大日本沿海輿地全図』 を完成させたことで知られています。

しかし優秀どはあったものの、ある意味学者バカでもあったようで・・・景保はシーボルトが所持していたロシアのクルーゼンシュテルノン提督が書いた 『世界周航記』 という本とオランダ領東インドの地図9枚と、彼が欲しがっていた
大日本沿海輿地全図』 の縮図を交換してしまったのです。

おそらく彼自身はそま世界地図が手に入れば大いに役立つと思ったのでしょうが、当然日本の地図を外国人に渡すのはご法度。

彼は1828年10月10日に捕らえられ、伝馬町牢屋敷に投獄されてしまいます。

そして過酷な尋問が続いた末、約4ヶ月後の1829(文政13)年2月16日に45歳で獄死。

病死と伝えられていますが、果たして額面通りに受け取っていいかどうか・・・。

現代なら通常刑事被告人が死亡した場合、その公判は中止されます・・・が、彼の場合は違いました。 

なんと遺体は埋葬されるどころか塩漬けにされ、そのまま事件の吟味が終了するまで亀の中で保管されたとか。

シーボルト事件の顛末やその様子を詳細に書き記した 『蛮蕪子』 という書物も現存しています。

 

     

 

そして今からちょうど190年前の今日・1829年3月26日に出された評決は

『存命ニ候ヘバ死罪』

 

ということで、保存されていた遺体は引き出され、罪状申し渡しの上斬首刑に処せられるという、非常に厳しいものでした。

「いくら何でも、そこまでやることは・・・」

と現代人の感覚では思えますが、逆に言えばそれだけ国防に関する機密漏洩に対して、江戸幕府は非常に神経を尖らせていた証左と言えましょう。

翻って、現在の日本はどうか?

前掲の 『シーボルト事件』 記事でも書いた通り、未だにスパイ防止法すらない脇がガラ空き状態であり、かつ支那の軍部要人に自衛隊の資料を平気で見せる元防衛相までいる始末。

景保は草葉の陰で、

「嗚呼、拙者も平成の世に生まれていれば・・・」

と臍を噛んでいることでしょう。

そんな国防意識の希薄な日本、この先も生き残れるのでしょうか?
うー

 

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「それじゃ、お先に~。」


そう言うと、バッジテスト1級所持者・S君は、サッサと軽快なスキー捌きで滑り降りていってしまいました。


(おいおいっ、そりゃないだろう。) そう思っても後の祭り。


残された3人は、ただ呆然。


「おい、どうするョ。」 

「どうするって・・・行くしかないだろう。」


覚悟を決めた私は斜滑降でゲレンデの反対側めがけて滑り出しました。


〝ダウンヒルのナベちゃん〟もすっかり形無し・・・コースの両端を行ったり来たり、ジクザクに急斜面を降りるしかありません。


もう1人も私に続いて無事下まで降りたのですが、問題は最後に残ったN君。


実は彼、スキーは初心者だったんです。 


我々3人が下まで降りてきた時も、スタート地点で固まったまま。


「お~い、早く降りてこいょ~。 一番いいスキー履いてんだろ~!」


S君は開業医の息子。 

金持ちの父親から、当時一番高かった小賀坂のメタル・スキーをこの日のために買ってもらっていたんです。


確か当時で10万円くらいした最高級品・・・我々はその事を知っていて、冷やかし半分・嫉妬半分で声をかけたのでした。あせあせ


そして意を決したS君は、ヘッピリ腰のままソ~ッとボーゲンで滑り始めます。


          

                ジャイアント・コースの急斜面         


でもスキーって、腰を引くと一層スピードが出ちゃうんですょネ。


みるみるスピードアップしたS君、「あっ、そのまま行ったら林にツッコむゾ!」 と思った瞬間、斜面下に向かって転倒!


何回かゴロゴロッと転がった後、ズルズルと落ちてきました。


これまたスキー経験者ならお分かりだと思いますが、30度を超える急斜面だと転倒したらエッジをうまく立て踏ん張らないと、止まらないんですょネ。


捕まって棒に吊るされたイノシシのような恰好のまま滑り落ちてくるN君の情けない姿を見て必死に笑いを堪える我々の足元に、ミカンが何個か転がってくるではありませんか。


(どうして、ゲレンデにミカンが?)


不思議に思っていると、今度は明治の板チョコが一枚、スルスルと・・・。


そして最後にN君本体(?)が我々の足元に滑り落ちてきました。


その彼の背中には、パックリと蓋の開いたリュックが。


そうなんです。 

ミカンと板チョコは、彼が持ってきたおやつだったのです。


あまりの可笑しさに、とうとう声を上げて大笑いしてしまった私ですが、次の瞬間ピタッと笑いが止まりました。


それは、N君の右足に装着されていたスキー板の後ろ半分が、ポッキリと折れて無くなっていたから・・・。


フッと斜面を見上げると、彼が転倒した辺りの純白のゲレンデに、鈍く光る黒いメタル・スキー板が、あたかも墓標の如く刺さっているではありませんか!


初心者の彼は転び方も知らなかったため、転倒した際にスキー板をゲレンデに突き刺して転がってしまったわけです。


10万円もする新品のメタルスキーは、たった20m滑っただけでお陀仏。


休憩所に連れて行くと、イスに座ったN君は、「パパに買ってもらったばかりなのに・・・」 と、シクシクと泣き止みません。


さすがに悪いと思ったのか、S君は動き出したリフトに乗ってゲレンデに刺さった残骸を引き抜き、再び滑り降りてきました。


私はN君用にレンタルスキーを借りてきて


「泣いてもしようがないだろ。 蓮池のやさしいコースで滑ろうぜ!」


と励まし、我々は半ベソの彼を抱えて休憩所を出たのです。


・・・その後どこでどう滑ったのか、今は全く記憶なし。


しかし白銀の斜面を転がってきたミカンの鮮やかな橙色と板チョコの茶色、そして急斜面に刺さっていたメタル・スキーの破片が朝日に黒く光っていた光景は、今もって忘れることができません。


※このジャイアント・コースを滑った方自ら撮影した動画がありました。
ご覧いただきながら、ミカンや板チョコが落ちてきた光景をイメージしてください。

1分過ぎから急斜面に入ります。






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スキーシーズンも、まもなく終わり・・・皆さん、今年は滑りましたか?

 

長野に生まれ育った私にとって、スキーは身近なスポーツ・・・というより、冬はそれしかやることがなかった、とも言えますが。あせあせ

 

自宅からリフトが見えるスキー場があり、シーズン中の日曜日はよくスキー靴を履いたまま(!)電車やバスに乗って通ったものです。

 

着替えや昼食のおにぎりを入れたリュックサックを休憩所の机の上に置きっぱなしでゲレンデに向かい、1日乗り放題リフト券をお守りのように首から下げて、朝から暗くなるまで滑りまくり。

 

(当時は村営で、リフトが3本しかなかったその 『飯綱高原スキー場』 が約30年後にはオリンピックのモーグル競技会場となり、里谷多英選手がそこで金メダルを獲得するとは・・・私にはまさに隔世の感というか、感慨深いものがありましたが。)笑2

 

小学生の頃から一応ウェーデルンくらいは出来ましたが、私は生まれながらのスピード狂(?)・・・スキーでもダウンヒル(直滑降)が大好き。

 

中学生になると、親にせがんで憧れのメーカー・〝小賀坂〟から発売されたグラスファイバー・スキーを買ってもらったのですが、できるだけスピードが出るようにと長さはなんと2m。

 

まるでジャンプ競技に使うようなロングスキーに当時最先端・HEAD社のビンディングを装着して、ブイブイ飛ばしたものです。

 

そんな私がスキーをしたのは高校生の時まで。

 

大学に進学して上京すると、周囲がスキーに行くのは女の子をナンパするアフタースキーが目的。

 

背中に入れたバスタオルがグッショリ濡れるほど身体を張って滑っていた体育会系スキーヤーだった私には、とてもそんな軟弱スキーなどに付き合う気が起きませんでした。

 

結局大学時代、そして社会人になってもケガをして周囲に迷惑をかけたくないので、一度もスキーに行くことはなく現在に至っています。

 

そんな私が最後に滑ったのは高校2年生の時でしたが、このラスト・スキーで生涯忘れられない出来事に遭遇しようとは・・・。

 

来年は大学受験、とてもスキーどころではないってことで仲良しの同級生3人と〝滑り納め〟 に行くことに。

 

その中で最も上手だったS君の発案で、ゲレンデは志賀高原に決定。

 

当日、長野電鉄の始発電車に乗って終点・湯田中駅へ。 

 

そしてS君に案内されるままバスに乗って暫し・・・降りたバス停は、ちょうどゲレンデの中腹あたり。

 

「ここでスキー履いて、下の休憩所まで行こう。」

 

そう言うS君についていった我々はゲレンデの端に立った瞬間、思わず絶句。

 

遥か下に見えるロッジの手前は、ゾッとするような急斜面だったのです。(

 

       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-志賀高原

 

なんとそこは、スキーヤーなら知る人ぞ知る

 ジャイアント・コース

 

国内の公式競技はもちろん、後にワールドカップも開催された超上級者用のゲレンデだったのです。

 

スキー経験者はご存知だと思いますが、傾斜が30度以上になると、絶壁を滑り落ちるような感覚。

ところが当時のジャイアント・コースの最大斜度は、それを遥かに凌ぐ約41度!ダメだぁ顔

 

朝8時前でリフトも動いておらず、まだ誰も滑っていないギャップだらけのゴツゴツしたアイスバーン・・・殆ど垂直に落ちていくような絶壁にいきなり立たされた私のビビリ具合、想像いただけますでしょうか?

 

さすがのダウンヒル男も、この急斜面を真っ逆さまに滑り降りる勇気はなし。

 

(オ、オレ・・・無事に下まで行けるんだろうか?)

 

緊張で心臓バクバクの私、そして同様に顔面蒼白の仲間たちの運命やいかに?

 

                  ・・・・・To be continued!

 

 

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それは、日本中を熱狂させる出来事でした。

今からちょうど10年前にアメリカで開催されていた

 第2回ワールド・ベースボール・クラシック

で、原辰徳監督率いるサムライジャパンが、見事同大会2連覇を成し遂げました。


       


2006年の第1回大会で優勝していただけに、日本国内ではこの大会でもサムライジャパンに対する期待が大きく膨らんでいましたが、北京五輪後だったこともあって中日が選手の拠出を辞退するなど、人選が難航。

それを引きずった訳でもないでしょうが、第1・第2ラウンドでは韓国に敗れるなど、決して順調な勝ち上がりとは言えませんでした。

それでも第2ラウンドで強敵のキューバ、そして準決勝でアメリカを破ったサムライジャパンは、2009年3月23日(現地時間)、ドジャースタジアムで行われた決勝で宿敵・韓国と激突。


日本がリードし韓国が追いかける展開で進んだこの試合は、9回表を終わって日本が1点リード。 

マウンドにエースのダルビッシュ投手が上がった時は、誰もが勝利を確信したはず・・・ですが、何と2つの四球とタイムリーヒットで同点に追いつかれ、まさかの延長戦。


そして10回表、クライマックスが訪れます。

2死2・3塁のチャンスで迎えるバッターはイチロー。

日の丸を背負ったイチローの気迫と、当時ヤクルトの守護神として活躍していた林昌勇投手のプライドのぶつかり合いは、まさに固唾を飲む名勝負でした。


その約6分に及ぶ打席を、是非とも動画でご覧ください。




メジャーリーグでもまず敬遠と思われるこの場面で、林投手は真っ向勝負。


ファウルで粘った後の8球目、勝負球のシンカーを真芯で捉えたイチローの打球は2走者を返すセンター前タイムリーヒット!


強烈なピッチャー返し・・・〝糸を引く打球〟とは、まさにコレ。


ヒット1本で体中の毛穴が開くほど感動したのは、この瞬間以外に私は記憶がありません。


その裏、ダルビッシュ投手は四球を出したものの今度は後続を抑え、日本が5-3で韓国を下し見事にV2を達成したのです。


試合後、敢えて勝負した林投手を非難する声が韓国で上がったようですが、逃げずに日本最高のバッターに挑んだ姿勢はまさに勝負師・・・立派だったと思います。


またイチロー本人も、それまで不調で日本国内からは心配や非難の声も上がりましたが、ここぞという場面でキッチリ仕事をするところは、さすが。

その後体調を崩してメジャー開幕後しばらく試合に出られなかった程のプレッシャーがかかる中、よくぞタイムリーを放ったもの・・・お見事としか言いようがありません。


こんな展開をアニメやドラマで見たら、「そんなワザとらしいこと、有り得ないだろう」 と言われそうな試合が現実に起こるのですから、やはり〝野球は筋書きのないドラマ〟です。


球春到来。


今日から選抜高校野球が始まり、まもなくプロ野球も開幕しますが、あの感動と肩を並べるような試合を是非ファンに見せて欲しいものです。

そして、この時のヒーロー・イチロー選手は、先日日本で行われたマリナーズ対巨人のオープン戦で、45歳とは思えぬレーザー・ビームを披露してくれました。



20日の開幕戦でスタメン出場した彼が、今年再びメジャー・リーグで選手として活躍してくれるのか?

そう期待したのも束の間、一昨日現役引退を表明したのは実に残念!!

さて、彼の代わりにメジャー・リーグで注目を集める日本人選手は、誰?


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たまたまですが、一昨日アップした拙ブログでこの方の作品を紹介しました。
 

今日・3月22日は、我が国における経済小説家の草分けと言える、

 

 城山 三郎 さん

 

の命日・十三回忌にあたります。

 

        

 

おそらく私と同年代以上のサラリーマンであれば、殆どの方が彼の作品を読んだことがあるのではないでしょうか。

 

城山(本名・杉浦英一)さんは、1927(昭和2)年に名古屋市中区で生まれました。

 

父親がインテリア業を営んでいた関係で、13歳の時に名古屋商業に入学。

 

しかし太平洋戦争の激化と共に、18歳の時海軍特別幹部練習生に志願。

 

特攻隊である伏龍部隊に配属されるも、運よく訓練中に終戦を迎えました。

 

(実家が空襲で焼かれるなど、それらの戦争体験は城山さんの創作活動にも多大な影響を及ぼしたようで、確か城山氏最後の仕事は2001年に発表された 『指揮官たちの特攻』・・・この取材に関するNHKの特集番組を観た記憶があります。)

 

終戦の翌年に東京産業大学(現・一ツ橋大学)に入学し、卒業後は地元・愛知学芸大学とへ教鞭を取るなどしましたが、この時期に 『中京財界史』 を地元紙に掲載したことが転進のキッカケに。

 

30歳だった1957年に作家として本格的な活動を始めた彼は、城山八幡宮に引っ越したことから城山三郎のペンネームで文学誌に投稿を開始。

 

1959年に 『総会屋錦城』 で直木賞を、同年 『落日燃ゆ』 で吉川英治文学賞を受賞し、一気に一流作家としての地位を確立。

 

以後多くの経済小説を発表しましたが、事実にフィクションを程良く加味した作品は多くのビジネスマンに現実感を持って読まれ、人気を博しました。

 

一昨日の 『ビッグボーイの生涯』 だけでなく、拙ブログでは過去に何冊も彼の作品を紹介してきましたが、そんな私に大きな影響を与えた作品があります。 

 

それは、一時期その題名自体が流行語になった、

 

 『毎日が日曜日』 (新潮文庫・刊)

 

       

 

商社マンを主人公にした1976年発表の作品ですが、私がこれを読んだのは1979年・・・大学3年の頃。

 

翌年に就職を控え自分の進路を考える中で、私は高度経済成長の日本を支え世界中に活躍の場がある商社に憧れを抱いていました。

 

当時の就職人気ランキングでも三菱商事・三井物産・丸紅・伊藤忠などが上位に顔を出していた中、私は商社の実態を学ぼうと同書を手にしたのです。

 

ところが読み進めていくうち、憧れとはおよそ乖離した仕事の厳しさにすっかり気持ちが萎んでしまいました。

 

オマケに同時期、ある冒険家がニューギニア縦走に挑戦した時にバッタリと日本人に遭遇、驚いて話を聞くと彼は原住民にパンツを売りに来ていた商社マンだった・・・なんて話も耳にしたものですから、

 

(オレみたいに野球ばかりやって体力だけが取り柄の人間が商社に入っても、一生ドサ回りに決まってる。)

 

小心者の私はすっかり怖気づいてしまい、路線を転換したのです。

 

もしこの作品を読まなかったら保険会社に就職せず、まして葬儀屋を経営することもなく、密林で下着を売っていたかもしれません。うー


その意味で、この作品は私の人生を変えたと言っても良いでしょう。

あっ、もちろん商社を目指しても入社できたかどうかは定かではないですけどネ。

 

でも久しぶりに同書を読み返してると、海外に行かなかっただけで損保でのサラリーマン生活は支社の廃止に関わるなど、この主人公と似たり寄ったり・・・それに現在無職の私は、まさに〝毎日が日曜日〟状態なので、苦笑いするしかありませんが。あせあせ

 

あらためて、2007(平成19)年3月22日に間質性肺炎により79歳でこの世を去った、私の人生を変えた経済小説家のご冥福をお祈り致します。笑3

 

 

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「渡辺さん、こんなの見つけたんですョ。

結構辛いんで、試してみてください。」

先日エネゴリ君の店に行った時、オーナーが私にコレをプレゼントしてくれました。(下写真・左)

       

今まで、激辛とか極辛などいろいろなネーミングの唐辛子関連商品がありましたが、これは〝燃辛〟。

メーカーはあのエスビー食品。 裏を見ると・・・

 

        

「辛さ炸裂  辛さの求道者へ エスビーからの挑戦状」

「5種類の唐辛子をブレンド」


なんて威勢のいい文字が・・・となれば、激辛党員としては受けて立たねばなりますまい。

3年前に口にした世界一辛いと銘打たれた 『舞妓はん ひぃ~ひぃ~』 と同じ条件で、早速試してみました。

 

日清のどん兵衛・天ぷら抜きにネギをトッピングして、その上に同程度の量を振りかけます。

    

 

できる限り下に唐辛子が落ちないよう慎重に箸で一口、二口・・・しかし、あまり辛さは感じません。

唐辛子が表面になくなったので、もう一度かけて食べてみました。

    

う~ん、やはり同じ。 結局麺を全部食べ終えおつゆも飲み干しましたが、〝舞妓はん〟のように動悸を感じることはありませんでした。

エスビーさんが挑戦状を叩きつけてきた割には、正直拍子抜け。

でもエスビーさんの名誉にのために申し添えると、舌では辛味を感じませんでしたが、身体にはしっかり汗をかきましたから辛い事は辛いはず。

物足りなかった私は、偶然にもこの燃辛唐辛子を手にした翌日、ブロ友の加藤ジェームズさんからいただいたこちらを続けて試食。

    

『大人限定 地獄柿ピー』 と銘打たれたタクマ食品さん製造の柿の種、こちらは〝鬼辛〟ですって。

メーカーさんもよくまぁ次々と新語(?)を編み出すものですが、写真を見てお分かりの通り柿の種だけでなくピーナツにも唐辛子がこびりついてます。

早速口に入れてみると、こちらの方が少し辛い感じ。
汗の量も増えましたし・・・。
あせあせ

 〇 鬼 辛  判定勝ち  燃 辛 ●

ってところでしょうか。 とは言え、もちろん一袋完食!

でもオーナーと加藤さんからいただいた激辛商品で、まだ肌寒いのにイイ汗をかくことができました。

激辛ダブルヘッダー、どなたかチャレンジしてみませんか?

 

 

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今から24年前の今日、朝8時15分過ぎ。

 

当時サラリーマンだった私は、出勤のため地下鉄有楽町線に乗っていました。

 

・・・と、走行中に電車が突然止まり、しばらくして 「先程、築地駅で走行(運行?)障害が発生しました。」 というような車内放送が流れたのです。

 

普段 「車両点検により・・・」 とか 「人身事故により・・・」 等々の案内は時々耳にしますが、そんなアナウンスは初耳。

 

(一体、何があったんだ?)

 

という、何とも言えぬ胸騒ぎというか、イヤ~な予感がしたことを憶えています。

 

出社してすぐにクルマで営業に出かけた私は、やたらに走り回るパトカーのサイレンを耳にする異様な雰囲気の中ラジオから流れてくる臨時ニュースを聞き、初めて車内アナウンスが何を意味していたのかを知ることに・・・。

 

それが1995(平成7)年3月20日朝、オウム真理教によって引き起こされた

 

 地下鉄サリン事件

 

でした。

 

12名の死者、そして約6,000名もの重軽傷者を出したこの事件そのものについては、あらためてここで説明する必要はないと思います。


      

 

しかしこの事件が起きた日、3名の医師による 〝英断〟が多くの人命を救ったことについて、当時は殆ど報道されませんでした。

 

最も多くの被害者を出した地下鉄日比谷線・築地駅。

 

あまりの被害者の多さに、病院に連絡を取る余裕もないまま救急隊員によって続々と搬送される被害者を見て、 

 

◆ 外来患者を断り、事件の被害者治療を最優先。
◆ 全ての搬送を受け入れる。

 

これを即時決断したのが、当時の聖路加国際病院々長・・・一作年7月に105歳で大往生を遂げられた日野原重明

 

ベット数が足りず、礼拝堂を開放して軽症患者を運ぶよう指示したのも日野原院長だったそうです。

 

        ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-日野原重明先生

                 故・日野原重明先生

 

一方事態が掌握できなかったため当初は農薬中毒という見方が大勢だったものの、瞳孔収縮等それでは説明できない症状がみられ、治療方法を確定できなかった医師団のもとに一本の電話が入ります。

 

電話の主は、信州大学付属病院の柳沢信夫医師。(現・信州大学及び東京工科大学名誉教授)

 

9ヶ月前に起きた 『松本サリン事件』 で被害者治療の指揮を執った方でした。

 

たまたま観ていたテレビで事件を知り、その被害者の特徴的な症状から 「サリン中毒に違いない」 と確信。 

 

すぐに自ら聖路加病院に直接電話をかけ、特効薬・治療法などをFAXで伝えたのでした。

 

その電話を受け、最終的に特効薬 ・プラリドキシムヨウ化メチルPAM ) の投与を決断したのは、同病院救命救急センターの石松伸一医師(現・聖路加病院副院長)。

 

サリン中毒でなかった場合、この薬の持つ強い副作用で被害者が死亡することも有り得る・・・という状況下での、ギリギリの決断だったそうです。

 

◆もし聖路加国際病院が全被害者の受け入れを拒否していたら?

◆もし柳沢医師が直接病院に電話せず厚生省等に連絡していたら?

◆もし石松医師によるPAM投与の早期決断がなかったら?

 

後日アメリカ国防総省から、「死者が70~80名出てもおかしくない無差別テロにもかかわらず、どうして被害を最小限に食い止めることができたのか?」 と日本政府に照会があったとか。

 

その答えは3人の医師による英断と、救出にあたった警察・消防の方々、また特効薬 “パム” の配送に携わった製造元・スズケンや住友製薬の社員さん、そして非番にも関わらずテレビを見てすぐさま病院に急行し治療に加わった看護士の方々など、多くの人々による献身的な救命活動の集積だった、といえるでしょう。

 

政治家の優柔不断・実行力不足が目立つ昨今。

 

国会等で上っ面の空虚な言葉を並べ立て個人攻撃など枝葉末節に拘っている彼らは、非常時に勇気ある決断を下した3人の医師たちの行動を見習うべきでしょう。

 

そして20年以上経過したということは、この事件を全く知らない若者が成人になる・・・いや、実質的には現在30歳未満の若者には殆ど実感がないはず。

昨年、当該事件に関わった教祖・実行犯らがの死刑執行されましたが、これによって未曽有のテロ事件を風化させることなく、私たちが彼らに語り伝えなければなりますまい。


この教団が、名前を変えて存続していることを含めて・・・。

 

最後になりましたが、この事件で不運にも尊い命を奪われた犠牲者の皆様のご冥福と、今なお後遺症に苦しんでいらっしゃる多くの被害者の一刻も早いご回復を、心よりご祈念申し上げます。

 

 

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とかく強烈な個性を放つ創業者の2代目には大人しいタイプが多く、先代が築いた企業を成長させる事例は少ないですが、この方は例外と言えましょうか?

むしろ先代の手法を踏襲するどころか、ほぼ路線変更してなおかつ規模拡大に成功したのが、


  五 島  昇   

今日は、元東急電鉄の社長・会長として東急グループを牽引した、この名経営者の命日・没後30周年にあたります。

 

        

 

五島氏は、東京急行電鉄の創業者・五島慶太氏の長男として1916(大正5)年に東京・神田で生まれました。

学習院の初・中・高等科を経て東京帝大経済学部に進学。

 

野球部ではキャッチャーとして活躍したものの、チームが弱すぎたことから見切りをつけて1年で退部。

その後ゴルフ部に入ると、同部を連戦連勝に導くスポーツ万能選手でした。

 

1940年に大学を卒業後、父親に反発して東京芝浦電気に入社したのは、同社副社長とゴルフをしたことが縁だったそうな。
 

しかし戦時中陸軍大尉として従軍した昇氏は、慶太氏の後を継ぐはずだった弟・進氏がソロモン諸島で戦死したことで、終戦後は東京急行電鉄に入社。

当時激化していた組合活動に巻き込まれぬよう東急横浜製作所(現・総合車両製作所)に移籍。

その翌年に日立製作所の創業者にして政友会の総裁も務めた大物・久原房之助の娘・久美子さんと結婚した彼は、その後京浜急行電鉄の取締役に。

 

そして東京急行電鉄に戻り、父親の意向で不承不承副社長になった昇氏は反発しゴルフ三昧の日々を送りましたが、公職追放されていた父・慶太氏が東京急行電鉄の会長に復帰した2年後の1954年に、37歳で同社々長に就任・・・まさに〝反骨のプリンス〟と言えましょうか。

 

しかし彼は、かつて〝強盗慶太〟と異名を取った父・慶太氏の強引な経営手法を踏襲しませんでした。

 

慶太氏が1959年に逝去すると、その直前まで無理な事業拡大を目指して激しい企業間紛争となっていた東洋精糖の買収交渉から即時撤退を断行。

また先代の肝入りだった傘下の自動車製造会社・東急くろがね工業を整理し日産自動車に売却、また1964年に東映をグループから分離。

一方で、それと相前後して1956年に東急観光 (現・トップツアー)、1961年に東急エージェンシーを設立。


1967年に東急百貨店本店を開店すると、その翌年には東急ホテルチェーンを設立。

そして1978年には東急ハンズ開店と、グループを再編し田園都市線開発など鉄道に関連性の高い事業への転換を目指した積極的な多角化・安定経営に乗り出しました。

更に長い年月と多額の資金を投入してハワイのリゾート開発に成功するなど、
先代をワンマンの織田信長とするなら、昇氏は豪胆な信長と我慢強い家康を足して2で割ったようなタイプだったのかも。


でもそのカリスマ性は、先代と比べても遜色はなかったようです。

※現在も使用されている東急グルーブのロゴは、1973
年に東京急行電鉄創立50周年を期して制定されたもの。

 

       

中央の楕円は地球を表し、内部白抜き部分はTOKYUの〝T〟を図案化したもので、3本の弧は楕円とともに東急グループの当時の4事業部門を指しているそうな。

現在東急グループは傘下に約220社を数えています。

先代のような同族ワンマン経営を目指さず、外部資本を受け入れて近代的経営に転換した五島氏は、財界活動にも積極的に関与。

永野重雄・日本商工会議所会頭から目をかけられて、1973年に副会頭に就任。

 

1984年に永野氏の後任として会頭に就任しました。

また政界においても中曽根康弘氏のブレーン・後援者として活躍したことも知られています。

日商会頭を辞任した1987年の12月に東京急行電鉄会長に就任した五島氏が72歳でこの世を去ったのは、1989(平成元)年3月20日のことでした。

他の大物実業家・経営者と違って自著を残しておらず、唯一といって良い日経新聞の『私の履歴書』執筆中に逝去された五島氏に関して詳しく知りたい方には、こちらをオススメします。


 『ビッグボーイの生涯 五島昇その人』 

             (城山三郎・著 講談社文庫・刊)

 

       

 

サラリーマンや経営者だけでなく、普段よく東急百貨店や東急ハンズを利用する女性も、是非ご一読を!

あらためて多角化・急成長に成功した2代目経営者のご冥福をお祈り致します。
笑3

 

 

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