ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

一発屋といわれる若手芸人が、次々と登場しては消えていくお笑いの世界。

 

そんな新陳代謝の激しい業界の中にあって、長らく続いている人気番組、

 

 『 笑 点 』

 

の第1回が放送されたのは、今からちょうど60年前の今日・1966(昭和41)年5月15日のことでした。


もともと毎月第2・4金曜日の夜10時30分から放映されていた『金曜夜席』という人気番組を、スポンサーからの「視聴率の取れる番組を」という要望で現在の日曜午後5時30分にシフトし、名前を『笑点』に変えたのが始まり。


この命名については、当時人気を博していたTVドラマ『氷点』をモジッたものだとか。


また別の説としては大スポンサーであったサントリーのPR誌に掲載されていた一コマ漫画のタイトル『笑点』から取ったとも。


いずれにしても採用したのは金曜夜席の仕掛け人であり『笑点』の初代司会者だった七代目・立川談志師匠だったそうですから、現在でも時に20%超の視聴率を取るというこのオバケ番組を放送する日テレ幹部は談志師匠のお墓に足を向けて寝られません。


またこの番組は、最初からカラー放送だったとか。


大喜利メンバーの衣装が皆派手な原色で色違いなのは、その色彩チェックの必要があったからなんですって。 

 

つまり出演者は生きたテストパターン・・・妙に納得します。 

 

   

 

司会は初代・立川談志師匠(1968~69)から前田武彦(1969~70)→三波伸介(1970~82)→5代目・三遊亭圓楽(1983~2006)→桂歌丸(2006~)→春風亭昇太と続いていますが、当番組の目玉は、何といっても番組後半に毎週行われている『大喜利』でしょう。


大喜利という出し物は以前から寄席で行われており、スベッた答えだと顔に墨を塗るなどしていたそうですが、現在のように座布団を重ねたり取ったりする方法を考えたのも、談志師匠だったそうな。


江戸時代、牢名主が畳を重ねた上に座ってその地位を誇示していたことをヒントに考え出したとのこと。

 

その座布団も、特注品。


67cm×77cmという特大サイズで、中に小さな座布団が入れられ中綿も通常の座布団の倍近く、重さは一枚4kgあるといいますから、相当に重いモノ。

 

だからこそ10枚重ねて人が座っても大丈夫・・・子供の頃、真似して家の座布団を重ねて座ろうとしてもダメだったのは、当たり前だったんですネ。

 

そして6人の師匠がそれぞれの個性を生かした回答をするのですが、これが安心して見ていられるのも人気の秘訣かと。

 

しかし、その答え・・・実は、というか多くの方がお気付きの通り、最初から台本があるんですって。😣
 

複数の放送作家が、事前に与えられたお題の答えを考えているのだとか。

 

確かにいくら真打ちの落語家が揃っているとはいえ、ああスラスラと答えが出てくるわけないですものネ。

 

でもプロレスと同じで出来レースだと分かっていても十分楽しめるのだから、それでいいのかも。

 

これからも日曜日の夕方、各家庭に健康的なお笑いを届け続けて欲しいです。

 

あっ、それから余談ですが・・・現在座布団運びをしている山田隆夫さん。(6代目 1984年~)

 

(ずうとるびのメンバーが何でこんなことやってるんだ?)

 

と私は不思議だったんですが、元々彼はこの番組のチビッ子大喜利で座布団10枚を獲得し、それがキッカケでテレビデビュー・バンド結成したんですって。

 

ってことは、この番組に恩返ししているんですネ、彼は。

 

しかし座布団10枚取った実績がある割に、彼の小噺はスベることが多いですけど。😅

 

 

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かつて昭和天皇が崩御され、元号変更の記者会見で「新しい元号は『平成』であります」と額を手に発表したことから〝平成おじさん〟と呼ばれた官房長官・・・といえば、

 小渕 恵三 

であったことは、多くの方が記憶されていることでしょう。

今日は、後に第84代内閣総理大臣となったこの政治家の命日・二十七回忌にあたります。     

       平成

 

小渕氏が自民党総裁選立候補して激しい選挙戦を戦った際、ライバルの梶山静六氏を〝軍人〟、小泉純一郎氏を〝変人〟そして小渕氏を〝凡人〟と田中真紀子氏が揶揄しましたが、私は決して小渕氏は凡人だったとは思いません。

むしろ政治家としては世襲議員でありながら実に強かで忍耐強い徳川家康タイプのやり手だった、と評価しています。

小渕氏はの1937(昭和12)年、衆議院議員の小渕光平氏の二男として群馬県吾妻郡中之条町に生まれました。

その父の勧めで地元の小学校から学習院初等科に編入。

 

しかし田舎育ちだった彼は都会暮らしに馴染めず、クラスメートから〝群馬〟とからかわれていたそうな。

都立北高から2浪して早稲田大学に進学したものの、在学中に父

・光平氏が急逝。

その時恵三氏はまだ23歳だったため被選挙権がなく、支援者は急遽元参議院議員の伊能芳雄氏を後継者として立候補させましたが落選。

しかしこの落選が、結果的に小渕氏を国会に送り出す下地になりました。

 

早大大学院在学中だった1963(昭和38)年、衆院選に旧・群馬3区から自民党公認で立候補し26歳で初当選。

同選挙区は福田赳夫・中曽根康弘両氏の地盤であり、社会党書記長にもなった山口鶴男氏とも戦わねばならない超激戦区。

小渕氏は自らを〝ビルの谷間のラーメン屋〟と自嘲気味に例えていましたが、以後12回連続当選を果たしたのですからご立派。

自民党内では佐藤派→田中派→竹下派と保守本流の派閥に属して汗をかき、渡部恒三・橋本竜太郎両氏らと〝竹下派七奉行〟に列せられ、着々と力をつけました。

1979年、第2次大平内閣で沖縄開発庁長官として初入閣。

 

1987年に竹下内閣の官房長官に任命されたことで、冒頭の〝平成おじさん〟となり、1991年には自民党幹事長に就任。

その後竹下派を引き継いで小渕派の領袖となると、1997年の第2次橋本内閣で外務大臣に就任。

外務省の反対を押し切って対人地雷全面禁止条約を締結するなどの働きが評価され、後の総理大臣就任の道筋をつけたといわれています。

その橋本総理が、消費税増税の反動により参院選で大敗北を喫し辞任。

 

次期総裁選で〝凡人〟小渕氏が当選し総理大臣の椅子に座ったものの、参院では野党に過半数を握られたこともあり当初は低支持率でのスタートでした。

就任直後にはニューヨーク・タイムズに〝冷めたピザほどの魅力しかない〟と揶揄され、タイム誌の表紙にはそれを皮肉った写真も掲載されました。

 

       

しかし小渕氏は、その穏やかな外見・イメージとは違って中々の策士。 会見では、

「レンジでチンすれば温かくなる。 皆さんもホットでクイックな小渕ブランドのピザを売ったらどうですか?」


と切り返して外国人記者にピザを配りましたし。

 

そして師匠・田中角栄氏の教え・・・〝権力を握るためには味方を作るより敵を減らすこと〟を実践する如く、実にこまめな行動を取りました。

その最たる例が、〝ブッチホン〟。

政財界に限らず、とにかく様々な業界の人々に電話をかけまくったことは、つとに有名。

そりゃあ誰だって時の総理大臣から丁重な電話をいただけば感激するというもの。

もちろん私にかかってはきませんでしたが、21世紀に入ったばかりの2000年正月早々、観ていたTV番組『ズームイン!!朝!』の生放送中スタジオに突然かかってきて、司会の福澤朗アナが狼狽するのを目撃し、

(なるほど、これが噂のブッチホンかァ~)

と感心したことは、今でも憶えています。

そして飄々としたイメージとは裏腹に、在任期間中には周辺事態法・通信傍受法・国旗国歌法など長年の懸案を一気に片付け、金融不安に終止符を打つなど経済の舵取りも堅調。

公明党との連携を始めたことに批判はあるものの、総理在任期間中の働きは高く評価されるべきだと思います。

 

しかしそんな小渕総理を襲ったのは、病魔でした。


2000(平成12)年4月2日に脳梗塞を発症し順天堂大学附属病院に緊急入院・・・そのまま昏睡状態が続いた末、5月14日に62歳で逝去。


入院した病院・死因とも、奇しくも父・光平氏と同じでした。


志半ばでこの世を去った父の地盤を引き継いだのは次女・小渕優子氏ですが、2014年に政治資金問題の発覚により就任後僅か1ヶ月余りで経済産業大臣の辞任に追い込まれました。

それでも近年彼女の名が総理候補として(反日左翼)メディアに取り上げられますが、個人的には彼女に国の舵取りをする力量はないと思っているんですけどネ。

それはともかく、〝非凡なる凡人〟だった平成のおじさんのご冥福をあらためてお祈り致します。🙏

 

 

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戦後直後の日本は、食糧難と混乱の極みで治安が乱れました。

そんな中人々が生活のために食料や衣料品を手に入れた場所が、闇市。

その最大規模のものが、東京・上野の〝アメヤ横丁〟(↓)ですが、もちろんそれは当時全国あらゆる場所に立ち上げられていました。

 

 

その闇市に絡み、ちょうど今から80年前の今日・1946(昭和21)年5月13日に九州で起きたのが、

 長崎警察署襲撃事件

当時長崎市西浜町にあった長崎自由市場ではご多分に漏れず違反のヤミ物資が公然と売られており、トラブルが頻発。

 

市民からの苦情もあり、長崎警察部は不正一掃を決断。

 

5月13日午前10時半に警官隊280人が市場に立ち入って一斉取り締まりを挙行し、日本人150人・朝鮮人26人・支那人6人を検挙。

彼らをトラックに乗せて警察署に連行しました。

 

しかしその直後、在日本朝鮮人連盟や支那人団体が警察署に押しかけ、即時釈放を要求。

これに対し警察署長は 「取調べ前に釈放することはできない」 と拒否。

それは当然の措置・・・なのですが、約100名は納得せず。

 

同日午後2時半頃から警察署に石やレンガを投げ込んだりバットや鉄棒を手に署内に乱入し、居合わせた警察官に襲いかかったのです。

結果、23歳の花岡寅吉巡査が死亡。 
頭蓋骨骨折の重傷を含め負傷者10名を出しました。
     
      
          
殉職した花岡巡査    


警察だけで対処できず、占領軍(MP)の力を借りて何とか暴動は鎮圧。

検挙された主要人物26名が長崎地裁に起訴され、それぞれに1~15年の懲役刑や罰金刑が科されました。


この事件は今後の日本に警鐘を鳴らしている・・・というか多くの示唆に富んでいる、と私は思うのです。

まず警戒すべきは、反日国家たる支那・朝鮮人たちの行動。

 

彼らは武器を手に徒党を組んで警察署を襲いましたが、皆さんは日本人が同じことをするなんて想像できますか?

 

暴力団でさえ警察署に乱入なんて無謀なことはしないでしょうし

現にこの時も日本人は襲撃に加わっていません。

彼らは日本人には考えられない行動を平気で起こすのです。

当時の背景として、この事件の2ヶ月程前に拳銃が支給されていたものの実際に実弾を撃ったことがない警官ばかりだったことが挙げられます。

それを見透かされナメられていたことも、襲撃のキッカケになった・・・つまり彼らは、警察官が自分たちに対抗する力がないと知って襲ってきたのです。

それは過去に尖閣諸島海域で海上保安庁の巡視船に漁船がぶつかってきたことに通じるものが。

また2008(平成20)年に北京五輪の聖火リレーが我が故郷

・長野にやってきた際、市内の至る所で突然林立した大量の五星紅旗もその一例。

 

   

マスゴミが殆ど報じなかったその酷い実態・混乱ぶりを、(↓)の動画でご覧いただけます。

 

 

彼らはひとたび号令がかかれば、約4,000人の留学生を東京などから動員できる組織力を持っているのです。

そしてこの時の長野県警は、殆ど為されるがまま(・・・というか、当時の媚中・福田総理が彼らに手出ししないよう命じていたとか)。

しかも支那は2010年に『国防動員法』を制定し、国内はおろか国外在住の支那人に指導部の命令一下で行動を起こす義務を課していますから、いつ何が起きても不思議ではない状況。

長野での騒動は、この法案成立前の予行演習だったともいわれていますが、それをどれだけの日本人が認識しているでしょうか?

現在、尖閣諸島海域では支那船舶の領海侵犯が頻発しています。

 

これに対しインドネシアのように領海侵犯した漁船を爆破したような毅然たる対応を講じなければ、彼らは徐々にその頻度を増しかつ距離を詰め、遠からず南沙諸島の如く強引に海上基地建設を始めるかもしれません。

 

これ以上彼らの増長を許すのは決して日本のためになりません。

80年前に長崎で起きた事件が今後とも国内・・・いや、外交上でも起こる可能性が十分あることを、我々日本人は心しなければならないでしょう。



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性差別撤廃の流れの中、現在この呼称は使われなくなりましたが

・・・皆さんは〝看護婦〟といえば、誰をイメージしますか?

 

私を含め多くの方が、真っ先に彼女の名を思い浮かべることでしょう。

 

 フローレンス・ナイチンゲール 女史

      Florence Nightingale

 

今日・5月12日は、〝戦場の天使〟といわれた彼女の記念日・ナイチンゲールの日なのだそうな。

 

彼女は看護婦のシンボル的存在ですが、実際には一看護婦というだけでなく、教育者・統計学者、そして実業家としての力量を持つ実に多才な女性でした。

 

     

 

彼女は1820年5月12日に、裕福なイギリス家庭の次女として両親の新婚旅行中にフィレンツェで生まれました。

そう、記念日は彼女の誕生日に合わせて制定されました。

 

幼少時から非常に高度な教育を受け、フランス語・ギリシャ語・イタリア語などの外国語や哲学・数学・歴史、更には美術や音楽

・文学など幅広く学びます。

 

そんな彼女の運命を決定付ける出来事が、17歳の時に起こりました。

 

「私のところに来て奉仕をなさい」という〝天の声〟を聞いたのです。

 

そして24歳の時、「病院で病気やケガをした人の世話をしたい」と言い出すや従兄からの求婚を断って近所の病院に入り、看護の勉強を開始。

 

(彼女は生涯に3回プロポーズされたそうですが、〝天の声〟が実行できないという理由で全て断り、しかも3人目の相手を姉に譲ってしまいます。)

 

その後ドイツの看護学校で学びロンドンの病院で無給の看護活動を続けていたナイチンゲールは、以前ローマに旅行した際に知り合ったシドニー・ハーバード戦時大臣からクリミア戦争の従軍看護を依頼され、シスター・看護婦38名を連れて最前線へ。

 

現場で官僚縦割り組織の弊害に苦しめられつつも、戦地病院の看護総責任者となった彼女は献身的な看護と院内の衛生状態を改善することにより、当初42%だった死亡率を5%にまで劇的に下げることに成功。


兵士達からは〝クリミアの天使〟と呼ばれ、絶賛されました。

 

そして彼女の高い能力はこの戦争が終わった後、一段と発揮されることに。

 

帰国すると各病院のデータを収集し、それを自ら発案したグラフにまとめるなどして統計資料を作成。

これが後の保健制度や軍の組織改革に役立ったといわれます。

 

彼女はこの手法の考案者として後に英国統計学会の会員に、更には米国統計学会の名誉会員にもなりました。

 

また戦時中立ち上げたナイチンゲール基金を元に看護学校を設立するとその運営にも関わり、イギリスの看護婦養成体制の基礎をも築きました。

   

 

〝戦場の天使〟といわれた彼女ですが、実際に従軍看護婦として活動したのは2年間のみ。

現場での看護活動より、むしろ国や軍を相手に渡り合って国家規模での看護体制づくりに貢献した立役者だったといえましょう。

 

しかし彼女自身は従軍看護活動の際に罹った熱病が原因で37歳の時から闘病生活を送り、80歳過ぎには失明しています。

 

自らの不遇をものともせず〝神の声〟を忠実に実行し続け、1910年8月13日・・・まさに〝天使〟となって天国に旅立った彼女のご冥福をお祈り致します。🙏

最後に、貴重な彼女の肉声をこちらでお聴きください。


 

When I am no longer even a memory,  just a name,  I hope my voice may perpetuate the great work of my life. God bless my dear old comrades at Balaclava,  and bring them safe to shore.  Florence Nightingale.


私が人々の記憶から消え、ただ名前だけが残った時、私の声が私の人生での偉大なる功績を永遠のものにしてくれることを望みます。
 

バラクラバ(※彼女が従軍したクリミア戦争に於いて、1854年10月にイギリスとロシアが交戦した東欧の地名)の同士達に幸あれ。
 

そして彼らが無事家に帰れますように。 

     

           フローレンス・ナイチンゲール

 


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今から87年前の今日・・・学校では教えないであろう、大東亜戦争の序章ともいうべき

 ノモンハン事件

が勃発しました。

〝事件〟とは言うものの、実際にはモンゴル国境地域で起きた、日本軍(関東軍)と(モンゴル軍を支援する)ソ連軍の歴とした戦闘・紛争でした。

 

   

 

もともとモンゴルと中華民国との間で国境線は協定されていたのですが、1932年に成立させた満州国は、そのノモンハン地域の国境線を従来より10~20km程南方のハルハ河にする旨を主張。
 

  

  青 モンゴルが主張する国境線  赤 日本軍が主張する国境線


 ※満州国に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

 

日本とソ連とは、それ以前から国境紛争が起きており、1938年7月には、張鼓峰で両軍の大規模な衝突が発生していました。

そしてこのノモンハンでの国境問題に、1934年にモンゴルと軍事同盟を結んでいたソ連軍が口も手も出す形になったのです。

1939年5月11日、係争地でパトロールを行っていた満州国軍とモンゴル軍が交戦となり、その後日本軍(関東軍)とソ連軍双方が集結して、代理戦争が勃発。

5月11~31日と8月20日から停戦合意に至る9月15日まで、民間人が誰も住んでいない大草原で2回に分けて大規模な戦闘が行われました。

広大な草原を戦場とした陸軍機甲部隊同士の対戦となりましたが

、戦車など近代的な装備を整え兵力でも日本軍を圧倒していたソ連軍に、日本軍は大苦戦。

 

    

            ソ連軍の戦車


停戦に至ったのは、ナチス・ドイツとの密約によってポーランド侵攻を目論んでいたソ連がノモンハンとの二局戦を嫌ったから

・・・と戦後長年言われてきました。

その後も関東軍は再度ソ連軍との戦闘を目論んでいたようですが

、停戦直前の9月1日にドイツがポーランド侵攻を開始して第二次世界大戦が始まったことで国際情勢が緊迫したため、参謀本部からの強い中止命令によって再戦は(幸いにも)実現しませんでした。


しかし1990年のソ連崩壊以降に同国の機密文書が公開されると、戦後日本軍が大敗したといわれてきたこの事件について、事実は大分違っていたことが判明。

確かに装備はソ連軍の方が上であり、総兵力は日本軍約58,000名に対しソ連軍約69,000名。(これに加えてモンゴル軍8,500名)

弾薬もソ連軍が豊富なのに対し日本軍は常時不足する中、無駄弾は撃たず一発必中を心がけ、夜襲をかけるなど銃剣を用いた接近戦で相手を倒すという前時代的な作戦ながら、戦死者は日本軍8,440名に対し、ソ連軍はそれを上回る9,703名。

 

ソ連軍の戦車に対し、日本兵はすぐ近くまで接近して火炎瓶を投げつけて燃やしたというのですから、勇猛果敢というか無謀というか・・・。

 

   

         ソ連軍に対峙する日本軍の兵士たち


喪失した戦車は日本軍が92輌中40輌に対しソ連軍は戦車・装甲車823輌中約400輌、失った航空機は日本軍約160機に対しソ連軍約360機と、むしろ損害はソ連軍の方が大きかったとも言えます。

しかしだからと言って、日本軍が勝利したわけではありません。

 

国境線はモンゴル側が主張するラインに押し戻されましたから。

この戦闘で、日本軍は装備・兵器近代化の必要性を痛感したはず

・・・なのですが、残念ながらその体質は変わらず。

事件を隠蔽して現場責任者を左遷させ、その後も(物資不足もあるとはいえ)兵器の開発を怠り、戦法は相変わらずの肉弾戦と精神論に終始して大東亜戦争へと突き進んだのは、ご存知の通り。

同事件を詳しく知りたい方には(↓)のご一読をお勧めします。


 『はじめてのノモンハン事件』 

            (森山康平・著 PHP新書・刊)
 

     

 

左翼的(日本軍に批判的)な記述が若干鼻につきますが、この事件について分かりやすく説明・分析されています。

 

さて最後にこの戦闘における指揮官をご紹介します。 それは、

 辻 政信 少佐

 

1902(明治35)年に石川県に生まれた彼は、陸軍幼年学校

・陸軍士官学校とも主席で卒業した秀才。

大東亜戦争中はマレー作戦・ガダルカナル島戦などの参謀を務め、最終的に大佐まで昇進し〝作戦の神様〟と言われました。

 

     
 

しかし一方で(自信過剰から)指揮系統を無視して独善的に行動した参謀としても有名。

参謀本部が圧倒的な兵力・軍事力を有するソ連軍と正面衝突を避けようと再三自重を促したにもかかわらず、報復を名目に独断で戦闘を継続したのも頷けます。

そればかりか、失敗の責任を部下に擦り付け自決を強要したことでも知られる人物。

ノモンハン事件の時もご同様でしたが、彼自身は作戦失敗の責任を取らされて左遷されたものの終戦まで生き残ります。

そして戦後は数年間隠遁生活を続けた後、突然戦記を上梓するとそれがベストセラーに。

有名になったことから政治家に転身し、衆議院議員4期・参議院議員1期を務めました。


しかしその参議院議員在任中に視察先のラオスで失踪し、1968年に死亡宣告を出されるという数奇な人生を歩みました。

もしかしたら彼に自決させられた部下たちの怨念が・・・。😰


ただし、そんな彼が自らのノモンハン戦記の中で記しているこの部分に、私は共感します。

『(敵の)不拡大を欲せば、侵犯の初動に於いて徹底的に殲滅することが必要であり、我が譲歩で満足するような良心的な相手ではない。
 

日英会談を効果的ならしめる方法は寧ろ不言実行の威力である。

 

万一ノモンハンで明瞭な敵の挑戦を黙視せば、必ずや第二・第三のノモンハン事件が(中略)続発し、遂に全面戦争に至る虞(おそれ)なしとしない。』

敵をソ連だけではなく支那・朝鮮に、そして関東軍を外務省に置き換えれば、彼の警告は現代にも通用すると思いませんか?

 

 

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毎年、今日・5月11日から(10月15日まで)岐阜県で始まる夏の風物詩といえば、長良川の

 

 鵜 飼 い 

 

烏帽子に腰蓑という伝統的な装束に身を固めた鵜匠が数匹の鵜を操り、船の舳先にぶら下げられた篝火に寄ってくるアユを捕えるというこの漁法に関しては『日本書紀』や『古事記』に鵜飼漁の記述があるそうですから、少なくとも1,300年以上前から続いていることになります。

 

とは言え鵜一羽で一度に1匹しか捕まえられないわけですから、純粋な漁業としては効率は大変悪く、過去に何度か衰退・消滅の危機に瀕したようです。

 

しかし時々の権力者はこの伝統漁を好み、織田信長が鵜飼いに〝鵜匠〟という鷹匠と同等の地位を与え鵜匠1戸につき禄米10俵を与えたり、徳川家康が度々岐阜を訪れては鵜飼い漁を見物・保護し、鮎鮨を江戸に運ばせるなどして保護したのだそうな。

 

また松尾芭蕉が

 

〝おもしろうて やがて悲しき 鵜舟哉(かな)〟

 

という句を残したり、喜劇俳優チャールズ・チャップリンも絶賛したといわれますから、今や鵜飼いはアユ漁というより伝統行事というべきかもしれません。            


     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

※長良川の鵜飼いHPは、こちら。(↓)

 

 

さて、この鵜飼い・・・呑み込んだ魚を鵜がどうして胃袋に入れずに吐き出せるのか、ご存知でしょうか?

 

実は鵜のノドに紐が巻かれていて、一定以上の大きさの鮎が飲み込めないようにしてあるんですって。

 

ですから鵜は一生懸命大きな鮎を捕まえても胃袋に収めることが出来ず、小さな獲物だけしか食べられない・・・というわけ。

 

これを聞くと、私ら亭主族は何だか身につまされませんか?😰

 

毎日一生懸命働いても給料は銀行振り込み。 

そしてその中から僅かなお小遣いを妻から与えられるだけ。

 

しかも首には縄をつけられて勝手な行動は許されない・・・まるで鵜そのものではないですか。😣

 

そう思うと、芭蕉の句は心に一層沁み入りますねェ。

 

鵜たちょ・・・お互い、頑張ろうナ! 

 

 

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15歳の息子が志を抱いて上京する、その時・・・駅での別れしなに、母は言ってきかせた。

 

「世の中には働いてから休む人と、休んでから働く人がいる。

お前は働いてから休む人になりなさい。

 

お前が人並みにお金を稼げる人間になって、人様にお金を貸したら、そのことは忘れなさい。

 

だけど、借りたお金は絶対に忘れるな。

約束した日に必ず返しなさい。

 

悪いことをしないと食べていけなくなったら、いつでも帰ってきなさい。

 

ここはお前の家だ。」

 

               

 

少年はその後苦労を重ねつつ実業界から政界に転進、メキメキ頭角を現していく。

 

あるイギリス人ジャーナリストが、この大物政治家の取材で彼の故郷を訪れると、まだ元気だった母親がこう言ったとか。

 

「先生、おら家の息子は東京で何か悪い事をしているんじゃござんせんか?」

 

嗚呼、母親はいくつになっても子供の身を案じている・・・このジャーナリストには、終生忘れられない言葉になったという。

 

そして上京して38年の月日が流れ、息子は総裁選に立候補。

 

自宅に駆けつけた多くの支援者たちが固唾を呑んでテレビに見入る中、見事に彼は当選を果たす。

 

立ち上がって手を上げ、万来の拍手に応える息子の額は汗びっしょり。

 

羽織り紋付姿でテレビの前に正座していた母は、その様子を見ると袂から日本手拭を取り出し、ブラウン管に映る我が子の額を拭き始めた。

     

 

部屋中に溢れた人々は、思わず笑い出した。

 

しかしその無遠慮な笑いは、やがて忍び泣き・すすり泣きに変わったという。

 

母の名は、田中フメ。

 

そして息子の名は、言わずと知れた田中角栄。

上の写真は青雲の志に満ち溢れた田中青年、17歳の時のもの。

 

今日は、5月第2日曜日・・・母の日です。カーネーション


 

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             ※参考文献 『男たちの履歴書』(早坂茂三・著)

どんなに実力のあるプロゴルファーでも、自分でバッグを担ぎながら一人でラウンドしていては、勝てません。

キャディーという相棒が絶対に必要です。

同様に8,000メートル級のヒマラヤ山脈登頂を目指す登山家にも、絶対にパートナーが必要・・・それが、重い装備・荷物を運んでくれる〝シェルパ〟。

今日は、その中でも最も有名な・・・即ち世界で初めて最高峰のエベレストに登頂したシェルパ、


 テンジン・ノルゲイ

   Tenzing Norgay

 

の命日・没後40周年にあたります。

 

      

 

シェルパとは、一般的にヒマラヤ登山隊の荷揚げや道案内に従事する人を指しますが、もともとはシェルパ族という民族の名前。

彼らはヒマラヤ地方を中心にインド・中国・ネパールなどを行き来し交易によって生計を立ててきた民族であり、国境という概念を持たず、国籍もパスポートも所持していないとか。

標高3,000m以上の高地に居住しているため心肺機能に優れ

、当然ヒマラヤの地理・天候に詳しく腕力・脚力・忍耐力に優れていますから、各国の登山隊が彼らに頼るようになったのは当然のこと。


ただテンジンはシェルパ族ではなく、1914年にマカル山近くのツァ・チュという所に13人兄弟(内8人は夭折)の11番目として生まれたチベット人でした。


農奴としての生活は貧しくかつ厳しかったため、一家はネパールのクンプ地方に移住。

そこでインドのダージリンでヒマラヤを目指す登山隊が荷役やガイドを探しており、その仕事の稼ぎが良いという噂話を耳にした彼は、近所に住むシェルパ族の娘と恋に落ち、駆け落ち同然でダージリンへ。


しかし登山経験もなく英語を喋れない彼が仕事にありつけるはずもなし。

ところが1935年、イギリスの有名な登山家エリック・シプトンがエベレスト調査隊を編成しシェルパを募集した際、経歴を記録した証明書や推薦状を一切持っていない彼を採用したのです。

ド素人のテンジンが合格した理由・・・それは、面接したシプトンが、彼の〝笑顔〟に魅了されたからでした。

過酷な登山では、その笑顔も強力な武器になる、という判断だったのかもしれませんが、採用された彼の働きはシプトンの予想を遥かに超えるものでした。

翌年シプトン率いるエベレスト登山隊に選ばれ、また1947年にはカナダ隊にも同行・・・両隊とも登頂には失敗しましたが、テンジンにとっては貴重な体験に。

そして1950年に鎖国状態だったネパールがエベレスト登山隊の受け入れを開始したことが、大きな幸運をもたらすことに。

1952年にスイス隊に同行し、頂上まであと237mまで迫ったテンジンは、その翌年にイギリス隊からの要請を受けて参加。

同隊は登頂を目指す第一陣としてイギリス人のチャールズ・エヴァンスとトム・ボーディロンの2人にアタックさせますが、あえなく失敗。

そして次に挑戦したのが、ニュージーランド人のヒラリーとテンジンだったのです。

   

         ヒラリー(左)とテンジン

 

経験不足ながらも192cmの体躯を誇る若いヒラリー(↓)と、身長177cmと小柄ながら経験豊富なテンジンの凸凹コンビは、5月29日に見事世界初の登頂に成功。

 

 

後に「どちらが先に登頂したのか?」が世間に注目されましたが

、2人とも「同時だった」と回答・・・実に山男らしい友情溢れるエピソードです。

一気に有名人になったテンジンは、世界から引っ張りだこ・・・しかしパスポートを所持していなかった彼は、出国するにも一苦労だったとか。

1963(昭和38)年には外務省の招きで来日、自分の名前が〝天神〟だと知って大変喜んだそうな。😊


しかし、インド政府が創設した登山学校の講師に就任し58歳で定年を迎えた後の彼の人生は、決して恵まれていたとは言えませんでした。

知人の紹介で登山専門の観光会社に就職できましたが、会社は彼のネームバリューが欲しかっただけ。

彼は山に登ったりガイドをすることもなく、ただデスクワークの日々。

平地に降りた山男は、陸に上がった河童の如し・・・しまいに彼は鬱病に罹ったといわれています。

そして1986年5月9日、72歳で突然この世を去ってしまいました。

本当は彼、有名になるよりずっと山に登っていたかったのかも。

笑顔で世界最高峰を制したシェルパのご冥福を、あらためてお祈り致します。🙏

 

 

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戦後の自虐教育では、大東亜戦争前後の史実や人間的に私たちの規範となる優秀な日本人に関して殆ど教えていません。


そしてそれは軍人に限らず民間人に関しても同じこと。

 

今日は、是非皆様から子々孫々にその存在と偉業を語り継いでいただきたい人物をご紹介致しましょう。 その方の名は、


   はった   よいち
  八田 與一 

 

今日は、日本の教科書には載っていなくとも、現在でも台湾の中学生用教科書にその偉業が詳しく記載されており、同国の人々が親日である大きな要因となっている、この土木技師の命日にあたります。

 

     

八田氏は1886(明治19)年に現在の石川県金沢市に豪農の五男として生まれました。

 

頭脳明晰かつ海外での活躍を夢見ていた彼は、東京帝国大学工学部を卒業後台湾総督府の内務局土木科にエンジニアとして就職。

 

そこで上下水道整備や発電・潅漑事業に携わると、弱冠28歳の若さで桃園大圳(たいしゅう)という灌漑設備を完成させ、評価を高めます。

 

31歳の時に地元・金沢の県議の娘さんと結婚した彼は1918年、台湾南部に位置する嘉南平野の灌漑設備工事に着手。

 

香川県の面積に匹敵する15万ヘクタールという広大な潅漑面積をカバーするため、貯水量1億5千万トンという巨大な烏山頭ダムを造るという、途方もないスケールの建白書を提出。

幸いにも理解ある上司がこれを支持し、山向こうの大きな河川からトンネルを掘って水を引き込むという壮大な土木工事は開始されました。

 

途中、トンネル内で台湾人・日本人合わせて50名以上が亡くなるという爆発事故が起き、八田氏も工事の中止を覚悟しましたが

、遺族の方々から「ここで工事を止めたら、犠牲者が浮かばれない」と言われ、一念発起。

 

その後関東大震災の影響で人員整理を余儀なくされた際も、泣く泣く解雇した従業員全員の再就職先の面倒を見たばかりか予算復活後は再び現場に呼び戻すなど、とことん部下の面倒を見たといいます。

 

そして工期10年、総工費5,400万円 (現在の貨幣価値で400億円以上) の大工事は見事完成。

『嘉南大圳』と名付けられたこの灌漑設備は、台湾に多大な大地の恵みをもたらしました。

彼の技術指導レベルの高さは、当時世界各地で建設されたセミ・ハイドロリックフィルダムのうち、現在でも稼働しているのがこの烏山頭ダムだけであることで証明されています。

   

             現在の鳥山頭ダム

 

この功績で勅任官となり、更なる開発工事に着手しようとしていた彼を、戦争による悲劇が襲います。

 

1942(昭和17)年5月8日、命令を受けて部下3名と共に現場のフィリピンに向かうべく乗り組んだ大洋丸が、米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没・・・56歳での戦死でした。

 

(※終戦直後の1945年9月には、奥さんが烏山頭ダムに投身自殺を遂げ、ご主人の後を追われています。)

 

台湾には八田氏の銅像や記念館が建てられ、歴代総統は慰霊祭に参加するなど敬意を払うことを怠っていません。

 

台湾人なら皆知っている彼の名と功績を、同じ日本人の我々が知らないことで彼らに怪訝な顔をされる・・・こんな教育で良いのでしょうか?

是非彼の生涯を綴ったこちらの書籍をお読みいただき、次世代に偉大なる先人の偉業と台湾との関りを伝えていただきたく・・。

 

『台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯

            (古川勝三・著 創風社出版・刊)

 

       

 

人種・身分など分け隔てなく人々のために尽力した敬愛すべき先人のご冥福をお祈りするとともに、彼の偉業を子供たちに教えない我が国の教育に改めて警鐘を鳴らしたいと思います。

 

 

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