ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

〝可憐な花々に囲まれた心温まるお葬式〟をモットーに、日々お客様のために頑張っております葬儀社ウォームハート・・・の社長、人呼んで「葬儀屋ナベちゃん」です。 毎日の仕事や、人・映画・書籍等との出会いの中で感じたことなどを徒然なるままに綴ってまいります。

弊社HPには、オリジナル・デザイン生花祭壇の画像を種々掲載しております。

 

    


           是非ご覧下さい! 


     URL : http://www.warmheart.jp


  生前相談・見積依頼・葬儀に関するお問い合わせは 

 

      TEL : 03-5399-7123


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            バラ 必 見 バラ


     “オリジナル生花祭壇 Episode Series


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             ダウン     ダウン     ダウン


  1.〝オ-ストラリア〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080131.html
  2.〝 電  話  機 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080208.html

  3.〝 美  術  館 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080216.html

  4.〝 外  洋  船 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080305.html
  5.〝 波      涛 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080623.html

  6.〝 White Light 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20090129.html

  7.〝 別 れ の 曲 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11159923479.html

  8.〝ゴルフコース〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11795745868.html


 



NEW !
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よくテレビニュースなどで注目される裁判の報道がなされる際、開廷前の法廷の様子が映像として流されます。

この撮影が認められるようになったのが、今から31年前の今日・1987(昭和62)年12月15日のことでした。

それまでは一切禁止されていたわけですから、ある意味進歩したともいえますが・・・この端緒となったのは、おそらくその5年前に起きた、隠し撮り騒動。

それは、あのロッキード事件の公判で、出廷していた田中角栄氏の姿を捉えたもの。

撮影に成功し掲載したのは、その半年前に創刊した写真週刊誌『FOCUS 』でした。

   

この隠し撮り写真は当時大きな話題になり、抜かれたマスコミ各社は総じて批判的でしたが、国民の多くは権威・権力に挑戦し閉鎖的な裁判制度に一矢報いた、と概ね評価。

それは、同誌の売り上げがこの写真掲載後急激に伸びたことが証明しています。

その流れに乗って、開廷前の写真撮影が認められるようになったと思うのですが、この撮影についてはその後1991年1月に定められた

 

 『法廷内カメラ取材の標準的な運用基準』

 

で、事細かく規制されているのです。 例えば・・・

 

◆ 撮影は、新聞・通信・放送各社間で話し合い、代表取材とする。

◆ 撮影機材は、1人で操作できる携帯用小型のスチールカメラ1台、

  予備用のスチールカメラ1台及びビデオカメラ1台とし、照明機材・
    録音機材・中継機材は使用不可。

◆ 撮影は裁判官の入廷開始時からとし、裁判官全員の着席後

    開廷宣告前の間の2分以内。

◆ 撮影は、刑事事件においては被告人の在廷しない状態で行う。

◆ 撮影位置は、傍聴席後部の裁判長が指定する区域内に限定。

等々・・・これじゃあ、どの裁判の映像も同じになるわけです。

はっきり言って、こんな型にはまった撮影なんか意味がないでしょう。

 

裁判は、誰でも傍聴できることが(憲法82条1項により)認められていますし、民事裁判の記録は(民事訴訟法91条1項に基づき)原則として誰でも閲覧できます。

その一方、実は公判の撮影・録音を明確に禁止した法律はないのです。

では、なぜダメなのか? 

これは裁判所法第71条2項で裁判長に法廷警察権が認められており、法廷の秩序を維持するために必要な措置を講じることが許されていて、その一環として裁判長が開廷中の撮影を認めないのです。

その理由として、「法廷内でカメラ・ビデオ撮影を行うと、原告・被告や証人が委縮して正確な供述が得られないから」だと言うのですが・・・皆さんはどう思いますか?

少なくとも私が当事者なら、密室で裁かれるよりカメラの前で堂々と自らの主張をしたいですけどネ。

以前から冤罪防止のために取り調べの可視化が求められていますが、同様に裁判も可視化すべきだ、と私は考えます。

アメリカでは既に注目される公判のテレビ生中継が当たり前のように行われていますし、原告・被告双方が了解した案件や国政に絡む重要な最高裁の公判だけでも公開すべきではないでしょうか?

そうしなければ、名前と顔と出した判決が一致しない最高裁判事の国民審査なんてやっても意味ない、と私は思いますし。

 

それでも撮影を認めないのは、裁判官(裁判所)が公判の実態を国民の目に晒すことでお粗末な審理の実態が明るみに出て、司法の威信が揺らぐことを怖れているから・・・と思われても、致し方なし!? うー
 

 

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今から45年前の今日、愛知県の一地方都市・人口約2万人強の宝飯郡小坂井町(現・豊川市)で、日本中を驚かせた出来事が起こりました。

 

 豊川信用金庫事件

 

と銘打たれたこの事件は、噂話だけで同信金・小坂井支店から1973年12月14日だけで26億円が引き出されるという、街中をパニックに陥れた大騒動だったのですが・・・この経緯が実に特異なものでした。

 

それは私が文章で説明するよりも、こちらの画像をご覧いただいた方が分かりやすいかと。(

 

 

そう、発端は女子高生の他愛無い会話から始まったのです。

更に様々な偶然やおせっかい(?)が積み重なった産物でした。

 

それにしても、噂の伝わる早さと内容の拡がり方は凄まじいばかり。

 

同信金に客を運んだタクシー運転手の証言によると、14日昼頃乗せたお客は 「同信金が危ないらしい」 と言い、14時30分に乗ったお客は 「危ない」、16時30分のお客は「潰れる」、そして夜乗せたお客は 「明日はもうシャッターは開かないだろう」。冷や汗

 

当時はATMなどありませんから、預金者たちは窓口に殺到しました。 

 

        

 

事態を重く見た信金側は、14日夕方からマスコミ各社に依頼して倒産の噂がデマであることを報道してもらい、更に翌15日には自殺したとまでう噂された理事長本人が窓口に立ったことで、ようやくパニックは収束の方向に向かいました。

 

この事件の2ヶ月前、オイルショックに絡んだトイレットペーパーの品薄騒動があったこと、更には7年前にこの街に支店があった別金融機関が倒産していたことが、住民の不安心理に拍車をかけたといわれています。

 

しかし、いずれにせよ根拠のない噂を無責任に流すと、最悪こういう事態を引き起こすことは十分認識すべきでしょう。

 

携帯もスマホもない時代でこうだったんですから、今だったら噂が広がるのは遥かに早いはず。

 

万一こういう事件に発展した場合、根拠のない噂を流した本人は信用毀損罪・業務妨害罪で逮捕され、損害賠償を請求される場合も。

 

現に2003年には佐賀県内で某金融機関が潰れるというチェーンメールを発端に約500億円の預金解約・引出し騒動が起こり、最初にメールを発信した女性が書類送検されましたから。

 

噂話を広げるのがお好きな方は、くれぐれもご注意を! うー  

 

 

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今日は、久しぶりに〝学校では教えない〟優れた日本軍人のご紹介です。

皆さんは、学校で 『義和団の乱』 を習った記憶があると思います。

それまで西欧列強による侵略を許し、日清戦争に敗れて以降さらに疲弊した清国内では、人々の不満が高まっていました。

そしてアロー号事件の際に締結された天津条約(1858年)でキリスト教の布教が認められたことにより、多くの宣教師が清国入り。


地元の風習を無視した強引な布教を行ったため、住民との衝突(仇教事件)が各地で起きるように。

そのキリスト教に対する反発と、清朝に対する不満が重なってできた抵抗団体(拳法結社)が、〝義和団〟でした。

山東省で発生した義和団の活動はやがて各地に広がり、団員の数は急速に増加。

 

彼らは外国人やキリスト教信者の同胞や彼らが経営する商店などを襲撃しながら北京へと進行。

そして本来その暴動を抑えるべき清朝(西太后)が、彼らを支持。

 

義和団と共に清国軍が北京を包囲した翌日・1900年6月21日に、英・米・露・仏・独・伊・オーストリア=ハンガリー及び日本の8ヶ国に宣戦布告したのです。

 

常識的に考えれば、各国がすぐに兵力を増強して一気に義和団・清国軍を攻撃するところですが、この時は各国とも他に戦争を抱えているなどの事情があり、十分な派兵が出来たのは露と日本のみ。

紫禁城東南の東交民巷というエリアにあった公使館区域には外国人925名・支那クリスチャン3,000名が逃げ込んでいましたが、その護衛兵は僅か500人足らず。

その圧倒的不利な状況で籠城を指揮し、連合軍が北京を奪還・制圧した8月14日まで持ちこたえさせたのが、


 柴 五郎 陸軍中佐

でした。 今日は、後に諸外国から称賛されることになるこの日本軍人の命日にあたります。

 

        

 

1860(万延元)年に会津藩士・柴佐多蔵の五男 (兄の四男・柴四朗氏は、我が国初の政治小説 『佳人之奇遇』 16巻の著者) として生まれた彼は、会津戦争によって祖母・母・兄嫁・姉妹が自刃する不幸に見舞われ、残された一家は一旦江戸に俘虜として護送された後、現在の青森県むつ市に移封。

西郷・大久保ら薩摩藩士には強烈な恨みを抱いていたそうですが、青森県庁の給仕を務めるなど苦労を重ねた末、1873年に見事陸軍幼年学校に合格。

1877年に陸軍士官学校へ進学(同期に秋山好古ら)、1884年7月に陸軍中尉に進級すると、同年10月に清国・北京に駐在。

1894年にイギリス公使館駐在武官を5ヶ月務めた後、日清戦争へ。

 

その後再びイギリス公使館附に復帰し、以後米西戦争視察で渡米するなどした後、1899年10月中佐に昇進すると、1900年3月に清公使館附に。

その僅か2ヶ月後、義和団の乱に遭遇したのです。

 

清国駐在経験が長く北京市内の地理や情勢に精通し、また英語・仏語・中国語が堪能だった柴中佐は、欧米諸国の顔を立てながらうまく陣頭指揮を執り、籠城作戦を立案・実行。

 

 

               連合軍(前から2列目・左から6人目が柴中佐)

 

現場では当初それほど注目されなかったものの、やがてその冷静な判断と統率力によって多国軍を取りまとめ、多くの人命を救った功績を称えられた柴中佐は、イギリスのヴィクトリア女王をはじめ関係各国政府から勲章を授与されました。

ロンドン・タイムスは社説で

 

「籠城中の外国人の中で日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。 日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせた。」

 

と絶賛。  〝リュウトナン・コロネル・シバ(Liutenant Colonel Shiba =柴中佐)〟の名と日本兵の優秀さを世界中に知らしめました。 

時に柴中佐、40歳。


彼の活躍は (本人にその意識はなかったものの) 日本人に対する信頼を高め、日英同盟締結の端緒に。

そして、それが結果的に日露戦争で日本が勝利を収める大きな要因になりました。

大佐に昇進した彼は、その日露戦争に砲兵連隊を率いて従軍し、大怪我を負いながらも奉天会戦を生き抜き、1919年8月には陸軍大将に昇格。

しかし親中派だったからか、あるいは会津藩の出身だったからなのか・・・明治天皇に2度も拝謁し直接金鵄勲章を親授された程の軍功を立てたにも関わらず、陸軍の要職に就けぬまま1930年に退役。

 

                 


そして日米開戦直後から 「この戦争は負ける」 と看破していた柴氏は、1945年に終戦を迎えると身辺整理をした後9月15日に割腹で自決を図るも、老齢のため失敗。

しかしその怪我が元となり、同年12月13日に85歳で病死しました。

教科書には出てこない柴中佐の前半生・・・というより青年期について詳しく知りたい方には、この書籍のご一読をお勧めします。


 『ある明治人の記録   会津人柴五郎の遺書
                    (石光真人・著 中公新書・刊)

 

       

 

柴氏が書き残した自伝(的文書)に著者がご本人にインタビューした内容を加筆したもの。

旧文体ながら、実兄と同じく文才があったであろう柴氏の〝遺書〟からは、敗残・俘虜・脱走・下僕・流浪など苦労の末に陸軍幼年学校に入り士官学校に進学するまでの壮絶な少年・青年期が読み取れます。

会津戦争の戦火により
丸焼けになった実家で、自刃した母・姉・妹の遺骨を拾った(今で言えば小学校3,4年だった)五郎少年の心中は、如何ばかりだったのか・・・。

また籠城事件を含め、柴中佐の生涯を描いた評伝としては、こちらをオススメします。
 

 『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯

                 (村上兵衛・著 光人社NF文庫・刊) 

 

       
 

これを読むと、柴中佐だけでなく陸軍兵士を含む日本人が、いかに立派な態度で戦い、各国から一目置かれる存在だったかが分かります。

 

国際的に称賛された気骨ある会津藩士・・・いや日本軍人が、如何にして形作られたのかを、この2冊が教えてくれることでしょう。

余談ですが、1963年に公開されたアメリカ映画 『北京の55日』 が
この籠城の模様を描いており、若き日の伊丹十三さんが柴中佐役を演じています。

        

 

機会があれば、ご鑑賞ください。
但し、柴中佐は主役ではありませんが・・・。

どうか皆様には、日本を救った柴五郎中佐の名を子や孫に伝えていただきたく。扇子

 

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誰にでも子供の頃読んだり、親に読んでもらった絵本や童話で記憶に残る作品があると思います。

 

私の場合は、『きかんしゃ やえもん』 と、

 

『ちびくろ・さんぼ』

 

特に後者は、赤や黄色の鮮やかな色使いの絵と、走り回るトラが溶けてバターになるという奇想天外なストーリーが今でも忘れられません。

 

元々この童話は、軍医の夫と共にインドに滞在していたスコットランド人のヘレン・バンナーマンさんが、我が子のために書いた手作りの絵本だったとか。

 

これがイギリスの出版社に紹介され1899年に発刊されたのですが、著作権がはっきりしていなかったこともあり、アメリカではストーリーや設定を変えた海賊版が横行。

 

日本で最もポピュラーであり、1953年に岩波書店から発刊され私も読んだ 『ちびくろ・さんぼ』 も、その海賊版を元にしています。

 

確かによく考えたら、アフリカにトラはいませんものネ。あせあせ

 

       ちびくろサンボ

 

しかし今からちょうど30年前の今日・1988(昭和63)年12月12日、岩波書店が突如この絵本を販売中止・絶版にすると発表したのです。

 

当時約70種類に及ぶ 『ちびくろサンボ』 が発刊されていたそうですが、それから2ヶ月弱の間に全て同様に絶版扱いされ、書店から完全に消えてしまいました。

 

その理由は、内容が 「黒人蔑視・人種差別にあたるから」 。

 

きっかけは、その年にアメリカ 『ワシントン・ポスト』 紙が日本のデパート等で使用していた黒色のマネキン人形を黒人蔑視だとする記事を掲載。

 

それを発端として 『黒人差別をなくす会』 という、両親と子供3人で立ち上げた市民団体(?)がこの本の発行元全てに廃刊を訴える手紙を出したことでした。

 

当時この本が黒人を差別していると指摘された理由は、

 

◆登場人物の〝サンボ〟という名が、奴隷の名として一般的

◆地面に落ちたバターを食べる表現が野蛮

◆169枚もホットケーキを食べるのは非常識な大食漢で、馬鹿に

  している

 

等々だったそうですが・・・個人的にはこの絵本を読んだ時、これをもって黒人を蔑視しているなどという気持ちには全くなりませんでしたけどねェ。うー

 

またこんなことで逐一イチャモンをつけていたら、『みにくいアヒルの子』 など多くの童話も廃刊する羽目になると思うのですが。

 

差別感に関しては個人差がある故これ以上は申し上げませんが、私が驚いたのは出版社の対応です。

 

岩波書店が廃刊を決定したのが、抗議文を受け取った僅か4日後だったこと。

 

同書店では既に100万部以上売っていたそうですから 「もう十分」 と思ったのかもしれませんが、表現の自由を憲法が保障しているにも関わらず、こんな簡単に絶版するとは。

 

アメリカでは、これより遥か前から同書に関して黒人差別問題が起きていますが、議論の対象になりこそすれ絶版にはなっていません。

 

他の出版社も一斉に追随した背景には、差別問題に対するマスコミの過剰な報道姿勢にあったのではないでしょうか?

 

バッシングを恐れて即座に絶版を決めた・・・これが真相のように私には思えるのです。

 

それが証拠に、その後複数の出版社から復刊され、2005年には瑞雲社から岩波書店版とほぼ同じものが出版されましたが、マスコミが取り上げられなかったせいか問題視されることもなく、5ヶ月で15万部も売れ、現在でも販売されていますから。

 

一部の先鋭的(というより左翼的)な意見をセンセーショナルに取り上げ、対象者・企業を一斉かつ一過性で叩くマスメディアの手法は、当時も今も変わっていませんネ。

 

この一連の〝ちびくろサンボ問題〟に関して、詳しくお知りになりたい方には、

 

 『ちびくろサンボよ すこやかによみがえれ』 

                      (灘本昌久・著 径書房・刊)

 

        ちびくろサンボ  

 

という本がオススメです。(少々古いですが。)

 

子供たちに夢を与える本を大人たちの屁理屈(?)で世の中から抹殺することは、避けて欲しいものです。

 

 

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志摩半島にあるそのホテルは、さる著名な経営者がバブルの最中に計画、380億円を投じて平成4年に完成した。

全室から海が見渡せ贅を尽くした内装に、足を運んだ人は誰もが 「素晴らしい」 と歓声を上げた。

しかしバブル崩壊後は経営不振が続き、10年前にホテルは人手に渡った。

新経営陣も手を尽くしたが、赤字は膨らむ一方・・・オーナーが仙台で小さなエステを経営していた

 

 今野 華都子 さん

に白羽の矢を立てたのは、そんな時だった。

 

平成19年にこのホテルの社長に今野さんが就任した時、150人の社員は冷たく反抗的な視線を送ったという。

それまで何人も社長が来ては辞めている。
また同じ繰り返し、という雰囲気だった。

今野社長がまず始めたのは、社員一人ひとりの名を呼び挨拶することだった。

また全員と面接し、要望や不満を聞いていった。

数ヶ月が過ぎた頃、彼女は全社員を一堂に集め、言った。

 

        

「みんながここで働いているのは、私のためでも会社のためでもない。
大事な人生の時間をこのホテルで生きる、と自分で決めたからだょネ。

また、このために会社が悪くなったとみんなが思っている不満や要望は、私や経営陣が解決することではなく、実は自分たちが解決しなければならない問題です。」

そして今野さんは2つの課題を全員に考えさせた。

 ◆自分は人間としてどう生きたいのか?
 ◆自分がどう動けば素晴らしい会社になるのか?


ホテルが変わり始めたのは、それからである。

 

自分の担当以外はやらないという態度だった社員が、状況に応じて他部門の仕事を積極的に手伝うようになっていった。

 

就任2年半、ホテルは経営利益が出るようになった。
全社員の意識の改革が瀕死のホテルを蘇らせたのである。

今野さんが折に触れ社員に伝えた 『自分を育てる3つのプロセス』 というのがある。

 1.笑 顔
 2.ハイという肯定的な返事ができること
 3.人の話を頷きながら聞くこと


仕事を受け入れるからこそ自分の能力が出てくるのだから、仕事を頼まれたらハイと受け入れてやってみよう。

「できません」 「やれません」 と言ったら、そこで全ての可能性の扉が閉まる。 

そして教えてくれる人の話を頷きながら聞くのが、自分を育てていくナニヨリの道なのである。

・・・今野さんは、そう言う。

この3つはそのまま、人生を発展繁栄させるプロセスであろう。

 

               『小さな人生論・5』(致知出版社・刊)より抜粋・編集にて

 

          ◆     ◆     ◆     ◆

 

日々、今野さんのような前向きな姿勢で取り組みたいものですネ。笑2

 

ちなみに現在はエステ業界の株式会社アイテラス・代表取締役社長を務めている彼女は、今年こんな本も出されています。

 はじめて読む人の 古事記』 (致知出版社・刊)

 

       

才能と意欲のある方は、どの世界でも業績を残すのですネ。

 

 

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タイトルの半端な数字だと、ピンとこない方が多いと思いますが・・・これは、今からちょうど50年前の今日・1968(昭和43)年12月10日に起きた、いわゆる

 

 三億円事件

 

で犯人が奪った正確な金額なんです。
 

同日、日本信託銀行(現・三菱UFJ信託銀行)国分寺支店から東京芝浦電気(現・東芝)府中工場に、従業員ボーナス約3億円が入ったジュラルミン製トランク3個を積んだ現金輸送車が、府中市栄町の路上で偽装白バイに乗った警官を装う犯人に制止されました。

 

「このクルマに爆弾が仕掛けられています。」

 

数日前支店に爆破予告があったこともあり、行員達はこの犯人の言葉を信用してクルマを降ります。

 

犯人は車体下に潜り込み、発炎筒に点火。

 

「爆発するぞ、早く逃げろ!」

そう叫ぶと、輸送車を運転して走り去りました。

 

それを呆然と見ていた行員は、爆弾を遠ざけるために走り去ったと勘違い、「勇敢な人だ」と思ったといいます。

 

現代から見れば何とも単純な犯行(※刑法上では強盗ではなく窃盗罪)というか、ある意味見事な心理犯罪だったともいえますか・・・。

    

           残されたニセ白バイと現場検証する警察

 

当時の大卒初任給が約3万円だったそうですから、現在なら20億円以上の大金・・・まさに〝史上最悪の窃盗事件〟ともいえるでしょう。

 

)は、事故後に作成された、あまりにも有名なモンタージュ写真です。 

 

         3億円事件

※しかしこれは、全く別人の顔写真にヘルメットを合成したものであることが後に暴露されています。

 

警視庁は偽装白バイやハンチング帽、メガホンに逃走車両のカローラ等々、多数の遺留品があることで、犯人逮捕は時間の問題と高を括っていたようです。

 

しかし犯行当日、杉並区内の検問で犯人が運転していたと思われる、ジュラルミンケースを載せたクルマを取り逃がすなどの失態もあり、結局犯人を特定・逮捕することは出来ず、1975年に時効となりました。

 

この事件を契機として、給与については現金支給から急速に銀行振込が普及したのですが・・・。 

 

おかげで、それまで毎月給料袋を持ち帰り、一家の大黒柱としての威厳を保っていた背のお父さんたちの立場は急速に低下。

その意味では、男性にとって大変迷惑な事件でもありました。

 

この3億円は保険会社が補填し、東芝社員にはボーナスも無事支給されました。

また保険会社も再保険により損害をカバーしており、結局誰もその損害を被らなかった形になっています。

・・・実はその元受会社、私がかつて勤務していた損保でして、営業トークではこの事件を結構使わせていただきました。
あせあせ

 

何人かの容疑者が捜査線上には浮かびましたが・・・私は個人的に、立川の不良少年グループのリーダーだった、事件当時19歳で白バイ隊員を父に持つ〝少年S〟が犯人だったのでは? と思っています。

 

しかし彼は事件の5日後に青酸カリを飲んで自殺しており、コトの真偽は分かりません。

おそらく警察が自らの体面を保つため・・・っと、これより先は敢えて申しません。
うー

 

もし、真犯人が生きていたら現在は7~80歳位でしょうか。

 

存命ならば是非名乗り出て、真相を語ってもらいたいものですが・・・それにしても、奪った3億円はどこに消えたのか?
 

 

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今日は、クイズからスタートです。

読売巨人軍の永久欠番〝3〟を嘗て長嶋茂雄選手がつけていたことは皆さんご存知だと思いますが・・・では、その長島選手の前に3番をつけていた選手は、誰でしょう?

巨人ファンでも若い方は殆どご存知ないかもしれませんネ。 正解は、


 千葉 茂 選手

12月9日は、この往年の名二塁手の命日・十七回忌にあたります。


       

千葉選手は1919(大正8)年に愛媛県西条市で生まれました。

同県立松山商業高校から1938年に東京巨人軍に入団し、1年目から二塁手のレギュラーになり、川上・青田両選手と巨人の第1期黄金時代を築きました。

守備範囲が広く、華麗な身のこなしで人気を博し、一塁手の川上選手の守備範囲が狭かったことから〝千葉一二塁手〟なんて言われていたそうな。

二塁手としてのベストナイン獲得回数7回は、中日・高木守道選手と並び現在まで史上最多タイなのも頷けます。

 

       


そしてバッティングに関しても、実に個性的な特徴がありました。
それは・・・流し打ち。

右打者だった彼は、一本足打法で内外角どちらのボールもライト方向を狙い打ち。

それは戦前にクリーンナップを任された際、よぐ出塁する水原・三原の1・2番コンビを進塁させるため身に付けた技術だったとか。

1956年に引退するまでの現役15年間で、通算1,605安打・691打点・打率.284はまずまずの成績ですが、特筆すべきは96本の本塁打の内、実に81本がライト方向だったこと。

しかも1950~54年まで39本連続ライト方向だったというのですから、その徹底プリには恐れ入るばかり。

 

        

更に戦後は1・2番打者として活躍。

粘り強く四球を選んで出塁することを心掛け、1950~52年の3年連続の最多四死球を記録し、巨人の第2期黄金時代に貢献。

 

野球とは関係ないですが、1948年に銀座の洋食店 『グリルスイス』で、常連客だった彼が「別々食べるのは面倒だ」とカツレツをカレーに乗せて食べたのを見た店主が〝カツカレー〟というメニューを考案したと、言われています。

 

入団時30番だった背番号は翌年2番に、そして戦後は現役引退まで3番で、それを1957年に入団した長嶋選手が引き継ぎました。

のっそりした風貌とプレー中の闘志あふれる姿から〝猛牛〟というニックネームで親しまれた彼は、引退後コーチ・2軍監督を歴任。

人望が厚く、現役時代は主将も務めた彼は、選手の間から次期巨人軍監督に推す声もありましたが、
「哲に対する送りバントだ」と述べて川上選手にその座を譲った彼は、1959年から近鉄の監督に。

 

当時の近鉄は〝パールズ〟という愛称でしたが、彼が就任したことで〝バッファローズ〟に変更・・・これが現在のオリックスに引き継がれているというわけ。
 

残念ながらシブチンで良い選手がいなかった近鉄では、3年間で91勝229敗と大きく負け越してしまいましたが・・・。

監督辞任後は解説やコラム執筆で活躍し、1980年に野球殿堂入り。

 

2000年に行われた近鉄創立50周年記念の近鉄対巨人OB戦では、両チームのユニフォームが半分ずつの珍ユニフォームで登場し、両軍ベンチから喝采を浴びた彼が83歳でこの世を去ったのは、2002(平成4)年12月9日のことでした。

巨人・近鉄(オリックス)ファンは、〝猛牛〟の冥福を祈りつつ、是非今日はカツカレーをお召し上がりください。

 

       

 

 

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ここ10年以上、外人力士ばかりが土俵上を席巻していることに嫌気して全く興味が無くなりましたが、昔は大相撲ファンだった私。

テレビにかじりついて中継を観始めたのが、ちょうど〝柏鵬時代〟真っ盛りの頃でした。

今日は、その一時代を大鵬関と共に支えた、第47代横綱


 柏戸 剛 

の命日・二十三回忌に当たります。

 

柏戸(本名:富樫 剛)関は1938(昭和13)年に現在の山形県鶴岡市で果樹園などを営む豪農の次男として生まれました。

中学校入学時に既に180cmあったという立派な体躯でスポーツ万能だった富樫少年は学業も優秀で、県内屈指の進学校・県立鶴岡南高等学校に入学。

しかし相撲の東田川郡大会で活躍したことを伊勢ノ海親方が聞きつけて、熱心にスカウト。

当初は果樹園の跡取りにと考えていた両親は大反対しましたが、親方から 「東京見物に行こう」 と誘い;出され、部屋に連れて行かれて幕下力士にいい勝負をしたことで入門を決意。

(最初は手加減したりお客様扱いして入門させる・・・という手口は大相撲の常套手段でしたから、果たしてそれが実力通りだったかは疑問ですが。)あせあせ

1954年、蔵前国技館が落成した最初の場所で初土俵を踏むと、将来の横綱候補として親方からかけられた期待通りにトントン拍子で出世。

1958(昭和33)年9月場所で19歳というハイスピード新入幕を果たすと、半年後に伊勢ノ海部屋伝統の四股名である〝柏戸〟を襲名。

そして1961年9月場所後に歴代柏戸が果たせなかった横綱に大鵬関と同時に昇進を果たしました。

        


以降1969(昭和44)年7月場所で、あと1勝で幕内通算600勝というところで引退するまで、柏鵬時代といわれた大相撲人気を支えました。

とは言え、通算優勝回数は大鵬関32回に対して柏戸関は僅か5回。

通算対戦成績も大鵬関21勝に対して柏戸関16勝・・・特に横綱になって以降は9勝18敗のダブルスコアとかなり差がついています。

しかしそれは大鵬関が年下かつ〝昭和の大横綱〟と言われた名力士であったためであり、歴代横綱の中でも確実に強かったはず。

ともすると〝巨人・大鵬・卵焼き〟と言われるほどの人気を誇った大鵬関の引き立て役のような見方をされ、〝大洋・柏戸・水割り〟なんてシブい言われ方をしましたが、取り口自体は鋭い立ち合いから相手を一気に土俵際に追い込みそのまま押し出すという、玄人受けする豪快な速攻相撲。

ただそれがために格下力士にあっさり負けて金星を献上する脆さもあり、また土俵下に激しく落下してしまうため、ケガに泣かされ再三休場を余儀なくされたことも、大鵬関との差がついた要因ともいえましょう。

引退後は独立して鏡山部屋を創立し、多賀竜関などを育成。

個人的には、審判部長として土俵下でギョロ目を光らせていた姿が印象的でしたが・・・腎臓病が悪化して人工透析を余儀なくされ、1996(平成8)年12月8日に58歳でこの世を去りました。

 

一見人を寄せ付けない迫力の持ち主でしたが、意外にも(失礼!)涙もろい人情家で、リハビリのため滞在した栃木県の塩原温泉郷では地元中学生とバレーボールなどで交流するなど、気さくで人から好かれる性格だったとか。

ちなみにその塩原中学では、今でも柏戸関から寄贈された賜杯を模したカップが運動会の応援合戦優勝チームに授与されているそうな。

昭和の大横綱・大鵬関の終生のライバルとして、少年相撲ファンだった私の胸をときめかせてくれた柏戸関のご冥福を、当時の取組映像を観つつお祈り致します。笑3




嗚呼、昭和時代の大相撲は良かったなァ・・・。

えっ、どうして? その理由は敢えて申しますまい。うー

 


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1953年にチベットで生まれ、1959年に支那軍の侵攻によって家族と共にインドに脱出、その後1965年に日本に移住し1976年に亜細亜大学法学部を卒業。

2005年日本に帰化し、現在拓殖大学客員教授・チベット文化研究所々長などを務めておられるペマ・ギャルポ氏が、月刊 『致知』 1月号で自らの体験を通して日本(人)に鳴らしておられる警鐘の一部を、以下に一部抜粋・編集にてご紹介致します。

 

        


          ◆     ◆     ◆     ◆

日本では、いまChina の脅威が盛んに取り沙汰されています。

尖閣諸島に多数の漁船が押し寄せたり、南シナ海に自信好投を建設して軍事拠点化したり、確かにChina の行動は独善的で目に余るものがあります。

 

しかし、ここでは私は敢えて「問題の本質はChinaではなく日本にある」と警鐘を鳴らしたいと思います。

目前の危機にただ手を拱(こまね)くしかない日本の現実が、問題をより深刻化させているからです。

「国家百年の計」という特集のテーマに絡めれば、今の日本や日本人は百年後を見据えたビジョンどころか、独立した国家としての概念も、国民としての意識も気概もありません。

明確なビジョンを持たないまま、目の前に起きてくる出来事への対応にただ翻弄されているような悲しい有り様なのです。

建国百周年にあたる2049年にはアメリカをを追い抜いて世界の覇権を握ると公言しているChina と、近視眼的な方針しか描けない日本の、どちらが厳しい国際社会で生き残っていけるのか、結果は明らかでしょう。

 

       

 

そのChinaが、このところ従来の居丈高な態度を一変、日本に対して低姿勢に出ています。
 

日中友好条約締結40周年ということもあってか、日本国内には融和ムードが漂い始め、10月に実施された世論調査では、7割を超えるChinese が日本に好意を抱いていると返答しました。

しかし、このムードを素直に喜んでいいのか? と言えば、もちろんそうではありません。

彼らが下手に出る時は、必ずそれ相応の理由・裏があるのです。

今のChina の実情に思いを巡らせれば、その答えはすぐに分かります。

China がアメリカの経済制裁によって大変なダメージを被っていることは周知のとおりですが、それによって習政権は一帯一路構想や経済支援を名目としたアジア・アフリカでのプロジェクトなどを進展できないでいます。

あまりに風呂敷を広げ過ぎたために、あちこちの拠点を維持できなくなっているわけです。

国内に目を向けると、3兆円ともいわれていた外貨準備高が大きく減り、習氏の独裁的なやり方に対する党員たちの不満は燻り続ける一方です。

習氏は腐敗撲滅をスローガンに、今日まで反対派の党員を徹底して摘発し、実に100万人以上が離職や左遷、投獄などの処分を受けたといわれています。

その人たちが政権に反感を抱かないはずはありません。

軍部においても待遇改善を求める退役軍人たちの大規模デモが各地で頻発しています。

ことほど左様に、習氏は今国内でも大変厳しい状況に立たされているのです。

China が低姿勢に出てきた理由・・・それは自分たちが経済的に追い込まれた時、日本から資金を引き出すための心理作戦に他なりません。

日中通貨スワップ協定を結ぶの、いざ金融危機となった際に日本の外貨を確保しようという魂胆が透けて見えます。

 

ところが、子供にも分かるこのような簡単な理屈が、なぜか日本の指導者層にはなかなか理解できません。

理解できないどころか、ムードにうっかり乗せられて自ら罠に嵌ってしまうようなことを平気でやってしまうのです。

これまでの両国の歴史は、その過ちの繰り返しでした。

China の目的は軍事的にも経済的にもアメリカを凌駕し、世界の覇権を握ることです。

その実現のためには手段を選びません。

ある時は柔らかく、ある時には高圧的に出て、相手の出方を伺いながらジワリジワリと獲物に近づこうとします。

それがChina のお決まりの行動パターンです。

日本は一刻も早くその策略に目覚めなくてはいけません。

 

          ◆     ◆     ◆     ◆

 

数年前、ネット上に支那外務省から流出したという 『2050年の国家戦略』 地図が掲載され、話題になったことがありました。

    

この地図では、驚くべきことに台湾はおろか朝鮮半島・日本までもが支那の領土になっており、朝鮮半島は『朝鮮省』、日本は愛知・石川県以西を『東海省』、静岡・富山県以東を『日本自治区』という行政区になっています。 (『東海省』の〝東海〟は支那の東シナ海の呼称)

 

「そんなバカな・・・」と一笑に付す方もいるでしょうが、私は大真面目に心配しています。

2049年までに世界制覇を目論む支那が、日本だけそのままの形で放置するとは考えられませんから。

ギャルポ氏が危惧する通り、日本を第二のチベットにしないためには、この地図を絵空事にするだけの国防体制を取ることが急務です。

現在、日本国内在住の支那人は100万人を超えているといわれ、更に日本政府は彼らをビザなしでどんどん入国させようとしています。

 

そして観光目的や短期就労で入国しながら行方知らずになる者が続出しています。

2010年に成立した 『国防動員法』 により、彼らが本国の号令ひとつでスパイ・工作員・兵士となって日本国内で活動し得ることを、日本
国民は危機感を持って警戒しなければなりません。うー

 ※『国防動員法』に関する過去記事は、こちら。

 

 

 

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