ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

現在はどこに行っても大抵は自動ドア。

たまに手動ドアがあると、自動だと勘違いした人が思いっきりガラスに鼻をぶつける悲惨なケースがあるくらい、普及していますょネ。

では、その自動ドアが列車に初めて導入されたのは何年くらい前だと思いますか?

戦後くらい? いえいえ、もっと古いんです。

正解は、今からちょうど100年前! 😨

1926(大正15)年9月28日に、鉄道省(※国鉄の前身)の省線電車・・・現在の京浜東北線・上野~桜木町間の電車の一部に自動ドアを装備したのです。


初期の電車は木製でしたが、輸送量増加を目指して1923年以降は鋼鉄製の車体が登場し大型化。

しかし片側3ドアは手動式で、駅員が逐一戸締りの見回りをしてから発車しており、時間がかかっていました。

 

そこで鉄道省は既にアメリカで導入されていた遠隔操作できる空気圧式自動ドアのテストを重ねた上で、関東大震災後に輸送力増強のために京浜線用に製造されたデハ63100形(63209

・63210)、サハ33550形(33681・33682)、サロ43100形(43100)の5両(+予備車両1台)を改造して導入。


   
         
サハ33550形車両見取図

 

ドアが閉まらないと発車できないシステムになっていたので安全性も向上し、かつ発車までの時間短縮に大きな効果を発揮したようです。

この後他の路線や私鉄にも急速に導入されたことが、その効果を物語っています。

ただ鉄道会社にとっては効率化の上で有難い新技術だった自動ドアですが、利用者にとってはそうでもなかったようで・・・。

慣れない乗客が指や荷物を挟む事故が多発。そのあまりの多さに

〝電車のドア、さかんに指を喰う〟

 

なんて新聞記事も出たそうな。

思わず笑いたくなりますが、21世紀の現在でも同種の事故はなくなっていません。 

 

昔も今もせっかちというかうっかり屋さんの数は減っていないのかも。

さて、この電車の自動ドアに関して私には非常に恥ずかしい思い出があります。

 

もう30年程前のことですが、新潟の某支社に転勤してまもなくの冬のある日のことでした。

いつも社有車で動いていた私は、その日は珍しくJRの在来線に乗って母店へ。

電車に乗る時いつもドアのすぐそばに立つ私は、その日も電車に乗って定位置(?)に立つとすぐにポケットから本を取り出して読み始めました。

そして電車は終点の新潟駅に・・・私は本を閉じてドアの前に立ったのですが、電車が止まっても一向にドアが開かないのです。

(あれっ、車掌さんが居眠りでもしているのか?)

と思った瞬間、後ろにいるオバサンに

「ちょっと、あんた。 早くボタン押してドア開けなさいョ!」

と怒られてしまったんです。

(えっ、だってコレ自動ドアでしょ?)

と思いつつ、おばさんの勢いにビビッてドアの脇を見ると、確かにボタンがありました。

       

この電車のドア、開けるときはボタンを押して人力で開ける〝半自動ドア〟だったんです。 (※閉めるのは自動・手動とも可)

知らない私は、うしろの人たちからの冷たい視線を浴びながら、慌ててドアを開け、一目散に改札へと小走りしました。

 

支店に到着してことの顛末を話したら、皆に大ウケ。

 

なんでも暖房効率をあげるため、都内の電車程乗客が多くないこちらの電車では、人が乗り降りす時だけ開けられるようになっているとのこと。

なるほど、納得。

何でも自動にすれば良いってものでもないんですネ。

皆さんも今後地方の電車に乗られることがありましたら、ドア付近にボタンがないかどうか、まずはお確かめ下さい!😅

 

 

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昨日の拙ブログでは台風の特異日について書きましたが、それとは1日ズレたものの今から35年前の今日、私だけではなく多くの方の記憶に残っているであろう

 台風19号

が九州・佐世保市に上陸しました。

1991(平成3)年9月16日、マーシャル諸島の西海上で発生した同台風(国際名:ミレーレ/Mireille )は、23日にはフィリピンの東海上で中心気圧925hPa、最大風速50m/sと、強い勢力に発達。

26日に宮古島の東海上で北東に進路を変え、27日に佐世保市に上陸すると、山口県をかすめて日本海上を猛スピードで進み、28日朝には北海道に再上陸、そのまま太平洋に抜け温帯低気圧となりました。

昨日の記事で「台風の中心より右側の風力が強くなる」とご紹介しましたが、この台風ではほぼ日本本土全体がその右側に入ってしまったのが分かります。(↓)

   

故に最大瞬間風速が広島市で58.9m/s、輪島市で57.3m/s、青森市で53.9m/sを記録するなど、最大瞬間風速で26ヶ所、最大風速は12ヶ所でそれまでの記録を更新。

 

雨を伴わない〝風台風〟だったものの、その強烈な暴風は死者62名・負傷者1,261名を出すなど、日本全国各地に甚大な被害をもたらしました。

この台風被害で損害保険会社が支払った保険金総額は、5,679億円・・・損保各社の経営状況を著しく悪化させました。

当時損保マンだった私は、同僚から「今年中にもう一度同じような台風被害が出たら、損保業界もヤバいらしい」なんて噂話を聞かされた時、あながち冗談ではないと心配したものです。

中でも多くの方の記憶に残っているのは、青森県のリンゴに多大な被害が出て、この台風が別名〝リンゴ台風〟と呼ばれたからでしょうか。

同県のリンゴ農園では、暴風によって倒木するなどして収穫前のリンゴの80%以上が落果。

     


過去最大の被害をもたらした洞爺丸台風でさえ落果率35%だったそうですから、リンゴ農家が途方に暮れたのも頷けます。 

 

落果したリンゴは殆ど値がつかないため、ジュースやジャムなどの加工用に回されたり地元の小学校などで給食に支給されたものの、被害額は約740億円に達したといわれています。

ただ逆に落果しなかったリンゴは、“落ちないリンゴ”として販売され、1個1,000円だったにも拘わらず当時の受験生に人気を呼びました。

     

果たして、ご利益を受けた合格者は何人いたんでしょうネ?😅

今年こんな強烈な風台風の上陸がないことを、ただただ祈るしかありません。🙏

 

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今月は台風による被害が各地で発生しましたが、今日・26日は、日本にとって大きな台風が上陸した〝特異日〟といえます。

 

※ 〝台風〟は単純には語の“Typhoo”の当て字だと思われがちですが、実はギリシャ神話に出てくる怪物テュポン (Typhon)、あるいはアラビア語で嵐を意味する〝Tufan〟が東洋に伝わって 「颱風」 → 「台風」に、そしてそれが西洋に逆輸入(?)されて“Typhoon”になった、という説が有力なのだとか。😯ヘェ~

 

青函連絡船を沈没させた 『洞爺丸台風』 が日本に上陸したのが1954(昭和29)年9月26日。(↓)

 

また私の生まれた1958(昭和33)年9月26日には『狩野川台風』が、伊豆・関東地方に上陸。

そして過去最大の被害を日本にもたらした

 伊勢湾台風

が上陸したのが、その翌1959(昭和34)年9月26日のことでした。

 

同年9月21日に南太平洋上で発生した台風15号(伊勢湾台風

)は、翌々日には中心気圧が何と894ミリバール、最大風速毎秒75m、風速25m以上の暴風雨域が半径300kmに発達。

 

その勢力をほぼ保ったまま26日18時過ぎに潮岬に上陸し、紀伊半島・名古屋付近を直撃。 

 

速度を増しつつ一旦日本海に抜けたものの、再び東北地方を横切って太平洋に抜けて行きました。     

 

この台風によって受けた被害は、明治以降の観測史上最悪。

 

死者・行方不明者約5,000名、負傷者約39,000名。 


全壊家屋約36,000棟、半壊家屋約113,000棟、床上浸水約158,000棟。

 

2005年にアメリカで発生し、ニューオーリンズをほぼ水没させた最大規模〝カテゴリー5〟のハリケーン ・カトリーナが日本を縦断した、ともいえる猛威でした。

   

          高潮に襲われた半田市

 

70年近く前とはいえ、この超大型台風の上陸はほぼ正確に予想されていたそうで、名古屋地方気象台は同日午前10時に県庁や天力・鉄道・マスコミ関係者らを集めて説明会を開催し、暴風・高潮・波浪の警報を出す予定であることを伝えました。

しかし当時はまだメールはおろかFAXすらない時代。

更に当日は土曜日で官庁などは半ドン・・・説明会に出席ししても、そこで渡された予想進路や警報内容を机上に置いたまま帰宅した担当者も多く、情報が市民に伝わりませんでした。😣

 

またその日の午前中は晴天だったため、人々に全く警戒心がなかったとも・・・。

仮にその情報が行き渡っていたとしても、その猛威の前には被害を劇的に減らすことは出来なかったでしょうが。

 

地球温暖化が指摘され、海水温度が上昇している現代・・・このような巨大台風が襲来するリスクは年々高まっていることは間違いないところ。

 

今後の日本に〝カテゴリー5〟クラスの台風が上陸しないことを、ひたすら祈るばかりです。

 

そうそう、台風情報をご覧になる際に、参考にしていただきたいことがひとつ。

     

 

台風の中心(目)より右(下)側にあたる地域は、進行方向と風向きが重なるため風雨の威力が増します。

 

反対に左側は進行方向と風向きが相殺されるため、威力は低下。

 

今後上陸する台風の中心が自宅より左側を通過する場合は、特に警戒してください。台風


 

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「指圧の心は 母心 押せば命の 泉湧く~」

昭和世代の方は、これだけで誰のことかは分かりでしょう。 

 

またミドルエイジの方には〝ジェット浪越〟の方が通りがいいかもしれません。

 

今日はその指圧療法の創始者、

 

 浪越 徳次郎 さん

 

の命日・二十七回忌にあたります。

 

   

浪越さんは1905(明治38)年の香川県生まれ。


7歳の時に一家で北海道虻田郡に移住しましたが、そこで関節リウマチに苦しむ母親の痛みを和らげたいという一心で身体を揉んだり擦ったりしているうちに、指で押すことが効くことに気づいたことが、後の『指圧』につながりました。

冒頭の有名なキャッチフレーズは、自らの体験から生み出されたんですネ。


1925(大正14)年に警視庁のマッサージ術試験に合格すると、その半年後に室蘭で指圧診療所を開業。

 

1933(昭和8)年に指圧を天下に広めるという大志を抱き上京、その7年後には文京区に『日本指圧学院』を創立しました。


着実に指圧師の養成を行いましたが、1945年5月に空襲で学院が全焼。

しかし彼は挫けず、1年後には新校舎を建設。

 

1957(昭和32)年には厚生大臣から正式に指圧師養成校の認定を受けるまでに。

 

彼の名を一躍有名にしたのは、なんといってもマリリン・モンローを指圧したことでしょう。

ジョー・ディマジオとの新婚旅行で来日した彼女が胃痙攣で体調を崩したことで彼はホテルに呼ばれ、彼女をマッサージ。

すっかり指圧が気に行った彼女は、都合7回も彼にマッサージしてもらったとか。

〝世紀の美女〟に素手で触った唯一の日本人といわれ、


「いつもより3倍くらい時間をかけてしまった」😅


というコメントを残した浪越さんは、その後も吉田茂氏ら歴代総理大臣やモハメド・アリなど有名人のマッージを手がけ、国内はおろか海外にまでその名前と顔を知られるように。

 

     
            モハメド・アリと浪越さん

 

1968(昭和43)年から3年間、アフタヌーンショーにレギュラー出演。
 

その番組で使った冒頭のキャッチフレーズが、すっかりお茶の間に定着。

 

そして若年層にもその名を知られるようになったのは、1987(昭和62)年に人気バラエティー番組『天才・たけしの元気が出るテレビ』に出演し、ジェットコースターに乗せられたこと。

風圧と恐怖に引き攣る顔がおかしいという妙な人気を博し、おまけにたけし師匠から〝ジェット浪越〟と命名されてブレーク。

子供たちには素人いじられキャラにしか見えなかったかもしれませんが、それでも悠然と番組に出続けたところは、大物の証しかもしれません。

この番組出演がキッカケとなり俳優として映画にも出演した浪越さんでしたが、本業では後を継いだ長男・徹氏が急逝し、89歳で再び学院の校長に復帰するという心労もありました。

そして21世紀に入ったばかりの2000(平成12)年9月25日、94歳で波乱の人生に幕を下ろしたのです。

生前「100歳まで生きる」と言っていたそうですが、残念ながらその願いは叶いませんでした。

 

暗い世相を吹き飛ばすような 「ア~ッ、ハッハ~!」という豪快な笑い声を懐かしみつつ、あらためてご冥福をお祈りしたいと思います。🙏

 

 

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河童ではありません。 ギリシャ文字の〝κ〟(カッパ)です。

 

今からちょうど70年前の今日、日本初の地球観測用ロケット、

 

 カッパロケット (K-1 型)

 

が打ち上げられました。

 

開発責任者は、日本ロケット工学の第一人者・糸川英夫博士。

 

敗戦後の日本は、GHQによって徹底的に軍備解体されられ、航空機の研究すら禁止されてしまいました。

そして1952(昭和27)年のサンフランシスコ講和条約によりようやく独立を果たした時、航空機はジェット機の時代に突入し、日本は大きく後れを取っていたのです。 

 

しかしそんな時代に於いて、

「アメリカでは既にロケットの時代に入っている。 我が国は空気がない所でも安定して飛べるロケット研究をすべき。」

と主張したのが、半年間アメリカで過ごした糸川博士でした。


         

 

糸川博士の「航空機に替わる超音速で超高層を飛ぶ飛翔体を作る」 という先鋭的な構想に魅せられた若い研究者が集結し、1954年に

 

“Avionics and Supersonic Aerodynamics ”

 

つまり航空電子工学と超音速の空気力学を究めようという〝AVSA研究班〟が東京大学生産技術研究所内に立ち上がります。

 

ちょうど時を同じくして、イタリア・ローマで IGY (International Geophysical Year = 国際地球観測年) の準備会議が開催されました。

これは世界各国の科学者が共同観測を行い、地球の全体像を把握しようという目論みだったのですが・・・この時に2つの特別プロジェクトが立ち上がることに。

ひとつは南極大陸観測。

これに日本が参加することになり、南極観測船・宗谷が建造され昭和基地建設や南極越冬隊派遣に結びつきました。

そしてもうひとつがロケットによる上層大気の観測。

「1958年までに高度100kmまで到達できるロケットを作れるか?」

と問われた糸川博士は、「飛ばしましょう」と即答。

これによって日本は南極観測と同じくロケット観測に加わることになったのです。

 

当時高度100kmに到達する観測ロケットを保有していたのはアメリカとフランスで、いずれも液体燃料を使用。

しかし糸川博士率いるAVSA研究班は安価な固形燃料使用に拘り

小型のペンシル型ロケットから実験を重ね、ペンシル→ベビー、更にギリシァ文字のアルファ→ベータ→カッパ→オメガと徐々に機体を大きくしていく戦略を採用。
 

ペンシル、ベビーと実験を重ねつつ大型化を進めたものの、IGYに間に合わせるため開発のピッチを速める必要性が生じ、アルファ・ベータはスキップし、いきなりカッパの開発に着手。

 

翌1955年10月にカッパロケット打ち上げのため秋田県の道川海岸に実験場を建設。


といっても当時はロケット運搬は馬車、コントロールセンターは屋根もなし、という牧歌的な趣だったそうですが・・・。

そして幾度となく燃焼実験を繰り返した末、直径11cmのマカロニ状の固形燃料を搭載した全長2.7mのK-1ロケットは、1956(昭和31)年9月24日に打ち上げ成功。

上空5kmまで上昇したのです。

 

     

          K-1 型カッパロケット


その後も実験・改良・大型化を続け、IGY期限前の1958年6月には、ついに高度40kmまで達する直径25cmと16cmの二段・全長5.4m・総重量255kgのK-6型ロケットが完成。

結局IGY期限内に観測用ロケットを完成させたのは、アメリカ

・ソ連・イギリスと日本の4ヶ国だけでした。

 

その後1963年に発射場を種子島・内之浦に移してロケット開発・実験は続けられ、カッパロケットは1988年まで打ち上げられました。

最多のK-9M型が1961年から28年間で、累計81機。

 

アメリカのNASAのように莫大な予算がつかないこともあり、未だ有人ロケットは打ち上げられていませんが、『ハヤブサ』帰還成功という金字塔も打ち立てた日本。

日本人特有の努力と知恵で、JAXA(宇宙航空研究開発機構)にはこれからも他国に劣らぬ宇宙開発を続けて欲しいものです。

 

 

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真夏は過ぎましたが、それでも仕事帰りに〝とりあえず〟の生ビールで生き返っている方は多いことでしょう。

そのビール製造に関し、日本初の営業用ビール醸造工場である


 北海道開拓使麦酒醸造所

が開業したのが、今からちょうど150年前の今日・1876(明治9)年9月23日のことでした。

ここが現・サッポロビールの原点でもあります。

この工場建設には、その名の通り北海道開拓が大きく関わっていました。

本格的な北海道開拓は1880年代後半から始まりましたが、それ以前のインフラ拠点として工場群の建設が進められたのが、工業用水が豊富で製品や木材の搬出・輸送に適した現在の創成川と豊平川の間に挟まれた広大な土地。

 

その一角にできたのが、この醸造工場でした。

そして同醸造所を建設したのは、村橋久成という元薩摩藩の上級武士。

       

薩摩藩の第一次英国留学生の一員として選ばれ、ロンドンの大学で1年間学んだ彼は帰国後戊辰戦争に従軍し、箱館戦争時には榎本武揚と終戦交渉を行うなど活躍。

終戦後は開拓使東京出張所に出仕し、北海道の測量・区分けなどを行うと、開拓使が計画中だった麦酒醸造所の建設責任者に任命されました。

開拓使側は一旦東京に工場を建設する予定でしたが、彼はビール醸造の気候条件は北海道の方が適しているとして現地建設を主張し、1876年5月に職人を連れて北海道入り。

そして4ヶ月後の9月23日、早くも工場を完成させたのです。

     

当時は木造(※煉瓦造りに改築されたのは1892年)で、開業式の庭先に積まれたビール樽(写真右)には

〝麦とホップを製す連者(れば)ビイルとゆふ酒に奈る〟

と書かれていました。

翌年夏にはこの工場で作られたビールに開拓使のシンボルである北極星が描かれたラベルを貼り『冷製札幌麦酒』と銘打たれて東京で販売され、好評を博したとか。

そして完成から10年後の1886(明治19)年に同醸造所は大倉喜八郎率いる大倉組商会に払下げられ、更に翌年浅野総一郎

・澁澤栄一らがこれを買い取って札幌麦酒会社を設立。

これが現在のサッポロビールの前身というわけ。

そして現在この醸造所は『サツポロファクトリー』(↓)に生まれ変わり、連日多くの観光客が訪れています。

 

 

一方、村橋久成はどうなったかというと・・・。

ビールの販売が順調に推移したことで、彼は工場立ち上げの2年後に札幌本庁の民事局副長になったのですが、その翌年病気のため熱海で療養を強いられ、治癒後は東京在勤に。

1880年には東京出張所勧業試験場長に任命されたのですが、黒田清隆主導の醸造所を含めた開拓使施設の民間払下げの動きを知って失望したのか、1881年5月に突然開拓使を辞職。

北海道内の牧畜会社の社長に就任するも、しばらくして家族をも捨て托鉢僧となり、放浪の旅に出て消息不明に。

そして1892年9月下旬に神戸市内の路上で所持品もなく裸同然で行き倒れているところを巡査に発見され病院に運ばれたものの、数日後に肺結核と心臓弁膜症により50歳で寂しくこの世を去りました。

心血を注いで作り上げた醸造所が安価で払い下げられたショックは、私たちの想像以上に大きかったのでしょうネ。

今晩ビールを飲まれる方は、国内初の醸造所の完成記念日を祝うと同時に、村橋氏の冥福を祈りつつ献杯をお願いします。🍺

 

 

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今日・9月23日は、祝日・秋分の日。
 

「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」日です。

秋分の日は、昼と夜の長さが同じ日・・・と教わった方が多いと思いますが、実は昼が約14分長いんですって。

それはともかく今日はお彼岸の中日でもありますから、国旗を掲揚するだけでなくお墓参りをしたり仏壇に手を合わせご先祖様に感謝の意を捧げましょう。

   

             

 


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かつて損保会社在籍時、新潟支店に転勤した際この騒動が起きた場所は担当エリアでした。

それは今からちょうど80年前の今日、現在の村上市で起きた


 坂町事件
 

戦時中労働力不足を補うため、日本国内に移入してきた支那・韓国人らは、戦後の混乱・取り締まりの不備に乗じてその態度を一変させ、元々住みついていた同胞らと手を組んで闇米の流通・販売や酒の密売を行うように。

当時新潟県下越(新潟市以北)では在日本朝鮮人連盟が新発田市に事務所を置き、羽越本線・坂町・平木田の両駅を基地として闇米を1日あたり50俵、関西地方に出荷していました。

公然と経済統制違反を繰り返す彼らを取り締まるべく、1946(昭和21)年9月22日午前1時頃、村上警察署は加藤巡査部長以下署員7名を取り締まりのため坂町駅に派遣。

  

現場に居合わせた約50名の支那・朝鮮人は警官の姿を見て一旦姿を隠しましたが、彼らがホームに置かれた闇米を押収しようとすると一転して 「殴れ!」と叫び声を上げながら襲いかかり,ちょうど到着した列車から更に約20名の朝鮮人が下車して加勢。

警察官に暴行を加えた挙句、発車した列車に飛び乗って逃走。

 

しかし加藤巡査部長は殴られながらも逃げ遅れた朝鮮人2名を逮捕し、署に連行しました。


更に同日午後、駅近くの駐在所からまたしても闇米運搬の情報が寄せられたため、河津警部補以下10名の警察官が坂町駅近くの旅館に向かい、闇米3俵(180kg)を所持していた支那人男女を見つけ、金屋村の闇米ブローカーの元に。

ところが、そこでまたしても支那・朝鮮人約50名に襲われ、更に警官を助けようとした金屋村の自警団も逆に鳶口や木刀を奪われて襲われる始末。

その後進駐軍の係官が現地に赴き、支那・朝鮮人に対し法を順守するよう申し渡しを行い、ようやく警察は支那人11名・朝鮮人1名を逮捕。

しかし村上署から新潟署に身柄を移された彼らは軍政部員の取り調べ後、県外追放と再び新潟県内で闇米を取り扱わない旨の誓約をしただけで釈放されたといいます。

 

     

         事件を伝える当時の新聞記事
 

何とも腰の引けた対応ですが、これで支那・朝鮮人にナメられたのか、事件はこれで終わりませんでした。

翌23日の夕刊で、『MPも出動、坂町で深夜の乱闘』 と題して事件を伝えた新潟日報社と読売深読売新聞に対し3日後の9月26日、「報道に誤りがあることを認め、ラジオを通じて新潟県民に誤報だったという声明を出せ」 と朝鮮人16名が要求。

(情けないことに)読売新聞はこれに応じたものの、新潟日報は29日に拒否。

これに同社を訪れた朝鮮人16名が怒り、茶碗を投げつけ社内を破壊、9名が逮捕・起訴され有罪になったのです。

   

         破壊された新潟日報社内

彼ら在日支那・朝鮮人は、終戦前後から集団を組んで暴行・犯罪事件を繰り返してきました。

日本人には考えられない警察官・警察署襲撃を平気で行うことからも、いかに凶暴であるかが分かります。

 

彼らが起こした重大事件は、坂町事件だけでなく相当数に上ります。 特に在日朝鮮人の起こした事件だけでも、こんなに。(↓)

 

 

また現在でも、日本国内で起きている在日外国人の犯罪件数は、朝鮮人と支那人(それに加えてベトナム人)が上位を占めます。


あまりそういう印象がないとすれば、それは朝日・毎日グループなど多くのマスメディアが〝通名報道〟しているから。

政府は労働力不足解消のために移民受け入れを考えているようですが、もしそうすれば戦前の日本と同じ・・・第2の坂町事件が起きることは、まず間違いないでしょう。

 

 

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男性なら一度はやってみたいと思うであろう、飛行機の操縦。

 

ジャンボジェット機の操縦も面白そうですが、私はプルーインパルスの如く戦闘機を思いのままに操ってみたい・・・と、今でも憧れます。

その戦闘機乗りとして、かつて世界中に名を馳せたのが

 

 坂井 三郎 海軍中尉

 

今日は、大東亜戦争時代に〝撃墜王〟といわれたこの名パイロットの命日・二十七回忌にあたります。

 

      

 

坂井中尉は1916(大正5)年に佐賀県で生まれました。

 

1937年霞ケ浦航空隊に入隊すると、同年11月に第38期操縦練習生を首席で卒業し海軍戦闘機搭乗員となり、以後中国大陸やラバウル基地を中心として活躍。

 

延べ200回以上の出撃で〝空の要塞〟といわれたB-17を始め大小64機を撃墜。

 

一方で空中戦(dogfight )の最中、敵の銃弾を頭部に受け瀕死の重傷を負い朦朧とした意識の中で基地に戻り九死に一生を得たこともあったとか。

その坂井中尉が終戦後に当時の戦闘経験などを綴った著書・ 『大空のサムライ』は、世界的ベストセラーに。

 

アメリカ空軍が飛行練習生の教材に採用したり、イラク空軍は同書のアラビア語翻訳版をパイロットの必携書にしたとか。(↓)


    ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

田舎では勉強せずとも秀才で通っていた坂井少年が東京の学校に転校するとレベルの違いから一転劣等生になり、挫折して故郷に逃げ帰ったこと。

 

初めて教官の操縦する飛行機に同乗した時の興奮や、初飛行でいきなり敵機と遭遇した時の緊張感。

掃射して殺した敵軍の遺体を、数日後自ら発見し埋葬した時に感じた戦争の虚しさ等々が率直に語られています。

 

激しい空中戦の描写を読んでいる時、私の頭の中には映画『トップ・ガン』の戦闘シーンが蘇りました。

 

一方華々しく敵機を撃墜し続けても、一度でも負ければ墜落死というサドンデスの日々、そして撃墜されれば遺骨さえ故国に帰れない戦闘機パイロットの厳しさとストレスが、ひしひしと伝わってきます。

 

決して好戦的ではなかったという坂井中尉が書き綴るこの著書は読みやすく、海外でベストセラーになったのも頷けます。

 

もし子供の頃にこの本を読んでいたら、私は本格的にパイロットを目指したかもしれません。

 

受験生や若い世代には是非ご一読をお勧めしたい2冊です。

 

また、皮肉にもアメリカ陸軍士官と結婚した坂井さんのお嬢さん

・坂井スマート道子さんが出版された『父、坂井三郎』は、娘から見た撃墜王・・・いや、父親像を浮き彫りにしています。

 

     

 

広島に原爆を落下した爆撃機や、自分の頭部に銃弾を撃ち込んだ急降下爆撃機の後部射手との面談などの様子が坂井さんの通訳として同行した彼女の回想として書かれており、同書を合わせ読むことで『大空のサムライ』の中身に一層の深みを感じられると思います。

 

また軍人であった坂井中尉が、その体験を躾にどう反映していたのか・・・これは非常に参考になりました。

 

終戦後は印刷会社を経営する傍ら何冊かの本を執筆したり、『朝まで生テレビ』などのTV番組に出演、戦争体験などを語った坂井さん。

 

下の写真は74歳の時のものだそうですが、シャキッとした姿勢と鋭い目つきは、いかにも元軍人らしい凛とした雰囲気を漂わせます。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

2000(平成12)年9月22日に厚木基地で開催されたアメリカ海軍の記念式典に来賓として出席した直後に体調不良を訴え

同日夜に84歳で急逝されるまで、日本の行く末を案じていらっしゃいました。


以前『WILL』別冊に掲載された坂井さんのインタビュー記事を、以下にご紹介致します。

 

     ◆     ◆     ◆     ◆

 

日本人は一億総寄生虫ですよ。 

 

アメリカにずっと寄生してきたからご覧なさい、このざまです。

 

アメリカに見捨てられたら、もう日本は滅亡ですよ。 

50年も寄生していたら確実に人間は変わります。

 

コロコロ変わるから〝心〟というんです。

 

戦争直後に夫を戦地で亡くして家を焼かれ、子供たちを抱えてどうしようもなくなって乞食をして暮らしていたお袋さんがいた。

 

それを憐れんだパン屋さんが売れ残りのパンをあげたんです。
 

お袋さんは「ありがとうございます。ありがとうございます。」 と随喜の涙を流して喜んだ。

 

それで次の日も、その次の日もパンを与えたんですが・・・たまたま遠くに出かける用事ができて、しばらく行かなかった。

そうして何日かして顔を見せたら、お袋さんは

 

「昨日もおとといも、何で来なかったんだ」と言ってパン屋さんをなじったそうです。

 

最初は涙を流して喜んだそのおふくろさんがですよ。

いったん寄生してしまうと人間はそれほど変わる。

日本は何もせず経済発展に邁進した結果、アメリカの寄生虫になってしまった。 

 

その寄生虫がてんでに勝手なことを言っている。

 

高校や大学でそういう事を教えないと日本は危ういと思います。

 

     ◆     ◆     ◆     ◆

アメリカに依存するだけでなく、働けるのに生活保護を不正受給したり、財力があるのに給食費を払わない社会依存型人間が増殖している現在日本に対する、命懸けで祖国を守るため戦った元軍人が鳴らす警鐘は一聴に値します。

 

70歳を過ぎて、訪問したアメリカでセスナ機を操縦して見事な宙返りをして記者たちを唖然とさせたり、晩年は「戦闘機のように見晴らしがいい」とオープンカー・タイプのユーノス・ロードスターを愛車にしていた〝撃墜王〟のご冥福を、あらためてお祈り致します。🙏

 

 

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