ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

どんなに実力のあるプロゴルファーでも、自分でバッグを担ぎながら一人でラウンドしていては、勝てません。

キャディーという相棒が絶対に必要です。

同様に8,000メートル級のヒマラヤ山脈登頂を目指す登山家にも、絶対にパートナーが必要・・・それが、重い装備・荷物を運んでくれる〝シェルパ〟。

今日は、その中でも最も有名な・・・即ち世界で初めて最高峰のエベレストに登頂したシェルパ、


 テンジン・ノルゲイ

   Tenzing Norgay

 

の命日・没後40周年にあたります。

 

      

 

シェルパとは、一般的にヒマラヤ登山隊の荷揚げや道案内に従事する人を指しますが、もともとはシェルパ族という民族の名前。

彼らはヒマラヤ地方を中心にインド・中国・ネパールなどを行き来し交易によって生計を立ててきた民族であり、国境という概念を持たず、国籍もパスポートも所持していないとか。

標高3,000m以上の高地に居住しているため心肺機能に優れ

、当然ヒマラヤの地理・天候に詳しく腕力・脚力・忍耐力に優れていますから、各国の登山隊が彼らに頼るようになったのは当然のこと。


ただテンジンはシェルパ族ではなく、1914年にマカル山近くのツァ・チュという所に13人兄弟(内8人は夭折)の11番目として生まれたチベット人でした。


農奴としての生活は貧しくかつ厳しかったため、一家はネパールのクンプ地方に移住。

そこでインドのダージリンでヒマラヤを目指す登山隊が荷役やガイドを探しており、その仕事の稼ぎが良いという噂話を耳にした彼は、近所に住むシェルパ族の娘と恋に落ち、駆け落ち同然でダージリンへ。


しかし登山経験もなく英語を喋れない彼が仕事にありつけるはずもなし。

ところが1935年、イギリスの有名な登山家エリック・シプトンがエベレスト調査隊を編成しシェルパを募集した際、経歴を記録した証明書や推薦状を一切持っていない彼を採用したのです。

ド素人のテンジンが合格した理由・・・それは、面接したシプトンが、彼の〝笑顔〟に魅了されたからでした。

過酷な登山では、その笑顔も強力な武器になる、という判断だったのかもしれませんが、採用された彼の働きはシプトンの予想を遥かに超えるものでした。

翌年シプトン率いるエベレスト登山隊に選ばれ、また1947年にはカナダ隊にも同行・・・両隊とも登頂には失敗しましたが、テンジンにとっては貴重な体験に。

そして1950年に鎖国状態だったネパールがエベレスト登山隊の受け入れを開始したことが、大きな幸運をもたらすことに。

1952年にスイス隊に同行し、頂上まであと237mまで迫ったテンジンは、その翌年にイギリス隊からの要請を受けて参加。

同隊は登頂を目指す第一陣としてイギリス人のチャールズ・エヴァンスとトム・ボーディロンの2人にアタックさせますが、あえなく失敗。

そして次に挑戦したのが、ニュージーランド人のヒラリーとテンジンだったのです。

   

         ヒラリー(左)とテンジン

 

経験不足ながらも192cmの体躯を誇る若いヒラリー(↓)と、身長177cmと小柄ながら経験豊富なテンジンの凸凹コンビは、5月29日に見事世界初の登頂に成功。

 

 

後に「どちらが先に登頂したのか?」が世間に注目されましたが

、2人とも「同時だった」と回答・・・実に山男らしい友情溢れるエピソードです。

一気に有名人になったテンジンは、世界から引っ張りだこ・・・しかしパスポートを所持していなかった彼は、出国するにも一苦労だったとか。

1963(昭和38)年には外務省の招きで来日、自分の名前が〝天神〟だと知って大変喜んだそうな。😊


しかし、インド政府が創設した登山学校の講師に就任し58歳で定年を迎えた後の彼の人生は、決して恵まれていたとは言えませんでした。

知人の紹介で登山専門の観光会社に就職できましたが、会社は彼のネームバリューが欲しかっただけ。

彼は山に登ったりガイドをすることもなく、ただデスクワークの日々。

平地に降りた山男は、陸に上がった河童の如し・・・しまいに彼は鬱病に罹ったといわれています。

そして1986年5月9日、72歳で突然この世を去ってしまいました。

本当は彼、有名になるよりずっと山に登っていたかったのかも。

笑顔で世界最高峰を制したシェルパのご冥福を、あらためてお祈り致します。🙏

 

 

          人気ブログランキング  

戦後の自虐教育では、大東亜戦争前後の史実や人間的に私たちの規範となる優秀な日本人に関して殆ど教えていません。


そしてそれは軍人に限らず民間人に関しても同じこと。

 

今日は、是非皆様から子々孫々にその存在と偉業を語り継いでいただきたい人物をご紹介致しましょう。 その方の名は、


   はった   よいち
  八田 與一 

 

今日は、日本の教科書には載っていなくとも、現在でも台湾の中学生用教科書にその偉業が詳しく記載されており、同国の人々が親日である大きな要因となっている、この土木技師の命日にあたります。

 

     

八田氏は1886(明治19)年に現在の石川県金沢市に豪農の五男として生まれました。

 

頭脳明晰かつ海外での活躍を夢見ていた彼は、東京帝国大学工学部を卒業後台湾総督府の内務局土木科にエンジニアとして就職。

 

そこで上下水道整備や発電・潅漑事業に携わると、弱冠28歳の若さで桃園大圳(たいしゅう)という灌漑設備を完成させ、評価を高めます。

 

31歳の時に地元・金沢の県議の娘さんと結婚した彼は1918年、台湾南部に位置する嘉南平野の灌漑設備工事に着手。

 

香川県の面積に匹敵する15万ヘクタールという広大な潅漑面積をカバーするため、貯水量1億5千万トンという巨大な烏山頭ダムを造るという、途方もないスケールの建白書を提出。

幸いにも理解ある上司がこれを支持し、山向こうの大きな河川からトンネルを掘って水を引き込むという壮大な土木工事は開始されました。

 

途中、トンネル内で台湾人・日本人合わせて50名以上が亡くなるという爆発事故が起き、八田氏も工事の中止を覚悟しましたが

、遺族の方々から「ここで工事を止めたら、犠牲者が浮かばれない」と言われ、一念発起。

 

その後関東大震災の影響で人員整理を余儀なくされた際も、泣く泣く解雇した従業員全員の再就職先の面倒を見たばかりか予算復活後は再び現場に呼び戻すなど、とことん部下の面倒を見たといいます。

 

そして工期10年、総工費5,400万円 (現在の貨幣価値で400億円以上) の大工事は見事完成。

『嘉南大圳』と名付けられたこの灌漑設備は、台湾に多大な大地の恵みをもたらしました。

彼の技術指導レベルの高さは、当時世界各地で建設されたセミ・ハイドロリックフィルダムのうち、現在でも稼働しているのがこの烏山頭ダムだけであることで証明されています。

   

             現在の鳥山頭ダム

 

この功績で勅任官となり、更なる開発工事に着手しようとしていた彼を、戦争による悲劇が襲います。

 

1942(昭和17)年5月8日、命令を受けて部下3名と共に現場のフィリピンに向かうべく乗り組んだ大洋丸が、米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没・・・56歳での戦死でした。

 

(※終戦直後の1945年9月には、奥さんが烏山頭ダムに投身自殺を遂げ、ご主人の後を追われています。)

 

台湾には八田氏の銅像や記念館が建てられ、歴代総統は慰霊祭に参加するなど敬意を払うことを怠っていません。

 

台湾人なら皆知っている彼の名と功績を、同じ日本人の我々が知らないことで彼らに怪訝な顔をされる・・・こんな教育で良いのでしょうか?

是非彼の生涯を綴ったこちらの書籍をお読みいただき、次世代に偉大なる先人の偉業と台湾との関りを伝えていただきたく・・。

 

『台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯

            (古川勝三・著 創風社出版・刊)

 

       

 

人種・身分など分け隔てなく人々のために尽力した敬愛すべき先人のご冥福をお祈りするとともに、彼の偉業を子供たちに教えない我が国の教育に改めて警鐘を鳴らしたいと思います。

 

 

            人気ブログランキング

今日は、元プロ野球選手

 

 島野 修 さん

の命日・十七回忌にあたります。

・・・と言っても、「そんな選手、いたっけ?」と首を傾げる方も多いと思いますが、この写真を見ればお分かりになるはず。

 

     

 

そう、かつて阪急ブレーブス~オリックス・ブレーブス~オリックス・ブルーウェーブの球団マスコット〝プレービー〟〝ネッピー〟のスーツアクターとして多くのファンを楽しませてくれた人物でした。

でも島野さん、選手としても元々は有望株でした。

1950(昭和25)年に横浜で生まれた島野さんは、中学校時代に野球を始めました。

しかし家庭が裕福でなかったため新聞配達のアルバイトをしていた苦労人で、それ故特待生として授業料が免除されるという理由で、神奈川県の強豪・武相高校に進学。

2年の夏にはエースとして活躍し、甲子園に出場。

翌年には県予選でノーヒットノーランを達成して2年連続で甲子園に出場し、その年のドラフト会議では、巨人が指名予定だった明大・星野仙一投手から急遽川上監督の意向で島野投手を1位指名。

当時としては破格の契約金1,500万円で入団しました。

     

        宮崎キャンプで川上監督の前で投球する島野投手

しかし実際には高校時代の投球過多が響いて入団時から肩痛に悩まされており、初勝利は入団3年目になってから。

1974年秋にニューヨーク・メッツとの親善試合で2勝し、翌春のベロビーチ・キャンプでアトランタ・プレーブスを完封して長島新監督に評価され先発ローテーションに入ったものの、勝ち星には恵まれず。

1976年までの4年間で僅か1勝(4敗)に留まりました。

翌1976年に阪急にトレードされたものの、在籍3年で1軍での登板はなく、1978年にひっそりと引退。

その後芦屋市内でスナックを経営していた島野さんに1981年

、突然阪急の球団マスコット〝ブレービー〟の着ぐるみ役の話が持ち込まれました。

 

何でも宴会での島野さんの明るさを憶えていた球団幹部が白羽の矢を立てたそうですが、島野さんは首を縦に振らず。

しかし改めて球団事務所に断りに行った際、メジャーリーグのサンディエゴ・パドレスで活躍する〝フェイマスチキン〟のビデオを見せられます。

     

更に担当者の

「野球を知らないと、できない仕事」

という殺し文句(?)に、お客さんが少しでも増えるなら・・・と、一転オファーを引き受けることに。

やると決めたら、そこはプロ。

人形劇団で特訓を重ねた後、1981(昭和56)年4月11日に西宮球場で〝ブレービー〟が初お目見え。

すぐさま人気者となり、阪急電車のホームや先頭車両などにイラストが登場するなど、注目を浴びました。

しかしそれ故に心無い一部メディアから、〝ドラ1選手、今は道化に〟等とネガティブ報道をされ、島野さん本人も一時期悩んだそうですが、球場近くの店で飲んでいた際、

 

「ブレービーがめちゃくちゃ面白かった」
「またブレービーを見たいから球場に連れて行って」

と親にせがむ子供の声を聞き、迷いが吹っ切れたといいます。

それ以降もファンを楽しませ続けた島野さんは、途中パフォーマンスで失敗・転倒して肋骨を3本折りながらも決して休まず、1998年11月までの11年間・1,175試合全てグラウンドに立ち続けました。

     

しかしこの着ぐるみ役は1試合で体重2,3kg落ちる程の重労働だったそうで、もしかしたらそれが彼の寿命を縮めたのかもしれません。

2010(平成22)年5月8日、島野さんは脳出血により59歳でこの世を去りました。

個人的には、日本プロ野球界のマスコット草分けとして是非島野さんの野球殿堂入りを願いつつ、あらためてご冥福をお祈り致します。🙏


          人気ブログランキング

今日は、日本を代表するグローバル企業、

 SONY

 

の創立記念日、節目の80周年にあたります。 

創業者のひとり、井深大(まさる)氏(1908-1997)は早稲田大学在学時に発明した〝走るネオン〟がパリ万博で金賞を獲得したエンジニア。

在籍した日本光音工業から出資を受け立ち上げた日本測定器という会社の常務となり、同社で戦時中兵器を開発していた時に、後に共同経営者となる盛田昭夫氏と知り合いに。

終戦後、疎開先の長野県須坂市から帰京した彼は、樋口晃氏らの仲間と共に1945年10月、日本橋・白木屋の3階に『東京通信研究所』を立ち上げました。

そして同研究所の仕事ぶりを紹介した新聞記事を故郷で読んだ盛田氏が井深氏と連絡を取り上京。

1946(昭和21)年5月7日に、『東京通信工業』 を設立したのです。

盛田氏の義父であり、戦後直後に文部大臣を務めた前田多門氏が社長に就任し、井深専務・盛田常務の他社員20数人での船出でした。

 

      

        創業当時の盛田常務(26歳・左)と井深専務(39歳)


当初は真空管電圧計の製造・販売からスタートした同社は、1950(昭和25)年に日本初のテープレコーダーを開発・販売。

更にその5年後にはトランジスタラジオの製造・販売を開始。
これを海外で販売する際に〝SONY〟のロゴをつけるように。

これは音を意味する英語の “Sonic ” の語源であるラテン語の

Sonus ”と、小さい坊やを意味する “Sonny ” に由来するとか。

どこの国でも同じように〝ソニー〟と読めて発音できる事を優先に考案したそうですから、当初から世界を舞台にすることを念頭に置いていたんですネ。

その後も1979年に発売された『ウォークマン』は爆発的大ヒットを記録。

 

若者のライフスタイルを変える程のインパクトを与えました。

ニホンザルがイヤホンをつけてジ~ッと音楽に聴き入るテレビCMも、実に印象的でしたネ。(↓)

 


個人的には、ソニーに関する印象的な出来事が2つあります。

ひとつは家庭用ビデオデッキにおける〝ベータ・VHS戦争〟。

ちょうど私が社会人になる前後に起きた、家電メーカーを二分したこの戦争・・・職場でもどちらのデッキを買うべきかで意見が分かれ、飲み会の席でもよく先輩社員と論争したものです。

結局、私はVHSを買ったんですけどネ。😅


もうひとつは、かつて私が在籍していた保険業界への進出。

私が社会人になる直前にソニー生命が誕生しましたが、更には1999年にソニー損保を設立。

家電メーカーが畑違いの保険業界に進出してきたのには驚きましたが、現在も存続しそれなりのシェアを持っているんですから、さすがです。

また現在では当たり前となっている〝執行役員制度〟もソニーが日本で初めて導入するなど、とにかく同社の独創性と先見性には何度も舌を巻いたものです。

そして私が同社の一番好きなところ・・・それは、創業当時同社が設立目的の第一に掲げた、

『真面目ナル技術者ノ技能ヲ最高度ニ発揮セシムベキ 自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設』

 

という文言。

おそらく現在の上場企業の中で、社是に〝愉快〟という単語が入っている会社はないのでは?

 

     

         現在のソニー本社(東京都港区港南)

 

創業当初からヒット商品を次々開発していた時は、実に愉快な職場だったのでしょう。

創業80周年を迎える同社は、現在総従業員数11万人超・連結売上約9
兆4,400億円という超巨大企業に成長。

ゲーム分野にも手を広げ、確かにお客さんは愉快な思いをしているでしょうが、家電分野ではここ数年ウォークマンのような人気商品が生まれていない気が・・・。

日本を元気づけるためにも、消費者をアッと驚かせるような新製品がソニーから生み出されることを心待ちにしています。扇子

 

 

          人気ブログランキング

かつて私が葬儀社の事務所を開いていた高島平は、マンモス団地で有名。

そこの住民が都心に行くために利用できる唯一の鉄道路線というか、そのために敷設されたと言っていいのが


 都営地下鉄三田線

この路線が全線開通したのが、今からちょうど50年前の今日でした。

 

     

 

同路線は、1957年に建設省から示された『東京都市計画高速鉄道網』で5号線(現・東京メトロ東西線)の分岐線として示された大手町~下板橋間の建設計画がルーツ。

その5年後に同線は分岐線ではなく独自の6号線として切り離され、5号線は営団が、そして6号線は東京都が建設することに。

開通当初『都営6号線』と呼ばれていたのは、このため。

 

1965(昭和40)年12月に着工し、3年後には巣鴨~志村(※現在の高島平駅)が開業。

団地に入居が始まった1972(昭和47)年6月に日比谷~巣鴨間、同年12月に日比谷~三田間が開通。

そして1976(昭和51)年5月6日・・・最後まで残っていた高島平駅~西高島平駅が繋がり、三田駅までの全線開通となりました。

ところで東京都内を南北に走るこの地下鉄には、おそらく他の路線にはない、ある特徴があります。

それは・・・まず、下の地図をご覧ください。

    

この路線は、地図左上の西高島平駅から、地図の右中程の 『中山道』 と記載されたあたり、志村坂上駅手前まで地上というか、高架上を走行します。

そのラインを西高島平からなぞっていくと、西台駅~蓮根駅、蓮根駅~志村三丁目駅、そして志村三丁目駅~志村坂上駅手前の間に、それぞれキツいカーブがS字のように存在していることが分かります。

まるで映画 『アンストッパブル』 の大曲りが3ヶ所連続であるかのようですが・・・なぜこんなルートになったのか?

当初案では、志村坂上地駅から中山道下を直進する予定でした。

しかしそれだと荒川の下をくぐることになり勾配が急になることと建設費が嵩む、ということで立ち消え。

そして次は蓮根駅からそのまま北上するルートが検討されましたが、そんな折に高島平団地の開発計画が持ち上がり、急遽蓮根駅から左に曲がって団地横に駅を作る現在の路線に決着したというわけ。

行き当たりばったりと言っては失礼ですが、結局は役人の判断の甘さというか先見性の無さで路線が針金を曲げるようにクネクネとなりました。

(※余談ですが、当初は西高島平から先を埼玉県大宮方面まで延伸させる計画もありましたが、結局は埼京線と競合するということで中止。 その計画路線上には、その後首都高速5号線・埼玉大宮線が開通しています。)

この都内ではまず味わえないS字高架上を走る地下鉄、是非一度体験してみてはいかが?



           人気ブログランキング

今から105年前の今日、世界的に有名な商品がフランスで新発売されました。

 

私とは最も縁遠いと思われる、その品物とは

 

  CHANEL N°5 

かつて記者から 「夜は何を着て寝るんですか?」と聞かれたマリリン・モンローが「シャネルの5番ょ!」と答えたことで一躍有名になりました。

               

      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-シャネル5番

 

ご存知の通り、シャネルはココ・シャネルCoco Chanel 1883~1971) が1910年にパリで帽子専門店を開いたのを皮切りに、斬新なデザインと素材で婦人服を発表・・・瞬く間に女性の支持を得て売上を伸ばした世界的ブランド。

 

その彼女が自らのオートクチュールで香水を発売することを思いつき、当時彼女の恋人だったロシア人貴族・パブロヴィッチ大公に紹介してもらったのが、ロシア生まれのフランス人天才調香師

エルネスト・ボー

               

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-エルネスト・ボー

        Ernest Beaux  1881~1961 

 

ポーはNo.1~5、No.20~24の番号をランダムにふった10本の試作品をシャネルに渡します。

 

その中から彼女が選んだのが、No.5。 その理由は、

 

「今年の5月5日に、5回目のファッションショーを開く時に発表したい。〝5〟は私のラッキーナンバーだから。」

 

だったとか。

 

とかくシャネルから5番目に発表されたと思われがちですが、実は最初に発売された香水だったんですネ。

 

その思惑通り、1921年5月5日に発表されたシャネルの5番は、花などの自然素材に加えて化学製品アルデヒドなど加えた約80種類もの香料をブレンドした格調高い香りは、今もって世界上の女性に愛されているのです。

 

ところで香水オンチの私には、どんな香りなのか全く分からず、

ウチの女王様に聞いてみました。

 

「おい、シャネルの5番って持ってるのか?」

 

「もちろんョ。 えっ、ここに持ってこいって?

 ・・・はい、コレ。 あらっ、もう無くなってるワ。

 ちょうど良かった、アンタ買ってョ。」

 

完璧なるヤブヘビ・・・嗚呼、何でこうなるの? 😣

 

 

          人気ブログランキング

5月5日は端午の節句であり、祝日・『こどもの日』

〝こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する〟日です。

子供たちの健やかなる成長を願いつつ、昨日に続き今日も国旗を掲揚しましょう

 

    

 

 

           人気ブログランキング  

野球の醍醐味・〝華〟といえば、やはりホームラン。

連日行われているプロ野球でも毎日のように各球場で飛び出しています。

日本のプロ野球では累計10万本以上出ていますが、その栄えある第1号が飛び出したのが、今からちょうど90年前の今日・・・あの 『二・二六事件』 が起きた2ヶ月半後のことでした。

球史に残るホームランを打ったのは

 藤井 勇 選手 (1916-1986)

名前を聞いてもピンとこない方が殆どだと思いますが・・・実は彼、あの〝不滅の大投手〟沢村栄治選手と高校時代からライバル関係にあった名選手だったんです。

 

        

 

鳥取県鳥取市で生まれた藤井選手は、地元・鳥取一中の4番打者として甲子園に3度出場し、1934年夏には沢村投手率いる優勝候補の京都商業に勝利。

日本職業野球連盟が結成された1936(昭和11)年に大阪タイガースと契約を結び入団。

甲子園の有名選手だった彼は、早速2番打者として活躍。

 

そして同年5月4日に甲子園球場で行われた対東京セネタース戦で、野口明選手から左中間に見事プロ野球第1号のホームランを放ったのです。

しかし栄えある第1号、実はランニング・ホームランでした。

当時の甲子園球場は、陸上競技など多種目に利用されていたためグラウンドが扇形ではなくほぼ三角形で、両翼110m・センター120m、左・右中間が128mもあるビックサイズ。(↓)

 

     

バットやボールの品質も現在より遥かに劣っていましたから、ちょっとやそっとでは柵越えは出ませんでした。

しかし逆に言えば、左中間を抜ければ悠々ホームインできたというわけ。

 

※ちなみにプロ野球における柵越えホームラン第1号は、これから18日後の5月22日に阪急軍の山下実選手が放っています

 

球場は両翼91m・中堅98mの宝塚球場でした。

 

球場によってこんなに大きさが違えば不平等になりますから、その後ラッキーゾーン(↓)が設けられたのは当然の流れ。

 

その後藤井選手は巨人軍に入団した沢村投手とも名勝負を繰り広げ、戦争をまたいで阪神から大洋に移籍し1958年まで実働18年にわたり現役を続け、通算1,482安打・146本塁打・打率.275という成績を残しています。

更に引退後は大洋の監督を務めたり、打撃コーチとして大洋では天秤打法で有名な近藤昭仁選手や桑田武選手、そして阪神に戻ってからは田淵幸一選手ら主力選手を指導・育成し、指導者としても高い力量を示しました。

是非沢村投手だけでなく、この藤井選手の名も記憶に留めていただきたく・・・。

さて、プロ野球の本塁打と言えば、昨年5月28日に巨人のキャベッジ選手が累計11万本目を放ちました。

現在は毎年1,000本前後が量産されていますから、次の区切り・12万本目が飛び出すのは、2035年のシーズン中でしょうか?

果たして誰が打つのか?・・・って、そんな先だと選手も少なからず入れ替わってますから、今から予想は立てられないか。😅

 

 

 

            人気ブログランキング  

今日・5月4日は、祝日『みどりの日』。

〝自然にしたしむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ〟日です。

 

昨日に引き続き、国旗を掲揚しましょう!

 

    

 

 

           人気ブログランキング