ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

今日・7月6日は、

 サラダ記念日

なのだそうな。 その理由は、昭和世代の方ならピンとくるはず。

 

歌人・俵万智さんが今から35年前の1987(昭和62)年に出版した第1歌集の表題歌

〝「この味がいいね」と君が言ったから 七月六日はサラダ記念日〟

に因みます。

       

俵さんは1962(昭和37)年に現・大阪府門真市に生まれました。

早稲田大学・第一文学部在籍中に短歌の道に入り、卒業後神奈川県立橋本高等学校の国語教員を務める傍ら発表した 『野球ゲーム』で第31回角川短歌賞の次席入選。

そして翌年には『八月の朝』で同賞を授賞し、短歌界では若手のホープとして注目を集めました。

その彼女の初めての歌集として出版されたのが 『サラダ記念日』 

でしたが、出版元の河出書房新社は初版わずか3,000部しか発行しなかったものの、前述の斬新な表題歌が世間の注目を集め、蓋を開けてみれば280万部の大ヒット。

同年の新語・流行語大賞では新語・表現賞を獲得し、ドラマ化もされました。

 

       

実はこの歌集、当初は角川書店から出版される予定でした。

角川書店が主催する短歌賞を獲得していたのですから当然の話・・・ですが、歌人でもあった当時の角川春樹社長が 「歌集・句集は売れない」 と出版に反対したため、河出書房新社からの出版になったそうな。

河出書房新社にすればタナボタでしたが、角川書店にとってはみすみす大魚を逸する形に。

後年春樹社長は、「人生最大の失敗だった」と嘆いたとか。

 

 ※角川書店に関する過去記事は、こちら。(↓)

まさに口語短歌ブームを巻き起こした一首でしたが、実はこの短歌には、ご本人曰く〝2つのウソ〟があるそうな。

1つは、当時の彼氏と野球観戦に行った際に持って行ったお弁当に入れたのがサラダではなく、カレー味の鶏のから揚げだったこと。

それを凄く気に入ってくれたことから、「ウケた! じゃあ、今日は記念日だナ。」と思ったとのこと。

 

サラダに変えたのは、唐揚げではヘビー過ぎるし、メインよりサブがおいしい方がより記念日にすることに意義があるんじゃないかと思ったからだそうな。

そしてもう一つは、日付け。

本当は7月より早く観戦に行ったそうですが、サラダが美味しい季節は初夏だと考え、〝しちがつ〟〝サラダ〟という音の響きが爽やかなので七月とし、7日の七夕だと恋人のイベントになってしまうので、何でもない日が記念日になることに意味があると考えて前日の六日にしたのだとか。

 

たった32文字の短歌一首にも、作者の創意工夫が込められているんですネ。

その俵さんは現在もツイッターをされていますので、興味のある方は覗いてみてください。(↓)

 

    https://twitter.com/tawara_machi

 

 

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野球選手、特に打者にとってのひとつの目標というか夢のひとつに、〝打率4割〟があると思います。

今日は、その夢をメジャー・リーグで叶えた最後の選手であり、MLB史上最高の左翼手と謳われた


   テッド・ウィリアムズ 選手

 Theodore Samuel "Ted" Williams

 

の命日・没後20周年にあたります。

 

       

 

ウィリアムズは1918年にカリフォルニア州のサンディエゴで生まれました。

 

地元ハーバート・フーバー高校時代からその才能は注目され、既にカージナルスやヤンキースから勧誘が来ていたそうですが、実家を離れることに母親が難色を示したため、彼は高校在籍時から地元マイナーリーグだったパドレスと契約。

そして1939年にボストン・レッドソックスにメジャー昇格すると、1年目から打率.327・本塁打31・打点145を叩き出し、いきなり打点王のタイトルを獲得。

そして1941年には456打数185安打で打率.4057を記録。

23歳1ヶ月での達成は史上最年少記録を塗り替えると同時に、首位打者と本塁打王(37本)を獲得。
(120打点は、打点王を獲得したジョー・ディマジオに5点足らず、三冠王を逃しました。)

これ以降、現在まで80年以上4割打者は出現していません。

翌年には念願の三冠王を獲得しましたが、惜しむらくはその後3シーズンを第二次世界大戦で、1952年から2シーズンを朝鮮戦争のために棒に振ったこと。

それでも1960年に引退するまでの通算成績は、打率.344・本塁打521・打点1,839は立派の一言。

特に出塁率.482は、現時点でもメジャー歴代1位として記録に残っています。

1984年に彼の背番号〝9〟がレッドソックスの永久欠番に指定されたのは、当然のことと言えましょう。

 

並外れた動体視力の持ち主で、78回転しているレコードのラベルを読めたとか。

また記憶力も抜群で、その日の試合で自分に投じられたボールのコース・球種をすべて記憶し、ノートに記録していたとか。

そんな才能の持ち主が、タバコも吸わず夜遊びにも出かけず夜10時には就寝するなど自己管理を徹底したそうですから、圧倒的な成績を残すのは当然だったと言えましょうか。

反面超一流選手にはよくあることですが、ウィリアムズも頑固というか偏屈な性格の持ち主だったそうで、堅苦しい事を嫌って終始ネクタイ着用を拒否し続けたそうな。

 

記者との関係も良好とは言えず、それ故に打率4割を達成した1941年、また三冠王を獲得した1942・1947年には、彼らの投票で決まるMVPに選出されませんでした。

また地元フェンウェイ・バークの外野席からのヤジが酷く、それ故にファンに対しても冷淡になり、圧倒的な成績を残しながらもディマジオ(↓)程の人気を得られなかったとか。

 

 

その後1969年から4年間ワシントン・セネタース(後にテキサス・レンジャース)の監督を務めるなどしたウィリアムズは、2002年7月5日に心不全により83歳でこの世を去りました。

日本人ではあまり馴染みのない選手ですが、実は我が国のプロ球界にも少なからず影響を与えているのです。

と言うのは、彼の著書 『バッティングの科学』 をノムさんこと故・野村克也さんが現役時代スランプに陥った際に読み、その中にあった

「ピッチャーはモーションを起こす時既に球種を決めており、その球種によってそのモーションに微妙な変化が出る」

という記述を読んだことから、投手の癖を研究するようになったから。

つまりその後ノムさんが提唱したID野球の原点は、ウィリアムスにあった・・・というわけ。

       

中古本とは言え少々お高い本ですが、興味のある方はご一読を。

 

 

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敗戦後の我が国は長らくGHQの占領下にありましたが、サンフランシスコ講和条約の締結により独立国家として国際的に認知されました。(↓)
 

 

これに伴い占領下における治安維持の一環として制定された、暴力主義的・反民主主義的と見做された団体の規制を目的とした 『団体等規正令』 に代わり、今からちょうど70年前の今日・1952年7月4日に国会で成立したのが

 

 破壊活動防止法

 

俗に〝破防法〟と呼ばれる法律です。(※公示・施行は同月21日)

 

同法は第一条に於いて

 

『団体の活動として暴力主義的破壊活動を行った団体に対する必要な規制措置を定めるとともに、暴力主義的破壊活動に関する刑罰規定を補整し、もって公共の安全の確保に寄与すること』

 

を目的とする・・・と定めていますが、当時は日本共産党や朝鮮人の武装革命闘争によって引き起こされる 『血のメーデー事件』(↓)など警察などへの襲撃やデモ行進の暴徒化に対する対応を念頭に置いて制定されたもの。

 

 

具体的には、破壊活動を行った団体に対し解散などを強制するなどの規制措置や刑罰規定を設けています。

 

また同法の適用に際して、基本的人権を定めた日本国憲法の基本理念に抵触する恐れがあることから、第二条においては

 

『この法律は、国民の基本的人権に重大な関係を有するものであるから、公共の安全の確保のために必要な最小限度においてのみ適用すべきであって、いやしくもこれを拡張して解釈するようなことがあつてはならない』

 

と釘を刺す形になっています。

 

同法規制対象に該当するか否かの調査と処分請求を行う機関は公安調査庁(Public Security Intelligence Agency )ですが、この第二条に照らしてその処分を審査・決定する機関として公安審査委員会が設置されています。

 

   ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

    公安調査庁のロゴマークと、同庁がある中央合同庁舎6号館

 

初めて同法が適用されたのは、1961年12月に起きた 『三無事件』 (旧日本軍将校らが首謀したクーデター未遂 ↓)。

 

 

その後の適用例としては1971年の 『渋谷暴動事件』 、また一部の赤軍派ら過激派活動家が同法に基づいて起訴されています。

 

そして同法が最も注目されたのは、『オウム真理教事件』 でしょう。

 

坂本弁護士一家殺害事件や松本・地下鉄両サリン事件を引き起こした同教団に対し、1995年に公安調査庁から解散を視野に入れた破防法の適用が申請されました。

しかし1997年、当時の公安審査委員会(委員長=堀田勝二弁護士)は、適用要件である〝将来の危険性〟を疑問視するとして申請を却下。

 

個人的には、あれだけの凶悪な大量殺人事件を引き起こした団体に対し適用できない法律など、存在価値がない・・・と呆れたものです。

 

これを受けて、政府は同年に 『無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律』 を公示・施行し同教団に対し定期的に立ち入り検査を行っているものの、同法に解散命令条項はありません。

 

破防法適用による解散を免れた同教団はその後分派・改称して存続しているどころか、最近では当時の事件を知らない若者を取り込み、再び信者数を増やしているとのこと。


一部政治家や所謂〝人権派〟弁護士、更に左翼メディアはこの法律を人権を侵害する憲法違反だと声高に叫びますが、彼等はサリン事件の被害者やその遺族、更には未だ緊張から解かれていない同教団関連拠点の近隣住民らに対し、堂々とそれを主張できるのでしょうか?


人権擁護を主張するのも結構ですが、万一テロなどの凶悪事件が引き起こされた場合、最も擁護されるべきは被害者の人権であることを忘れてもらっては困ります。

最後に、破防法に基づく調査対象団体・・・要は公安・警察が監視しているとされる団体を列記しておきましょう。

 
◆日本共産党
 ◆全日本学生自治会総連合(全学連) 代々木系
 ◆日本共産青年同盟共青同
 ◆
共産主義者同盟(共産同)
 ◆革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)
 ◆革命的労働者協会(革労協)
 ◆革命的共産主義者同盟(革共同)


略称では皆さんも聞き覚え・見覚えのある団体があると思いますが、ほぼ共通しているのは〝共産〟・〝革命〟ですネ。

これに大日本愛国党など右翼の8団体と、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)、更に1995年からは前述のオウム真理教が加えられています。

 

 

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オリンピック4連覇を果たし国民栄誉賞を受賞した、レスリングの女王の至言です。



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早いもので、今日は〝彼〟の十三回忌。

 

その突然の死を伝えるスポーツ紙一面は〝彼〟の名で埋め尽くされました。

 

その〝彼〟とは、

 

  オグリキャップ

 

第2次競馬ブームを巻き起こした、ハイセイコー以来・・・いやそれ以上とも言える国民的人気を誇った優駿でした。

 

    

 

 ※ハイセイコーに関する過去記事は、こちら。(↓)

 

1985年に生まれたオグリキャップは、生まれつき右前脚が大きく外側に向いており、なかなか自力で立ち上がることができなかったそうです。

 

競走馬としては決定的ともいえるハンデを負っていましたが、牧場主の手厚い世話により、やがてそれは矯正されました。

 

旺盛な食欲で立派な体駆となり、馬主の小栗孝一さんと父・ダンシングキャップの名を取り 〝オグリキップ〟 の名で1987年5月に岐阜・笠松競馬場でデビュー。

 

生まれついてのハンデをものともしない精神力の強さと度胸、それに頭の良さも兼ね備えていたという彼は初戦こそ2位だったものの、以後11戦10勝の圧倒的な強さを見せつけます。

 

当初は笠松競馬場で活躍させようと思っていた馬主の小栗さんでしたが、周囲の中央競馬への移籍を進める声に押され、それを最も強く勧めた佐橋五十雄さんにオグリキヤップを売却・・・晴れて中央競馬に活躍の場を移します。

 

読み方通りの〝オグリキップ〟 で登録され、1988年3月のペガサス・ステークスでメジャー・デビューを果たすや、いきなり1着。

 

その後も6連勝を続けたオグリキャップは、血統もさほど良くない地方競馬出身ということで多くの人々の支持を受け人気は鰻上り。

 

マスメディアで盛んに取り上げられるようになり、普段競馬に関心のない女性にまでオグリ・ファンは広がっていきました。

 

同年の天皇賞(秋)・ジャパンカップはそれぞれ2・3着だったものの、年末の有馬記念には見事1着・・・その人気は最高潮に達しました。

 

しかし関係者の証言を総合すると、その頃は既に全盛期を過ぎて体調は下り坂だったとのこと。

 

実際その後のレースでは精彩を欠き、1990年11月のジャパンカップでは11着の惨敗。 

馬主に脅迫状が送りつけられるなど、半ば社会問題化の様相を呈する中、彼の引退が決定したのです。

 

しかしそのまま消えなかったのが、オグリキャップのオグリキャップたる所以。

 

引退レースと位置づけられた同年末の有馬記念では4番人気を跳ね返し、天才・武豊騎手の騎乗で見事優勝!

 

全く競馬をやらない私でさえTV中継を観ましたが、ゴールを駆け抜けた後 「オグリッ!、オグリッ!」 という観衆掛け声に、ゆったりとコースを一周して応えた彼の〝ラスト・ラン〟は、実に感動的なシーンでした。(↓)
 

 

引退後種牡馬となったオグリキャップでしたが、残念ながら優良馬を残すことは出来なかったとのこと。

       

 

悠々自適の老後を送っていましたが、2010(平成22)年7月3日、ぬかるんだ地面に足を取られて転倒し右後足を複雑骨折、手の施しようがなく安楽死処置。

 

馬年齢で25歳・・・人間ならば80歳を優に超す大往生でした。

 

多くの人々に夢と希望を与えてくれた 〝地方の星〟 のご冥福を、
あらためてお祈り致します。笑3

 


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今日は、昭和世代には懐かしい〝ブルースの女王〟、
 

 青江 三奈 さん

の命日・二十三回忌にあたります。

 

       

 

青江(本名:井原 静子) さんは1941(昭和16)年に東京都江東区に生まれました。

※デビュー当時は、プロフィールで1945年生まれと4歳サバを
を読んでいたそうな。


天性の歌唱力に恵まれた彼女は、なんと高校在学時から銀座の『銀巴里』でステージに立っていたとか。

一旦は西武百貨店に勤務しましたが、やはり歌への未練は絶ち難く、クラブ歌手に。

そして1966年に浜口庫之助さん(↓)作曲の 『恍惚のブルース』 でメジャー・デビューを果たすと、いきなり80万枚の大ヒット。

因みに青江三奈という芸名は、この歌を作詞した川内康範さんが当時 『週刊新潮』 に連載していた小説 『恍惚』 のヒロイン歌手の名をそのまま貰いました。

早くも同年末の紅白歌合戦に初出場すると、1990年まで通算18回出場。

また1968年には100万枚を売り上げた 『伊勢佐木町ブルース』 で日本レコード大賞・歌唱賞を授賞。

更に同年リリースした 『長崎ブルース』は、その上を行く120万枚。

そして翌年の 『池袋の夜』 は150万枚という大ヒットを飛ばし、史上初の2年連続日本レコード大賞・歌唱賞獲得という快挙を達成。

森進一さんと共に、ハスキーボイスが大人気となりました。  

 

           

      

その後1983年まで16年連続紅白歌合戦に出場し、1984年にはブラジル公演、デビュー25周年の1990年に 『レディー・ブルース』 で日本レコード大賞・優秀アルバム賞を受賞。

 

元クラブシンガーでもあったジェームズ三木さん曰く、

 

「彼女こそジャズ・ラテン・カンツォーネ・シャンソンなどあらゆるジャンルに適応できるオールラウンドプレーヤーであった」

 

そうですから、実力の程が分かります。

一時の華やかな活躍は影をひそめたものの、その後もコンスタントに歌い続けた青江さんを病魔が襲ったのは、1999年。

同年1月下旬のコンサートを最後に、膵臓ガン(当時公表した病名は膵炎)の治療に専念しましたが、その甲斐なく・・・翌2000(平成12)年7月2日に59歳で帰らぬ人となりました。

 

残念だったのは、一時彼女と同居し歌唱指導を続け亡くなる2ヶ月前に入籍した作曲家の男性に対し、遺族が「遺産目当ての婚約だ」として訴訟を起こしたこと。

 

その後遺族同士が取り分を巡って更なる訴訟沙汰に・・・青江さんはさぞ草葉の陰で嘆き、吐息ならぬ溜息をついたことでしょう。

では青江さんのご冥福を祈りつつ、あの有名な吐息から始まる懐かしい 『伊勢佐木町ブルース』 をお聴きください。(

 

 

 

 

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今日は、仙台藩家臣として慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパに渡り、有色人種として唯一ローマ貴族となるなど波乱の人生を歩んだ

 支倉 常長

の命日・没後400周年にあたります。

       

          支倉常長像  17世紀 アルキータ・リッチ筆
 

常長は1571(元亀2)年に、桓武天皇を祖先とする山口常也の子として現在の山形県米沢市に生まれました。

その後伯父・支倉時正の養子になりましたが、時正に実子が生まれたため、主君・伊達政宗の命により家禄の1,200石を二分して600石取りになると、文禄・慶長の役に従軍して朝鮮に渡り、足軽・鉄砲組頭として活躍しました。

一方、1609年に前フィリピン総督ドン・ロドリゴ一行を乗せたサン・フランシスコ号がメキシコからの帰途台風に遭遇して現在の千葉県御宿町の海岸で座礁・難破。

地元民がこれを救助し、家康が彼等にウィリアム・アダムス(↓)が建造したガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラ号を寄贈して送還したことをキッカケに日本とエスパーニャ(スペイン)との交流がスタート。

 

 

これを知った伊達政宗(↓)はヨーロッパとの通商を目論んで使節団の派遣を決定し、その正使として常長を指名したのです。
 

 

1612年、常長はエスパーニャ人宣教師ルイス・ソテロを副使として総勢180名の使節団共々サン・セバスチャン号に乗り込んで、浦賀から出航

しかし暴風に遭遇し座礁したため仙台に戻ると、現在の石巻市で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で1613年8月に再出航。

 

一行はメキシコのアカプルコに向かうと、そこから陸路で大西洋岸のベラクルスへ。

そこから大西洋を渡ってエスパーニャに到着すると、小型帆船に乗り換えて川を北上し、1615年1月に国王フェリペ3世に謁見。


マドリードで国王列席の下、洗礼を受けました。

その後常長はイベリア半島から陸路でローマに入り、同年11月にはローマ教皇パウルス5世に謁見。

ローマ市議会から市民権と貴族の位を認める〝ローマ市公民権証書〟を授与されると、再びエスパーニャに戻ってフェリペ3世と通商交渉を行いました。

しかしその頃日本ではキリスト教の弾圧が始まっており、その事実がヨーロッパに伝わったことから結局交渉は成立せず。

常長はその後フィリピン・長崎を経由し、1620年9月に帰郷。

その2年後の1622(元和8)年7月1日に失意の中51歳でこの世を去りました。


                 常長の航路図
 

その後支倉家は家臣がキリシタンであったことから息子の代に一時家名断絶の憂き目にも遭うなど、主君の命を全うすべく何年も異国で頑張った常長としては、踏んだり蹴ったり?

しかし 『慶長遣欧使節関係資料』 として仙台市博物館に所蔵されている彼が持ち帰った文書や、
日本に残る絵画の中で実在の日本人を描いた油絵としては最古の作品である支倉常長の肖像画(クロード・デリュエ作↓)などが、2001年に国宝として指定されたのが救いでしょうか。

 

                 

 

ところで、伊達政宗が常長らをヨーロッパに派遣したことに関しては、異説が。

 

それは単なる通商交渉ではなく、正宗がローマ法王の支援を得て徳川幕府を転覆しようと企んでいた、というもの。

バチカン機密文書館庁に保管されている秘密史料の中に、政宗がカソリック王に叙任されることを願い出た証拠が残っているのが、その根拠だと言うのですが・・・。

政宗陰謀説に興味のある方は、こちらのご一読を。

 

         

 

 

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皆さんは、今から73年前の今日・・・終戦後間もない1949(昭和24)年6月30日に起きた

 

  たいら
 平 事 件

 

をご存じでしょうか?

同年4月に、日本共産党福島県石城地区委員会が横2.4m×縦1.8mという大型の宣伝用掲示板を設置すべく、平市警察に道路一時使用許可を申請。

警察側は一旦許可したものの、予想外に人が集まり交通に支障をきたしたため、6月25日に許可の取り消しを、更に6月30日午後4時までに撤去するよう通告したところ、これを「政治活動に対する弾圧だ」として共産党が反発。

6月30日午後3時半頃、共産党員と在日本朝鮮人連盟所属の朝鮮人約300名がトラックに乗るなどして平警察署に押しかけます。

署長は代表者との話し合いに応じたものの、彼らはそれで収まらず、労働歌〝インターナショナル〟を歌いながら署内に乱入。

署員に殴る蹴るの暴行を加えてガラスを次々と割り、約80名が所長室に乱入。(↓)

    

 

更に留置場にも侵入し、拘留されていた被疑者らを解放して逆に警察官を閉じ込めるという乱暴狼藉ぶり。

 

その上署長の辞任を要求するなどしましたが、午後11時頃に警察の応援部隊が来るという情報がもたらされ、彼らは現場から逃走。
(数日後には駐在所が襲撃され、駐在警官が自殺しています。)

その後平市警察署は捜査本部を設置。

 

県警から約700名の警官の応援を得て231人を騒擾(そうじょう)罪【※1995年から騒乱罪に改称】の容疑で逮捕し、159人を起訴。

最高裁まで争われた結果、有罪が確定しました。

拙ブログでこの事件を取り上げたのは、まず共産党と朝鮮人が密接に繋がっており、彼らが騒乱罪で摘発される犯行を繰り返してきた歴史があることを知っていただきたいから。

騒乱罪が適用された案件としては、1952年に起きた 『血のメーデー事件』・『大須事件』・『吹田事件』 がありますが、そのいずれにも彼らが絡んでいます。


 ※日本共産党の歴史については、こちらの過去記事を参照。(↓)



(↑)に書いた通り、日本共産党は今からちょうど100年前の1922(大正11)年に設立されましたが、その当初から朝鮮の独立を綱領に掲げており、1930年代から日本在住の朝鮮人共産主義者は続々と日本共産党に所属。


同党系労働組合の全協(日本労働組合全国協議会)は、最盛時の1931(昭和6)年時点で組合員3万人の内3割が朝鮮人だったとか。

その蜜月関係は、1955(昭和30)年1月に在日朝鮮人との連携解消を宣言したことで終わりを告げました・・・が、同党はこういった過去の暴力事件に関して一切口をつぐんだまま。

そのくせ、現在に至るも暴力革命を目指していることに変わりはありません。

だから同党は公安調査庁の調査対象団体になっているのです。

かつて日本を震撼させ混乱を引き起こした共産党と在日朝鮮人が依然として我が国に存在していることを、私たちはしっかりと認識すべきです。

 

 

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4年に一度、通常28日である2月が29日と1日増える〝閏年〟
(閏日)はお馴染みですが、


 閏 秒

に関してはピンとこない方が多いかもしれません。

この閏秒が初めて導入されたのが、今からちょうど50年前の今日のことでした。

昔は地球の自転を基準にして1日の長さが決められ、その1/24を1時間、その1/60を1秒としていました。

これに基づいて1920年代に制定されたのが〝世界時〟ですが、科学が進歩し、1967年から1秒の定義は、


〝セシウム133の原子の基底状態の2つの超微細準位間の遷移により放射される電磁波の周期の9,192,631,
770倍に等しい時間〟

とされ、所謂セシウム時計が〝原子時〟の基準に。

ところがこれにより、従来世界時として利用してきた地球の自転が、月の引力など様々な力学が働くことにより、一定でないことが判明。

実際には地球の自転はごく僅かずつ遅れているそうですが、原子時をそのまま採用し続けると、やがては昼夜や季節が時刻や日付けとズレてきてしまうため、その修正・調整が必要になりました。

1972年に定められたその〝協定世界時〟に基づいて同年6月30日午前0時に初めて行われたのが閏秒の導入だったのです。

※時差の関係で日本で行われたのは、翌7月1日・・・午前8時59分59秒と午前9時00秒の間に、午前8時59分60秒が挿入されました。

 

 

ちなみに、現在我が国で使用しているのは、2006年から導入している〝新日本標準時(Japan Standard TimeJST )システム〟。

 

セシウム原子時計群と水素メーザー原子時計群から出力される各原子時計間の極めて僅かな時刻差精密測定や制御をしているそうです。

 

        

 

この〝閏秒〟は初導入以来、累計27行われているとか。

地球の自転が不規則なため閏年と違って実施は不定期なのだそうですが、近年この閏秒廃止を提唱する国が・・・。

不定期な修正によるコンピューターの誤作動を恐れるアメリカ・フランス、そして実は日本も同調しています。

対してグリニッヂ天文台を有するイギリスやロシア・支那などが存続を主張。

2015年に行われた
国際電気通信連合(ITU)の世界無線通信会議で両陣営が協議したものの結論は出ず、更に研究を重ねて来年の会議で再検討する予定だそうですが、果たしてどうなる事やら・・・。

 

将来的には2038年問題(↓)などが指摘されてはいますが、本当にたった1秒の修正が世界的な混乱を引き起こすのか?

 

もし閏秒を廃止すると今後100年で90秒のズレが生じるそうですが、その時1回でまとめて修正することができないのか?

 

いずれにせよ、コンピューターのおかげで便利になった現代社会は、意外なところで脆弱化しているのかもしれません。😨
 

 

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世界で最も有名なアマチュア・ゴルファーといえば、〝球聖〟ボビー・ジョーンズ。(↓)

 

 

対して日本で最も有名なアマチュア・ゴルファーであり、同じく〝球聖〟とも称されるのが、中部銀次郎氏(1942-2001)。

日本アマ6回制覇という不世出の記録を持つ中部氏の生誕80周年を記念して、彼の言葉を集約した

『中部銀次郎 ゴルフ 心のゲームを制する思考』
              (本條 強・著 日経BPマーケティング・刊)


が発刊されたことを最近知り、早速読んでみました。

    

今日は、その中から私が特に感銘した箇所を(一部編集にて)皆様にご紹介したいと思います。

          ◆    ◆    ◆    ◆

「ゴルフでは悔しく思うことばかりおきますよね。 でも悔しい悔しいと言っていてはゴルフは楽しくないし、スコアも良くはなりません。

ですから、悔しいと思った時こそ逆に〝ありがとうございます〟と言うのです。」

 

「例えばティーショットでチョロして20ヤードしか飛ばなかったとしますよね。

カッと頭に血が上るでしょう。

でもその時に〝20ヤードも飛んでくれてありがとう〟と言うのです。

すると冷静になれるから、2打目で無理して飛ばそうと力むこともなくなるし、しっかり素振りしてアドレスを取って打つことが出来る。

つまり、連続ミスを防ぐことが出来るんです。」

「ティーショットでボールを曲げて林に入れた。 

ボールのところに行ってみたら、前は木が密集している。

自分の不運を嘆きつつ、頭に血が上っているから、エイヤッと狭い空間を狙った挙句、木に当ててОB・・・こうなると、悔しいが後悔に変わる。

でも、後悔しても後の祭りです。

だったら、ボールが見つかり打てることに感謝するわけです。

〝ありがとう〟と言えば冷静になれて、後ろに出すことも出来ます。

どんなことが起きても〝ありがとう〟と言ってしまえば、気分転換が出来、大叩きを防ぐことが出来るんです。」

「たとえトリプルを叩いても、トリプルで収まったと思えば感謝できますよね。 気持ちが切り替えられて、次のホールで良いプレーが出来るものです。」


          ◆    ◆    ◆    ◆

拙ブログでは、これまで何度か感謝の大切さを記事にしてきましたが、ミスショットした時に感謝するという発想は、これまでありませんでした。

短気な私はミスショットするとカッとして、更にドツボにハマることが

これまで何度もありましたから、その時に感謝して気を静めるという中部氏のアドバイスは、まさに目から鱗。

今後のラウンドで、是非実践したいと思います。

おそらくこの考え方はゴルフだけでなくあらゆるスポーツでも有効なはず。

是非皆さんも試してみてください。

中部さん、ありがとうございます。


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