ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

     

  祖国・日本を愛し、国旗・国歌を尊重しましょう!

第二次世界大戦後から現在に至るまで、紛争の火種が消えることはない、中東。

延々と続くイスラエルとアラブ諸国の対立の中にあって、一時期それを緩和すべく歴史的な平和協定を結んだのが、エジプトの

 

 ムハンマド・アンワル・アッ=サーダート 大統領

     Muhammad Anwar al-Sādāt


私を含め昭和世代の方にはサダト大統領としてお馴染みだったその彼が凶弾に倒れたのが、今から45年前の今日でした。


     

 

サダト大統領は1918年、首都カイロ近くのミヌーフィーア県で貧しいスーダン系エジプト人一家の13人兄弟の1人として生まれました。

1937年に王立陸軍士官学校の一期生として卒業後、通信部隊に配属。

間もなく第三旅団付きとしてマンガバドに赴任し、そこで後に彼の前任大統領となるナセルと出会います。

そして彼等は、1922年にイギリスの保護領として成立したエジプト王国をイギリス軍の支配から脱却させようとする祖国解放運動に加担。

 

1939年に陸軍通信学校に入学し、卒業時には総代として答辞を読んだ彼は、第二次世界大戦中ロンメル率いるドイツ軍に接触しイギリス軍の排除を目論むもののそれを察知され、軍法会議にかけられて投獄の憂き目に。

辛うじて銃殺を免れた彼は、1944年に脱獄してカイロの日本庭園に潜伏すると、終戦後はナセルと共に自由将校団を結成。

1952年のクーデター(エジプト革命)に加わった彼はラジオ

・テレビ局を占拠し、国民に革命の発表を行ないました。

 

翌年エジプトは王制を廃止し共和制に移行。
 

更に翌年ナセルが政権を樹立すると、サダトは国務大臣に就任。

1958年にナセルがシリアを合邦してアラブ連合共和国を建国し初代大統領になるとサダトは連合国務長官となり、その後人民議会議長を経て副大統領に。

そしてナセルが亡くなった直後の1970年10月大統領就任。

 

それまでナセルが行ってきた社会主義的経済政策から経済自由化への転換や、イスラム主義運動の解禁など大きく方向を転換させましたが、対イスラエル強硬路線は継承。

1973年10月にはシリアと共にイスラエルと開戦(第4次中東戦争)し、イスラエル軍に大打撃を与え、彼は国民的英雄に。

一方で、それまで手を結んでいたソ連と手を切り親米にシフト。

1977年にイスラエル・ベギン首相の招きでエルサレムを訪問すると、その翌年にはアメリカ・カーター大統領の仲介により、キャンプ・デービットで冒頭申し上げたイスラエルとの平和条約に合意。(条約締結は翌年。)

 

      


これにより、彼はベギン首相と共に同年のノーベル平和賞を受賞したのですが、当然他のアラブ諸国や国内のイスラム教徒から猛烈な批判を浴びることに。

それを抑えるべく、彼は1981年9月に反対派の知識人や活動家の多くを取り締まり拘束。

そして同年10月6日、第四次中東戦争の勝利を祝う戦勝記念日のパレードを観閲中、イスラム復興主義過激派・ジハード団に所属するハリド・イスランブリ砲兵中尉によって暗殺されてしまいました。

 

   

この銃撃戦でキューバの特命大使やオマーンの将官ら10名が死亡し、次期大統領のムバラクやアメリカ将官ら38名も負傷。

当時その暗殺劇の様子をニュース映像で見て、衝撃を受けたことを憶えています。

彼の葬儀には、ニクソンやキッシンジャーなど、世界各国から多くの指導者が参列しました。


※その襲撃や葬儀の模様を、こちらの動画でご覧いただけます。

 

 

生前彼は自分が暗殺されることを予期していたようで、手記には

「自分は、今まで永年の仇敵とされていたイスラエルとの間に平和を作り上げた。

これで人生の終わり。後はただ昇天を待つのみだ。」

と記されていたとか。

その合意が正しかったのかどうかは後々歴史が物語るでしょうが

、その命懸けの決断ができる人物こそ政治家に相応しいと言えましょう。

同じような決断と行動が取れる政治家・・・今の日本に、どれだけいるのやら?

 

 

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今日から受賞者が続々と発表される、ノーベル賞。

 

1973年に受賞され、現在も101歳でご健在の日本人物理学者による至言です。

 

 

 

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世代によって、ドラマ・映画で親しみを感じる〝親父役〟の俳優さんは違うと思いますが、私にとってのそれは、山村聡さんとこの方でした。

 

  ちゅうじょう  しず お 

 中 条  静 夫 さん

 

今日は、決して大スターではありませんでしたが、確かな演技力で作品を締めたこの名脇役の命日・三十三回忌にあたります。


     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

中条(本名:中條 靜雄)さんは、1926(大正15)年に新聞記者をしていた父の長男として静岡に生まれました。


名前の一字、〝静〟は生まれ故郷から取られたそうな。


父親の仕事の都合で上京すると、八王子商業高校卒業後、神戸製鋼に入社。

 

大東亜戦争に従軍経験もあったそうですが、教官から「学生のくせに名前がチュウジョウとは何事か!」と説教をされたことがあったとか。😣


元々両親が音楽に造詣が深く、また妹がミス八王子に選ばれた美女だったこともあり、1948年に大映の入社試験を受けたところ、2人とも合格。

 

しかし最終的に2人同時の入社は許されず、兄だけが映画界入りすることに。

 

その後ニューフェースとして銀幕デビューを果たしたとはいえ、しばらくは大部屋暮らし。 

 

安月給は仲間たちとの飲み代や麻雀・競馬に消えて行ったとか。

 

1959年に結婚したものの苦しい生活は変わらず、奥さんが靴箱作りの内職をして凌いでいたところに弟夫婦が相次いで亡くなり、残された3歳の遺児も引き取ったとか。

 

そんな善行に救いの神が手を差し伸べてくれたのでしょうか、彼にも人気ドラマ出演のチャンスが巡ってきました。

 

その番組とは、1965年から放映されたテレビドラマ『ザ・ガードマン』。


セコムが一気に業績を伸ばすキッカケとなった同番組で、主役の宇津井健さん(下写真・右)を盛り立てる脇役のひとりとして小森隊員役を演じた中条さんは、ある時別の役で演劇の舞台に立った時、観客から「あっ、ガートーマンだ!」と声をかけられるくらい有名に。

   
      

40歳にしてようやく名が売れた中条さんはその後コンスタントにドラマ出演を続けましたが・・・私が個人的に最も印象に残っているのは、NHK朝のテレビ小説 『雲のじゅうたん』(1976年)での父親役。

 

当時高校生だった私は、毎朝このドラマを観てから登校していたのですが、主役に抜擢された新人・浅茅陽子さんの謹厳実直な父親・左衛門役が実にハナリ役・・・以来 【中条さん=頑固親父】 というイメージが固まってしまいました。

 

その後 『あぶない刑事』 で刑事課長役としても高い評価を得た中条さんが肝不全のため68歳でこの世を去ったのは、1994(平成6)年10月5日。

 

ちなみに、その『あぶない刑事』の初回放送日が命日と同じ10月5日、そして死亡時刻の午後11時59分はストーリー上重要なカギを握る時刻だったとか。

 

これも因縁・・・だったのかもしれません。

 

遅咲きの苦労人・中条静夫さんのご冥福をお祈り致します。🙏


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拙ブログでは、教科書には取り上げられない優れた軍人を何人も取り上げてきました。

上は総理大臣も務めた大将クラスから下は中尉クラスまで階級は様々ですが、いずれも猛将・智将として名を馳せた方々ばかり。

ですが、今回ご紹介するのはちょっと毛色が違うというか、武勇伝ではなくその道徳心溢れる言動で〝聖将〟と謳われた、


 今村 均 陸軍大将

 

今日は、この多くの部下に尊敬され慕われただけでなく占領地の住民に慕われ、また敵国からも高く評価された旧日本軍人の命日にあたります。

 

      
 

1886(明治19)年に宮城県仙台区で生まれた今村少年は、新潟県の新発田中学を首席で卒業した秀才で、一高・東大も夢ではありませんでした。

しかし判事だった父親が亡くなったため進路を変え、授業料のかからない陸軍士官学校に進学、更に
陸軍大学校も首席で卒業し恩賜の軍刀を賜っています。


順調に昇進を重ねた彼は大東亜戦争開戦後、第16軍司令官として蘭印作戦を指揮。

敵失もあったものの僅か9日で約10万人のオランダ軍を始めとする連合国軍を無条件降伏させ、バレンバンの油田地帯を制圧。

オランダ統治時代に政治犯として捕らわれていたスカルノらを開放し、資金・物資を与えて独立を支援すると同時に各地で学校を建設。

 

一方で捕虜に対しても待遇に気を使い、反日機運を抑えることに成功。

特筆すべきは、1942年11月に第8方面司令官としてラバウルに赴くと、補給の途絶に備えて兵士たちに島の土地を開墾させて自給自足体制を整備するよう指示したこと。

自らも農具を手にして率先垂範で畑を耕したといいます。

これが功を奏し、その後アメリカ軍がラバウルの孤立化に成功しても、同島の日本兵たちは殆ど飢えることがありませんでした。


敗戦後、戦犯として連合国軍により軍法会議にかけられるも、現地人の有利な証言により死刑を免れ禁固10年の刑に、そして第16軍司令官としては降伏させたオランダ軍の裁判で無罪を言い渡されました。


そして驚くべきは、その判決に基づき巣鴨拘置所に収監された彼が 「自分だけ東京にはいられない」 と、かつての部下が劣悪な環境で服役している南方の刑務所での服役を志願したこと。

若い部下を特攻で死なせ、「オレも後から行く」 と言いながらのうのうと生き延びたり、部下を見捨てて我先にと戦地から日本に逃げ帰る上官も多い中、自ら部下たちと同じ環境に身を置こうとしたのです。

この配転の直訴を受けたマッカーサーGHQ司令長官は

「私は今村将軍が嘗ての部下達と共に服役するためマヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。」


と感嘆し、彼の希望を聞き入れました。


彼が赴いたニューギニア近くのマヌス島収容所は高温多湿の劣悪な環境で、収容されていた旧日本兵は睡眠すらまともに取れない状況だったそうですが、今村大将が穏やかな口調で要求した様々な提案をオーストラリア軍は素直に聞き入れ、収容環境はかなり改善されたといいます。

多くの部下を救うことに心を砕いた彼は、刑期満了で帰国後軍人恩給のみで質素に暮らしつつ戦死した部下の慰霊祭にこまめに顔を出し、遺児の就職の世話をするなど遺族の援助に心を砕きました。

出版した回顧録の印税は全てそれらの資金に充てたといいます。

1968(昭和43)年10月4日、82歳で天に召された今村大将・・・戦後は終生、戦争責任者として自らを責め続けていたのかもしれません。


そんな今村大将の生涯を描いたのが、この一冊。

 『責 任 ラバウルの将軍 今村 均』 

          (角田房子・著 ちくま文庫・刊) 

 

     

決して礼賛するだけでなく、数々の証言から今村大将の人間像や苦悩を浮き彫りにした秀作です。

武士道・道徳を重んじる日本人の規範として、皆さんにも是非今村大将の生き様に触れていただきたいと思います。

 

大将にまで登り詰めた秀才が、実は子供の頃夜尿症で苦しんだり登校拒否したり、また生涯短気な性格が治せなかった・・・などというエピソードを知ると、凡人の私は少しホッとしたりしますが。

あらためて〝聖将〟のご冥福をお祈り致します。🙏



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12年前に世界遺産に登録されてからは、私が帰省の際に走る上信越自動車道のI.Cにはそれまでなかった案内板も立てられました。 

群馬県の新名所として注目されるようになった、その
 

 富岡製糸場

が操業を開始したのが、今から154年前の今日でした。

 

   

 

江戸時代末期に開国して以来、日本は諸外国との交易を開始しましたが、当時最大の輸出品は、生糸。

しかし需要が急に高まったため生産が追い付かず、粗製乱造が祟って評価が落ちたため、政府は官営の器械製糸工場建設を計画。

 

① 洋式かつ最新技術の製糸技術の導入
② 外国人を指導者に招聘
③ 全国から工女を募集し、技術を修得した彼女らを指導者として

     出身地に戻す 

を基本施策とし、フランス人のポール・ブリュナを指導役として雇用し、いくつかの候補地の中から富岡に工場建設を決定。

   

     フランス技術陣の一行 ブリュナは後列右から2人目

1871年から建設を開始、翌1872(明治5)年7月には早くも主要建造物が完成し、10月4日の操業開始に漕ぎ着けたのです。

同製糸場は、長さ140mの繰糸所に300釜の繰糸器が並ぶ、当時の欧米工場の2倍近い世界最大の規模を誇っていました。

 

   


当初は赤字経営でしたが、1976(明治9)年に人件費の高い外国人が契約満了となって100%日本人の運営になってから黒字転換。

その後1893(明治26)年に三井家に払い下げられ、1902(明治35)年には原合名会社に譲渡。

1938(昭和13)年には株式会社富岡製糸所として独立したものの、その翌年に日本最大の製糸会社・片倉製糸紡績(現・片倉工業)株式会社に合併され、1987(昭和62)年まで操業を続けました。

そして偉いのは、この片倉工業。

操業停止後も年間1億円の費用をかけてこの文化財を維持したのですから。

そのおかげで世界遺産登録になり、更にその半年後に繰糸所・西置繭所・東置繭所の3棟が国宝に指定されたと言っても過言ではないでしょう。

 

 

 

さて製糸場と聞くと、多くの方が〝あゝ野麦峠〟や〝女工哀史〟など、若い工女たちの過酷な労働をイメージすると思います。

確かに彼女らは粗末な食事で1日12~14時間も働かされ、休日は月に2日という酷い労働実態だったようですが、それはあくまで後に操業を始めた民間製糸工場での話。

こと富岡製糸場に限っては例外で、1日8時間労働・週1日休だったようです。

技術習得ために全国から集められたのは旧士族の娘をはじめ優秀な女性で、将来指導者として期待された彼女らは皆高い教養を身につけており、労働実態もキッチリ。

工女は8段階のランクに分けられ、最高の一等工女には高収入ばかりか服装も特別待遇・・・おそらく皆競うように頑張っていたはず。

そのような環境の中で、1884(明治17)年度まで製糸技術習得のためこの工場で働いた女工は、延べ3,481名に上りました。

 

そんな彼女らの仕事ぶりを、実際に1873年4月から翌年7月にかけて伝習工女として働き、後に地元の西城村製糸場の指導者として活躍した長野県出身の士族で松代区長だった横田数馬の娘

・英(ひで)という女性が、軍人と結婚した後50歳になってから当時を思い出して書き記した

 『富岡日記』 (ちくま文庫・刊)

     

 

をお読みいただくと、よくお分かりいただけると思います。

17歳で未知の世界に飛び込んだ英さんの率直な筆遣いで、工場

・仕事の様子や世相が良く分かる日記(というより回想録)には時々驚かされたり、日常生活が目に浮かび思わず微笑んでしまいます。

 

     

          和田(旧姓・横田) 英
 

また「繰婦は兵隊に勝る」という初代工場長の言葉を胸に秘め、創業翌年には一等工女に手による生糸がウィーン万博で〝二等進歩賞〟を獲得するなど、我が国の工業近代化を支えた彼女らの心意気も感じていただけるはず。

 

私たちは命を賭して戦った兵士だけでなく、お国のため一心不乱に働いた女工たちの気概をも後世に伝えなければなりません。扇子

 

 

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・・・と言っても、考古学の話ではありません。

 

1983年まで日本テレビ系列で放送され、長きにわたり新人タレントの発掘に貢献した

 

 『スター誕生!』

 

昭和世代の方ならご存じであろう、このテレビ番組の第1回が放送されたのが、今から55年前の今日・1971(昭和46)年10月3日のことでした。

 

この新人スカウト番組・・・その後の芸能界に大きな影響を及ぼしたことでも知られています。

 

まず番組開始から10年近く務めた初代司会者が、欽ちゃんこと萩本欽一さん。

 

それまで『コント55号』で坂上二郎さんと常にコンビで活動していた欽ちゃんが初めてピンでした仕事であり、しかも司会は初体験。

 

しかし彼の出場者に対する暖かい接し方が審査員たちの辛口批評と絶妙なバランスとなり、番組の人気を支える要因になると同時に、欽ちゃんの新境地を開拓する結果になりました。

 

(私は観ていませんが、最後の1年は横山やすし・西川きよしの両名が務めていたそうな。)

 

そして斬新だったのは、素人の中から予選・本選を通して将来のスターを発掘するというオーディション形式を採用したこと。

 

       ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草


結果的に、この番組の成功が当時の芸能界の勢力図を大きく変えるきっかけにもなったのです。

 

番組開始当時の芸能界では、多くの歌手・タレントを擁した渡辺プロダクション(ナベプロ)が絶大な力を握っていました。

 

番組改編のゴタゴタで日本テレビはそのナベプロと対立しタレントの供給を止められたため、必然的に自力での新人発掘を迫られる事態に。


そして同局の音楽班が総動員で番組作りに取り組んだ結果、私の同い年の森昌子・桜田淳子・山口百恵の中三トリオや伊藤咲子・城みちる・岩崎宏美・片平なぎさ・新沼謙治、そしてあのピンクレディーら多くのタレント発掘に成功。

 

彼(女)らと優先的に所属契約を結んだホリプロ・サンミュージック・田辺エージェンシー等新興プロダクションが大きく勢力を伸ばし、ナベプロ独占を崩すきっかけになったというわけです。

 

しかし2匹目のドジョウを狙って他局がオーディション番組を立ち上げましたが、殆どが不発・・・やはり元祖は強かった!?

 

同番組が終了した後も復活を求める声が上がったことに対し、ホリプロの創業者・堀威夫氏は

 

「当時は3分で作れるカップ麺が受けた時代だから昨日の素人がアイドルになれる番組がウケた。 今は高い金を出して並んででも美味しいものを求める時代だから、もう最大公約数を求めるテレビはスターを作る番組は作れないだろう。」

 

と語ったとか。

 

しかし今、そこら辺にいそうな普通(?)の中・高校生がスターとして持て囃される時代・・・再び同様の番組が登場するかもしれません。

 

なんたって、歴史は繰り返すんですから。😅

 

 

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1961(昭和36)年に大阪府で生まれた彼は、高校3年生の夏休みにバイク運転中交通事故に遭って頭蓋骨陥没・左足粉砕骨折の重傷を負い、その影響で日大芸術学部に進学し映画監督になる夢を断念。

失意の中一念発起して関西学院大学に入学すると、1986年に卒業後すぐ自宅2階を使って学習塾を開設。 

「絶対に生徒を見捨てない塾ができました」

というチラシを近所に配った結果集まった32人の生徒の内、中三の殆どが公立高校に合格したことで評判となり、生徒が急増。

以来生徒は増え続け、開塾40周年を迎えた現在、37教室・生徒数1万人を超えるまでに成長しているそうな。

その創業者である

 木村  吉宏   さん

のインタビュー記事が、我が愛読誌・月刊『致知』10月号に掲載されていましたので、その中から人間教育に重きを置き「心が変われば成績が上がる」とする同塾〝ヒューマレッジ〟が掲げる『人生の勝利の方程式7ヵ条』をご紹介致します。

 

       

 

第1条 いつも明るく元気いっぱいの挨拶を自分からすること。

第2条 「しんどい」「ムリ」「ダルい」などのマイナス発言は、  

    教室ではもちろん自分一人の時も絶対口に出さない。

第3条 全ての事に「お願いします」の気持ちで取り組むこと。

 

第4条 自分の能力・可能性に自分で限界ラインを引かない。

第5条 「普通では無理」と思うような高い目標を期限付きで具

    体的に掲げ、地道な努力を決してやめずに続けること。

第6条 何かしてもらった時に「ありがとう」と言うことはもち 

    ろん、全ての事に対して常に感謝の心を持つこと。

第7条 他人を喜ばせる、幸せにすることが自分の幸せだと考え

    ること。

・・・いかがでしょうか?

子供の成績を上げるだけでなく、人間的な成長を促す指針だと思えますょネ。

つまり子供だけでなく、我々大人もより成長するためにすぐ実践するべき方程式ではないかと。


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お酒には様々な種類がありますが、蒸留などの作業を経ずに酵母によって原料をアルコール発酵させて作られるのが、醸造酒。

ワインやビールがこの醸造酒の範疇に入りますが、私たち日本人が忘れてならないお米を原料とする醸造酒・・・今日はその


 日本酒の日

なのだそうです。

 

十二支の10番目の〝酉〟は元々〝壺〟を表す象形文字で酒を意味していること、また新米が収穫されて酒造りが始まるのが10月であり、酒造家の間では10月1日を〝酒造元旦〟として祝う風習があることが、制定の理由だそうな。

前述のワインやビールの歴史は古く、紀元前6~5,000年前にはメソポタミア地方で製造されていたようです。

日本酒に関してはそこまで古い文献は残されていませんが、ヤマタノオロチが8つの首を8つの壺に突っ込み酒を飲んで酔ったところをスサノオノミコトが討ったという神話が。

また200年代に著された『魏志東夷伝』には倭人が酒をたしなみ葬儀の際には弔問客が〝歌舞伎飲酒〟をする風習があると記されているそうですから、それなりの歴史があるといえましょう。

その日本酒の麹を使った製法は奈良時代にはほぼ確立されていたそうですが、当時はまだ祭事や慶事の際に朝廷や武家・僧など特権階級が口にする程度。

一般に酒が普及したのは鎌倉時代以降で、徳利などの酒器が定着したのは室町時代に入ってから。

一方、糖化と発酵を同時に進行させる『並行複発酵』と呼ばれる醸造法は日本酒独自のもので、アルコール度数を20度まで持っていける醸造酒は日本酒だけなのだそうです。

そして夏は冷や、冬は熱燗と季節に応じて飲み方を変えられるのも、日本酒独自の楽しみ方と言ってよいでしょう。

皆さんは、どんな飲み方がお好みでしょうか?

       

私自身はどんな飲み方でも日本酒は大好きなんですが、損保勤務時代に新潟支店に転勤した時は、美味しい日本酒を沢山楽しむことができました。

越乃寒梅・八海山・〆張鶴等々、有名ブランドもそれぞれ美味しかったのですが、我が家にとって忘れられないのが、『麒麟山酒造』 というメーカーさん。

当時の新潟では全国的に名が通っていて大量に販売する酒蔵さんと、知る人ぞ知るというか地元のお得意さんを大事にする酒蔵さんの2通りに分かれていましたが、この麒麟山酒造は後者といって良いでしょう。

私自身転勤して自らが取引先として担当するまで知らないブランドでしたが・・・ここのお酒が美味しいんです。

特に気に入ったのが、3年寝かせて作られる長期熟成大吟醸の 『紅葉』というお酒。

当時とはちょっとデザインが違っていますが、現在の酒瓶も紅葉そのもの。


                    

一般的に新潟の酒は淡麗辛口というイメージが強いですが、コレはより芳醇な味わいが特徴。

一口飲んで気に入った私は、即購入して家に持ち帰りました。

実は、ウチの女王様は大の日本酒嫌いだったんです。

 

学生時代に居酒屋で無理やり安い日本酒を飲まされて頭が痛くなって以来、頑なに口にすることを拒否・・・そして、それは結婚してからも変わらず。

同じ醸造酒のワインが大好きなんだから、これなら・・・と思ったのです。

「いいから、騙されたと思って飲んでみろョ。」

と、半ば強引に飲ませると、一口含んだだけで、

「なっ、何これ。フルーティーな白ワインみたいで美味しい~。
これなら飲めるワ!」


と、いっぺんに日本酒好きに早変わり。

ただ問題なのは、この『紅葉』が当時1本6,000円(現在は税込7,700円)と高価だったこと。

以来日本酒と刺身が頻繁に食卓に並ぶようになったんですが、女王様はこれより安い酒には手を出さず。

家計を考えた時、果たして飲ませたことが良かったのか、悪かったのか・・・。😰

この『紅葉』は、10月限定販売品。
数に限りがありますので、興味のある方は早めにご注文あれ!

また、シャレたデザインの瓶に詰められた同社の大吟醸酒もイケます。

※麒麟山酒造のHPはこちら。(↓)            

 


ご購入については大手酒販店や通販サイトで、どうぞ。
 

 

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モーツァルトが作曲した最後のオペラにして、かつ最も人気が高いのは、   

   魔 笛   

 Die Zauberflöte

 

この作品が初演されたのは、今から235年前の今日・1791年9月30日・・・彼が亡くなる約2ヶ月前でした。

 

この作品は、モーツァルトとは旧知の仲で、ヨーロッパ各地を巡業していた旅一座のオーナー兼俳優だったエマヌエル・シカネーダーの依頼によって創られました。

 

仕事がなく生活に窮していたモーツァルトを見かねたシカネーダーが自ら書き起こした台本を渡すと、モーツァルトが1791年3月から半年間かけて9月28日に完成させ、その僅か2日後の初演でした。

 

会場はシカネーダーが座長を務めるウィーンのアウフ・デア・ヴィーデン劇場で、彼自身が主役のパパゲーノを演じ、モーツァルト自らが指揮をしたそうな。

 

              

          パパゲーノに扮したシカネーダー

 

ストーリーは王子が姫を救出する形で進行しますが、途中で善玉と悪玉が入れ替わるなど、やや辻褄が合わない部分が。

 

それはモーツァルト・シカネーダー両人がフリーメイソンの会員で、その教義を作品に埋め込んだため。

 

しかし全体的には堅苦しくなく随所に見せ場があり、約2時間半の公演時間でも観客は大いに楽しめる内容で、初演は大成功。

 

以後1年間で、100回も上演されたそうです。

 

この作品は、私自身初めてレコードを買ったオペラであり、大のお気に入り。

 

今でも時々聴いているCDは、その最初に買ったレコードのジャケットをそのまま転用した、カール・ベーム指揮/ベルリン・フィルの演奏で、この作品の〝教科書〟と言われている名演。

 

       

 

ではまず、その中から 〔序曲〕 をお聴きください。(↓)

 

 

 

今はもう1セット、カラヤン/ベルリン・フィルのCDも所蔵しているのですが、どうしても昔から聴き慣れたベーム版に手が伸びてしまいます。😅

 

     

 

そして、このオペラで何と言っても有名なのが、〝コロラトゥーラ〟と呼ばれるソプラノ歌手が人間の声の限界かと思われる、まさに転がるような最高音を出す大きな見せ場、『夜の女王のアリア』。(↓)

 

 

どうです、凄いでしょう。 

またYouTubeには、こんな動画も。

 

 

私は教室の黒板を引掻く時に出る音を思い出して顔が歪む、なんて言ったらモーツァルトと歌手に叱られるでしょうが。

 

その他にも、印象深い旋律が次々と出てくるこの作品、是非一度通しで聴いていただきたいと思います。

 

モーツァルト自身が、亡くなる間際まで 「もう一度聴きたい」 と言っていた名作ですから・・・。

 

さて私は今宵、ベームとカラヤンどちらを聴こうかしらん?

  

 

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日本女子マラソン界の名伯楽といえば、故・小出義雄監督。

拙ブログでも昨年取り上げました。(↓)

 

 
そして(↑)にも登場した有森裕子さんが、同じ月刊『致知』10月号で、逆に小出監督との思い出を語っておられました。

その中から、有森さん曰く「純粋にかけっこが好きだった」という監督の〝名語録〟の数々を以下にご紹介致します。

◆(↑)記事にも書いた通り、有森さんは監督と出逢う前は全く無名であり実績もありませんでした。

その彼女のリクルート陸上部に入りたいという熱意に、監督はこう言って迎え入れたそうです。

「よくぞここまで陸上を続けてきたネ。 
 素質とか実績も大事だが、一番大事なのは、やる気。
 その根拠のないやる気に興味がある。
 君のやる気を形にしたい。」
 
     

◆とは言え、当時の女子陸上界の一流選手ばかりの中で、有森選手のタイムは最下位。

でも過酷な練習をする中で、監督が有森選手に指示したのは、
「何時間かかってもいいから、メニューは全部こなせ。」

そして有森選手はその言葉を実行したことで、根気強く走ることができるようになり、これが後にマラソンに転向した彼女の飛躍に繋がったのだそうな。

そしてその時に監督がかけた言葉が、

「練習中きつい顔はしても、嫌な顔はするな。」

◆有森選手は先天性の股関節脱臼が尾を引き、ケガが絶えなかったといいます。

1992年のバルセロナ五輪の選考会前にも足首を捻挫し「また足を故障して走れなくなった」と弱音を吐いた際、監督はこう声をかけたそうな。

「物事には必ず意味がある。 
〝なんで〟故障したんだろうと思うな。
 どんなことが起きても〝せっかく〟と思え。」

たとえマイナスな出来事でも、〝せっかく〟と思えばポジティブに転換できる。
 
シンプルな監督の言葉に有森さんは前向きに考える癖がついたのだそう。
 
◆バルセロナ五輪からアトランタ五輪までの間、練習法を巡って監督と有森選手の間では喧嘩が絶えなかったとか。

それでも2人が師弟関係を解消しなかったのは、

「俺はな、お前を弱くしようとしてメニューは出していない」

という監督の言葉を聞いたから。
 
そんな経験を踏まえ、有森さんは最後にこう語っています。

「大切なのは、いい人に出逢えるかではなく、出逢った人にどう向き合って、何を学ぶか。 
 
運をいかに掴むか、逃すのかを決めるのは自分自身であり、環境や他人を言い訳にしていては何も始まりません。」
 
 
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