ナベちゃんの徒然草 -2ページ目

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日は、日本を代表するグローバル企業、

 SONY

 

の創立記念日、節目の80周年にあたります。 

創業者のひとり、井深大(まさる)氏(1908-1997)は早稲田大学在学時に発明した〝走るネオン〟がパリ万博で金賞を獲得したエンジニア。

在籍した日本光音工業から出資を受け立ち上げた日本測定器という会社の常務となり、同社で戦時中兵器を開発していた時に、後に共同経営者となる盛田昭夫氏と知り合いに。

終戦後、疎開先の長野県須坂市から帰京した彼は、樋口晃氏らの仲間と共に1945年10月、日本橋・白木屋の3階に『東京通信研究所』を立ち上げました。

そして同研究所の仕事ぶりを紹介した新聞記事を故郷で読んだ盛田氏が井深氏と連絡を取り上京。

1946(昭和21)年5月7日に、『東京通信工業』 を設立したのです。

盛田氏の義父であり、戦後直後に文部大臣を務めた前田多門氏が社長に就任し、井深専務・盛田常務の他社員20数人での船出でした。

 

      

        創業当時の盛田常務(26歳・左)と井深専務(39歳)


当初は真空管電圧計の製造・販売からスタートした同社は、1950(昭和25)年に日本初のテープレコーダーを開発・販売。

更にその5年後にはトランジスタラジオの製造・販売を開始。
これを海外で販売する際に〝SONY〟のロゴをつけるように。

これは音を意味する英語の “Sonic ” の語源であるラテン語の

Sonus ”と、小さい坊やを意味する “Sonny ” に由来するとか。

どこの国でも同じように〝ソニー〟と読めて発音できる事を優先に考案したそうですから、当初から世界を舞台にすることを念頭に置いていたんですネ。

その後も1979年に発売された『ウォークマン』は爆発的大ヒットを記録。

 

若者のライフスタイルを変える程のインパクトを与えました。

ニホンザルがイヤホンをつけてジ~ッと音楽に聴き入るテレビCMも、実に印象的でしたネ。(↓)

 


個人的には、ソニーに関する印象的な出来事が2つあります。

ひとつは家庭用ビデオデッキにおける〝ベータ・VHS戦争〟。

ちょうど私が社会人になる前後に起きた、家電メーカーを二分したこの戦争・・・職場でもどちらのデッキを買うべきかで意見が分かれ、飲み会の席でもよく先輩社員と論争したものです。

結局、私はVHSを買ったんですけどネ。😅


もうひとつは、かつて私が在籍していた保険業界への進出。

私が社会人になる直前にソニー生命が誕生しましたが、更には1999年にソニー損保を設立。

家電メーカーが畑違いの保険業界に進出してきたのには驚きましたが、現在も存続しそれなりのシェアを持っているんですから、さすがです。

また現在では当たり前となっている〝執行役員制度〟もソニーが日本で初めて導入するなど、とにかく同社の独創性と先見性には何度も舌を巻いたものです。

そして私が同社の一番好きなところ・・・それは、創業当時同社が設立目的の第一に掲げた、

『真面目ナル技術者ノ技能ヲ最高度ニ発揮セシムベキ 自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設』

 

という文言。

おそらく現在の上場企業の中で、社是に〝愉快〟という単語が入っている会社はないのでは?

 

     

         現在のソニー本社(東京都港区港南)

 

創業当初からヒット商品を次々開発していた時は、実に愉快な職場だったのでしょう。

創業80周年を迎える同社は、現在総従業員数11万人超・連結売上約9
兆4,400億円という超巨大企業に成長。

ゲーム分野にも手を広げ、確かにお客さんは愉快な思いをしているでしょうが、家電分野ではここ数年ウォークマンのような人気商品が生まれていない気が・・・。

日本を元気づけるためにも、消費者をアッと驚かせるような新製品がソニーから生み出されることを心待ちにしています。扇子

 

 

          人気ブログランキング

かつて私が葬儀社の事務所を開いていた高島平は、マンモス団地で有名。

そこの住民が都心に行くために利用できる唯一の鉄道路線というか、そのために敷設されたと言っていいのが


 都営地下鉄三田線

この路線が全線開通したのが、今からちょうど50年前の今日でした。

 

     

 

同路線は、1957年に建設省から示された『東京都市計画高速鉄道網』で5号線(現・東京メトロ東西線)の分岐線として示された大手町~下板橋間の建設計画がルーツ。

その5年後に同線は分岐線ではなく独自の6号線として切り離され、5号線は営団が、そして6号線は東京都が建設することに。

開通当初『都営6号線』と呼ばれていたのは、このため。

 

1965(昭和40)年12月に着工し、3年後には巣鴨~志村(※現在の高島平駅)が開業。

団地に入居が始まった1972(昭和47)年6月に日比谷~巣鴨間、同年12月に日比谷~三田間が開通。

そして1976(昭和51)年5月6日・・・最後まで残っていた高島平駅~西高島平駅が繋がり、三田駅までの全線開通となりました。

ところで東京都内を南北に走るこの地下鉄には、おそらく他の路線にはない、ある特徴があります。

それは・・・まず、下の地図をご覧ください。

    

この路線は、地図左上の西高島平駅から、地図の右中程の 『中山道』 と記載されたあたり、志村坂上駅手前まで地上というか、高架上を走行します。

そのラインを西高島平からなぞっていくと、西台駅~蓮根駅、蓮根駅~志村三丁目駅、そして志村三丁目駅~志村坂上駅手前の間に、それぞれキツいカーブがS字のように存在していることが分かります。

まるで映画 『アンストッパブル』 の大曲りが3ヶ所連続であるかのようですが・・・なぜこんなルートになったのか?

当初案では、志村坂上地駅から中山道下を直進する予定でした。

しかしそれだと荒川の下をくぐることになり勾配が急になることと建設費が嵩む、ということで立ち消え。

そして次は蓮根駅からそのまま北上するルートが検討されましたが、そんな折に高島平団地の開発計画が持ち上がり、急遽蓮根駅から左に曲がって団地横に駅を作る現在の路線に決着したというわけ。

行き当たりばったりと言っては失礼ですが、結局は役人の判断の甘さというか先見性の無さで路線が針金を曲げるようにクネクネとなりました。

(※余談ですが、当初は西高島平から先を埼玉県大宮方面まで延伸させる計画もありましたが、結局は埼京線と競合するということで中止。 その計画路線上には、その後首都高速5号線・埼玉大宮線が開通しています。)

この都内ではまず味わえないS字高架上を走る地下鉄、是非一度体験してみてはいかが?



           人気ブログランキング

今から105年前の今日、世界的に有名な商品がフランスで新発売されました。

 

私とは最も縁遠いと思われる、その品物とは

 

  CHANEL N°5 

かつて記者から 「夜は何を着て寝るんですか?」と聞かれたマリリン・モンローが「シャネルの5番ょ!」と答えたことで一躍有名になりました。

               

      ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-シャネル5番

 

ご存知の通り、シャネルはココ・シャネルCoco Chanel 1883~1971) が1910年にパリで帽子専門店を開いたのを皮切りに、斬新なデザインと素材で婦人服を発表・・・瞬く間に女性の支持を得て売上を伸ばした世界的ブランド。

 

その彼女が自らのオートクチュールで香水を発売することを思いつき、当時彼女の恋人だったロシア人貴族・パブロヴィッチ大公に紹介してもらったのが、ロシア生まれのフランス人天才調香師

エルネスト・ボー

               

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-エルネスト・ボー

        Ernest Beaux  1881~1961 

 

ポーはNo.1~5、No.20~24の番号をランダムにふった10本の試作品をシャネルに渡します。

 

その中から彼女が選んだのが、No.5。 その理由は、

 

「今年の5月5日に、5回目のファッションショーを開く時に発表したい。〝5〟は私のラッキーナンバーだから。」

 

だったとか。

 

とかくシャネルから5番目に発表されたと思われがちですが、実は最初に発売された香水だったんですネ。

 

その思惑通り、1921年5月5日に発表されたシャネルの5番は、花などの自然素材に加えて化学製品アルデヒドなど加えた約80種類もの香料をブレンドした格調高い香りは、今もって世界上の女性に愛されているのです。

 

ところで香水オンチの私には、どんな香りなのか全く分からず、

ウチの女王様に聞いてみました。

 

「おい、シャネルの5番って持ってるのか?」

 

「もちろんョ。 えっ、ここに持ってこいって?

 ・・・はい、コレ。 あらっ、もう無くなってるワ。

 ちょうど良かった、アンタ買ってョ。」

 

完璧なるヤブヘビ・・・嗚呼、何でこうなるの? 😣

 

 

          人気ブログランキング

5月5日は端午の節句であり、祝日・『こどもの日』

〝こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する〟日です。

子供たちの健やかなる成長を願いつつ、昨日に続き今日も国旗を掲揚しましょう

 

    

 

 

           人気ブログランキング  

野球の醍醐味・〝華〟といえば、やはりホームラン。

連日行われているプロ野球でも毎日のように各球場で飛び出しています。

日本のプロ野球では累計10万本以上出ていますが、その栄えある第1号が飛び出したのが、今からちょうど90年前の今日・・・あの 『二・二六事件』 が起きた2ヶ月半後のことでした。

球史に残るホームランを打ったのは

 藤井 勇 選手 (1916-1986)

名前を聞いてもピンとこない方が殆どだと思いますが・・・実は彼、あの〝不滅の大投手〟沢村栄治選手と高校時代からライバル関係にあった名選手だったんです。

 

        

 

鳥取県鳥取市で生まれた藤井選手は、地元・鳥取一中の4番打者として甲子園に3度出場し、1934年夏には沢村投手率いる優勝候補の京都商業に勝利。

日本職業野球連盟が結成された1936(昭和11)年に大阪タイガースと契約を結び入団。

甲子園の有名選手だった彼は、早速2番打者として活躍。

 

そして同年5月4日に甲子園球場で行われた対東京セネタース戦で、野口明選手から左中間に見事プロ野球第1号のホームランを放ったのです。

しかし栄えある第1号、実はランニング・ホームランでした。

当時の甲子園球場は、陸上競技など多種目に利用されていたためグラウンドが扇形ではなくほぼ三角形で、両翼110m・センター120m、左・右中間が128mもあるビックサイズ。(↓)

 

     

バットやボールの品質も現在より遥かに劣っていましたから、ちょっとやそっとでは柵越えは出ませんでした。

しかし逆に言えば、左中間を抜ければ悠々ホームインできたというわけ。

 

※ちなみにプロ野球における柵越えホームラン第1号は、これから18日後の5月22日に阪急軍の山下実選手が放っています

 

球場は両翼91m・中堅98mの宝塚球場でした。

 

球場によってこんなに大きさが違えば不平等になりますから、その後ラッキーゾーン(↓)が設けられたのは当然の流れ。

 

その後藤井選手は巨人軍に入団した沢村投手とも名勝負を繰り広げ、戦争をまたいで阪神から大洋に移籍し1958年まで実働18年にわたり現役を続け、通算1,482安打・146本塁打・打率.275という成績を残しています。

更に引退後は大洋の監督を務めたり、打撃コーチとして大洋では天秤打法で有名な近藤昭仁選手や桑田武選手、そして阪神に戻ってからは田淵幸一選手ら主力選手を指導・育成し、指導者としても高い力量を示しました。

是非沢村投手だけでなく、この藤井選手の名も記憶に留めていただきたく・・・。

さて、プロ野球の本塁打と言えば、昨年5月28日に巨人のキャベッジ選手が累計11万本目を放ちました。

現在は毎年1,000本前後が量産されていますから、次の区切り・12万本目が飛び出すのは、2035年のシーズン中でしょうか?

果たして誰が打つのか?・・・って、そんな先だと選手も少なからず入れ替わってますから、今から予想は立てられないか。😅

 

 

 

            人気ブログランキング  

今日・5月4日は、祝日『みどりの日』。

〝自然にしたしむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ〟日です。

 

昨日に引き続き、国旗を掲揚しましょう!

 

    

 

 

           人気ブログランキング

5月3日が『憲法記念日』であることは皆さんもご承知のことと思いますが、実は今日がもうひとつ歴史的な出来事が始まった節目の日であることをご紹介したいと思います。 それは

 極東国際軍事裁判

この所謂〝東京裁判〟が市谷にあった旧陸軍士官学校の講堂内で開廷されたのが、今からちょうど80年前の今日・1946(昭和21)年5月3日でした。

   


当該裁判は、アメリカを中心とした連合国側が、敗戦国・日本の指導者28名を

「平和愛好諸国民の利益に並びに日本国民自身の利益を毀損した侵略戦争を起こす共同謀議を1928年1月から(降伏文書に調印した)1945年9月2日にかけて行った」

とする『平和に対する罪(A級犯罪)』、『通常の戦争犯罪(B級犯罪)』及び『人道に対する罪(C級犯罪)』 容疑で裁いたもの。

裁判の過程はとてもブログ記事にまとめられませんので省略しますが、アメリカのキーナン判事以下イギリス・中華民国・カナダ

・ソ連・ニュージーランド6ヶ国の判事の多数決により1948年11月4日に言い渡された判決では、病死した2人と病気のため訴追免除された1人を除く全員が有罪となり、うち東條英機元首相を含む7人が絞首刑、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となりました。


     

              キーナン判事

 

この判決に関しては日本政府及び国会が1952(昭和27)年に発効した『日本国との平和条約(サンフランシスコ条約)』を受諾した際、当該判決に異議を申し立てる立場にない・・・即ち全面的に受け入れる立場を取っているため、公式的に覆すことはできません。

しかし私は個人的に、


◆ この裁判自体が事後法で、かつ大東亜戦争以前にまで遡って裁くという明らかに国際法上違法であること。

◆ 裁く側が全て戦勝国側によって構成され、しかも原爆投下など非人道的な攻撃に関しては一切不問に伏されるなど、明らかに
公平性を欠いていること。

等の理由で、この判決は承服できかねます。 

この点に関しては、インドのパール判事(↓)が提出した個別意見書にも同様の主張が掲げられており、無罪とするのが妥当と思われます。

 

 

また同裁判に於いては、判決後判事の1人が 「判事全員が集まって協議したことは一度もない」と証言していますから、最初から有罪ありきの出来レースであったことは明白。

 

しかも死刑囚7人の処刑が当時15歳であった皇太子(現在の上皇陛下)の誕生日だったことも、日本国民に敗戦の屈辱を植え付けさせる意図があったはず。

 

学校の授業では、(私の時もそうでしたが)この裁判の結果、日本が侵略戦争を起こした末に7人が絞首刑になった・・・という教え方をしていると思いますが、その中身が初めに日本叩きありきであり法律的に無茶苦茶な代物であったことを次世代に教えなければ、日本人が自虐史観から脱することが出来ないでしょう。

侵略戦争でなかったことは、3日前の拙ブログ記事でご紹介したフーヴァー元アメリカ大統領の回顧録やマッカーサーGHQ司令長官の証言で明白なのですから。

 

憲法記念日の今日は憲法に関し各地で議論されることでしょうが

、各ご家庭では是非この東京裁判の真相についてもお子さんたちに語り継いでいただきたいと思います。


         
人気ブログランキング

今日は、祝日『憲法記念日』。
 

1947(昭和22)年5月3日に日本国憲法が施行されたことを記念し、国の成長を期することを趣旨として制定されました。

国旗を掲揚し、日本の成長・防衛のために憲法は如何にあるべきかをご家族と考える1日にしましょう。

        

     

 

 

           人気ブログランキング

現在も共産党が一党独裁を続け、10億人以上の人口を持つ大国ながら、言論はネット時代になっても厳しく統制されている中華人民共和国。

しかしこの国でも、過去に広く国民の声を集めようとしたことがありました。

1949年、毛沢東はソ連のスターリンの協力を得て中華人民共和国を建国。


しかしそのスターリンが1953年に死去すると後任のフルシチョフがスターリン批判を始めたことで、中国における毛沢東の独裁体制にも暗雲が。

それに危機感を抱いた彼は、今からちょうど70年前の今日・1956年5月2日、最高国務会議の席上で、

 「共産党への批判を歓迎する」

という異例の発言を行い、春秋戦国時代に諸学派がそれぞれのイデオロギーを主張し論争を繰り広げた〝諸子百家〟をなぞらえた


 百花斉放 百家争鳴


と呼ばれる政治運動を提唱したのです。

      

 

しかし当初は、過去の弾圧を知っている国民から全く共産党批判は出ず。

そこで毛沢東は翌1957年2月、他党の代表者や共産党の幹部を集めて最高国務会議を開き、あらためて批判を要請。

更に翌月、全国宣伝工作者会議でも同様の要請をするに及び、それまで口をつぐんでいた知識人らが共産党批判を始めたのです。

 

ところがひとたび出始めた批判は、あたかも洪水の如し。

しかもその内容は次第にエスカレートし、共産党独裁や毛沢東の指導力不足を指摘する者まで出てくる始末。

更に共産党機関紙である人民日報までが党を批判するにおよび、毛沢東はそれらの意見が建設的ではなく破壊的なレベルに達していると危機感を抱きます。

 

1957年5月、毛沢東は共産党を批判する者たちも逆批判するよう言明。

結局批判した知識人らは彼によって〝右派〟というレッテルを貼られ、一転して粛清の対象に。

翌1958年までに右派分子と見做された550万人余りが失職

・追放・拷問、中には処刑された者もいたといわれます。

 

そして毛沢東が死去する1976年まで、言論の自由は封殺されました。

 

なぜ毛沢東が突然共産党批判を奨励したのか? その理由については人気回復のためなど諸説ありますがはっきりしていません。


結果的に不満分子の炙り出しになったことは確かですが・・・。

こういう裏切りの歴史を持つ国に、民主主義の導入や言論の自由が保障される時代が果たして来るのでしょうか?

そして我が国は、国民をも平気で欺く国家と外交で信頼関係を結べるという妄想は抱かない方が、身のためだとも思います。

決して支那・中共を信じてはいけません。



         人気ブログランキング