今年も熱闘が繰り広げられている、夏の甲子園大会。
過去数多くの名勝負が繰り広げられてきましたが、最も過酷だったであろう試合が行われたのが、今から85年前の今日・1933(昭和8)年8月19日のことでした。
それは、第19回全国中等学校優勝野球大会の準決勝、
中京商業学校(東海代表) 対 明石中学(兵庫代表)
高校野球史上最長の延長25回にも及ぶ大接戦となりました。
中京商業は、この大会に史上初の夏の大会3連覇がかかっており、対する明石中学は同年春の選抜大会で中京商業に勝っている・・・まさに実力伯仲、どちらも負けられない一戦。
両チーム一歩も譲らず 0-0 のまま延長に次ぐ延長・・・もうこの回で試合を止めよう、と大会本部が決めた25回のウラ。
中京商業は無死満塁のチャンスを摑み、1番バッターが打ったゴロを明石中学のセカンドがホームに悪送球、中京商業のサヨナラ勝ちで4時間55分に及ぶ激闘に幕が下ろされたのです。
中京商業のエース・吉田投手の投球数は336球、明石中学の中田投手は247球・・・両投手とも完投でした。
当時の甲子園のスコアボードは16回までしか表示できず、それ以降は黒い板に〝0〟と書いて釘で打ちつけていったそうで、この試合を契機に翌年軍艦型の新しいボードに改築されたとか。
中京商業はこの激闘の翌日、平安中学を2-1で下して前人未到の3連覇を達成したのですが・・・驚くべきは吉田正男投手、この決勝戦も2安打完投勝利! スゴイッ!
鉄腕・稲尾投手や平成の怪物・松坂投手も真っ青、まさに大車輪の活躍でした。
実はこの吉田投手、2回戦の浪華商(大阪代表)戦で味方の送球が左目の上に当たり流血。
試合を中断し、3針縫う応急処置だけでマウンドへ戻って投げ続けたそうな。
「ある意味、明石中学との延長試合よりきつかった。」
と後年述懐されたそうな。
しかも試合中は当時の「水を飲むな」という教えを忠実に守り、レモンをかじって我慢したというのですから、現在では考えられない丈夫さ・・・まさに鉄人です。
卒業後は明治大学に進学し、史上初の東京六大学4連覇に貢献。
社会人野球の藤倉電線に入社した年には、4試合を完投して同チームを都市対抗野球優勝に導いた吉田投手・・・その後中日スポーツの記者になられたそうですが、もしプロ野球に進んでいたら、どんな活躍をしたんでしょうネ?
延長25回の死闘を演じた両チームのメンバーは、ご高齢のため次々と鬼籍に入ってしまい、最後に残ったのは皮肉にもサヨナラ・エラーをした明石中学のセカンド・嘉藤氏だったとか。
その嘉藤氏は、生前
「なぜ、私のところに最後のボールが飛んできたのか?」
と自問を繰り返していたそうです。 で、辿り着いた答えは
「一番、弱い人間のところにボールが飛んできたんだ。」
だったとか。 こういう逸話を知ると、やはり高校野球は教育の一環たるべきだと痛感します。
その嘉藤氏も10年前に亡くなられ、遂にこの激闘を語ることの出来る当事者はいなくなってしまいました。
あまりに昔の試合ゆえに映像は残されていませんが、私たちはこの歴史や選手たちの頑張りを後世に伝えたいものです。
そして、この試合に出場した選手のうち、8人が戦死されたことも・・・。