球 審 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

「オレが投げなきゃ、試合は始まらない。」

よくピッチャーのプライドを示す言葉ですが、たとえ投げても彼がいなければ試合になりません。

それが、アンパイア。

今日は、その中でも日本プロ野球史にその名を残す

 

 島 秀之助 さん

の命日・二十三回忌にあたります。

 

         

 

島さんは、1908(明治41)年に兵庫県神戸市に生まれました。

神戸市立第一神港商業高校時代に外野手として4年連続甲子園に出場、法制大学時代には盗塁王を2度獲得。

卒業後は逓信省・簡易保険局に入り、そこの野球チームで選手兼任監督として3年間活躍し、その間東京六大学の専属審判も務めました。

そして1935年に、高校の7年先輩で、後に 「俺がルールブックだ」 の名セリフで有名になった二出川延明さんに誘われて、職業野球の名古屋金鯱に入団。

日本初のプロ野球試合となった巨人-金鯱戦に1番打者として出場しています。

※この試合に関する過去記事は、こちら。(↓)
 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11881772607.html

その二出川さんが1936年に金鯱軍を退団すると、その翌年に肩を痛めた島さんも引退。

するとまたしても、審判になった二出川さんに誘われて1938年3月に8人目のプロ野球審判員に。

1941年の阪神-阪急戦では、1度アウトをコールしながら阪急の抗議を受けてセーフに判定を変え、ノーゲームにしてしまう苦い経験も。

しかし島さんは、その後日本プロ野球の歴史に残る試合で、何度も球審を務めることに。

まずは1942年5月24日、史上最長の延長28回まで続いた大洋-名古屋戦。

実はこの試合、春季リーグ戦の最終日だったため、表彰式を行う都合もあって連盟から試合を終わらせるよう島球審に指示が出されたため、止む無く終了になったのだそうな。

もしそうでなければ、もっと世界記録は伸びていたんですって。驚き顔

 

1949(昭和24)年に2リーグ制に移行すると、セ・リーグの初代審判部長に就任した島さんは、翌年に行われた初の日本シリーズ及び翌年に開催された初のオールスターゲームでも球審を務めました。

そして最高の晴れ舞台と言えるのが、1959年6月25日に行われたプロ野球初の天覧試合・巨人-阪神戦の球審を務めたことでしょう。

          

(↑)は、長嶋選手がサヨナラ・ホームランを放った瞬間を捉えた有名な写真ですが、打球を目で追う球審が、島さんだったのです。

 

この試合の球審を任された時、島さんは

「試合中は陛下にお尻を向けてしまう形になるので、横に立った方がいいのだろうか?」

 

と真剣に悩み、またこの時頂戴した菊の御紋入りの煙草を長い間吸わずに大切に保管していたとか。

 

本当に真面目な方だったんですネ。


1983年12月に引退した島さんが、自宅の風呂場で亡くなったのは、1995年12月26日・・・87歳でした。
 

四半世紀に及ぶ審判生活で出場した公式戦は通算2,605試合。
その他オールスターゲーム12回、日本シリーズ10回、日米野球などを含めると3,000試合以上。

現役引退後も後進の指導にあたった島さんが審判に関わった期間は43年間に及びますから、1989年に野球殿堂入りしたのは当然です。

戦後黎明期からマスク越しにプロ野球を見つめ続けてきた島さんに、こんな著書があります。

 『プロ野球審判の目』 (岩波新書)

 

       
 

酒もギャンブルもやらない謹厳実直な人物だったという島さんが記した球界の裏話・・・昭和世代のプロ野球ファンにオススメします。

特に戦前・戦中の経験談は、私たち戦後世代にとって貴重な証言であり、野球ファンならば知っておきたい歴史の1ページと言えましょう。

今宵は同書を久々に読み返しつつ、あらためて日本プロ野球黎明期を支えた名審判のご冥福をお祈り致します。野球ボール

 

 

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