歴史学インタープリター
【そろそろ】
クラウゼヴィッツ学会の思い出でも語るか。
【ハムスター】
書記長は、相変わらず、はてなムラ症候群をこじらせていた。
予算折衝と学術的基礎付けの区別もつかない書記長。
ブルシーロフ攻勢を漫然と語って総突っ込みを入れられる書記長。
この気持ちを今あえて言葉にするなら、ニャーンこくまろみるく、かな。
【GGG】
GGGの人とダニガンとかセービンの話とかした。
聖蹟桜ヶ丘。
【インタープリター】
しょうも懲りずに駒場では科学技術インタープリターが流行っているようだ。
インタープリターと啓蒙主義者の区別もつかない奴が8割だろうが、それはともかく、歴史学インタープリターは遠からず(より多く)必要とされるようになるだろう。
服部さんの方向性として、これは1つありうるのではなかろうかと思う次第。
【ターミノロジー】
「解析教程 下」の191pには、null setとempty setは別物であると述べられている原註に対し、日常用語がそのまま学術用語として利用されているために必要な註であるという訳註がさらについている。
国際政治における現実主義と日常用語としての現実的に、直接の関係はない。
以上を踏まえて、日常用語としての歴史と専門分野としての歴史は別物である、という話をしていた。服部さんと。
高度に思い上がった素人には、科学と魔法の区別がつかない。
高度に発達した学術は、科学と魔法に絶対の区別を設けない。
【旅順・ヴェルダン・第二次上海】
ファルケンハインにラブ・レターを送るドイツの少女を想起するのが困難なのはなぜだろうか。
乃木司令部について色々と話をしていた。服部さんからすれば、乃木個人が特別に責められる謂れはないということで良いだろう。しかし、私は、乃木個人が責められるべくもない平均的な(あるいは平均以上の)司令官であったことは、彼の将軍としての立場を必ずしも擁護しないと思っている。
現代的なと言ってもよいし、ドイツ的なと言ってもよいが、組織において「コンパチブル」であることはとても重要であると考えられる。そのような発達した組織においては、コンパチブルで常識的な指揮をする乃木司令部がとかく言われることはない。しかし、当時の(そして今も!)日本の軍隊は、パーソナリティの余地を残すものであったと思われる。
つまり、乃木将軍の罪は、天才将軍でなかったことである。与えられた任務に対して本質的に凡庸であらざるをえないとき、人間は何に頼ればよいのだろうか。本当に困ったことだ。
無茶な話だと思うだろうか。しかし、現代の学術者の多くは、巨大なプログラムの中に組み込まれつつも、自分が天才でないことに密かに苦しめられているのである(除く社会学)。
後世の人間が考えるべきことは乃木将軍への評価などではない。旅順を前にしたとき、そこに特別な何か(当時誰も見えなかった)が見えるかどうかである。もし、そこに特別な何ものも存在せず、本質的に乃木司令部(および第3軍)以上のことができたわけではないのなら、それは1つの知見である。
乃木希典は、とても立派な人間である。それを言うならば、ファルケンハインよりも皇太子殿下の方が遥かにマトモで立派な人間である。
だから何だろうか。まともな人間の作る作戦はまともな結果を生むと信じるなら、第5軍で死ぬ以外の道はない。
それはそうと、上海の2万のトーチカはどういう配置になっていたんだろうか。
第百一師団長日誌でも読もう。書いてないとは思うけど。
【1916年没】
あの年に死んだのは、理想一般というよりはイデオロギーである。
戦争はいとも容易くイデオロギーを破壊する。とすれば、反戦イデオロギーは、イデオロギーがそれ自身存続を求めるという意味で、イデオロギー一般に内在していてもおかしくはない。ところが、現実には反戦イデオロギーは特殊のイデオロギーでしかない。
そこで、このように考えてみる。すべてのイデオロギーは遅かれ早かれ死ぬ。戦争がもたらすのは、加速である。どのみち起こることを早めているに過ぎない。すべてのイデオロギーは戦争の中でより速やかに死ぬ。
とまあ考えてみても、どうもしっくり来ない。
どうやら、あの年に死んだのは、フランスでしかなかったようだ。
【戦争概念を生成する基について】
色々言っても、戦争は大体戦闘を含む概念として成立してきた。そんな話をクラウゼヴィッツ学会の人としていた。
もちろん、戦争概念を拡張した場合は、戦闘を必要条件とはしないだろう。しかし、特に戦争と人が呼び習わしてきた現象について、少なくとも戦闘を含む形で生成するような諸基底を考えるのは無意味ではないはずだ。あるいは、戦闘概念を拡張するのも悪くはない。
クラウゼヴィッツ学会の思い出でも語るか。
【ハムスター】
書記長は、相変わらず、はてなムラ症候群をこじらせていた。
予算折衝と学術的基礎付けの区別もつかない書記長。
ブルシーロフ攻勢を漫然と語って総突っ込みを入れられる書記長。
この気持ちを今あえて言葉にするなら、ニャーンこくまろみるく、かな。
【GGG】
GGGの人とダニガンとかセービンの話とかした。
聖蹟桜ヶ丘。
【インタープリター】
しょうも懲りずに駒場では科学技術インタープリターが流行っているようだ。
インタープリターと啓蒙主義者の区別もつかない奴が8割だろうが、それはともかく、歴史学インタープリターは遠からず(より多く)必要とされるようになるだろう。
服部さんの方向性として、これは1つありうるのではなかろうかと思う次第。
【ターミノロジー】
「解析教程 下」の191pには、null setとempty setは別物であると述べられている原註に対し、日常用語がそのまま学術用語として利用されているために必要な註であるという訳註がさらについている。
国際政治における現実主義と日常用語としての現実的に、直接の関係はない。
以上を踏まえて、日常用語としての歴史と専門分野としての歴史は別物である、という話をしていた。服部さんと。
高度に思い上がった素人には、科学と魔法の区別がつかない。
高度に発達した学術は、科学と魔法に絶対の区別を設けない。
【旅順・ヴェルダン・第二次上海】
ファルケンハインにラブ・レターを送るドイツの少女を想起するのが困難なのはなぜだろうか。
乃木司令部について色々と話をしていた。服部さんからすれば、乃木個人が特別に責められる謂れはないということで良いだろう。しかし、私は、乃木個人が責められるべくもない平均的な(あるいは平均以上の)司令官であったことは、彼の将軍としての立場を必ずしも擁護しないと思っている。
現代的なと言ってもよいし、ドイツ的なと言ってもよいが、組織において「コンパチブル」であることはとても重要であると考えられる。そのような発達した組織においては、コンパチブルで常識的な指揮をする乃木司令部がとかく言われることはない。しかし、当時の(そして今も!)日本の軍隊は、パーソナリティの余地を残すものであったと思われる。
つまり、乃木将軍の罪は、天才将軍でなかったことである。与えられた任務に対して本質的に凡庸であらざるをえないとき、人間は何に頼ればよいのだろうか。本当に困ったことだ。
無茶な話だと思うだろうか。しかし、現代の学術者の多くは、巨大なプログラムの中に組み込まれつつも、自分が天才でないことに密かに苦しめられているのである(除く社会学)。
後世の人間が考えるべきことは乃木将軍への評価などではない。旅順を前にしたとき、そこに特別な何か(当時誰も見えなかった)が見えるかどうかである。もし、そこに特別な何ものも存在せず、本質的に乃木司令部(および第3軍)以上のことができたわけではないのなら、それは1つの知見である。
乃木希典は、とても立派な人間である。それを言うならば、ファルケンハインよりも皇太子殿下の方が遥かにマトモで立派な人間である。
だから何だろうか。まともな人間の作る作戦はまともな結果を生むと信じるなら、第5軍で死ぬ以外の道はない。
それはそうと、上海の2万のトーチカはどういう配置になっていたんだろうか。
第百一師団長日誌でも読もう。書いてないとは思うけど。
【1916年没】
あの年に死んだのは、理想一般というよりはイデオロギーである。
戦争はいとも容易くイデオロギーを破壊する。とすれば、反戦イデオロギーは、イデオロギーがそれ自身存続を求めるという意味で、イデオロギー一般に内在していてもおかしくはない。ところが、現実には反戦イデオロギーは特殊のイデオロギーでしかない。
そこで、このように考えてみる。すべてのイデオロギーは遅かれ早かれ死ぬ。戦争がもたらすのは、加速である。どのみち起こることを早めているに過ぎない。すべてのイデオロギーは戦争の中でより速やかに死ぬ。
とまあ考えてみても、どうもしっくり来ない。
どうやら、あの年に死んだのは、フランスでしかなかったようだ。
【戦争概念を生成する基について】
色々言っても、戦争は大体戦闘を含む概念として成立してきた。そんな話をクラウゼヴィッツ学会の人としていた。
もちろん、戦争概念を拡張した場合は、戦闘を必要条件とはしないだろう。しかし、特に戦争と人が呼び習わしてきた現象について、少なくとも戦闘を含む形で生成するような諸基底を考えるのは無意味ではないはずだ。あるいは、戦闘概念を拡張するのも悪くはない。
植民地制定権力
植民地人は不勉強の言い訳にならない。
【反知性主義】
用いた本は、カール・シュミットの「パルチザンの理論」。
ちくま学芸文庫で数年前に復刊したが、早速入手に難が。ジュンク堂にはあるらしい。
【ちくま学芸文庫】
ディラックが陽電子を提唱する過程は面白い。
先日、私が述べた「負の交換」もディラックを思いながら考えた。ちなみに、先日の記事は、食後に父と話した内容そのままである。
【We can 数学者】
佐藤幹夫の本が出ていた。メモ。
佐藤は、ディラックのデルタ関数を不自然とし、佐藤超関数に至ったそうだ。
あらゆるイデオロギーが敗北する中で、この「自然」というイデオロギーはなぜ生き延び続けているのだろうか。あるいは、イデオロギーではないのか。
イデオロギーですらないとしたら、数学者の確実性は、自然と素朴という2つの感覚に凝集されているのかもしれない。
【読書会への道】
最初の1時間以上、何を話していたのかは知らない。しかし、最後の30分を聞いただけで、ろくなことを話していなかったことはわかった。
人間は、普段から自分が言っているようなことでさえ、目の前に書いてあったり起こったりしても理解できないものだ。そのような実例だった。
【読書会の後】
hentai号で総統と駒場に戻り、S津会長宅を襲撃するも居留守、次に目標を変え数学のK君を拾うなどのp行為に励んでいた。結局、なぜか(真夜中の)自由が丘に行き、主にK君と数学ないし下らない話をした。
そのときはsymmetric functionのcharacterについてだったが、K君は英語のテキストに苦戦していたようだった。それにしても、embedが埋め込みだとわかっただけで褒めるのは如何なものか。
ある2つの群に関してcommutatorの和をとるところで、群なのになぜ和が規定されるのだろうという素朴な疑問を発していたK君。それに対し、Q-algebraを指しながら、group Gとfield Qによってgroup ring Q[G]が規定されているんじゃないのと言いながら、書記長のことを思い出していた。
書記長は「体の公理」とか無駄に言うけど、体って何かわかってるのだろうか。
【数学的形式主義】
圏論でモノイドの説明(という表現は正確でない気がするが)をするときに使う図式が便利かもしれない。
"1"が何を表しているか指定しないことこそが数学の形式を端的に説明している気がするが、一応数学の枠内で説明するのがスマートというものだ。
2つの1が、それぞれidと{0}を表している図を示せば、数学が「絶対的1」「実存的1」に拘っていないことが一目瞭然だろう。
【欲望】
こうやってYさんと書記長を馬鹿にしておけば、いつか耐えられなくなったどちらかが自分を刺しに来るだろう。
そうしたら、やっとこの苦しい人生に言い訳のつく形で終止符が打てるというものだ。
「学問に熱心なあまり、他人の不興を買い、殺害される。享年△×歳」
【反知性主義】
用いた本は、カール・シュミットの「パルチザンの理論」。
ちくま学芸文庫で数年前に復刊したが、早速入手に難が。ジュンク堂にはあるらしい。
【ちくま学芸文庫】
ディラックが陽電子を提唱する過程は面白い。
先日、私が述べた「負の交換」もディラックを思いながら考えた。ちなみに、先日の記事は、食後に父と話した内容そのままである。
【We can 数学者】
佐藤幹夫の本が出ていた。メモ。
佐藤は、ディラックのデルタ関数を不自然とし、佐藤超関数に至ったそうだ。
あらゆるイデオロギーが敗北する中で、この「自然」というイデオロギーはなぜ生き延び続けているのだろうか。あるいは、イデオロギーではないのか。
イデオロギーですらないとしたら、数学者の確実性は、自然と素朴という2つの感覚に凝集されているのかもしれない。
【読書会への道】
最初の1時間以上、何を話していたのかは知らない。しかし、最後の30分を聞いただけで、ろくなことを話していなかったことはわかった。
人間は、普段から自分が言っているようなことでさえ、目の前に書いてあったり起こったりしても理解できないものだ。そのような実例だった。
【読書会の後】
hentai号で総統と駒場に戻り、S津会長宅を襲撃するも居留守、次に目標を変え数学のK君を拾うなどのp行為に励んでいた。結局、なぜか(真夜中の)自由が丘に行き、主にK君と数学ないし下らない話をした。
そのときはsymmetric functionのcharacterについてだったが、K君は英語のテキストに苦戦していたようだった。それにしても、embedが埋め込みだとわかっただけで褒めるのは如何なものか。
ある2つの群に関してcommutatorの和をとるところで、群なのになぜ和が規定されるのだろうという素朴な疑問を発していたK君。それに対し、Q-algebraを指しながら、group Gとfield Qによってgroup ring Q[G]が規定されているんじゃないのと言いながら、書記長のことを思い出していた。
書記長は「体の公理」とか無駄に言うけど、体って何かわかってるのだろうか。
【数学的形式主義】
圏論でモノイドの説明(という表現は正確でない気がするが)をするときに使う図式が便利かもしれない。
"1"が何を表しているか指定しないことこそが数学の形式を端的に説明している気がするが、一応数学の枠内で説明するのがスマートというものだ。
2つの1が、それぞれidと{0}を表している図を示せば、数学が「絶対的1」「実存的1」に拘っていないことが一目瞭然だろう。
【欲望】
こうやってYさんと書記長を馬鹿にしておけば、いつか耐えられなくなったどちらかが自分を刺しに来るだろう。
そうしたら、やっとこの苦しい人生に言い訳のつく形で終止符が打てるというものだ。
「学問に熱心なあまり、他人の不興を買い、殺害される。享年△×歳」
交換の理論と社会科学の近代化
【序】
私が普段から公言している「軍事学の構築」とは、本当のところ政治学や経済学と同列としての軍事学ではなく、それらすべて(少なくとも経済および軍事)の基礎付けとなる「社会現象の原理に関する学」のことである。
本当は社会学と言いたいのだが、「あの」社会学と誤解されると嫌なので、上記のように説明している。
【テクストなんちゃら】
最初に「交換」によって一般化することを宣言する。
「交換の非可換性」から「系」までが経済学における交換の話で、「双方利益を得るモデル」。
「キル・レシオ」から「ネガティブ・サム・ゲーム」までが軍事における交換、つまり「双方不利益を被るモデル」。
「ゲーム一般」「交換一般」は交換一般の理論に移行する途中力つきた痕跡。
「中断」「余談」はただの余談。
【アイディア】
交換は経済学において語られるが、より一般化し、社会科学全般の基礎付けに利用できるのではないか。
【一般化】
経済学における交換は、双方が利益を得る場合のみを論じていると考える。
2者間のモデルのとき、利益/不利益によって4(3)通りの場合が考えられる。経済学における交換は、そのうちの1つのみに着目していると考える。さらに、利益/不利益に加えて「どちらでもない」を認めると、9(6)通りが考えられる。括弧内は2者を区別しない場合。
【交換の非可換性】
交換現象は非可換である。2物について、
{i,j}→{j,i}, {i,j}≠{j,i}
f({i,j})<f({j,i})
が交換を表していると考える。fは1価変数。
非可換性と非線形性は対応しているので、線形性を前提とした議論は一般に成り立たない。
可換は要するに交換可能という意味だが、経済学における交換は非可換である。こうしてみると、この交換という概念は、学術用語と日常用語を混同した場合に著しく混乱することが予想できる。
交換の非可換性は公理である。このような性質を含む現象を交換と呼ぶと宣言しているに過ぎない。ただ、可換性との兼ね合いは微妙なところがあるので、一般に非可換であるなどとするのが穏当だ。環が一般に非可換環であるように。
交換の性質をすべて明らかにしたわけではなく、あくまでも非可換性に着目したのみである。また、何が交換かは、何が集合かと同じくらい繊細な問題で、一般に物を入れ換えたから交換だとは言えない。
より一般的な交換理論によって非可換性を必要としなくなるかもしれない。
【アダム夫人とスミス夫人】
実は上記だと、全体として正だと交換が起こるとしてしまっている。
先に仮定した限りだと、「双方」が利益を得なくてはならないので、2者2物として、
f(i)<f(j), f:アダム夫人
g(j)<g(i), g:スミス夫人
となる。
【行列ゲーム】
上記のf,gが定数関数だと、なんだか困る。
そこで、f,gを一般の関数にする。ただし、線形性を前提にした議論は一般に成り立たないとしており、特に逓減するようにしなくてはならない。どうなるかはまだ考えていないが、ちょっと怪しい。
【行列ゲームの拡張】
なんだか上の話だけでは詰まらなそうだ。
そこで、f,gを決まった関数にするのではなく、関数の関数にするアイディアがある。
関数の関数は、集合の集合と同じく慎重に扱う必要があるので、少々厄介になる。
【状態遷移方程式】
では、ある関数が別の関数に写るのはどういう時か考えないといけない。
色々なことが考えられるが、1つには、N商品モデルにN+1種目の商品が加えられるという形で考えうる。
【商品の類別】
一般に考えると、Nは3万とか10万になってしまって困る。ただ、人は何万もの商品を認識しているわけではないし、上級財・下級財というような概念もある。
扱える程度の種類の商品群に類別することが妥当ではないか。また、大半の商品については「知らない」ので行列の大半の項は0だと考えてもよい。
【可換と時間】
可換性は時間(絶対時間としておく)と関係がある可能性がある。そこから、遷移する関数は時間依存の微分方程式であるとする。
厳密に可換でなくとも、すべて非可換=非線形とし、半線形微分方程式のような「疑似線形」的な部分があると考えても十分。ある特定の時系列のみを取り出したときに可換と見なせるとも考えられる。
【系】
単一の系か複数の系が相互に作用していると考えるか。
【キル・レシオ】
キル・レシオはいわゆる戦力評価(ランチェスターのモデルにおける係数)というやつだが、これについては今回の内容ではないので、立ち入らないことにする。
とにかく、キル・レシオという表現があるので、軍事的な交換もありうるのではないかと思うに至った。要するに、経済が正和な交換なら、軍事は負和な交換であるということだ。
【等価交換って歴史上存在したことがあるんですか?】
キル・レシオ通りだと「等価」な損失だというような話になりがちだが、これはもう極めて怪しい。
むしろ、お互いがお互いにとって「相手よりも好ましい」損失で済んだと考えることだってありうるはずだ。
A「こちらは1機落とされたが、相手を3機落としたのでよし」
B「3機落とされたが、1機落としたのでよしとする」
と双方が同時に考えたって別にいいだろうということだ。などと考えていたわけだが
...続く
【ネガティブ・サム・ゲーム】
まともな作戦級ウォーゲームは、資源的には負和ゲームとして作られている。決められた兵力と増援だけで作戦を遂行するのだから当たり前だ。
キル・レシオには「誰にとっての」損失なのかという厄介な評価の問題(先ほどの例で言えば、アダム夫人やスミス夫人の効用関数のような)が関わってく る。とにかく面倒なのは、戦争全体から見れば「相手の人員や機材に損害を与える」ことが直接の目的とはなりにくいために、それ自身の利益・不利益を論じる のが難しいということだ。
独ソ戦のウォーゲームでは、独軍のユニットを飛ばすとソ連がVPを得ることが多いが、別にファシストを殺すと効用を得られるということではなくて、戦争全体の勝利に有意に貢献すると判断されるからであり、もっと言えばただの娯楽ゲーム的都合でもある。
とにかく、決められただけ与えられる資源と消耗する資源が一致している点からして、「双方不利益を被る」ゲームであると見なしてよいだろう。
【ゲーム一般】
戦争全体が負和ゲームであるとまでは断定できない(そもそも1つのゲームかも不明)し、各プレイヤーに限定すればなおさら負である保証はない。何によって評価するかに依るし、戦争全体を評価する1価関数はありそうもない。
「戦争利得者の旗」というWW1の風刺画を思い出していた。WW2が終わったら、アメリカは押しも押されぬ強国になっていたが、あれは相対的に損が少なかっただけだろうか。それなら風刺画通り、WW1のアメリカはどうだろうか。
経済は双方正なるゲームを扱い、軍事が双方負なるゲームを扱ったとして、他にもゲームの種類はある。
一方的移転はどうだろうか。一方的移転は、一般に考えて片方が正で片方が負だ。
そもそもゲーム一般として考えれば、各プレイヤーの得点は正にも負にもなりうる。
【交換一般】
交換という言葉から、人と人の物のやり取りというイメージを捨てて、閉じた系で何かを入れ換えることによって、あるものが別のものに写されるようなことと考える。
また、入れ換えるarrowが成立するためには、たとえば貨幣の存在を必要とするような、交換の前提を必要とする。
【中断】
疲れて何も考えられない。
【余談】
戦争を社会事象としているのに対し、軍事はより専門的な諸分野の1つとしている。
私は普段からこの使い分けをしているが、あまり分かり易くはないようだ。クラウゼヴィッツ学会の人と話をしたときもそれを痛感した。
政治がどういうゲームなのか知りたい。
私が普段から公言している「軍事学の構築」とは、本当のところ政治学や経済学と同列としての軍事学ではなく、それらすべて(少なくとも経済および軍事)の基礎付けとなる「社会現象の原理に関する学」のことである。
本当は社会学と言いたいのだが、「あの」社会学と誤解されると嫌なので、上記のように説明している。
【テクストなんちゃら】
最初に「交換」によって一般化することを宣言する。
「交換の非可換性」から「系」までが経済学における交換の話で、「双方利益を得るモデル」。
「キル・レシオ」から「ネガティブ・サム・ゲーム」までが軍事における交換、つまり「双方不利益を被るモデル」。
「ゲーム一般」「交換一般」は交換一般の理論に移行する途中力つきた痕跡。
「中断」「余談」はただの余談。
【アイディア】
交換は経済学において語られるが、より一般化し、社会科学全般の基礎付けに利用できるのではないか。
【一般化】
経済学における交換は、双方が利益を得る場合のみを論じていると考える。
2者間のモデルのとき、利益/不利益によって4(3)通りの場合が考えられる。経済学における交換は、そのうちの1つのみに着目していると考える。さらに、利益/不利益に加えて「どちらでもない」を認めると、9(6)通りが考えられる。括弧内は2者を区別しない場合。
【交換の非可換性】
交換現象は非可換である。2物について、
{i,j}→{j,i}, {i,j}≠{j,i}
f({i,j})<f({j,i})
が交換を表していると考える。fは1価変数。
非可換性と非線形性は対応しているので、線形性を前提とした議論は一般に成り立たない。
可換は要するに交換可能という意味だが、経済学における交換は非可換である。こうしてみると、この交換という概念は、学術用語と日常用語を混同した場合に著しく混乱することが予想できる。
交換の非可換性は公理である。このような性質を含む現象を交換と呼ぶと宣言しているに過ぎない。ただ、可換性との兼ね合いは微妙なところがあるので、一般に非可換であるなどとするのが穏当だ。環が一般に非可換環であるように。
交換の性質をすべて明らかにしたわけではなく、あくまでも非可換性に着目したのみである。また、何が交換かは、何が集合かと同じくらい繊細な問題で、一般に物を入れ換えたから交換だとは言えない。
より一般的な交換理論によって非可換性を必要としなくなるかもしれない。
【アダム夫人とスミス夫人】
実は上記だと、全体として正だと交換が起こるとしてしまっている。
先に仮定した限りだと、「双方」が利益を得なくてはならないので、2者2物として、
f(i)<f(j), f:アダム夫人
g(j)<g(i), g:スミス夫人
となる。
【行列ゲーム】
上記のf,gが定数関数だと、なんだか困る。
そこで、f,gを一般の関数にする。ただし、線形性を前提にした議論は一般に成り立たないとしており、特に逓減するようにしなくてはならない。どうなるかはまだ考えていないが、ちょっと怪しい。
【行列ゲームの拡張】
なんだか上の話だけでは詰まらなそうだ。
そこで、f,gを決まった関数にするのではなく、関数の関数にするアイディアがある。
関数の関数は、集合の集合と同じく慎重に扱う必要があるので、少々厄介になる。
【状態遷移方程式】
では、ある関数が別の関数に写るのはどういう時か考えないといけない。
色々なことが考えられるが、1つには、N商品モデルにN+1種目の商品が加えられるという形で考えうる。
【商品の類別】
一般に考えると、Nは3万とか10万になってしまって困る。ただ、人は何万もの商品を認識しているわけではないし、上級財・下級財というような概念もある。
扱える程度の種類の商品群に類別することが妥当ではないか。また、大半の商品については「知らない」ので行列の大半の項は0だと考えてもよい。
【可換と時間】
可換性は時間(絶対時間としておく)と関係がある可能性がある。そこから、遷移する関数は時間依存の微分方程式であるとする。
厳密に可換でなくとも、すべて非可換=非線形とし、半線形微分方程式のような「疑似線形」的な部分があると考えても十分。ある特定の時系列のみを取り出したときに可換と見なせるとも考えられる。
【系】
単一の系か複数の系が相互に作用していると考えるか。
【キル・レシオ】
キル・レシオはいわゆる戦力評価(ランチェスターのモデルにおける係数)というやつだが、これについては今回の内容ではないので、立ち入らないことにする。
とにかく、キル・レシオという表現があるので、軍事的な交換もありうるのではないかと思うに至った。要するに、経済が正和な交換なら、軍事は負和な交換であるということだ。
【等価交換って歴史上存在したことがあるんですか?】
キル・レシオ通りだと「等価」な損失だというような話になりがちだが、これはもう極めて怪しい。
むしろ、お互いがお互いにとって「相手よりも好ましい」損失で済んだと考えることだってありうるはずだ。
A「こちらは1機落とされたが、相手を3機落としたのでよし」
B「3機落とされたが、1機落としたのでよしとする」
と双方が同時に考えたって別にいいだろうということだ。などと考えていたわけだが
...続く
【ネガティブ・サム・ゲーム】
まともな作戦級ウォーゲームは、資源的には負和ゲームとして作られている。決められた兵力と増援だけで作戦を遂行するのだから当たり前だ。
キル・レシオには「誰にとっての」損失なのかという厄介な評価の問題(先ほどの例で言えば、アダム夫人やスミス夫人の効用関数のような)が関わってく る。とにかく面倒なのは、戦争全体から見れば「相手の人員や機材に損害を与える」ことが直接の目的とはなりにくいために、それ自身の利益・不利益を論じる のが難しいということだ。
独ソ戦のウォーゲームでは、独軍のユニットを飛ばすとソ連がVPを得ることが多いが、別にファシストを殺すと効用を得られるということではなくて、戦争全体の勝利に有意に貢献すると判断されるからであり、もっと言えばただの娯楽ゲーム的都合でもある。
とにかく、決められただけ与えられる資源と消耗する資源が一致している点からして、「双方不利益を被る」ゲームであると見なしてよいだろう。
【ゲーム一般】
戦争全体が負和ゲームであるとまでは断定できない(そもそも1つのゲームかも不明)し、各プレイヤーに限定すればなおさら負である保証はない。何によって評価するかに依るし、戦争全体を評価する1価関数はありそうもない。
「戦争利得者の旗」というWW1の風刺画を思い出していた。WW2が終わったら、アメリカは押しも押されぬ強国になっていたが、あれは相対的に損が少なかっただけだろうか。それなら風刺画通り、WW1のアメリカはどうだろうか。
経済は双方正なるゲームを扱い、軍事が双方負なるゲームを扱ったとして、他にもゲームの種類はある。
一方的移転はどうだろうか。一方的移転は、一般に考えて片方が正で片方が負だ。
そもそもゲーム一般として考えれば、各プレイヤーの得点は正にも負にもなりうる。
【交換一般】
交換という言葉から、人と人の物のやり取りというイメージを捨てて、閉じた系で何かを入れ換えることによって、あるものが別のものに写されるようなことと考える。
また、入れ換えるarrowが成立するためには、たとえば貨幣の存在を必要とするような、交換の前提を必要とする。
【中断】
疲れて何も考えられない。
【余談】
戦争を社会事象としているのに対し、軍事はより専門的な諸分野の1つとしている。
私は普段からこの使い分けをしているが、あまり分かり易くはないようだ。クラウゼヴィッツ学会の人と話をしたときもそれを痛感した。
政治がどういうゲームなのか知りたい。