Study Hard -17ページ目

定義の意味、数学の意義

 開成生亡きいま、フィレンツェにホッピーが置かれるのは当然の成り行きだった


【或る大学者の肖像】

 名前は完全に伏せておこう。


「定義するとは、それが定義したい対象に該当するかそうでないか、一意的に定まるようなことである。」


 或る大学者は、定義について、このような内容を話していたように思う。

 別に定義に絶対的な定義があるわけではないが、一般には、意味・内容・性質を明らかにし他と区別することなのだから、定義の定義として的外れではない。

 ただ、「数学において」よく出てきた定義となると、少々雲行きが怪しくなってくるように感ずる。もちろん、数学でも上記のような話は通じるのだが、どちらかと言えば、定義とは記述の節約であり用語間の関係の規定に過ぎないように思う。


 宗教を定義するという場合は、対象が宗教かそうでないかを区別することはとても重要になる。しかし、一転して集合族Aだとか劣マルチンゲールといったことを定義する場合は、主眼は区別ではなく説明に置かれるだろう。それは、宗教という単語が日常的にイメージを持たれているのに対し、集合族だとかマルチンゲールというのはあまりイメージを持たれていない単語だからでもある。

 いま一度、或る大学者の発言を見返してみると、これは排中律の説明のようにも見える。定義とは排中律のことかと言われれば、それは違う。ともかく、或る大学者においては、定義の区別するという側面が強く出ているのに対し、数学では性質を明らかにするという側面が強く出ている。もし、数学において、区別するという側面を強く押し出した定義について考えると、それはwell-definedになる。


 well-definedも、これまた正確な定義があるわけでもないのだが、読んで字のごとく「よく定義されている」というほどの意味だ。数学では、「代表元の取り方によらない」といった表現とともによく出てくる。

 代表元とまで言えばすぐにおわかり頂けたと思うが、同値関係による商集合などが背景に見え隠れする。ここまで来れば、ただの性質の説明というよりは、きちんと性質よく区分されているかという部分まで見えてくる。


 以上を踏まえた上で考えると、宗教学と数学の立場の違いが浮き彫りになる。

 宗教学においては、宗教一般の意味や性質について考えることはほとんど不可能であるのに対し、区別することは変わらず重要な要素となる。一方で、数学においては、一般的な性質を規定することは容易であるし、むしろ(適切な定義域において)規定された複数のものが別々のものであるかどうかは証明すべき内容となる。

 しかし、私はこれを宗教学と数学の乖離とは見なさない。ただ、宗教学を数理的ないし数学的に記述するためには、素朴な集合論の階層を超えなければならないことを示唆している。そして、連続体仮説を持ち出すまでもなく、階層の高い記述の体系は未だ明らかではない。


【すべての宗教関係者へのお願い】

 宗教の数学的記述。

 この命題の孕んでいる内容は絶望的なまでに高い。宗教を、そして"Humanity and Society"を数学的に記述するには、今日誰もが理解できるレベルの数学像=数字や方程式を並べ立てる程度では済まない。

 だからこそ、宗教者は数学を学ばねばならない。それは、宗教を記述することそのものに繋がっているからだ。それは明白に過去幾多の知性を狂気に追いやった危険な試みであり、だからこそ宗教学者は迷わず突き進まなければならない。なぜなら、宗教学において観測者と対象は乖離していないからだ。


 宗教学は数学や物理学のような規範的な学問とは違う、のではない。宗教学と数学の結びつきが未だ明らかでないに過ぎない。

 そもそも、数学と物理学は本来何の関係もない分野だった。物理学と数学の最初の明白な結びつきは、フックの線形バネの記述だったとも聞く。逆に言えば、それまではもっと文学的、哲学的、神学的表現によって記述されていたということだ。それが今では車輪の両輪のように密接に結びついている。


 宗教学者ならばご存じのはずだ。

 神学は最高の知性が合理的に構成したものだということを。そして、近代および前近代的な「科学」は、現代人が期待するほど非「宗教」的なものではなかったということも。

 数学を舶来品のように扱うのをやめて、自ら築き上げるものだと知ってほしい。そもそも、数学とか宗教学という分類に大した意味もない。


 すべてが涯しない高みに向かい、慥かな歩みを印すとき。

 そこには現代宗教も従来宗教もなく、宗教者も宗教学者もなく、ただ宗教だけがある。

 その足跡がすべて根底に埋もれたとき、その行為の名が信仰に値したかどうかが判明する。

ポエマーとポエットの距離

 今後は口憚らず行きていこうと思う。

【ご提案】
 弓山空間にパラメタとして時間を付け加えるなら、ベクトル場のようにすると良いでしょう。
 参考:http://www.cmt.phys.kyushu-u.ac.jp/virtuallab/phys/physmath/vector.html

【発表の効用】
 第一にグループワークという得難い経験をした。もう少し言えば、均質性や目的単一性が担保されない状況で、バラバラな複数の個人がグループとして形成される可能性について考察できた。
 また、実際的なこととしては、指示代名詞の内容を具体的に確認する必要があることが体感された。「あの」や「この」や「のように」といった表現について は、逐一具体的な内容を確認した方がよい。どの認識のレベルにおいても、同じものを同じように見ていることは保証されない。

 第二に一般的な知性に触れることができた。ほどほどの知性が何を考え、何を理解できないのかについて、かなり重要な示唆があった。
 現代における一定程度の知性というのは、概ね近代的と同義である。特に、学術的な訓練が十分でない段階では、一人称の問題に拘泥する。たとえば、平行線 の公理を受け入れるか受け入れないかについて、「私は今の段階では受け入れている」といった内容でしか理解できない。何らかの絶対的、決定的な世界観のみ を受容していると言える。

 第三に知性の偏在を知ることができた。才能というよりは訓練の不在に過ぎないが。
 感想に自らの感情を書くのが許されるのは小学生までだが、慶応大学には存在が確認された。さすがに東京大学では見た覚えがない。慶応大学は、大学の内部にまで様々なレベルの学生を一貫して取り揃えているようで、大変感心した。

【Implicit none】
 話し方というのは、偏に何を暗黙の了解とするかにかかっているように思う。
 「だから何なの」と思うような話をする人は、単に共有されていないことを暗黙の了解としているだけのことが多い。逆に、暗黙の了解が共有されていれば、こんな便利なやり方はない。
 公理系などとは違い、暗黙の了解というのは結構バランス感覚を問われるものだ。厳密化された現代数学に初めて触れたとき、私が最も混乱したのは、その厳密性ではなく、どこまで厳密に書かなければならないかだった。どの定義まで利用することによって表現の節約を認められ、どの定理まで自明とすることによって論証の節約を認められるのかについて甚だ混乱させられたものだ。

 何を確実とするか、どの体系を採用するか、といった問題の他にも、それらを踏まえた上でどこまでを暗黙の了解とするかというのは重大な影響を及ぼすのかもしれない。
 同じことを確実とし、同じ体系を採用したとしても、なお暗黙の了解の範囲を変えるだけで分派など容易に起こるのではないだろうか。この仮説を検証するためにどこかで実験をしてみたい。

【T氏の肖像】
 T氏が何を暗黙の了解としているのかについて、実証的に考察してみれば、現在までに繰り返されたような憶測ではないT氏像が浮かび上がってくるのではなかろうか。
 是非やってみるべきだ>L

俺が本当にリアルな

 ウォーゲームを作ってやるよ!
       ↓
 全員予備自補の試験に落ちる