Study Hard -19ページ目

私の一言

【欲望】
 私は臆面もなく自己の欲望を口に出す。
 その欲望の名前はstudy hardである。

 study hardとは箴言ではない。
 study hardとは気構えではない。
 study hardとはイデオロギーではない。

 ただstudy hardすることがstudy hardである。
 しかし、これではまだ信念の名前でしかない。

 私の病名は救われたがりである。
 私は、ただ一点、信仰と呼べるものがない。
 しかし、study hardは信仰の名前ではない。

 オイラーは呼吸するように計算したという。
 息を荒げるように計算したわけではない。

 study hardは高々信じたいことに過ぎない。
 studyこそが信仰の名前である。

【慈悲】
 欲望にこそ慈悲がある。
 自らが救われたいという欲望が、而して、他人が救われてほしいという欲望に読み替えられたとき、それは慈悲となる。

 慈悲は善なることか。
 study hardは私自身に対する欲望である。それが他人に向けられたとき慈悲となる。他人にstudy hardを叩きつけることが慈悲である。常人には到底耐えられることではない。それは他人を、そして自分を苦しめる。しかし、これこそが慈悲である。

 この痛烈な欲望が私を導いてくれた。
 他の誰もが我が家に耐えられなかった。私だけがこの欲望のためだけに耐えた。私は人生を捨て、人格を破綻させ、やっと辿り着いた。

 私はまさに恩寵の中にあった。
 私は常に与えられ続けて来た。この苦痛が恩寵そのものであった。

【】
 やっと宗教者になれた。
 すべて明白に見える。

 こんな簡単なことだったとは。
 いや、簡単なことほど難しい。

 凡夫のままでここまで来られた。
 ありがたい。

 これは言葉にするのが難しい。
 面倒になるのも当然。

 タダで教えてやってもいい。
 でも幾ら積んだとてわかるでもなし。

 教えてやるから人生を代償にもらう。
 そうとしか言いようもない。
 しかも、それでモノになる保証もなし。

 そんなことより、まだ先が見える。
 まだ先があるらしい。

 大悟百回とはよく言ったものだ。
 別に悟りの境地とやらではないが。

 これは状態ではない。
 これは教えではない。
 これは道ではない。
 これは論理ではない。
 これは精神ではない。
 これは技術ではない。
 これは視点ではない。

 そうそう、今日は力説した。
 意味の宗教は間もなく超克される。次は、個の宗教が超克されるはずだ。それは数学が予言してる。
 個人の宗教と集団の宗教、などという分類が陳腐で聞いちゃいられないものになるはずだ。
 今日は少しそれが見えた。

 それにしても世間の「宗教」の低レベルさよ。

【追伸】
 そうだなあ。studyは発心なんて訳すのはどうだろう。
 ちょっと違うか。

【余白】
 人が息をするように、鷲が空を舞うように、オイラーは計算した。

アンチ・テクスト

【uncountable-order predicate logic】
 あなたは病に冒されています。私はそれを治しに参りました。
 あなたの病名は意味への意志。伝染性の疾患です。
 あなたの病を治せるのは数学だけです。他はすべて捨ててください。

【神の存在証明】
 これも件の数百の証明のうちに加えておいて貰えれば幸いである。

 矛盾を含む体系を用意する。
 ある命題Qとその否定¬Qが同時に証明できる。
 適切な論理体系を用いる。
 Pは「神が存在する」という命題である。

1.Q
2.¬Q
3.(¬Q)⇒((¬P)⇒(¬Q)) 水増し
4.(¬P)⇒(¬Q) 2、3、切断
5.((¬P)⇒(¬Q))⇒(Q⇒P) 対偶
6.Q⇒P 4、5、切断
7.P 1、6、切断

 以上より、神の存在が証明された。

レジュメのアフォーダンス

【東京都豊島区駒込の会員制かた焼きそば】
 未明に駒込を歩くと、最後の審判を自分1人だけがくぐり抜けたような悦びに腰まで浸る。
 ふと、営業中の中華料理屋が視界に入る。店名より先に会員制という張り紙が目につく。天国は会員制でないと営業許可が下りないようだ。
 萬来軒。外見と午前2時からという怪しい営業時間だが、中は普通の中華料理屋だった。通は酢を入れると店が主張するかた焼きそばを注文する。他に店内には、ほろ酔いの中年男性とホステス風。酔っぱらいが他の酔っぱらいの話をしていた。飲酒ではなく酔うという行為にこそ文化的要素があるのではないかと考察した。

(絶筆)

【レジュメの可能的記述】
 5/25発表のアイディア段階。主に特定の3人向け。
 手元に資料がないのでうろ覚えで。図はどうするかな。

 事件性、異常性のある事例群は、それらによって記述されているのであり、その宗教性によってではない。
 宗教か狂気かの判定基準は、その確実性(要説明)に依るものとする。2つのアプローチがあるが、最終的に綜合されるべきである。

1.根本命題において一般と乖離があり、それにより事件的あるいは異常な行為に及んだ場合は、その行為を宗教とする。根本命題における乖離なく、同様の行為に及んだ場合は、その行為を狂気とする。

2.正しく事件的あるいは異常な行為に及んだ場合は、その行為を宗教とする。誤って事件的あるいは異常な行為に及んだ場合は、その行為を狂気とする。

 根本命題における乖離を宗教性と結びつけるか、過程を判断基準とするかであり、これらは本質的にはぶつからない。ただし、外観上2段階の判断基準を設けることは冗長であり、一見して1つの判断基準になっていることが好ましい。
 1案においては、根本命題という知り難い部分を基準とせねばならないため、蓋然性を語るに留まり、悪く言えば推測の域を出ない。2案においては、正誤を(数学的)形式主義によって判断するため、内容が非常に分かり辛くなる。
 また、確実性については簡明に説明する必要がある。公理系以前という表現は人文系においては語弊が大きすぎるので、単純に公理、大前提として紹介するに留めるべきだろう。
 以下、資料もなく直感だけで書いてみる。床屋宗教談義。

・祈祷師一家ミイラ事件(飢えを選んだ一家)
 因縁がつくので外と関わりたくないというのは何ら破綻した思考ではないので、2としては宗教側。思考の枠組みはごく平均的な内容に基づいているので、特に根本命題における乖離は感じられないゆえ、1としては狂気側。

・藤沢バラバラ殺人事件
 悪魔祓いとして肉片や内臓を塩揉みして排水溝に流したり保存したりするのが果たして新聞記事の言う「独自の宗教観」に基づいているのかはまったく分からない。(根拠もなく)世界を救うなどというのは誰でも思いつく英雄主義的性向に過ぎないので、1としては狂気側。なぜ突然解体と塩揉みを始めたのかわからないので、2については保留かな。

・霊道を開く
 エスカールには深いコミュニケーション能力と社会性を感じるので、2については宗教側。生まれ変わり等の「プシュケー文化圏」はあまりに人類に普遍的なので、根本命題のズレは感じられない。ただし、この事例に反社会性がないため、狂気側に置くのは難しい(社会的要請)。

・遠野物語(義公馬鹿)
 予言が当たるか当たらないかは別に宗教と関係ない。見えないものが見えるのも、それが共有されるのも、人間には良くあることで、そんなことを一々宗教呼ばわりしていたら面倒。この回はどの事例を判断するんだっけ、講義のプリント失くした。
 義公馬鹿については、特に瑕疵がないので、狂気に置くのは悪い気がする。サヴァンは宗教か狂気かと言われても困るようなもん。
 寒戸の婆症候群については、「教祖カントールと病的共同体数学者」が成立しかねない内容なので、とりあえず保留。

ヒルベルト「カントールの創ってくれた楽園から、誰も私たちを追放できない」

 この回は本当に困るよなあ。しかし、それだけ本質的な内容を含んでいるのかもしれない。

・教祖の精神鑑定書
 宗教、見ればわかる。では説明にならないので。
 論理的に瑕疵がないんだから、2としては宗教。何か根本的な部分についてもズレてる気がするので、後でゆっくり考えるけど、1としても宗教でいい。
 作業仮説としての神、つまり説明技術の部分をして宗教かどうか判断することはできない。予言が当たるかどうかを基準にするようなもの。疑いようもない一点を言語化する必要があるのだが、これは文献読んで数日考えたぐらいではできない作業なんだよな...本部に行くかどうか。

・女子寮
 発達心理学にでも任せた方がいいんじゃないのかとしか。事例としては集団心理に属するけど、そこに宗教性があるかどうかは別の問題なので、一応判断が必要。
 話の内容は世間話レベルなので、1としては狂気側。一過性の部分が大きすぎるので、2としても狂気側に近い。
 ただの集団心理を狂気と置くと、普通の人は全員狂っていて、まったく揺れない宗教者だけが正常という結論にとられかねないので、非常にアレだ。もちろん、判断している部分がまったく違うので、宗教団体でも集団心理は働くし、宗教者の人間部分が揺れないわけでもないのだが。

【暫定の結論】
 ミイラ:中間
 藤沢:狂気
 霊道:宗教
 遠野:保留
 鑑定:宗教
 女子:狂気

 ミイラと遠野物語については別の判断基準を示すか、他の人の判断と織り交ぜて判断するかにする。

【教祖の精神鑑定書の判断に伴う困難性】
 その体系は無矛盾である、ということが何を意味するのか。
 ゲーデルは「自然数論を含む述語論理の体系は、無矛盾であれば、形式的に不完全である」ことを示した。これは「正しいけど証明できない」ことがあることを示している。
 自然数論を含むというのがネックのような気もするが(ここはいま考えてる)、アナロジーとして利用すれば、無矛盾の体系によって行われたある言行を、その体系の内部で判断することは必ずしもできないし、さらにはその体系自体の無矛盾性をその体系の内部で示すことができなくなるかもしれない。
 もちろん、外部の体系を利用すればいいのだが、それでは殊更に無矛盾の体系であることを示した意味がナニであるような気もしなくはない。

 まあ、この課題自体が外部の立場の設定のような気もするので、別にいいのだが。
 大西愛治郎先生の無矛盾性を生かしたいと思うとこんな調子になるような気もする次第である。

【ゴミ捨て場】
 人文系における直観との距離感には目眩がする。
 1案、2案はそれぞれ直観的、非直観的な内容に結びつき易いはずなので、同時に成立せしめないと、学術的内容として深みが出ないのだが...
 信者を自称する人々の実態はしばしば「教祖様ファンクラブ」に過ぎないので、これを宗教的と称してしまえば、あとは大抵のことは宗教になってしまう。忠誠心も子煩悩も宗教。プロデューサーさんも声オタも宗教。ウォッシュレットP。
 生まれ変わりを信じるか否かなどというのは宗教的命題にはならない。生まれ変わり自体をイメージできるかこそが重要。橋本みゆきの歌が上手いか下手かを論じているようなもので、そもそも橋本みゆきを認識できるかどうかの方が圧倒的にアレ。誰だよ橋本みゆき。CVHの橋本みゆきによる類別。
 宗教学きっての中二病卒論。信じることを余儀なくされる弱さについて⇔「俺は何も信じてないから強い」
 科学カルトは証明不能命題を否定的に証明されたかのように扱う...わけではない。科学カルトの一番いかれてる部分は、系の違いを理解できないところである。つまり、ただの古典論者であり、古き良きニュートン主義者と同列である。