ばりごく麺文化圏
榊原麺太に始めて会った頃
私は"絶頂"の中にいた……!!
京都左京区で綿々と歴史を刻むその研究所で
私は20代にしてすでに教授を任されていた。
講義は連日私目当てに長蛇の列…
絶賛の声………!!
ひとたび教壇に立てば周囲からは憧憬のまなざし
私はその頃私の内で…"絶頂"の中にいた……!!
……そして
うらさびれた…見知らぬ学科で
私は榊原麺太の講義を聴いた…!!
構造の上には...
「書け!! 講義は見るもんじゃねーぞ!! さ 書け!!」
ペンを持つ手が微妙に震えた…
なんて美しい…コクのある形式なんだ……!!
うまい!!
涙が出そうになった…
始めて知る…体系!!
うれしかったのかもしれない……
屈辱だったのかもしれない……!!
構造は…
噛めば噛む程中から定理が染み出してくる
こんな構造この世の中に存在していたのか…!!
知らなかった…
数学者が日本人言うところの"哲学"を上手に作れるのは
当たり前のことだと考えていた………
私は間違っていた!!
そもそも論理に全く雑味がない!!
きっと構成の過程で飛躍せぬように丁寧に証明を
編み上げた結果だろう
飛躍もない!!
思考経済も適切だ!!
たやすいようで決して完璧にできない工程を
この男はたった一人でさりげなくこなしている
最悪だ!!
……最悪だ!!
こんな…
ガサツな哲学者の作った体系を…
この上もなく美しいと思っている自分が……
最悪だった!!
「後日…あの構造が龍鱗構造だったと知った…!! 伝説の…龍鱗構造!!」
「今でもはっきり覚えてる…榊原麺太の…哲学を目にした時の」
「衝撃を……!!」
「しばらくして榊原麺太のいるその演習室に…"教授"が来たよ…!!」
「その学科の教授だった…!!」
私が数学の世界で完全無欠な存在になるためには
この男は障害になると思った…
哲学によって私の牙城を崩しかねない男……………
だから…だから
「私は…数学者です…」
「私は……私はあなたを殺す!!」
「………殺す!?」
「同じ学者として…哲学で殺します」
「なんか知らねぇがオレに闘いを挑むってことか…………!?」
「おもしれぇ!! とんこつラーメンなら受けて立ってもいいぜ!!」
—ばりごく麺に続く—
【結論】
laeva の発言: (13:28:22)
孤独のグルメ文化圏を文化人類学で殺します!
私は"絶頂"の中にいた……!!
京都左京区で綿々と歴史を刻むその研究所で
私は20代にしてすでに教授を任されていた。
講義は連日私目当てに長蛇の列…
絶賛の声………!!
ひとたび教壇に立てば周囲からは憧憬のまなざし
私はその頃私の内で…"絶頂"の中にいた……!!
……そして
うらさびれた…見知らぬ学科で
私は榊原麺太の講義を聴いた…!!
構造の上には...
「書け!! 講義は見るもんじゃねーぞ!! さ 書け!!」
ペンを持つ手が微妙に震えた…
なんて美しい…コクのある形式なんだ……!!
うまい!!
涙が出そうになった…
始めて知る…体系!!
うれしかったのかもしれない……
屈辱だったのかもしれない……!!
構造は…
噛めば噛む程中から定理が染み出してくる
こんな構造この世の中に存在していたのか…!!
知らなかった…
数学者が日本人言うところの"哲学"を上手に作れるのは
当たり前のことだと考えていた………
私は間違っていた!!
そもそも論理に全く雑味がない!!
きっと構成の過程で飛躍せぬように丁寧に証明を
編み上げた結果だろう
飛躍もない!!
思考経済も適切だ!!
たやすいようで決して完璧にできない工程を
この男はたった一人でさりげなくこなしている
最悪だ!!
……最悪だ!!
こんな…
ガサツな哲学者の作った体系を…
この上もなく美しいと思っている自分が……
最悪だった!!
「後日…あの構造が龍鱗構造だったと知った…!! 伝説の…龍鱗構造!!」
「今でもはっきり覚えてる…榊原麺太の…哲学を目にした時の」
「衝撃を……!!」
「しばらくして榊原麺太のいるその演習室に…"教授"が来たよ…!!」
「その学科の教授だった…!!」
私が数学の世界で完全無欠な存在になるためには
この男は障害になると思った…
哲学によって私の牙城を崩しかねない男……………
だから…だから
「私は…数学者です…」
「私は……私はあなたを殺す!!」
「………殺す!?」
「同じ学者として…哲学で殺します」
「なんか知らねぇがオレに闘いを挑むってことか…………!?」
「おもしれぇ!! とんこつラーメンなら受けて立ってもいいぜ!!」
—ばりごく麺に続く—
【結論】
laeva の発言: (13:28:22)
孤独のグルメ文化圏を文化人類学で殺します!
箴言
もし、私たちが昔の人々よりも遠くを見ているとしたら、それは巨人の首からぶら下げられた生首だからだ。
これはTwitterに捨てるべきものであった。
【科学カルトに告ぐ】
一、今カラデモ遅クナイカラ科学ヘ帰レ
二、抵抗スル者ハ全部カルトデアルカラ科学スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ科学的対象トナルノデ皆泣イテオルゾ
科学エスタブリッシュメント
【科学カルトの定義】
上記通告を自身に対するものだと毛頭思わなかったすべての人間。
これはTwitterに捨てるべきものであった。
【科学カルトに告ぐ】
一、今カラデモ遅クナイカラ科学ヘ帰レ
二、抵抗スル者ハ全部カルトデアルカラ科学スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ科学的対象トナルノデ皆泣イテオルゾ
科学エスタブリッシュメント
【科学カルトの定義】
上記通告を自身に対するものだと毛頭思わなかったすべての人間。
20歳で死ぬということ
【変化教】
人間部分は弱く、理性もまた必然的に弱く、道は遠く、真理は昏いとしても、変化し続けることに信頼を置き続けられるならば、変化教は十分に成立の余地がある。
しかし、どうだろうか。故森嶋通夫が、まだ凡庸な学生であった頃、自分がどうすれば研究者になれるかを恩師に尋ねたところ、自分と同じ歳まで勉強し続けられれば立派な学者になれると言われたそうだ。この事例にてらして、仮に、老齢まで変化し続けられればよいと言われたならば、それを信じきれるだろうか。
変わるとはどういうことかが曖昧に過ぎるが、ただ変わり続けることが唯一の道であると思えるならば、進歩概念を捨てたはずの進化概念が再びそれ自身進歩を意味するようにさえなるのではなかろうか。当然ながらそれはほとんど語義矛盾に近くなるが、宗教概念に関係させれば、無矛盾性は必ずしも必要なくなるだろう。
ところで、その場に留まることは変化ではない、あるいは変化の一種であるか、という質問が来たらどうすればいいかについてだ。これは簡単で、慣性の法則と運動方程式は違うものですと答えればよろしい。
【20歳で死ぬということ】
泣かないで、20歳で死ぬにはすごい勇気がいるんだ。
変化教徒にとっての死とは変化を捨てることである。とすれば、大半の人々は変化教徒にとって20歳より遥か前に死んでいることになる。20歳まで死ななかったということ自体が、この耐え難いほど怠惰で愚かな人間存在にとってはほとんど奇跡でさえある。
私はまだ10年も生きていない。せめてあと5年は生きながらえたいものだ。
20歳:ガロア「遺稿」
24歳:ゲーデル「不完全性定理」
28歳:リーマン「幾何学の基礎にある仮説について」
29歳:
【絶対矛盾的自己同一・真光・鶴岡「ゼミ」】
岡田光玉師の「神の御経綸」は、ヘーゲリアンっぽく螺旋を描いているものの、転換点(現代)は放物線で十分近似可能なモデルである。そこで、西田幾多郎を思いながらこんなことを考えた。別に西田先生はこんなことは言わないが。
世界は、ある段階と別の段階というような隔絶したものではなく、過去は未だ過ぎ去らず、未来が既に現れているような、現在が現在自身を限定するものである。これは至極簡単なことで、まさに現在のココが過去であり未来であるのであって、どこか別の場所に過去や未来なるものが厳然として保存されているのではないという単純にして否定しえないことである。
そこで今度は、神の御経綸によって定まった世界の一部(ちょうど現代あたり)を放物線と対応させる。ヨコの時代が負の傾きの部分で、タテの時代が正の傾 きの部分だとでも思うといい。火のバプテスマは丁度傾き0という感じだ。ここで、ヨコの時代だろうとタテの時代だろうとココはココなのだか ら、ヨコの時代であるこの現在のある瞬間(瞬間であり連続であるこの矛盾的自己同一なる世界)に正の傾きを付与すれば、一瞬にして火のバプテスマを過ぎた タテの時代に突入することになる。
斯くして、古典力学の時代は終わり、確率過程の時代が始まるのであった。
鶴岡「ゼミ」で絶対矛盾的自己同一と言えなかったので、ここで言って憂さを晴らしてみた。あの学部生たちが将来の大宗教学者になるよう心よりお祈り申し上げる次第である。
マッハ力学史が読みたくて堪らなくなった、買いに行く。
【注記】
これは絶対矛盾的自己同一そのものの説明にはなっていないので注意を要する。
西田幾多郎は、別に現在というものを「この空間」というような形で論じたのではない。過去と未来は相互否定的でありながらも全体的一の部分として相働き、結果としての現在という現象即実在がそれ自身を限定するよう動き行く、というような内容として私は理解している。
【余談】
自分で読み返して思ったが、上の文章(真光と西田をコラボさせたやつ)が酷い冗談として書かれたことを理解する者は少ないのではなかろうか。
わざと濫用、誤用するのが大好きなこのブログであるが、それが濫用誤用と認識すらされなくなってしまっては、もはや濫用誤用とは呼べぬのではあるまいかと危惧する。善の研究など中学生の時分に読んでおくべきものだし、絶対矛盾的自己同一などはお茶の間の恰好の話題である。実際私の周囲はそうであるのだが、そうでない人も多くいるようだということには配慮せねばならぬ。
万が一にも、西田幾多郎がボンクラ禅僧のようなことを言ったと思われては困るので(上記文章が凡僧の好きそうな内容へのオマージュだと読者は気付かれているだろう...)こういった注釈を付けること自身が、既に詰まらなくしている。
やはりブログという形式はやめて、テキストエディタにでも猛然と書き付けるのが最良であろうや。
人間部分は弱く、理性もまた必然的に弱く、道は遠く、真理は昏いとしても、変化し続けることに信頼を置き続けられるならば、変化教は十分に成立の余地がある。
しかし、どうだろうか。故森嶋通夫が、まだ凡庸な学生であった頃、自分がどうすれば研究者になれるかを恩師に尋ねたところ、自分と同じ歳まで勉強し続けられれば立派な学者になれると言われたそうだ。この事例にてらして、仮に、老齢まで変化し続けられればよいと言われたならば、それを信じきれるだろうか。
変わるとはどういうことかが曖昧に過ぎるが、ただ変わり続けることが唯一の道であると思えるならば、進歩概念を捨てたはずの進化概念が再びそれ自身進歩を意味するようにさえなるのではなかろうか。当然ながらそれはほとんど語義矛盾に近くなるが、宗教概念に関係させれば、無矛盾性は必ずしも必要なくなるだろう。
ところで、その場に留まることは変化ではない、あるいは変化の一種であるか、という質問が来たらどうすればいいかについてだ。これは簡単で、慣性の法則と運動方程式は違うものですと答えればよろしい。
【20歳で死ぬということ】
泣かないで、20歳で死ぬにはすごい勇気がいるんだ。
変化教徒にとっての死とは変化を捨てることである。とすれば、大半の人々は変化教徒にとって20歳より遥か前に死んでいることになる。20歳まで死ななかったということ自体が、この耐え難いほど怠惰で愚かな人間存在にとってはほとんど奇跡でさえある。
私はまだ10年も生きていない。せめてあと5年は生きながらえたいものだ。
20歳:ガロア「遺稿」
24歳:ゲーデル「不完全性定理」
28歳:リーマン「幾何学の基礎にある仮説について」
29歳:
【絶対矛盾的自己同一・真光・鶴岡「ゼミ」】
岡田光玉師の「神の御経綸」は、ヘーゲリアンっぽく螺旋を描いているものの、転換点(現代)は放物線で十分近似可能なモデルである。そこで、西田幾多郎を思いながらこんなことを考えた。別に西田先生はこんなことは言わないが。
世界は、ある段階と別の段階というような隔絶したものではなく、過去は未だ過ぎ去らず、未来が既に現れているような、現在が現在自身を限定するものである。これは至極簡単なことで、まさに現在のココが過去であり未来であるのであって、どこか別の場所に過去や未来なるものが厳然として保存されているのではないという単純にして否定しえないことである。
そこで今度は、神の御経綸によって定まった世界の一部(ちょうど現代あたり)を放物線と対応させる。ヨコの時代が負の傾きの部分で、タテの時代が正の傾 きの部分だとでも思うといい。火のバプテスマは丁度傾き0という感じだ。ここで、ヨコの時代だろうとタテの時代だろうとココはココなのだか ら、ヨコの時代であるこの現在のある瞬間(瞬間であり連続であるこの矛盾的自己同一なる世界)に正の傾きを付与すれば、一瞬にして火のバプテスマを過ぎた タテの時代に突入することになる。
斯くして、古典力学の時代は終わり、確率過程の時代が始まるのであった。
鶴岡「ゼミ」で絶対矛盾的自己同一と言えなかったので、ここで言って憂さを晴らしてみた。あの学部生たちが将来の大宗教学者になるよう心よりお祈り申し上げる次第である。
マッハ力学史が読みたくて堪らなくなった、買いに行く。
【注記】
これは絶対矛盾的自己同一そのものの説明にはなっていないので注意を要する。
西田幾多郎は、別に現在というものを「この空間」というような形で論じたのではない。過去と未来は相互否定的でありながらも全体的一の部分として相働き、結果としての現在という現象即実在がそれ自身を限定するよう動き行く、というような内容として私は理解している。
【余談】
自分で読み返して思ったが、上の文章(真光と西田をコラボさせたやつ)が酷い冗談として書かれたことを理解する者は少ないのではなかろうか。
わざと濫用、誤用するのが大好きなこのブログであるが、それが濫用誤用と認識すらされなくなってしまっては、もはや濫用誤用とは呼べぬのではあるまいかと危惧する。善の研究など中学生の時分に読んでおくべきものだし、絶対矛盾的自己同一などはお茶の間の恰好の話題である。実際私の周囲はそうであるのだが、そうでない人も多くいるようだということには配慮せねばならぬ。
万が一にも、西田幾多郎がボンクラ禅僧のようなことを言ったと思われては困るので(上記文章が凡僧の好きそうな内容へのオマージュだと読者は気付かれているだろう...)こういった注釈を付けること自身が、既に詰まらなくしている。
やはりブログという形式はやめて、テキストエディタにでも猛然と書き付けるのが最良であろうや。