Study Hard -14ページ目

焚書坑数

【問題1】
 1+1はなぜ2になるのか聞かれたとする。

・書記長
 体の公理からと答える。
 体の公理とは何なのかわからないし、自然数は体ではない。
 体とは、四則演算を可能にした数学的対象のことであって、加算だけが問題になっているときに持ち出すような代物ではない。

・生兵法
 1+1は2でも3でもよいと答える。
 間違えてはいないが、何も言っていないに等しい。

・初学者
 2に決めたからと答える。
 正しいが、話がそこで終わってしまう。

・学
 1+1について説明する。
 誠実だが、嫌われる。

・無学


【問題2】
 1+1は、とだけ聞かれたとする。

・凡夫
 しばし逡巡の後、2と答える。

・生兵法
 なんでもいいと答える。

・初学者
 1+1と答える。

・学


・無学
 2

【問題3】
 n+mは?

・初学者


・学
 n+m

・無学
 2

【焚書坑数】
 十分な時間のなかで、必ずや人間は数学を弾圧する。
 踏み絵の前で「1+1を、旦那さまのお望みのとおり、2にも3にもしてご覧にいれましょう。」と生き延びようとする者も見られるだろうし、英雄主義的に殉死してみせる初学者も見受けられるだろう。一方、無学はそうと気付かれずに生き延びていく。

【意味=外=非存在】
 齋藤正彦著「数のコスモロジー」を手にとったとき、目をこすって表紙を見直した。見直してみても、表紙には、コホモロジーではなく、コスモロジーと書いてあった。「数とことばの世界へ」という本に、文庫化にあたって、改題増補等を施したもののようだが、過度にスノッブな表題に比して、その内容たるや危険思想書そのものである。
 私のような「自然言語主義の絶対の敵」に対して、その形式言語への信頼と《没意味性》を補強せしめ、《規則に違反する創造性》をして、「拡大された規範」によって生成される諸概念をもって自然言語を攻撃することを正当化する。

【見えない敵と戦おう】
 数学に対する弾圧は、数学全体に及ぶことはないし、全体に対すること自体が不可能だ。それは、「俗流アカデミズムの発する臭気」の追放という形で、世俗主義的道具主義的策動として、近代の最後を飾る一大イベントを形成する。
 ここにおいて、意味主義は、その憎むべき「形式」を悉く破壊し去った後に気付くだろう。自分たちは、虚空と戦っていたのだということを。
 見えない敵と戦っていたことを認めた瞬間、意味主義は敗北する。それは同時に、意味主義が自分自身を「主義」に過ぎないと認めることである。意味主義とは敵の側からの呼称であることを補足しておく必要があるかもしれない。

【近代は終焉しない】
 終焉しないことを宣言されたとき、近代は終焉する。
 近代はいっぺんに終焉するのではない、あらゆる場所で近代は終焉しつつあるのみである。

 数学は近代を経験した。そして、数学の「現代化」について、改めて想いを馳せるべきだ。
 「ポスト近代」とは、近代でない何かになることではない。近代の意味の追究をやめることである。

【近代のあとで】
 言うまでもないが、ヴィクトール・フランクルは、結果として、従来宗教家であったと同時に近代宗教家であった。意味の宗教は、彼をはじめとする近代人がもたらした新宗教であり、従来宗教を悉く陳腐化せしめる威力を有した。
 近代人は、作業仮説のかわりに意味を手に入れた。それは、とても、とても不幸な事件だった。

 アウシュヴィッツのあとで詩を詠むのは野蛮であり、オスフィエンチムのあとで詩を詠むのは無意味である。

【現代宗教】
 近代後に《意義》は忘れられる。
 意味主義は、《意味》として厳密性に包含される。(要考察)
 宗教は、信仰によって生成される。
 信仰は、形式言語によって記述される。

 現代宗教においては、作業仮説そのものが記述され、個々の作業仮説はその内に消える。
 現代宗教においては、意味そのものが記述され、個々の意味はその内に消える。

 近代において繰り返された宗教の意味付けは、相対化された宗教に対する作業仮説である。
 信仰は仮説ではない。

 宗教現象は《意味》でなく《関係》において記述される。
 文化現象としての宗教とは、宗教現象の《意味》である。

産業廃棄物がまた1ページ

 故あって、ρが我が家に捨てていった小説シリーズ「銀河英雄伝説」を読んでみた。

【面白い点】
 設定が曖昧で突っ込みどころ満載なところに、妄想の余地がある。
 謎要塞の何が9億2400万MWなのかや、どういう技術、兵器体系なのかが不明なので、作中の人物たちの気が狂ったような間抜けさと共に、「俺ならもっとマシにできたはずだ」という最悪の妄想を喚起する仕組みになっている。

【面白すぎる点】
 最初のうちは、ただの断片的な人物描写の連続にしか見えない。ただ、この作品が「後世の歴史家による記述」を意識しているという情報を得ると、断然面白くなってくる。
 この作品世界には、歴史学と呼べるようなものはない。もちろん、絶対の対象や方法論があるわけではないので、このようなものを歴史と呼んでも、酷いだけで悪くはない。
 どこで歴史学、あるいは近代的な学問が悉く失われたのかを考えるのは面白い。しかも、復活の見込みが皆無であるところに至っては面白すぎる。

【生きることは結果的であること】
 某氏弟の発言は正しかったようだ。小説を読んでみると、確かに政治について書いてある。
 具体的には、主要登場人物の1人が「政治は過程や制度でなく結果である」と主張している。何を言っているのかまったく理解できないが、とにかく政治は結果らしい。

 ただ、これは、政治の話というよりは、作品全体のテーマのようにも見受けられる。赤毛は、どう凄いかまったく不明であるにもかかわらず、とにかく凄い人物扱いされている。恐らくは、この作品の主題「能力と結果は同義語」の代表例なのだろう。
 この作品でも希有な「具体的な目標を設定し、計画し、実行した」人物であるアンスバッハ先生の扱いは悪い。まあ、「宇宙を手に入れる」なる意味不明な目標に邁進した金髪&赤毛が主人公格である時点でお察しするしかない。そういうことだ。

【地球】
 地球教の何が宗教なのか理解できない。せいぜい任意団体といったところだ。

【特色】
 予断。
 特に、詐欺師が「あの気持ち悪い任意団体の後ろには圧力団体がいるに違いない」と何の根拠もなく直感した辺りは、かなりのヤバさを醸し出していた。
 金髪の予断もかなりだが、中二要素に相殺されて気にならない。

 作品世界全体に根拠や証拠という概念が存在しない。当然ながら史料や実証主義なんてものも存在しない。
 これが、この作品を最大に面白くしている要素である。

【産業】
 熟練工=生産力らしい。
 高度に成熟した産業を表現したいのかもしれないが、どちらかというと前近代以下に見える。

【動員】
 人口の1/250が軍人・軍属になると、前述の熟練工が足りなくなるらしい。
 さらに、人口の1/400で大動員らしい。

 単純に人口統計が間違えているか、「同盟」のごく一部がはしゃいでいるだけのようだ。

【感想】
 表紙を大人向けにするなどの工夫の前に、本文を大人向けにしてはどうだろうか。

心の時代の宗教弾圧

【大学の排他主義】
 どうやら日本中の大学が「特定団体」の排除に乗り出したのは確実のようだ。そのやり方が、例によって、漠然とした表現で網をかけて狙い撃ちにするという下策である。
 大学は第一義として学問の場なのだから、それに馴染まない集団を排除するのは必ずしも不自然ではない。しかし、その場合、第一に排除されるべきは一般のサークルである。

【長生きニーメラー】
 書記長程度の知能だと、ニーメラーの警句を真に受けて、「自分の番」が来る前に行動すべきだと考えるだろう。このような態度を盲動主義と呼ぶ。
 真に考えるべきは、なぜ自分の番は来ないのか、である。大半の人間にとっては、どれほど激しい弾圧も対岸の火事に過ぎない。それが国家的イベントであり(むしろ国家規模であるからこそ)社会に強い影響を及ぼしたとしても、直接その業火に焼かれた人は期待するほどの率にはなりえない。WW2において最前線に立ったことのある兵士の割合を考えてみればよい。

 一方、ボンヘッファーは、行動して死んだ。
 死んだのは、行動したボンヘッファーであり、総統である。生き延びて好き勝手妄言を吐いているのはニーメラーの方だ。ニーメラーの番はついに来なかった。それが事実ではないだろうか。

【Fog of Society】
 弾圧などという扇情的な単語を使うから本質が見えない。すべてはある種の統制に過ぎない。そして、統制と自由の問題は、善と悪の問題から峻別されなければならない。
 弾圧される対象、つまり統制される対象は、観念や概念ではなく現実の対象である。ここに統制の問題がある。参謀本部の地図の上には、抽象化された指揮の中枢が表記してあるが、戦場の霧(Fog of War)を持ち出すまでもなく、それが意味するところはしばしば曖昧で、不確かでさえある。
 局地的に見れば、一般の社会は戦場ほど混乱してはいないが、人間の認識の限界について考慮するならば、不用意に対象を広げるほどに、抽象化された対象と現実の(統制可能な)対象の乖離は甚だしくなることが期待される。

【ミッション:はてな村爆発】
 弾圧、つまり統制の悪とは、統制そのものにあるのではない。何を統制しているのか分からなくなったとき、統制は悪を為す。

 例えば、はてなムラの白痴どもを皆殺しにしようと考えたとする。すると、書記長は殺しても何の問題もないだろう。書記長とやり取りしてるような連中も大方死んで構わない(俺もか)。それはそうと、はてなムラの連中とは誰だろうか。絶対の村民など存在するのだろうか。まさか、はてな利用者を全員村民認定するわけにもいかない。
 下らないダイアリーの群れを慎重に読み、更新を継続しているか、更生の見込みはあるかなどを判断した上で殺していけば間違いは少ないだろう。しかし、それはとても大変で非効率なやり方であり、粗にして漏らさずにはほど遠い。
 一方で、キーワードで皆殺しにすればとても効率的だ。「はてサ」が連呼しているようなキーワードを書いたら即処刑。これでも間違いはそうないだろう。しかし、これをやると、その中に極僅かに混ざっている優れた人物まで殺してしまうことになる。それ以前に、優れた人物とは誰なのかさっぱりわからないが。
 さらには、B宮先生を挙げるまでもなく、高度に発達した妄言はお笑いと区別がつかない。お笑いという概念を認めないと、自然言語に対する深刻な制限をかける気がしてならない。

 加えて、最近つとに言われることに、評価者の問題がある。
 評価者を遥かに超える、あるいは超える可能性がある人を評価できるのだろうか。人文系の学部生が数理科学研究棟から送られてきた博論を審査できるかについて考えてみれば、その困難さはすぐにわかる。人間はすべてに通じることなどできないのだから、同じ人間が評価を続ければどこかでこのような問題を起こす。

【ノンポリ学生の定義】
 ノンポリ学生とは、「弾圧の順番が回ってこない」学生のことだ。
 なぜ彼らには順番が回ってこないのか、簡単である。統制の対象となるような行動をしないからだ。

 ある行動が統制の対象となり、別の行動はならない。ここに理由らしい理由など必要ない。
 なぜ統制されるか。その理由は胸に手を当てて考えればいい。それ以外に理解する方法はない。

 下半身を露出して放歌高吟しながら歩いてはいけない絶対の理由などない。日本では、それが繁華街だと捕まるが、樹海なら問題ない。一方で、統制に理由を求める行為は統制の対象となりうる。なぜならば、その行為は常識に対する攻撃になりうるからだ。

「100年前には, このような関数は常識に対する侮辱だと考えられていたことでしょう.
 (ポアンカレ(1899)『ワイエルシュトラスの数学的著作』, p5)」
(E.ハイラー/G.ヴァンナー(1997)『解析教程 下』, p109(Ⅲ.9.1 連続だが, どこでも微分できない関数))

【ニーメラー上人殉死和讃】
 ニーメラーの警句が悪質なのは、いざ軽挙妄動にも「行動」に及んでしまえば、当然のこととして統制されることである。一方で、何もしなければ、「いつかは統制されるが今回は何もなかった」となる。随分と都合のよいことだ。
 日蓮上人ならこれを法難と呼ぶわけだが、少なからぬ人は宗教団体がこういった理屈を使うことは強く非難するのに、その他の集団が同じような妄言を吐いても何とも思わないらしい。それどころか正当な論だとでも思っている節がある。
 ニーメラーの警句を認めるなら、日蓮上人の小理屈も認めるべきだ。もちろん、顕正会が同じようなことを言っても認めるべきだし、そういった理屈を使って勧誘を繰り返しても苦情など出すべきでない。
 日本の宗教法人において苦情相談の7割を占める顕正会の、その苦情が生まれるメカニズムの核心。それがニーメラーの警句の正体である。

【学部が駒寮を閉鎖したとき】
学部が駒寮を閉鎖したとき
私は黙っていた
実際、私は駒寮に住んでいなかったから

学生が原理研を排除したとき
私は黙っていた
実際、私は原理研でなかったから

教授会が軍事研究を禁止したとき
私は黙っていた
実際、私は軍事研究をしていなかったから

私が彼らを呼びつけたとき
もう誰もいなかった
抗議できるような何者も

【心の時代】
 宗教の救いは内心の問題であり、宗教には精神的按摩の機能がある。
 こういった俗説は、宗教の一面を表しているのは確かだろう。少なくとも、そのようなことがあると認めないわけにはいかない。

 それでは、現代宗教の核心は心の問題ではないと主張したとき、どのような対応が待っているだろうか。
 これが、現代宗教に対する弾圧の実態である。具体的に何が起こっているのかは、上の文章を読み、宗教について深く考察すれば理解されることだろう。

 昨日は本当に辛かった。どうして私がこのような仕打ちを受けねばならないのか。
 高い見識からの批判も、素人考えからの非難も、単純な暴力も、私を屈服させるには至らない。ただ、善意と不勉強の相互作用は私の精神を蝕み、studyと反studyの絶対矛盾的自己同一として死への欲動が体現せしめられる。