Study Hard -12ページ目

Beavis and Butt-head in Politically Correct

 英語版pediaがまともだとか言った奴ら出てこいよ。
 http://en.wikipedia.org/wiki/Beavis_and_Butt-head

 世間じゃ選挙とか流行ってるらしいが、信仰概念が形式的に記述できそうな方がよっぽど重要。

改装

 久々にここの大改装をしたので、苦情等はお早めに。

岸本英夫『数學學』

【数学の科学的研究】
 「数学学」は、数学の、科学的な研究を試みる学問である。専攻にはかかわりなく、文化の一面としての数学について、基礎的な知識を得ることを目的とする。

 数学といえば、暖かい血のかよった現象である。人間の心の奥底に、そっと秘められているものである。数学と科学とは、はじめから、相反するものではないのか。
 このような疑問が、しばしば、数学学に対して提起される。

 また、そうした研究(数学の科学的研究)をすることが、人間生活にとって、どのような意味をもっているか。それらの点を、考えてみなければならない。

 人間のいとなみとして現れた限りの数学現象を、数学学は、その研究の対象とするのである。

 たとえば、目に見えない数が、人間経験を超えた世界に実在するかどうか、というような問題は、数学学の研究の領域には、はいってこないのである。

 形而上的な問題も、それを、人間が問題とする限り、それは、人間の問題となっているのである。

 数学体験は、当事者にとっての直接的な価値体験である。

【デデキント「数とは何か、何であるべきか」1888年】
 数学には、二つの研究の立場がある。
 一つは、専攻の立場からの研究である。自分の専攻すべき数学が、どういうものであるか。それを、一層深く、究めようとする研究である。自分にとって、数学は、いかにあるべきかを問うのである。主観的な立場からの数学研究である。
 それに対して、他の一つは、客観的な立場からの研究である。文化現象として、個人の行動の中や、社会の場に現れている数学を、実証的に研究する。あるがままの姿で観察する。価値中立的な、客観的立場から、研究を試みる。
 ワッハは、この二つについて、前者を、規範的研究(normative)とよび、後者を、記述的研究(descriptive)とよんでいる。科学的研究を目的とする数学学は、当然、後者の中にはいることになる。

【心縋かなれば】
 専攻的研究は、専攻の立場からの研究である。特定の数学によって、与えられている大前提を、無条件でうけ入れる。考え方の根拠を、つねに、その出発点である大前提に求める。基礎論的研究は、その幅が広い。ここでは、人間の理性を拠りどころとする数学の研究といってよいであろう。自分の理性が納得しない限り、専攻に対しても、批判を与えることを辞さない。しかし、その研究の目的とするところは、数学の本質を明らかにし、自分にとってあるべき数学を究めようとすることにある。その意味で、これも主観的立場を離れない。
 客観的立場にたつのは、数学学だけではない。同じく数学を対象にして、科学的な研究をいとなむものに、歴史的研究がある。数学学のような体系的研究と歴史的研究とは対象の取り扱い方が異なる。その限りでは、この二つは、はっきり区別される研究分野である。

 「数学学」という言葉が、一番厳密に用いられた場合に、科学的、体系的な研究をする意味での数学の科学的研究だけをさすことになる。この場合の数学学は、「数学科学」といっても差し支えない。

【命題】
 数学学は数学か。
 なお、日本数学会は、近年にいたるまで、数学史を内部に持たなかった。

【フヒヒ】
 15行ぐらい省略して熟慮の結果、岸本において信仰と科学は一致することになる。
 科学をモノスとする岸本英夫はただの科学カルトであったのかもしれない。

 完

【参考文献】
 岸本英夫「宗教學」昭和36年