自己理解
現行の宗教学に最も欠けている要素は、神学である。
それは以下の通り示される。
【理解・他者理解】
理解するとは、意味ではなく、形式が共有されることである。
他者理解のために、意味(指し示す対象)や内容を理解するのは、その第一歩ではあるが目的にはなれない。それは、辞書の操作が語学の目的にはなりえないのと同じである。他者の経験が、ある形式において、自己の経験と同一視されるとき、他者を自己として理解することになる。素朴な構造主義である。
【他者理解・自己理解】
自己理解が不要だと思うのは、意味や内容の解釈に終始しているからに過ぎない。自分自身がある単語や表現で何を意味しようとしているのかは、基本的には明白である。従って、この意味で、自己理解は不要となる。
しかし、自己の形式を理解しようと考えるならば、それは他者理解以上に困難になる。それを確かめるのは簡単で、「自分自身の真似をする」ことについて考えてみればよい。大半の人は、およそ何をしてよいか迷い、残りも自身の特徴的な言行を(形式が規定される諸関係を無視して)模倣してみせるのが限界だろう。
他者理解の学は、形式主義を経て、自己理解の学を孕む。その時点ではじめて、性質の良さを獲得し、理解一般の学となる。
【理解一般の学】
理解関係が同値関係になるためには、お馴染みの3条件が求められる。
1.自己-自己理解(反射律)
2.自己-他者理解(対称律)
3.他者-他者理解(推移律)
まず、自己自身が、ある形式において、自己自身によって理解される。
次に、自己と他者が対等に、ある形式において、相互に理解される。
最後に、形式を保ったままならば、推移的に他者を理解できる。
【自己理解・神学】
神学が、自己の信仰を理解する学だとするならば、信仰は形式によって記述されなければならない。
それ以外の何によって記述できようや。
【宗教間対応の可能性】
宗教間理解が可能になるには、以下の3分野が綜合される必要がある。
1.神学
2.文化人類学
3.比較宗教学
それは以下の通り示される。
【理解・他者理解】
理解するとは、意味ではなく、形式が共有されることである。
他者理解のために、意味(指し示す対象)や内容を理解するのは、その第一歩ではあるが目的にはなれない。それは、辞書の操作が語学の目的にはなりえないのと同じである。他者の経験が、ある形式において、自己の経験と同一視されるとき、他者を自己として理解することになる。素朴な構造主義である。
【他者理解・自己理解】
自己理解が不要だと思うのは、意味や内容の解釈に終始しているからに過ぎない。自分自身がある単語や表現で何を意味しようとしているのかは、基本的には明白である。従って、この意味で、自己理解は不要となる。
しかし、自己の形式を理解しようと考えるならば、それは他者理解以上に困難になる。それを確かめるのは簡単で、「自分自身の真似をする」ことについて考えてみればよい。大半の人は、およそ何をしてよいか迷い、残りも自身の特徴的な言行を(形式が規定される諸関係を無視して)模倣してみせるのが限界だろう。
他者理解の学は、形式主義を経て、自己理解の学を孕む。その時点ではじめて、性質の良さを獲得し、理解一般の学となる。
【理解一般の学】
理解関係が同値関係になるためには、お馴染みの3条件が求められる。
1.自己-自己理解(反射律)
2.自己-他者理解(対称律)
3.他者-他者理解(推移律)
まず、自己自身が、ある形式において、自己自身によって理解される。
次に、自己と他者が対等に、ある形式において、相互に理解される。
最後に、形式を保ったままならば、推移的に他者を理解できる。
【自己理解・神学】
神学が、自己の信仰を理解する学だとするならば、信仰は形式によって記述されなければならない。
それ以外の何によって記述できようや。
【宗教間対応の可能性】
宗教間理解が可能になるには、以下の3分野が綜合される必要がある。
1.神学
2.文化人類学
3.比較宗教学
鶴岡先生 発表
これをレジュメにまとめる。
【岸本と西谷の間】
西谷は読み易く、岸本は読み辛い。
西谷には、その総論には賛同するが、個々の論の進め方は京都的であり馴染まない。
岸本の論は、一見わかりやすいが、かえって岸本の宗教観が覆い隠されており、それを引き摺りだすのは困難。
どう見ても2人の論は交叉しないが、ある関係において2人の間を規定できるのではないか。
無謀にも、宗教と称されているものを、そっくり数学だと思って読み直してみる。
すると、岸本の論は、当然だが、数学学や数学者学と呼ぶべきものになる。一方で、西谷の論は、意外と論旨を外れない。
数学が一般に何の役に立つのかといった皮相的な問題は、数学においても問題になってはいない。西谷の言うような、必要性を失い、巧用性を発揮しなくなる場においても数学は存在している。
こうしてみると、岸本の論は、「外から追いつめる」ものであり、西谷の論は「内から追いつめる」ものである。数学で言うなら、外測度と内測度であり、これらが一致するところに対象は存在する。
つまり、岸本も西谷も、宗教そのものを極限的に追いつめていくという作業において同じであり、その方向が逆であったと考えられる。ある意味で、岸本の作業はロジシャンと対比できるかもしれない。一方で、西谷は愚直な実務家である。
西谷が「内」から宗教自身を極限的に考えているというのは、そのままでよい。岸本は、なにより、人間という巨大な対象から、その部分として宗教を規定しているのだから、外側から見ていると言える。集合論的に考えれば、「引き戻し」であると考えていい。
f:宗教→人間 人間⊃Im宗教
fが準同型で全射であれば、それによって宗教と人間を対応させられる。
結局、記述できるのは何らかに表現されたものなのだから、そこからしか宗教は記述できない。とするならば、それ以前の部分は「引き戻し」によって得るのである。
このfが存在するとき、岸本と西谷に「間」が存在するといえる。
それは岸本と西谷の仕事に構造を保つ写像である。
ただし、これは素朴集合論のイメージに他ならず、重大なことに、そもそも宗教全体なるもの自体が明らかではない。より高度な数学的イメージが要求される。
【宗教とは】
信仰とは、疑いようもない根本のこと。
自己が逃れ難く無矛盾の体系の内に存在することを認めること。
「初等的な自然数論を含む理論Tが無矛盾ならば, Tの無矛盾性を表す命題Con(T)がその体系で証明できない」
第二不完全性定理(ゲーデル)
信仰は一般にこのような形式に記述できることを期待する。
その拡張ないし解釈として宗教は存在しうる。あるいは、高階述語論理との関係も興味深い。
宗教は言語の構文論か?
すると、ここで問題になるのが、宗教は単なる形式それのみによって完結する唯名論と規約主義の組み合わせに過ぎないのだろうか。何らかの問題、人間の問題を解決するときに、「定義によって真」なので解決されたというような問題なのだろうか。
つまり、以下のような立場が宗教をも包含するのかである。
カルナップは「言語の論理的構文論」において次の要旨を主張する。
言語的規約の導入に先立って存在する事実命題の領域などというものは存在せず...言語全体がそれに対して保存的拡大となっていなければならない事実的中核といったものも存在しない.
しかし、まさに事実的中核といったものが厳然として存在するという宣言が、この西谷の論の最重要部分である。
とにかく、ここを認めてしまえば、弁神論などただの失敗した一アプローチに過ぎない。
しかし、解決されるべき課題だけでなく、解決される必要もなく、それゆえ課題としても意識にのぼらないようなことをも包括して考えるのはどうか。
入試の点数とその後の成績の相関係数は0.6程度と低いが、不合格者まで入れれば0.9程度と強相関する。同様に、解決されるべき問題として「合格」した問題だけ見ていてはわからない何かがあるのではないか。
信仰は人間の問題であるが、社会の問題ではないし、個人の問題でもない。技術的に解決する問題でもない。それは疑いようもない、ただ信じることしか態度として与えられていない何かである。それは決定不能でありながら真であり、無矛盾である。
ただ1点、これを信じきることが宗教の方法である。信じきれないことが病である。
一般の言語も科学も、何ら無矛盾でなどない。世界全体に統一された法などない。それでも、ただ無矛盾の体系の存在を信じるのである。
参考文献
田中一之編「ゲーデルと20世紀の論理1」東京大学出版会、2006年。
【岸本と西谷の間】
西谷は読み易く、岸本は読み辛い。
西谷には、その総論には賛同するが、個々の論の進め方は京都的であり馴染まない。
岸本の論は、一見わかりやすいが、かえって岸本の宗教観が覆い隠されており、それを引き摺りだすのは困難。
どう見ても2人の論は交叉しないが、ある関係において2人の間を規定できるのではないか。
無謀にも、宗教と称されているものを、そっくり数学だと思って読み直してみる。
すると、岸本の論は、当然だが、数学学や数学者学と呼ぶべきものになる。一方で、西谷の論は、意外と論旨を外れない。
数学が一般に何の役に立つのかといった皮相的な問題は、数学においても問題になってはいない。西谷の言うような、必要性を失い、巧用性を発揮しなくなる場においても数学は存在している。
こうしてみると、岸本の論は、「外から追いつめる」ものであり、西谷の論は「内から追いつめる」ものである。数学で言うなら、外測度と内測度であり、これらが一致するところに対象は存在する。
つまり、岸本も西谷も、宗教そのものを極限的に追いつめていくという作業において同じであり、その方向が逆であったと考えられる。ある意味で、岸本の作業はロジシャンと対比できるかもしれない。一方で、西谷は愚直な実務家である。
西谷が「内」から宗教自身を極限的に考えているというのは、そのままでよい。岸本は、なにより、人間という巨大な対象から、その部分として宗教を規定しているのだから、外側から見ていると言える。集合論的に考えれば、「引き戻し」であると考えていい。
f:宗教→人間 人間⊃Im宗教
fが準同型で全射であれば、それによって宗教と人間を対応させられる。
結局、記述できるのは何らかに表現されたものなのだから、そこからしか宗教は記述できない。とするならば、それ以前の部分は「引き戻し」によって得るのである。
このfが存在するとき、岸本と西谷に「間」が存在するといえる。
それは岸本と西谷の仕事に構造を保つ写像である。
ただし、これは素朴集合論のイメージに他ならず、重大なことに、そもそも宗教全体なるもの自体が明らかではない。より高度な数学的イメージが要求される。
【宗教とは】
信仰とは、疑いようもない根本のこと。
自己が逃れ難く無矛盾の体系の内に存在することを認めること。
「初等的な自然数論を含む理論Tが無矛盾ならば, Tの無矛盾性を表す命題Con(T)がその体系で証明できない」
第二不完全性定理(ゲーデル)
信仰は一般にこのような形式に記述できることを期待する。
その拡張ないし解釈として宗教は存在しうる。あるいは、高階述語論理との関係も興味深い。
宗教は言語の構文論か?
すると、ここで問題になるのが、宗教は単なる形式それのみによって完結する唯名論と規約主義の組み合わせに過ぎないのだろうか。何らかの問題、人間の問題を解決するときに、「定義によって真」なので解決されたというような問題なのだろうか。
つまり、以下のような立場が宗教をも包含するのかである。
カルナップは「言語の論理的構文論」において次の要旨を主張する。
言語的規約の導入に先立って存在する事実命題の領域などというものは存在せず...言語全体がそれに対して保存的拡大となっていなければならない事実的中核といったものも存在しない.
しかし、まさに事実的中核といったものが厳然として存在するという宣言が、この西谷の論の最重要部分である。
とにかく、ここを認めてしまえば、弁神論などただの失敗した一アプローチに過ぎない。
しかし、解決されるべき課題だけでなく、解決される必要もなく、それゆえ課題としても意識にのぼらないようなことをも包括して考えるのはどうか。
入試の点数とその後の成績の相関係数は0.6程度と低いが、不合格者まで入れれば0.9程度と強相関する。同様に、解決されるべき問題として「合格」した問題だけ見ていてはわからない何かがあるのではないか。
信仰は人間の問題であるが、社会の問題ではないし、個人の問題でもない。技術的に解決する問題でもない。それは疑いようもない、ただ信じることしか態度として与えられていない何かである。それは決定不能でありながら真であり、無矛盾である。
ただ1点、これを信じきることが宗教の方法である。信じきれないことが病である。
一般の言語も科学も、何ら無矛盾でなどない。世界全体に統一された法などない。それでも、ただ無矛盾の体系の存在を信じるのである。
参考文献
田中一之編「ゲーデルと20世紀の論理1」東京大学出版会、2006年。