その永遠の一秒に | walkin' on

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アナログレコードのレビューを中心に音楽に関するトピックスを綴っていきます
 歌詞の和訳や、時にはギターの機材についても投稿します

レコード番号:SRCL2685(SME) 1993年

 

 浜田省吾の90年代の作品は、これは以前にご紹介した”誰がために鐘は鳴る”FOR WHOM THE BELL TOLLS)も含めていえることですが、万人受けする音楽としての「ポップ」ミュージックから意図的に離れていこうとする意志を感じます。今回ご紹介する”その永遠の一秒に”は、そういう意味では省吾だからこそ世に送り出せたアルバムかもしれません。

 

 

 

 

 1992年の”悲しみは雪のように”の大ヒットで、自身初となるシングルチャート首位を獲得した省吾ですが、そのしばらく前から作曲のスランプに陥っており、このヒットの報せもあまり喜べなかったといいます。

 もともとは1982年のアルバム”愛の世代の前に”の収録曲であり、当時もシングルカットされたもののあまり注目されなかった曲が、ドラマの主題歌としてリメイクされたうえでリリースされたのがヒットしたという経緯もあり、どこか不本意なところもあったのでしょう。現在でもこの曲をステージで演奏する際には”愛の世代の前に”のバージョンに準じたアレンジをとることがあるのは、そのような想いがあるかもしれません。

 

 

 前作から3年ぶりにリリースされたこのアルバム、当初は2枚組にする計画もあったといいますが、ふたを開けてみると収録曲は9曲。しかも、そのうちの”悲しみ深すぎて”はかつて”LOVE TRAIN”に収録した曲のリメイクでした。

 さらに言えば”こんな気持ちのまま”もかつて70年代にステージで披露していた曲を改題&新たに詞をつけてのレコーディングだったといいます。

 録りためたマテリアルから厳選した曲を収録、とはとても考えられず、ホントに2枚組のアルバムをリリースする予定だったの?とボクなどは首を傾げてしまいます…

 

 

 

 

 オープニングトラックの”境界線上のアリア”の境界線が精神医学のボーダーラインを示していることからわかるように、このアルバムにおける省吾の、社会への、世界への眼差しはいつにもましてシリアスです。

 

 ”境界線上のアリア”は自動車のイグニッションから始まりますが、最後からふたつめの”裸の王様”の歌詞には

♪今夜お前はガソリンを 燃やして恋人のところへ向かう

とあり、自制の効かないエゴを象徴しているかのように響きます。

 

 その”裸の王様”には

♪今夜俺はガソリンを燃やして荒れはてた聖地を走る

という箇所がありますが、これが、続く”初秋”

♪戦火に倒れた恋人を抱きしめて

泣き崩れる男を映すTVニュース

の、宗教さえも救いにならない荒廃した戦場を連想させはしないでしょうか。

 省吾はこの箇所を、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の報道よりインスピレイションを得たといいますが、環境破壊と民族紛争が同時に発生する20世紀末の世界を冷徹に見つめる眼差しは”J.BOY”の"A New Style War”に通底するものがあります。

 

 ”傷だらけの欲望”にはache of desireというフレーズがみられます。いっときの快楽を追い求めたところで結局はそれで傷ついてしまう人の心のもろさをこれほどまでに率直に言及した曲も、そうたくさんはないのではないでしょうか。かつて”FATHER'S SON”に収録した”Breathless Love”とは全く異なる、ロマンティシズムの感じられない歌詞に、どこか切迫したものを感じてしまいます。

 

 

 それと、”悲しみ深すぎて”をあえて再録したところにも、この時期の省吾の心情が表れているように思います。

 これはもう、歌詞が全てを物語っています。信じた道を歩いているはずなのに、なぜだか寂しさが、苛立ちが、悲しみがこみ上げてくる、そんな不安を抱えたまま、どうしていいか分からず踊り続けるだけ…1977年当時よりも、16年経った1993年の方がより自分の歌としてのリアリティを感じたということなのでしょう。”SAND CASTLE”から続く過去作のリメイク集ではなく、オリジナルスタジオアルバムに収録したところに省吾の意思を感じられるようです。

 

 

 もうひとつ、これはこのアルバムに限ったことではないかもしれませんが、独りになりたくない、孤独と向かい合うのが辛い、という心情が背景にある楽曲が多いように思います。

 ♪ひとり ひとりきり 誰だって 泣くときはひとり

と辛辣につきはなす”境界線上のアリア”は別かもしれませんが;

”最後のキス”

”悲しみ深すぎて”

”ベイブリッジ・セレナーデ”

”こんな気持ちのまま”

の4曲はいずれも、独りでいるときの心のありようをつづっている箇所があります。

 

 

 そして、それゆえに―というのはさすがに無理があるかもしれませんが、愛する人が一緒にいること、共に生きていくことの幸せと喜びをストレートに歌い上げる”星の指輪”が、このアルバムでは珠玉の輝きを帯びています。

 後の作品、例えば”JOURNEY OF A SONGWRITER”の中の”マグノリアの小径”にも通底する、愛する人への感謝と、ともに人生を歩むことの素晴らしさを題材にした曲の始まりはこの”星の指輪”であり、それまで恋愛に懐疑的な詞の多かった省吾にとっての大きな転機となりました。

 

 

 

 

 ”J.BOY”の頃はレコーディング、ステージともに同じバンド、THE FUSEと活動してきた省吾ですが、この”その永遠の一秒に”ではスタジオミュージシャンを多く招へいし、楽曲ごとのカラーを鮮明にする手法をとっています。

 といっても、盟友・町支寛二氏や古村敏比古氏は引き続き参加していますし、クレジットをよく見るとかつて”CLUB SNOWBOUND”で秀逸なプレイを残した法田勇虫氏も加わっています。

 

 個人的には、省吾との連名でプロデュースにクレジットされている梁邦彦氏の存在が大きいように思います。

 ”J.BOY”のツアーにTHE FUSEとして参加していた梁氏はシンセサイザーによるバッキングだけでなく流麗なピアノソロもこなす名手ですが、このアルバムではプログラミングにも腕を振るっており、生気に乏しくスカスカだった前作とはまるで異なる、厚みがありながらシャープな音場を構築しています。

 この後しばらくして梁氏は省吾のレコーディング陣から離れますが、このアルバムで氏が示したサウンドメイキングの手法は後の省吾のアルバムにも影響を与えているのではないかと思っています。

 

 

 

 

多分、この”境界線上のアリア”を聴いて、何も感じない人もいると思うんだよね。何だろう、これは、って。それはそれでいいんだろうと思うんです。でも、これを、確実にキャッチ出来る人、何を唄っているんだってこと、何が唄いたいのか分かる人もいると思うのね。で、このアルバムはそういうアルバムでいいんだと思っているんですね。

(『ブリッジ』1995年10月号のインタビューより)

 

 

 一般受けする楽曲をたくさん書いて歌ってメシを食うポップミュージックのフィールドに、このようなスタンスで制作されたアルバムが送り出されたのも驚異的なことですが、そのアルバム”その永遠の一秒に”70万枚のセールスを、オリコンチャート首位まじかるクラウンを記録したことも凄いことです。

 

 シングル”悲しみは雪のように”のヒットの余勢もあったかもしれませんが、これほどシリアスで重厚なアルバムがこれだけのポピュラリティを獲得することは、この先もう無いかもしれません。このアルバムと、それを苦心の末完成させた浜田省吾がいかに非凡かは、もう少し時間が経てばより多くの人に理解されるはず、とボクは信じています。

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