龍のひげのブログ -14ページ目

生活感覚によるワクチンへの率直な感想

今更のことであるが、ワクチンについて言えば私は一度も打っていない。全体的なデータや統計のことは分からないが、分からないとはどこまで信用してよいのか分からないとという意味であるが、私の生活に即した身の回りの人間について言えば、たとえば大学4年生の私の息子も打っていない。私の母親も打っていないし、週に一度、母親を風呂を入れて家の掃除をしに来てくれている介護の女性も打っていない。その女性の家族も誰一人として打っていないということである。私が毎週、鍼を打ちに行っている鍼灸師も同様に一度も打っていない。その鍼灸師の家族構成についていえば妻と、息子さんと、娘さんの四人家族であるが、娘さんは現在、看護学校に行っていて研修で病院に行くので本当は打ちたくはないが、止むを得ず打っているということだが、奥さんと息子さんは打っていないということである。それから私の息子が大学4年ということで今年が就職活動であったので、一度もワクチンを打っていないと就職してから何らかの不利益を被るのではないかと心配になって、契約している某大手生命保険会社の20歳代の担当女性が、私の会社の事務所に契約内容の確認か何かで今年の春ごろだったか来た時に聞いたのであった。そうしたところその女性が言うには、確かに打たなければならないというような空気感は社内にあるが強制ではないし、打たないことのペナルティーのようなものはない、実際に私は打っていませんと言っていた。その話を聞いて私はその女性はしっかりしているなと感心したものであった。大体はそんな感じである。私の生活範囲内で聞き取れる数などたかが知れているし、仕事関係の付き合いも含めて言えば打っている人の方がはるかに多いことは事実である。しかしその比率で見れば打っていない人の割合が政府やマスコミの報道しているものよりも多いという印象が強い。接種率が8割だとか3回目で6割などという数値は水増しされているのではないかと私は疑っている。いずれにしても私にとって重要ではっきりしていることは、統計にはならないようなごく限られた私の生活範囲内での事実であるが、私を含めてコロナワクチンをこれまで一度も打っていない人の誰一人としてコロナに罹患していないのである。私の直接、知っている人でコロナに罹患した人はいないが、伝え聞いたところによれば、ワクチンを打っていてコロナに罹患したという話しはいくつかある。よって私の生活感覚で言えば、ワクチンを打っていなくとも、品行方正になどといえば語弊があるかも知れないが、普通に生活していれば罹らないのである。打った方が掛かりやすいのではないかという不信感すらある。つまりはどうしても打たなければならないというモチベーションは自己内部に働きようががないし、打つつもりもない。統計とか厚労省の見解などどうでもよいとは言わないし、嘘だとも言わないが、狭い範囲内のこととは言え自分が見聞きしている現実の方が信用できるのは当然のことである。というよりもそれを信用しないで、何を信用するというのか。

それからワクチンについては予防接種法による努力義務という訳の分からない法律が適用されているが、論理的に考えて欲しいものである。一般国民の接種率などどうでもよい話しだとは思わないか。努力義務の法律があるのであれば、一般国民の接種率を高める推奨、宣伝をする大前提として、立法府の国会議員の接種率がほぼ100%でなければならないということは当然であろう。何でそれを調査して公表しないのか。何でそこがタブー視されてこれまでスルーされてきているのか。もちろん国会議員といえども法の下においては平等であり、民主主義を標榜するのであればワクチンに対して否定的な考えを持つ議員も存在することが自然であると言えるが、法を作り、守る役割の人間が法の内容に抵触する状態にある可能性があるのであれば、そこはきちんと全ての議員を調査して国民に情報公開されるべきであろう。その肝心な部分をブラックボックス状態にして政府やマスコミは国民に推奨できないはずである。ワクチンを否定したり、打っていない人間を批判、攻撃する著名人も批判する対象は一般人のみであり、その論理の矛先が政治家のワクチン接種公表義務へと向かわないのは理解できないことである。一般人がワクチンを打たないことは許せないが、努力義務を無視している政治家の存在の有無について無関心であるのは、普通に考えれば利権に取り込まれているからそういう思考回路になるのである。私は何もワクチンの非接種を推奨しているのではない。ワクチン接種のリスクとベネフィットが正しく示されていて、国民一人一人の自己決定が促されるべきであり、そうなっていないことが問題だと言っているのである。ワクチンを打つことのリスクはある。現状でそれをないなどと断言する人間は、頭の良し悪し以前に人の道に外れていると私には思える。最近ではごく少数ではあるが、一部のマスコミやヤフーニュースなどでワクチン後遺症について報じられるようになってきた。

https://news.yahoo.co.jp/articles/52504f58fe5ab25dd5f486119325d44cdd7e500e?page=1

ワクチン接種後に女子中学生が歩行困難になったり、男子大学生に不随意運動の症状が出て生活が困難になる例が現実に存在する。接種後の死亡例と共に国は因果関係を認めていないが、誤解してはいけないことは国の見解は因果関係は不明と言っているのであって、100%因果関係がないと断言しているものではないということである。不明と言うことは因果関係があることもあり得るということでリスクは当然あるということである。状況的に因果関係を認めなければならないにも関わらず、情報不足により評価できないと国が逃げているだけなのだ。これは恣意性の問題である。SNSで悪口を書かれて誰かが自殺した。これは放置できないからと侮辱罪という法律が作られたと。しかし実際には自殺の理由はそれ以外にも当人にしかわからない何かがあったのかも知れない。状況的、タイミング的に考えればSNSの悪口が原因だと誰もが考えるのかも知れないが、国が一つの法律を作るとなればダイレクトに100%の因果関係を認めるべきなのかどうかという視点がなぜ持てないのであろうか。まあ一つの見方とすれば、国は侮辱罪という法律の下で、その法律の副作用で、ワクチンとワクチン後遺症の因果関係を国が認めないことへ国民が疑問や批判を呈しにくいような雰囲気づくりをしているのである。マスコミや政治というものは論理とか整合性で国民に働きかけているものではなくて、その時代の気分とか感情、雰囲気で体制や利権を維持しようとすることを理解しなければならない。ともかくも資本主義社会においては利権拡大のためにワクチンを推奨されることは止むをえないといえるのかも知れないが、一方では自己判断、自己責任とは言え、きちんとリスクについても説明と注意喚起がなされていれば、人生経験が浅くて判断能力の低い中学生の女の子が歩行困難になるようなことはなかったかも知れない。今の時点でワクチンのリスクは0などと平然と公言できるような人間はそういう立場の弱い人々の不幸に対して心を痛めることはできないのである。悲しいことである。悲しいというよりも心の貧しさを私は感じる。日本の政治やマスコミに今、求められていることは見掛けの強者の理論による正しさではなくて、立場が弱くて逆らえない人々、強者の理屈に同調せざるを得ない人々の不幸を思いやる心を回復することではなかろうか。何を言っても無駄なような気もするが。

(吉川 玲)

本当のことを言ってはいけない日本という国

暴露系などという言葉自体が、否定的なニュアンスを帯びている。ならば週刊文春もフライデーも暴露系メディアと分類し、呼称すべきなのであろうか。何でもよいが、ガーシーを応援したり、擁護するつもりもないが、ガーシーが参議院選挙に当選して国会議員になったことに対して、嫌悪感や不快感を感じる人々が多いようである。そういう人々は、ああいう人間が当選するようでは、日本の政治はもう終わりだと嘆く。ああいう人間とは、どういう人間かと言えば、博打で無一文になって、有名人と合わせることをネタに詐欺をして金を稼ぎ、そしてそれをユーチューブでバラされて仲間から見放されて孤立し、それに対して激しい怒りで様々な芸能人の不祥事や犯罪性のある行為を動画で暴露して有名になり、影響力を高めていくような人物のことである。そういう人間が卑しくも国会議員になどなってしまえば、日本の政界の品位や権威が穢されて、低俗化が進むなどと思っているのであろうと想像される。そういう風に考える人々はある意味では良識的とでもいうか、健全で真っ当な感覚の持ち主なのだと言えよう。マスコミも基本的にはそのようなスタンスでガーシーの存在感を意図的に軽視したり、無視してきたものである。どのように感じようと、考えようとその人の自由なので、批判するつもりはないが、そういう人々は社会の表面の上澄み部分のみを見て生きているのであって、本当は何もわかっていないし、何も見えていないのである。政治に素人の私が断言するのは憚られるが、政界とは我々一般人からは想像もつかないような悪人が集まる巣窟であり、少なくとも今の日本の政治に国民によって守られなければならないような品位や権威の欠片でも残っているなどとは到底、考えられない。そういう政治家を選んでいるのは国民自身であるから、結局は国民の責任であるなどという理屈は、政治やマスコミが国民支配の地獄のような悪質性と腐敗度合いを国民の目から隠蔽するためのレトリックであることを大半の国民は理解できないのである。国の財政破綻も景気の低迷も巡り巡って、全ては国民が悪いのだからその代価は国民が背負わなければならないというような洗脳のシステムの中で様々な税制や法律が作られて、国民の生活は益々苦しくなり、それに対して疑問を持つ能力自体が二極化していてない人にはまるでない。分かる人は私のような人間が何も言わなくとも、私などより何十倍も分かっているのであるが、分からない層には何を言っても馬耳東風で深いところでは生きることの指針とはなり得ないのである。洗脳とは恐ろしいものである。そういう人々が政府やマスコミが推奨すれば何の疑問も持たずに、何度でもワクチンを喜んで打つのであろう。しかし昨今の傾向としてさすがにわかる人、わかろうとする人は、政府やマスコミによってどれほど情報統制されようとも増えてきている。ガーシーが何を暴露するか、それによって損なわれる日本の品位などどうでもよいことである。ガーシー自体が政治のことや、政治の本当の怖さを分かっていないが、善悪や品位の問題ではなくて、純粋に何かを暴露するということ、何かが暴露されなければならないということ、そしてガーシーの不動明王のようなあの激しい怒りそのものが、今の日本で分かろうとする人、分かる人が増え始めていることの反映というか、象徴というか、ともかくも一つの必然だということである。もう一人挙げれば、私は投票していないので偉そうなことは言えないが、今回の選挙で一議席を獲得した参政党の神谷氏の選挙演説動画を見ていて強い印象を受けたのだが、演説の中に「陰謀論」というワードが何度も出てくるのである。神谷氏は日本にとって、日本人にとって大切で、当たり前のことをこれまで主張する活動を続けてきただけであるのに、どうも陰謀論者のレッテルを貼られて既存政党や既得権益層から妨害されたり排除されようとしてきたということである。その演説を聞いていて、なるほどと、その腹立たしい気持ちはよくわかる思いであった。日本の政治やマスコミなどの既得権益層は、日本のために勇気を持って本当のことを言う人間に対して、一つ覚えのように陰謀論者のレッテル貼りをすれば排除できると考えていて、延々とその手法を繰り返しているものである。そんな程度の低いことをしていて恥ずかしくないのかと聞きたいものだ。また神谷氏はこんなことも言っていた。神谷氏は妻に、自分のように真に日本のための政治活動をしていると自分たちの子供が誘拐されるようなことが起こるかも知れない、もしそうなっても僕の政治活動を応援してくれるかと聞いたというのである。そうしたところ神谷氏の妻は、応援しますと答えたということであった。話しを作っているのでも、盛っているものでもないのはわかる。なぜならそれが日本の実情だからだ。日本と言う国は平和でお花畑のようにぼんやりとはしているが、そこまで悲壮な覚悟を持たなければ本当のことは言えないのである。ガーシーの暴露に通じるものがあるのではなかろうか。日本は本当のことを言えない、言ってはいけない国家なのだ。言う時は三島由紀夫のように自決覚悟でなければならないのだ。だから私は言うべきか、言わざるべきかをいつも迷っている。私はガーシーや神谷氏のようには根性も度胸もない男であることを認める必要があるということだ。    (吉川 玲)

ガーシー当選のタイムラインについて

参議院選挙が終わった。それで驚いたことには、NHK党のガーシーこと東谷氏が当選した。何で驚いたかと言えば、私はガーシーは票の操作による不正でほぼ間違いなく落とされると考えていたからである。ガーシーという存在を日本の政界は受け入れることは出来ないであろう、当選させると政界が内部崩壊してしまう可能性があると。特に最近のユーチューブ発信で楽天、三木谷氏の不品行を激しく追及し、その結果、不当にガーシーのツイッターアカウントが凍結され、該当するユーチューブ動画が警告もなく削除される事態となって、その流れは、つまりは選挙の不正は、ほぼ間違いなく確定したと考えていたものである。それで私は今回の選挙には行かなかった。特にガーシーやNHK党を応援していたという訳ではないが、そういう問題ではなくて、不正が行われるであろう選挙に何でわざわざ投票しなければならないのかと。不正が行われる可能性が高いと考えながら、投票はするという行為ほど矛盾した、自己分裂はないということである。ところが結果的に、蓋を開けて見れば、ガーシーは当選し、不正はなかったのである。これをどう考えるか、今、検証して見るに、先ず私と同じように不正が行われると考えていた人が相当数、存在したということがあるであろう。ガーシー自体が、その可能性を危惧していたものである。不正選挙は、不正選挙の可能性を疑う人の割合がほぼ限りなく0%でなければ成り立たないと言うか、実施できないものである。反対に言えば、0%であれば、それも完全無欠の0%に近づくほどに不正が行われる可能性が高くなるということである。そういう意味では今回の参議院選挙はその条件を満たしていなかった。国民が賢くなってきているということである。それと私が考えるもう一つの大きな要因は、安倍元総理の死が関係していると思われる。ガーシーは選挙の前日である9日の土曜日に、その前日の8日、安倍氏が銃撃され、死亡した日に、楽天の三木谷氏が喪に服さずに北海道で未成年か未成年に近いような年齢の風俗嬢を呼んで酒を飲ませ持ち帰ろうとしていたと、ブチ切れた怒りの動画を流し、安倍氏の死に対して深く哀悼の意を述べていたものである。選挙の前日に自民党への同情票を増やすような姿勢を見せたところで、ガーシーの票が増える訳ではない。そこには何の打算も、演技性も感じられなかった。お世辞を言うつもりはないが、ガーシーはそういう男なのである。選挙に不正が行われるのであれば、当然、政権与党の自民党が関与することになるのであろうが、自民党執行部の人間はガーシーの動画を見て、そういう人間に不正を行うべきではないと選挙直前に翻意した可能性が高いのではないかと私は見ている。もしそうだとすれば前回に私が書いた記事の内容に即して言えば、安倍元総理の死によって、ガーシーのタイムラインは変わったということである。そして私はそういう現実を選択したということである。

(吉川 玲)