龍のひげのブログ -14ページ目

2,023年7月

人も死ぬ 地獄の読経 蝉の声

 

吉川 玲

真実の重みと日本消滅の危機

憂鬱だな。何か言おうとすると沼底にゆっくりと沈んでいく死体になったような暗澹とした気分に陥る。なぜ死体なのかと言えば、死というものを意識しなければ言えない性質のことがあるということだ。要するにそれは楽しいことでも、心浮き立つことでもあり得ないし、本当は私だって見たくもなければ、触れたくもないことである。先ず言わねばならないこと、分かって欲しいこととは、社会的な真実とは途轍もなく重たいということである。仮に一つの真実の重量が1トンあるとする。その1トンを私一人の身体で支えようとすれば、間違いなく私は圧し潰されて死体となってしまうであろう。だからこそ憂鬱なのである。沼底に沈んでいく死体のイメージとなるのだ。ところが私一人ではなくて、たとえば1万人でその真実を支えるならどうなるかと言えば、一人当たりの重量は僅か100gである。100gならば、力のない人間であっても片手どころか2本の指先で摘み上げれる軽さとなる。鼻歌混じりで出来る作業で、死のイメージは払拭される。それが真実をシェアすることの意味であり、意義でもあろう。

しかし残念ながら、今日において目覚つつある人々が増えてきているとは言っても、全体の99%の大衆は未だに政治とマスコミに洗脳され、支配されている。真実をシェアすることはできない。祭りの神輿を担ぐようなものである。誰かがさぼって重さから逃れていると、その分は他の人間に罪刑の如く加重されてゆく。形骸化した民主主義体制の下で99%の大衆が真実から目を背けていると、必然的、物理的に残りの1%の人間の人生と精神生活は、重苦しく、疎外されたものとならざるを得ない。政治やマスコミが真実を追求する者を、「陰謀論者」のレッテルを貼って、嘲笑の対象にしようとするのは、真実の重みを支えようとする人々を社会から退治するように排除してゆくことによって、支える人間一人当たりの重さをさらに増大させ、精神を破壊し、最終的には0にするための工作活動であると言える。真実の追求者が0となってしまえばそれは恐ろしい世界が待ち受けている。実質的にそれは民主主義の死を意味するものであり、共産主義体制による独裁、専制政治と変わらないものとなる。普段から何も考えず、真実の重みの試練から逃れているゆえに鈍感な大衆には決してわからないであろうが、今、世界全体は共産主義化していっていると考えられる。これはとても危険な潮流である。日本の政治やマスコミは、上級国民か何か知らないが、自分たちだけが支配者、管理者としての特権的な地位を持続できるのであればそれでも良いと考えているのであろうか。悪魔に魂を完全に売り渡してしまっている人間の考えることはわからない。いや恐らくは日本の政治やマスコミ自体が、99%の大衆と同じように何も考えていないというか、自分の生活や利益、或いは自分が属する政党や派閥、組織程度のことしか考えていないのである。国家という概念が内側から溶け出し、消滅し始めているとも言える。愚民政策などと言うが、日本においては今や、政治家やマスコミの人間が愚民そのものなのである。ともかくも世界全体が共産主義化していっているのであれば、その過程の中で、日本という国家がどのように利用され、ターゲットになされる運命を辿るのかということを想像すると途轍もなく恐ろしく、憂鬱であろうが何であろうが黙ってはいられないという気持ちにもなる。日本の政治が中国から浸食の度合いが強まってきていることが、何よりも共産主義化への危険な兆候であると言えないであろうか。マスコミがほとんど報道しないので知らない人も多いかも知れないが、大阪市における上海電力のメガソーラー発電所設置の問題であるとか、自民党内部に中国に飼い慣らされた政治家が増加していることは、普通に考えても危険極まりないことであろう。なぜ誰も騒がないのかということである。それよりも尚一層に恐ろしいことは、その中国の影響力増大に対して、水面下でアメリカによる排除の力学や動きが見られないということである。これを言うとまた陰謀史観などと馬鹿にされるのであろうが、日中国交回復をなした田中角栄がロッキード事件で、親ロシアの鈴木宗男氏がムネオハウスで逮捕されたことは、裏でアメリカが描いた絵であることはほぼ間違いないことであろう。冷戦構造というか、共産主義勢力の影響力を高めないために、日本の政治内部においてもそういう力学が良い、悪いは別にして作動していたのである。その動きが表面的には台湾問題などで緊張が高まっているはずであるのに、なぜ今見られないのかということである。一つの見方とすれば、これはとても恐ろしい言及となるが、世界全体の共産主義化への方向性において、裏側でアメリカと中国がつながっているのではないかということである。仮にそうであればそれがどういう命運を日本にもたらすと想像できるかと言えば、日本が憲法9条を改正して、戦争が出来る国になり、今のウクライナと同じようにアメリカが台湾問題で直接に中国との戦争を回避する一方で、日本が中国の侵略を受けて、日本と中国の全面戦争が数年後に始まると言うシナリオである。そして言うのも恐ろしいが、日本がまたもや敗戦することとなって、日本は内部分割されアメリカと中国に共同統治され、日本という国家が消滅してしまう計画というか可能性があるのではないかということである。想像力過多による空想だとか杞憂だと言われればそれまでだが、最近読んだ小説の『暗黒自治区』(亀野仁)は、日本が消滅していて中国と国連に支配され、日本人は和族と呼ばれているなどというおぞましい内容であったが、このような作品が出現してきていること自体が、実際に日本が近未来において遭遇する危機の可能性を示唆しているのだと私には思えてならない。そもそもこの2年ほどのコロナ騒動やロシアとウクライナの戦争は、世界全体の共産主義化の流れを表面的に見え難くさせるために「必要な混乱」であるとは思えないであろうか。敢えて名前は出さないが、私と同じように数年後に日本が消滅してしまう可能性があるという危機感を持っている人が、落選はしたものの先の参議院選挙に立候補し、今も身の危険を顧みずにユーチューブで発言している。確かに未来のことはわからないし、今の時点で未来は決定しているものではない。しかし時間を俯瞰して見れば、今も未来もない。今の我々日本人の意識状態がそのまま数年後の近未来を映し出し、選択するのだ。日本と言う国家を消滅させないためには政治やマスコミに依存していてはダメなのだ。繰り返すが日本の政治とマスコミは悪魔に魂を売り渡してしまっているという以上に悪魔そのものなのだ。一人でも多くの人に真実の重みを背負う勇気と覚悟を持っていただきたいと心より願う。

(吉川 玲)

生活感覚によるワクチンへの率直な感想

今更のことであるが、ワクチンについて言えば私は一度も打っていない。全体的なデータや統計のことは分からないが、分からないとはどこまで信用してよいのか分からないとという意味であるが、私の生活に即した身の回りの人間について言えば、たとえば大学4年生の私の息子も打っていない。私の母親も打っていないし、週に一度、母親を風呂を入れて家の掃除をしに来てくれている介護の女性も打っていない。その女性の家族も誰一人として打っていないということである。私が毎週、鍼を打ちに行っている鍼灸師も同様に一度も打っていない。その鍼灸師の家族構成についていえば妻と、息子さんと、娘さんの四人家族であるが、娘さんは現在、看護学校に行っていて研修で病院に行くので本当は打ちたくはないが、止むを得ず打っているということだが、奥さんと息子さんは打っていないということである。それから私の息子が大学4年ということで今年が就職活動であったので、一度もワクチンを打っていないと就職してから何らかの不利益を被るのではないかと心配になって、契約している某大手生命保険会社の20歳代の担当女性が、私の会社の事務所に契約内容の確認か何かで今年の春ごろだったか来た時に聞いたのであった。そうしたところその女性が言うには、確かに打たなければならないというような空気感は社内にあるが強制ではないし、打たないことのペナルティーのようなものはない、実際に私は打っていませんと言っていた。その話を聞いて私はその女性はしっかりしているなと感心したものであった。大体はそんな感じである。私の生活範囲内で聞き取れる数などたかが知れているし、仕事関係の付き合いも含めて言えば打っている人の方がはるかに多いことは事実である。しかしその比率で見れば打っていない人の割合が政府やマスコミの報道しているものよりも多いという印象が強い。接種率が8割だとか3回目で6割などという数値は水増しされているのではないかと私は疑っている。いずれにしても私にとって重要ではっきりしていることは、統計にはならないようなごく限られた私の生活範囲内での事実であるが、私を含めてコロナワクチンをこれまで一度も打っていない人の誰一人としてコロナに罹患していないのである。私の直接、知っている人でコロナに罹患した人はいないが、伝え聞いたところによれば、ワクチンを打っていてコロナに罹患したという話しはいくつかある。よって私の生活感覚で言えば、ワクチンを打っていなくとも、品行方正になどといえば語弊があるかも知れないが、普通に生活していれば罹らないのである。打った方が掛かりやすいのではないかという不信感すらある。つまりはどうしても打たなければならないというモチベーションは自己内部に働きようががないし、打つつもりもない。統計とか厚労省の見解などどうでもよいとは言わないし、嘘だとも言わないが、狭い範囲内のこととは言え自分が見聞きしている現実の方が信用できるのは当然のことである。というよりもそれを信用しないで、何を信用するというのか。

それからワクチンについては予防接種法による努力義務という訳の分からない法律が適用されているが、論理的に考えて欲しいものである。一般国民の接種率などどうでもよい話しだとは思わないか。努力義務の法律があるのであれば、一般国民の接種率を高める推奨、宣伝をする大前提として、立法府の国会議員の接種率がほぼ100%でなければならないということは当然であろう。何でそれを調査して公表しないのか。何でそこがタブー視されてこれまでスルーされてきているのか。もちろん国会議員といえども法の下においては平等であり、民主主義を標榜するのであればワクチンに対して否定的な考えを持つ議員も存在することが自然であると言えるが、法を作り、守る役割の人間が法の内容に抵触する状態にある可能性があるのであれば、そこはきちんと全ての議員を調査して国民に情報公開されるべきであろう。その肝心な部分をブラックボックス状態にして政府やマスコミは国民に推奨できないはずである。ワクチンを否定したり、打っていない人間を批判、攻撃する著名人も批判する対象は一般人のみであり、その論理の矛先が政治家のワクチン接種公表義務へと向かわないのは理解できないことである。一般人がワクチンを打たないことは許せないが、努力義務を無視している政治家の存在の有無について無関心であるのは、普通に考えれば利権に取り込まれているからそういう思考回路になるのである。私は何もワクチンの非接種を推奨しているのではない。ワクチン接種のリスクとベネフィットが正しく示されていて、国民一人一人の自己決定が促されるべきであり、そうなっていないことが問題だと言っているのである。ワクチンを打つことのリスクはある。現状でそれをないなどと断言する人間は、頭の良し悪し以前に人の道に外れていると私には思える。最近ではごく少数ではあるが、一部のマスコミやヤフーニュースなどでワクチン後遺症について報じられるようになってきた。

https://news.yahoo.co.jp/articles/52504f58fe5ab25dd5f486119325d44cdd7e500e?page=1

ワクチン接種後に女子中学生が歩行困難になったり、男子大学生に不随意運動の症状が出て生活が困難になる例が現実に存在する。接種後の死亡例と共に国は因果関係を認めていないが、誤解してはいけないことは国の見解は因果関係は不明と言っているのであって、100%因果関係がないと断言しているものではないということである。不明と言うことは因果関係があることもあり得るということでリスクは当然あるということである。状況的に因果関係を認めなければならないにも関わらず、情報不足により評価できないと国が逃げているだけなのだ。これは恣意性の問題である。SNSで悪口を書かれて誰かが自殺した。これは放置できないからと侮辱罪という法律が作られたと。しかし実際には自殺の理由はそれ以外にも当人にしかわからない何かがあったのかも知れない。状況的、タイミング的に考えればSNSの悪口が原因だと誰もが考えるのかも知れないが、国が一つの法律を作るとなればダイレクトに100%の因果関係を認めるべきなのかどうかという視点がなぜ持てないのであろうか。まあ一つの見方とすれば、国は侮辱罪という法律の下で、その法律の副作用で、ワクチンとワクチン後遺症の因果関係を国が認めないことへ国民が疑問や批判を呈しにくいような雰囲気づくりをしているのである。マスコミや政治というものは論理とか整合性で国民に働きかけているものではなくて、その時代の気分とか感情、雰囲気で体制や利権を維持しようとすることを理解しなければならない。ともかくも資本主義社会においては利権拡大のためにワクチンを推奨されることは止むをえないといえるのかも知れないが、一方では自己判断、自己責任とは言え、きちんとリスクについても説明と注意喚起がなされていれば、人生経験が浅くて判断能力の低い中学生の女の子が歩行困難になるようなことはなかったかも知れない。今の時点でワクチンのリスクは0などと平然と公言できるような人間はそういう立場の弱い人々の不幸に対して心を痛めることはできないのである。悲しいことである。悲しいというよりも心の貧しさを私は感じる。日本の政治やマスコミに今、求められていることは見掛けの強者の理論による正しさではなくて、立場が弱くて逆らえない人々、強者の理屈に同調せざるを得ない人々の不幸を思いやる心を回復することではなかろうか。何を言っても無駄なような気もするが。

(吉川 玲)