第一部     スパルタの王、レオニダス一世

 

レオニダスという名を聞けば、多くの方は高級チョコレートのことを思い浮かべることであろう。しかし私のように、1950年代にインターナショナル・スクールや欧米の大学で西洋史を聞きかじった者は、一寸ひねていて、レオニダスというのは、紀元前480年に僅か300人の手勢を率いてギリシャに侵攻してきたペルシャ大軍をテルモピレ(テルモピユライとも呼ばれるが、ここではテルモピレで統一する)の峻険な峠道に立てこもってペルシャの大軍に対抗し、最後に戦死したスパルタの王、レオニダス一世のことが先ず思い出されるのである。多勢に無勢で国を犯す敵軍と戦って散った英雄レオニダスのことは、当時の歴史家、ヘロドトスの権威ある歴史書に詳しく記されている。またレオニダスの悲劇は、1700年代になって英国の詩人リチャード・グローヴァーが叙事詩に書き上げたので、英文学の世界でも知られている。欧米の学校では西洋史でも英文学でもレオニダスについて教えるのである。レオニダスが、なぜ有名なチョコレートのブランドになったのかについて書くのが、このブログの目的であるが、その前に紀元前5世紀のギリシャを眺めてみようと思う。

 

1.   ペルシャのギリシャへの侵攻

紀元前5世紀頃の超大国ペルシャは、ヨーロッパ征服を目指していた。当時のヨーロッパは、ギリシャである。後のローマ帝国はまだ成立していなかった。ペルシャのダリウス大王は、紀元前500年にギリシャを襲ったが、勝利することは出来なかった。「第二次ギリシャ・ペルシャ戦争」と呼ばれるペルシャのクセルクセス大王のギリシャ侵攻は紀元前480年に始まった。その軍勢は、20万から30万人とする資料もあるが、当時の輸送能力からして7万人程度、最大でも10万人を切る規模だったと後の研究者たちは、推定している。

 

2.   ギリシャ側の準備

 

これに対して、ギリシャの各都市国家はこの年がオリンピックの年でもあったので、なかなか兵力が集まらなかった。唯一スパルタ国の王、レオニダスが300人の精鋭を率いてテルモピレの山中に籠った。ペルシャ軍をテルモピレを通してはならない。ここを突破されると、ギリシャの要衝は一たまりもなくペルシャ軍に席捲されるであろう。紀元前480年の9月、クセルクセス率いるペルシャの大軍は、テルモピレの全面にある平原(歴史書には「広場」という言葉が使われているが)に本陣を置き、5日ほどギリシャ軍側の動きを待っていたが、静かだったので、待機6日目に攻撃をかけた。

 

3.   戦闘開始

ペルシャ側はまず、自慢の弓矢部隊5千人による弓の攻撃から始めた。

レオニダスの指揮下には、300人のスパルタ兵のほかに、他の都市国家が送り込んで来た数千人の援軍がおり、歴史家ヘロドトスによると総勢約7千人であったという。それでもペルシャ軍10分の1以下である。レオニダスの軍勢は、強力な盾を持っていたので、ペルシャ軍から雨、あられと降り注ぐ矢にびくともしなかった。弓矢でらちがあかぬと悟ったクセルクセスは、正規軍による正面突破の総攻撃を命じた。しかし峻険な峠道は、幅がせいぜい3メートルと狭く、ペルシャ軍精鋭の騎兵は突入できない。歩兵も対面は、相手と同じ数の兵士しか突入させられない。決死の戦いに挑んでいるスパルタ兵の闘志は旺盛で、つぎつぎとやってくるペルシャ歩兵を撃退した。スパルタ防衛軍にたいした損害を与えることも出来ず、ペルシャ軍は日暮れとともに引き上げ、第一日の戦いは、スパルタ側圧倒的優勢で終わった。第二日目もほぼ同じ様な展開となった。ペルシャ側は、如何に数で優勢であっても、いっときに前進出来る兵数は峠の道幅に制限されるので、スパルタ側と同数になる。スパルタ勢は、闘志と地の利に勝り、二日目も一歩も退かなかった。

 

Jacques-Louis David が1814年に描いた「テルモピレに

おけるレオニダス」

 

4.レオニダスの戦死

 

ペルシャのクセルクセス大王は、テルモピレを越えられぬので、焦りを感じ始めた。そこへ2日目の戦いが終わった夜、地元から内通者が現れた。エフイアルテス(Ephialtes)という男は多額の報酬ほしさにペルシャ側に、山の中に抜け道があってここを通れば、スパルタ軍の後尾に出られることを告げた。クセルクセス大王は、この情報を得ると夜間にも関わらず、ペルシャ軍の出動を命じた。裏切り者エフイアルテスを案内に立てて、ペルシャ軍は夜間に移動し、スパルタ軍の後部に出ることに成功した。3日目の早暁にこのことを察知したレオニダスは、まずスパルタ軍以外のギリシャ勢に撤退するよう指示した。そして彼と300人の勇士は、しばし山中で抵抗したのち峠から麓へおり、いわゆる「広場」と呼ばれていた平地で決戦に臨んだ。ここですさましい戦闘が繰り広げられた。スパルタ勢は一歩も退かず、槍が折れれば手刀を、手刀の刃がこぼれれば、素手で組み付き、歯をむきだして嚙みついた。これほど凄惨な白兵戦は、その後もなかったのでは、と歴史家たちは述べている。戦いは長引き、損害も増える一方なのでペルシャ軍は、弓矢部隊を出動させた。降りしきるような矢にスパルタ兵は、ばたばた倒れ、レオニダスにも矢が当たり戦死した。レオニダスと300人のスパルタの勇士たちは全滅し、ギリシャ軍は敗れた。

 

5.   テルモピレの後

 

ペルシャ軍はコリント地峡より南の広範囲のギリシャ領を占領した。ギリシャ軍は、兵力を動員し(オリンピックも終わったので)狭いコリント地峡で

ペルシャ軍の進行を止めた。またこの頃、ギリシャ艦隊とペルシャ艦隊の間で戦われた「サラミスの海戦」でギリシャ側がペルシャ艦隊を完膚なきまでに打ち破り大勝利を果たした。クセルクセスは、結局その年のうちにギリシャから引き揚げてしまった。これ以降ギリシャがペルシャの侵攻を受けることは無くなった。

 

これは全てテルモピレで決死の戦いをした、レオニダス王のお陰だとされ、

彼は悲劇の英雄となり、ギリシャ人の心を捉え賞賛と敬愛の的となった。

テルモピレの旧戦場は、2500年を経て、地形も変わったがこの地にいつも

レオニダス王を顕彰する彼の銅像が、建立されている。最新のものは1955年建立である。こんにちでも、彼の名をギリシャ人は忘れていない…….

 

テルモピレの古戦場に立つレオニダス顕彰の像

 

第二部 チョコレート屋レオニダス

 

1958年から1959年にかけて、私はベルギーのルーヴァン・カトリック大学

に留学していた。大学町ルーヴァンは、首都のフラッセルからは、近く距離でいうと横浜と東京の感じであった。時間的には、急行列車で30分くらいか。そのころ女子学生たちのあいだで、ブラッセルのある高級チョコレート屋のことが話題になっていた。そのチョコレート屋は、ショウウインドーにチョコレートが飾り付けられていて、大変洒落ていてきれいなのだそうだ。チョコレート屋の名前は「レオニダス」というとのこと。名前が印象に残ったのは、矢張り西洋史のせいだろうか。しかし貧乏留学生に高級チョコレートなど縁がない。ましてフラッセルまで出かけてまで、買いたいなどという思いいは、さらされなかった。大学町は、人口数万の小さな街であるが、学生が必要とするものは、何でもあった。本屋、映画館、学生たちが屯するカフェ・テラス、学生たちの懐に合った食堂やレストラン…….チョコレートが欲しければ、菓子屋も何軒もある。私は、チョコレート屋レオニダスのことは、すっかり忘れてしまった。商社に勤務するようになってからは、ベルギーのチョコレートは、GODIVAが有名であることを知った。GODIVAのチョコレートは、パリのド・ゴール空港の免税店で売っている。「パリのお土産」としてGODIVAのチョコレートをよく頂戴したものである。私の周囲のフランス人たちは、「GODIVAは、フランスの製品ではない。パリのお土産にふさわしくない」などと「けち」を付けていたものだ。彼らは、ベルギーに対して、なんとなく優越感を持っているのだ。

 

さて数年前、知人から私宛てに時節の贈り物として、チョコレートが届いた。開けてみると「レオニダスのチョコレート」だった。中に入っていたチョコレートの由来を説明した栞のようなものが入っていたので、読んで見るとなんとこれがあのベルギー留学時代、女子学生たちが話題にしていた高級チョコレート、レオニダスだったのだ。あのレオニダスが日本でも買えるのだ、一種のグローバリゼーションか、と感慨にふけったものである。

 

レオニダス・チョコレートは、1913年にギリシャ人のレオニダス・ケルキデスが、ベルギーで製造、販売を始めたのだそうだ。ブランドの「レオニダス」は創業者のファースト・ネームから来ている。「レオニダス」は、創業者の母国の英雄であるとともに、その名は西洋史を勉強したものなら、誰でも知っているテルモピレの英雄、スパルタ王レオニダス一世のものでもある。そこでこのチョコレート屋さんは、商標にはスパルタの英雄をイメージしたものを採用した。ここで紀元前5世紀の英雄とチョコレートがつながったのである。

 

  GODIVAは、ベルギー以外の資本も入り、ベルギー純血ではなくなったが、

 レオニダスは、未だに創始者一族が経営の中心にいる、純粋のベルギー企業の

ようだ。「ホーム・ページ」があるので、詳しいことはそちらをご覧頂きたい。

 

そのレオニダスが、私の住む区の隣の区である青葉区青葉台というところに、最近新しく店舗を開店した。私のブログの読者でもあられる青葉区民の方が、

ご自身がメールに添付の形式で発信しておられる「ニュース:レター」で

レオニダス青葉台店開店に至るまでの展開を詳しく知らせてくださった。

そのことが、このブログ執筆のインスピレーションとなった。青葉区青葉台というところには、食べ物店だけでなく、いろいろな洒落たお店が沢山あるという。こちらは隣の区なのに畑や駐車場ばかりのところで、むさ苦しい感じの一角である。かつての大学町からブラッセルまで行くことを考えれば、自宅から青葉台までなんという距離でもなかろう。チョコレートはどうでもいいが、「レオニダス」の店へ行くと西洋史を学んだ時の事や、ベルギー滞在の思い出が蘇るかも知れない気がする。一度レオニダス青葉台店を覗いてみたいと考えている。

レオニダス・チョコレートの商標