34歳の幼少時から、レコードを聴くのが大好きだった。母からよく、そのような話を聞いたし、また母がレコードを沢山買ってくれた記憶も残っている。今、手許にまだ残っている母の戦時中の家計簿を見返すとレコードに関して次のような記録がある。

昭和16年 1130日  レコード2枚      540

昭和17年  112日  レコード          110

昭和17年  416日  レコード        144

昭和20年  424日  レコード        560

昭和20年  513日  レコード        480

 

終戦間際までレコードを買ってくれていた。レコードの価格に統一性がないことが興味深い。残念ながら買ったレコードのタイトルは記録されていない。

 

戦後生活が安定しお小遣いで、自分の好きなレコードを買えるようになったのは、1953年頃からか。当時は、78回転レコードだった。10インチ盤が350円、12インチ盤が450円くらいだった。そんな時代のある日、音楽には恐らく縁の薄い母方の祖父から、「お前はレコードを買うそうだな。アニー・ローリーのレコードは買ったか」と尋ねられたので驚いた。祖父がレコードの話などをしたことが全く無かったからである。その後も祖父が音楽を楽しんだという記憶は全然ないのだが。しかし祖父は1903-4年頃、イギリスとスコットランドへ留学した経験がある。その頃学生仲間たちが「アニーローリー」を歌うのを聴いたのかもしれない。祖父の青春の思い出がこもった歌か。スコットランド民謡の一つとは知っていたが、実際に聴いたことはなかった。早速私は、次のお小遣いで

「アニー・ローリー」のレコードを買った。10インチ盤で片面は「Auld Lang Syne(蛍の光)の原曲で、演奏はイギリスの合唱団の男声合唱だった。

 

その当時のレコード店というのは、店内に商品が並べられていない。店に入ると、

長いカウンターがあってその前に椅子が4-5個置いてある。店に入ると空いている椅子に座り、その向かい側に立っている店員に「アニー・ローリーって

ありますか。」と尋ねる。店員は後ろにある棚になっている沢山の引き出しの

中を探して、「はい、これです。」と客が欲しいレコードを見付けて見せてくれる。たいてい「お聴きになりますか。」と言われて頷くと、カウンターの横に

置いてある蓄音機でレコードを鳴らしてくれる。同じ曲の違った演奏などは、

普通はない。聴き終わって「買います」ということで取引成立である。今のように客が店内に展示されているCDなどをレジへ持って行く、という買い方ではなかった。当時のSPレコードは、壊れ物である。持ち帰る時に落としたり、ぶつけたりしないように、腫れ物に触るように持ち帰ってものだった。

 

さて、祖父の愛したこの歌は、どういう歌なのだろうか。アニーローリーとは、どのような女性だったのだろうか。大変興味をそそられたので、当時学校の図書室にそろっていたアメリカーナ大百科事典を引いてみた。Annie Laurieで引いても、Laurie, Anne で引いても何も出てこない。しかし幸運にも、もうひとつの数巻からなる、学生向け「物知り」事典、The Book of KnowledgeAnnie Laurie で引いてみると、なんと「一発」で出てきた。この時得た知識がベースとなり、更にこの歌に関する情報、資料を集めるようになった。イギリス在勤中の2年間に更にこの歌に関した新しいエピソードなどを沢山聞いた。

 

この歌の舞台となったのは、スコットランド南西部のマックスウエルトン(Maxwelton)地方である。歌の出だしが「マックスウエルトンの川辺は美しく(Maxwelton’s braes are bonnie)」となっている。現在マックスウエルトンとはダンフリース(Dumfries)の一部となっているが、詳しいスコットランド地図にDumfriesという地名を見つけることが出来る。この詩を書いたのは、この地方の大地主の一族(gentryと呼ばれる貴族に次ぐ階級)を出自とするウイリアム・ダグラス(William Douglas1672?-1748?)である。彼が書いた詩は彼が愛したアニー・ローリー(正式にはアンナ・ローリー1682-1764))に捧げられた。アニーは、マックスウエルトンの領主、ロバート・ローリー準男爵(Baronet)の末娘だった。

注:Baronetは日本語で準男爵と訳されるが、この位は正式には貴族 -peer -では

ない。Dignityと称される君主が授与する「権威ある位」と位置づけされる。ナイトのサーよりは上位である。また「サー」は一代限りで継承出来ないが、Baronetは相続が出来る)。

 

アニーがウイリアムと恋仲になったのは、彼女が10代の若い時期だったとさ

れる。しかし父の準男爵が結婚に強く反対した。その理由は、ダグラ一ス一族と

ローリーの一族が対立間係にあったため(ロメオとジュリエットのような間柄

に近かったか)、またウイリアムがジヤコバン革命に共鳴していたため、とさ

れる。他に身分の差、年齢の差もあったとされる。ジャコバン革命の影は、他の

スコットランド民謡の歌詞にも色濃くにじみ出ている。(例:「スコットランド

の釣り鐘草」、「ロッホ・ローモンド」など。)そのため二人は結婚出来ずこの

ロマンスは悲恋に終わる。しかし後年二人は、それぞれ別の相手と結婚して幸

福であったと伝えられている。ウイリアムは別の女姓と「駆け落ち」結婚をし

た。その後は軍人として幾つもの戦闘に参加した。ある時は勝利の美酒に酔い、

最後には敗れて追放の憂き目にあった。晩年は、追放を解かれ、元の領地に戻っ

たと伝えられている。

 

アニーについては、80歳を超える長寿を全うしたという事以外、特に

エピソードは残っていない。Dumfriesの「マックスウエルトンの館」には

アニー・ローリーのものとされる若い、美しい女性の肖像画が残されている。

一度、スコットランドのこの地方に行ってみるつもりだったが、ついに果たせなかった。

 

ところで、この詩が何時書かれたのか、アニーはこの詩を実際に読んだのか、その反応はどうであったのか知られていない。ウイリアムがアニーへの深い愛情が込められたこの詩の全文は、次のとおりである。但し、これは現在歌われている歌詞で、ウイリアムが書いたものが修正された箇所もいくつかあるようだ。

 

Maxwelton’s braes are bonnie,

Where early fa’s the dew.

‘twas there that there that Annie Laurie

Gi’ed me her promise true

Gi’ed me her promise true

Which n’er forgot will be

And for bonnie Annie Laurie

I’d lay me doon and dee.

 

Her brow is like the snaw-drift,

Her neck is like the swan,

And her face it is the fairest

That e’er the sun shone on

That e’er the sun shone on

And dark blue is her e’e

And for bonnie Annie Laurie

I’d lay me doon and dee.

 

Like dew on the gowan lying

Is the fa’ o’ fairy feet.

And like winds in simmer sighing

Her voice is low and sweet.

Her voice is low and sweet

And she’s a’ the world to me.

And for bonnie Annie Laurie

I’d lay me doon and dee.

 

スコットランドの独特の表現や、縮約なども現代の英語では使われないようなものが多く使われており、理解し難いところもある。braes(川岸), bonnie(美しい、愛しい),fa’s (falls),  snaw-dfiftsnow-drift, e’e (eye )simmer (summer), gowan (野菊),i’edgave 各節でリフレインに使われるdoon (down), dee(die)などが挙げられる。三番のwinds がウインズでなく「ワインズ」と歌われることがある。「愛しいアニーのためなら、倒れて死んでもかまわない」という気持ちが繰り返される。各節にアニーの美しさが称えられている。彼女の顔は太陽が照らした中で最も美しい、眼は濃いブルーである、など。今もマックスウエルトン館に残っているアニーの肖像画では、彼女のまなこは確かに「ダーク・ブルー」とのことである。

 

この歌は、スコットランド民謡とされているが、実際に旋律は、ジョン・スコット卿夫人(Lady John Scott)となるアリシア・アン・スポッテイスウッド(Alicia Anne Spottiswood 1810-1890)が1830年代に作曲した。その際に彼女がウイリアム・ダグラスの詩に手直しを加えた。この歌は、クリミア戦争(18531856)に参戦した兵士たちの間で親しまれ、そこから広く歌われるようになった。長らく「スコットランド民謡」となっていたが、1890年にスコット卿夫人が「私が1832年頃に作曲したのです。」と申し出て、裏付けとして提供された楽譜などから、作曲者が彼女であることが認められた。以来、作詞ウイリアム・ダグラス、作曲スコット卿夫人として知られるようになった。

 

日本ではこの歌は、「蛍の光」「庭の千草」などの外国曲に日本語の自由訳の詩が付けられて広まった明治半ばころには、知られるようになったのではないか、と思われる。(「蛍の光」は明治14年(1881年)には、既に「文部省唱歌」として採用されている。)この歌の最初の日本語歌詞を作詞したのは、おそらく里見義ではなかろうか。彼の詩は、アニー・ローリーとは関係なく「才女」という題名になっている。才女とは、紫式部と清少納言である。

その歌詞も

 

「掻き流せる 筆の彩(あや)に

染めし紫 世々褪せず…….

 

と格調高い文語体となっている。いわゆる訳詞と言えるのは緒園涼子(おぞの・りょうし -男性である。)」のものが最初であろう。そのほか「朝(あした)露おく野の静寂(しじま)に」で始まる堀内敬三訳詞、「懐かし川辺に露はあれど」の藤浦洸の訳詞が良く歌われる。他にも現代語訳の山上路夫などの詞もある。

 

私は、上に述べたSPレコードを買って以来、しばらくの間「アニー・ローリー」とはご無沙汰してしまった。その後LP, CD時代になってからは、沢山の異なった歌唱を入手してきた。SP時代のように「アニー・ローリー」を下さいという訳には行かず、この歌が入っているアルバムを探すか、あるいは偶々買った愛唱歌集のようなアルバムの中に含まれていたというような形で何種類もの「アニー・ローリー」を入手した。今でも、きちんと管理が出来ていて聴けるものには、次のようなレコーデイングがあるー( 概ね古い順に列記。)

LP 東京放送合唱団(女声)

クール・グラシュー(女声)

三浦尚子(ソプラノ)

倍賞千恵子

 

CD 土居裕子(ソプラノ)

真理ヨシ子(ソプラノ?)

鮫島有美子(ソプラノ)

島田裕子 (ソプラノ)

由紀さおり、安田祥子(二重唱)

錦織健 (テノール)

東京レデイースシンガーズ(女声合唱)

東京混声合唱団 (混声合唱)2012年発売)

尾崎千賀子 (ソプラノ)2016年発売

森 麻季  (ソプラノ)

 

(海外盤)John McCormack (テノール)これは何と1910年録音の復刻盤である。

Kiri Te Kanawa(ソプラノ)

The Scholars (混声アカペラ 女1/3

他に1958年に発売されたLP “Sing Along With Mitch”の中にも男声合唱で歌われている。

 

これ以外にも、確実にもっと出ていると思われる。私は、音楽評論家ではないので、まあ、雑学の範囲であればこの位で十分かなと思っている。

 

 

尚、上に列挙した演奏の中で、日本語で3番までフル・コーラスを歌っているのは、鮫島盤と東京混声合唱団の演奏のみである。また日本人が原語で歌ったレコードは無い。更に言えば英語と日本語以外の歌唱は聴いたことがない。歌唱のないオーケストラ演奏のみのレコーデイングがあることも知っている。

 

このように長い事、親しまれてきた「アニー・ローリー」である。1700年代初めに原詩が書かれ、1832年に曲が付けられた。1850年代から親しまれるようになり私の祖父がおそらく1903-4年頃に聴いた「アニー・ローリー」。1910年のレコーデイングか、ら2020年代まで絶え間なくレコードが世に出された美しい曲。更に多くの方々に親しまれることを願っている。

 

付録:SPレコードは、以下の様な物である。

両面に録音されている。