1、     はじめに

 

私にとって「愛読書」というのは、何度も何度も読み返し、それでもまた読みたい、という本である。そいう意味でいうと私の愛読書の一位は、「シャーロック・ホームズ」で二位は「モンテ・クリスト伯爵」である。これらの愛読書については、また稿を改めて書いてみたいが、今回は日本人作家では、一番の愛読書である宮沢賢治の作品について感じていることを纏めてみたい。

 

2.   宮沢賢治を知る

 

私が初めて宮沢賢治のことを知ったのは、おそらく1946-1947年ころで、森荘己池(もり・そういち)著の賢治の伝記を読んだことに始まる。読んだのは、戦後であったが、この本自体は戦争中の1943(昭和18年)頃に発行されたものであった。丁度、賢治の没後10周年に合わせての出版ではなかったかと思う。その頃、既に私はかなり漢字を読めたので、この本は子供向けのものではなかったが、結構無理なく読み通した記憶がある。今でも覚えているのは、本の終わりのところで著者が、賢治の思想は「大東亜共栄圏」に共通するものがある、と賢治の著書からいくつか引用していたことである。戦時中に出された本であるから、そのような論旨を展開しないと検閲に通ることが出来ず、紙の配給が受けられなかったためと思われる。賢治が執筆をしていた大正末期から昭和の始めには、「共栄圏」構想はなかった時代であり、賢治自身も「国柱会」会員であったとは言え、覇権主義や帝国主義とは無縁の人であったことは言うまでもない。(注:森荘己池は、賢治と同じ岩手県出身者で、賢治の知己であった。森は,その後も賢治に関わる著書を何冊も出版している。)

 

この本は、伝記であったので、そこで語られている賢治の作品を読みたいと 思った。丁度その頃は戦後の出版ブームの時期であり、子供の向けの本も続々と出版されていた。その中で講談社発行「なめとこ山の熊」という賢治の童話集を父に買ってもらった。彼の作品を読んだのはこれが初めてである。その後、賢治の本が出るたびに買ってもらった。ほんの2-3年の間に主たる作品は読んでしまった。こうして子供の頃から宮沢賢治の作品は私にとって、大切な愛読書となった。アメリカ留学の際、宮沢賢治全集という本を一冊持って行った。この本には、童話ばかりでなく詩も含まれていた。賢治の愛読者としては、この本をアメリカまで持って行って良かった。勉強の合間に何度も読み返したものだった

 

1996年8月に発行された宮沢賢治の切手

 

 

3. アメリカの大学での英訳の試み

 

大学2年のある時、英文学の教授と日本の詩人について話が及んだ時、私の方から賢治について触れた。当時、賢治のことはアメリカではほとんど知られていなかった。教授も、無論聞いたことが無いといった。大学の図書館の索引でも全く出て来ず、アメリカでも有数と言われるニューヨーク市立図書館でも、Miyazawa, Kenjiで探して、ようやく英訳の日本詩選集的な本の中に、短い詩が1-2編収められているのを見つけただけだった。どの百科事典にもMiyazawaの項目はなかった。(本の形式としては、最終版となる2007年版のブリタニカ百科事典にも、何故かMiyazawa, Kenjiの項目はない。総理であったMiyazawa, Kiichiはあるのだが。)教授は大変関心を示し、賢治の作品の何点かを英訳してみてはどうか、と勧めてくれた。それでは、ということで詩のいくつかを訳してみた。「雨ニモマケズ」や「永訣の朝」なども訳した。当時の私の英語のレベルは、まだ低いものであったので、出来上がった訳は拙稚なものであった。「永訣の朝」では、「あめゆじゅとてちてけんじゃ」という方言が三度か四度繰り返されるので当惑した。確かbring me some cold snowとかに訳したので、ウエイターに何かを注文するみたいだ、と教授に指摘された。もっと詩的な表現に出来ないのか、ということだった。ただし直訳すれば、こういうことになるだろう。またこの詩の終わりで、「どうか、これ(お前の食べる雪)が天上のアイスクリームとなって、お前とみんなに聖い資糧となるように」の行にも教授は首をかしげた。どうしてアイスクリームが尊い食べ物になるのか、というのである。原文がアイスクリームになっているので、どうしようもないと思ったが、アメリカではアイスクリームとかハンバーガーという言葉は、芸術的な、あるいはインテレクチュアルな表現として受け入れられないのである。但し,1930年代の都に遠き岩手県では、アイスクリームは貴重な食べ物だったのだろう。そんな説明を教授にした覚えがある。とにかく散々な翻訳だった。辛うじて通訳的な訳が出来たに過ぎなかった。それでも教授は、短い詩を4編ばかり添削してくれて大学の文学同人誌に掲載してくれた。同人誌といってもタイプで打ったものをミメオグラフという謄写版のようなもので印刷した粗末な出版物である。無論無料で、学内で配布された。この時は、1958年で賢治没後25周年だったので、持っていた本からの解説や賢治の紹介などを翻訳した記事も、同時に掲載された。私の分は、全部でせいぜい2ページだったが、一応「刊行物」に掲載された。しかし残念ながら、この同人誌も訳した原稿も今は手許に残っていない。それでも1958年に賢治の「雨ニモマケズ」や「永訣の朝」の英訳は、まだ無かったと思っている。

 

4. 戦後、教科書に取り上げられた「雨ニモマケズ」

 

賢治の作品は、終戦後から70年代にかけて徐々にブレークしていった。その始まりは、おそらく「雨ニモマケズ」が戦後の教育制度改変で六・三・三になってから小学校の教科書に取り上げられた頃からだろう。その際「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」のところが「一日ニ玄米三合」と変更されて物議をかもした。当時まだ食料難の時代で、農家は米の増産に励んでいた。一日に玄米四合などとは、とても食べられないし非現実的な量で、贅沢だということで連合軍の命により、文部省が変更したのである。(国定教科書の時代だった。)

 

原文を変えることに賛否両論が沸き上がったが、なにしろ占領軍の命令で  あり、また賢治の弟、宮沢清六氏も「兄の言いたかったのは、質素な食生活を弁えるという事なので、具体的な数字には、拘らない」というようなコメントをしたので、しばらくは、三合とされていたのである。賢治の時代、日本人は「一汁一菜」と言われる質素な食生活をする人が多く、コメが重要なカロリー補給源だったので、一日四合でも決して多いとは言えなかったのだろう。

 

この「雨ニモマケズ」には、賢治の人生の信条が込められている。これは彼が信 仰していた法華経の影響が強いとされているが、私はそこに、かなりキリスト教の教えに重なる部分を見出している。「東ニ病気ノコドモアレバ、行ッテ看病シテヤリ」とか「西ニツカレタ母アレバ、行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ」に愛徳の思い、そのほか南ニ云々、北ニ云々や、「デクノボートヨバレ」には、謙遜、自己犠牲の念がこ持っていて、ヨハネ福音書の語る愛、あるいは、マタイ福音書の「真福八端」の精神が共通しているのではないか、と思っている。

 

5. 賢治作品の数々

 

このように70年に亘って読み続けている賢治の作品であるが、その魅力は、豊かな創造力とイマジネーションの想像力が生み出す善意に満ちた、美しい世界である。賢治の作品は、愛情に満ちている。弱者に対しての思いやりがちりばめられ、どこにも本当の意味での悪人が出て来ない。

 

a.    動物だけが登場する物語

 

「猫の事務所」や「貝の火」などがある。「猫の事務所」は、猫の役人の型にはまった偽善的な仕事ぶりに対する痛烈な批判であり、いじめや差別に対する警鐘でもある。そのまま現代の人間の社会に置き換えることが出来る。「貝の火」はウサギの親子を中心とした物語で、父子の愛情と慢心の戒めが物語のテーマとなっている。

 

b. 人間と動物が交流する物語 マルキストたちも気に入った「オッベルと象」

 

これは沢山ある。「どんぐりと山猫」、「セロ弾きのゴーシュ」「雪渡り」「オッペルと象」など。「どんぐり」は、ユーモアがあり、「セロ弾き…..」には、ペーソスが感じられる。「雪渡り」では子供(兄妹)たちとキツネの交流に心温まるものが感じられる。典型的な、善意に満ちた物語である。

「オッペルと象」では、オッペルは、賢治の作品には、数少ない「悪人」として描かれている。彼は、冷酷無慈悲な「資本家」で「労働者(象)」を酷使し、搾取し、十分な報酬を与えない。彼は、贅沢で「6寸もあるビフテキや、雑巾のようなオムレツ」を食べるのである。「いいな」と思ったことがある。しかし「雑巾のような」には、汚いイメージがあり「悪人」オッペルを象徴しているようである。この物語は、「虐げられた労働者が、団結して悪辣な資本家を倒す」というイメージがあり、マルキストたちも気に入っていたと言われる。子供の時に読んだ印象は、いわゆる「いいほう」(象)が「わるいほう」(オッペル)をやっつける「勧善懲悪」物語のようだった。

 

c. 国籍不明の人物や地域が現れる物語

 

もともと賢治は、故郷の岩手県を「イイハトーブ」と呼び、ひとつの理想郷のように描いていた。そのような物語の代表的なのが「グスコーブドリの伝記」である。物語の舞台は、空想の岩手県なのかもしれないが、グスコーブドリは、何人なのだろう。賢治は何故、日本的でない名前を好んだのであろうか。今や賢治の最大傑作と思われている「銀河鉄道の夜」にも同じ傾向が見受けられる。主人公は、ジョバンニ、親友はカムパネラなどとなっている。この場合は、国籍不明のグスコーブドリとは違って、明らかにイタリア人の名前と受け止のめられる。なぜイタリア系の名前にしたのか。私は、この物語は、何度読み返しても賢治の意図がまだ良く理解出来ないでいる。

 

d. 擬人化

 

私の気に入った作品のひとつに、動物や人間でなく、「物」を擬人化した物語、「シグナルとシグナレス」がある。鉄道本線の立派な信号機(シグナルー男性) と軽便鉄道のみすぼらしい信号機(シグナレスー女性)との恋物語である。身分の違う同志の恋で、なにかと邪魔が入り、恋は成就しない。但し決裂したわけでもなく、なんとなく思わせぶりなエンデイングとなっている。素晴らしいイマジネーションから生まれた美しい物語である。シグナルとシグナレスが交わす愛の言葉は、そのまま人間世界に移し変えられる。私は、アメリカ留学時代、上に述べた賢治の詩の訳がひとしきり区切りがついたあと、この物語を英訳しようと試みたことがある。しかし、あまりにも独特の擬音 - ゴゴンゴーゴー、ガタンコ、ガタンコ など。ほかにも「ぶっきりこ」など何だか解らない単語は出て来るし、信号機(シグナル)に電信柱から電気が供給される仕組みも良くわからない。「軽便鉄道」も正しく意味が伝わるかどうか自信が無かったので、結局途中でギブアップした。ある翻訳家が「翻訳は、机上で辞書をいじくり回すだけでは出来ない。」と書いているのを後に読んで、この時のことを思い出した。

 

e. 風の又三郎

 

作品についての最後のコメントは、「風の又三郎」である。この物語は、珍しく現実の世界に普通の人間が登場する。そのため、何となく、ホッとした感じになる。山奥の学校に転校してきた少年に対する地元の子供たちの反応が興味深い。私も、戦時中地方の学校に転校した際にこの物語の少年のように、よそ者扱いをされた記憶がある。この物語の舞台となる山奥の学校の描写―昭和の始めのころの学校の様子にノスタルジアが感じられる。

 

5. エレーヌ・モリタ (Helene Morita)のフランス語訳

 

私が初めて賢治を知ってから、70余年。この間に彼の名を知らない日本人はいないほど彼は、名を挙げた。作品の多くが欧米の主要言語に訳された。私は、1990年代にフランス語訳でいくつかの作品を読んだ。Helene Morita(エレーヌ・モリタ)の仏訳は、気品があり解り易く、文学作品の和文仏訳のお手本のようだった。特に、人間と動物とのやり取りが生き生きと訳されていて、あたかも人間同士の会話とかわりないようである。擬音の訳詞方も巧である。何巻かに分けて発行されている。私が読んだのは、そのうちの

2巻である。「雪渡り」「なめとこ山の熊」などを収めた1巻、「セロ弾きのゴーシュ、銀河鉄道の夜」などを収めたもう1巻である。

 

1994年にパリで発行された、エレーヌ・モリタの訳本の

表紙。ここには「雪渡り」、「なめとこ山の熊」など

7編が収められている。

 

 

6.ブリタニカ百科事典には載らなかった賢治

 

アメリカ、イギリス、それにスエーデンにさえも著名な賢治研究家たちがいる。それにもかかわらず、繰り返しとなるが、賢治の名は、ブリタニカ百科事典には無いのである。この百科事典は、既に本の形式の出版を取り止めた。賢治の名が、この権威あるブリタニカに記されることは、永遠になくなった。何とも残念である。

 

これについては、動物が主人公の物語、人間と動物が交流する物語は、海外ではどうしても「児童向け童話」としか評価されないので、賢治は「文学者」とは認められないのではないか、という説も聞いた。最高傑作とされる「銀河鉄道の夜」も中途半端なSFとされている、とも聞いた。いずれにせよ残念である。