私の生涯における一番の愛読書は、名探偵シャーロック・ホームズに関する物語である。イギリスの作家、サー・アーサー・コナン・ドイル(Sir Arthur Conan Doyle)が創造した、シャーロック・ホームズほど世界にその名を馳せたフイクションの人物は他に居ない。私は、1950年代前半、児童向けの名作文庫で初めてシャーロック・ホームズの名を知った。アメリカ留学を終えてから、英語の「シャーロック・ホームズ短編全集」「シャーロック・ホームズ長編全集」の2巻を入手した。以来この物語は、病みつきになってしまい、その後50年余、何十回読み返したかしれない。シャーロック・ホームズの物語は、短編56編、長編4編、計60編から成っている。この60編がいわゆる「聖典〈正典〉”The Canon”」と呼ばれる。間違いなくホームズの「相棒」で記録者であるワトソン博士によるものという意味である。正典以外にいわゆるパロデイ、パステイッシュと呼ばれる第三者の著作がある。これは聖典の中に「こういう事件があった」と触れられているが、ワトソンによる記録、が残されていない事件を、第三者がワトソンの文体を真似て書いた作品のことである。ある事件について複数の作者が取り上げている物も何件かある。私が持っているパステイッシュの作品だけで3巻五十数編に及ぶ。これまでに何百編世に出ただかさだかではない。

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聖典(正典)60編は、原則としてワトソンの残した記録であるが、その中にホームズ自身が記録した事件が2件ある。他に例外として全くの第三人称で書かれたものも2編ある。聖典に記録されている60の事件をホームズは、鮮やかに解決していくが、3件ほどは完全な解決に至らなかった。1件では、相手に完全に出し抜かれた。しかし依頼者が「これで十分で」と満足したので失敗談でもないと言える。(「ボヘミアの醜聞」。)もう一件は、名探偵とあろうホームズが、初歩から完全に勘違いをして予期せぬ結果となる。しかし、予期せぬ結末であったが、それは心温まるフイナーレとなり、依頼人もその家族も大変ハッピーなので、「終わり良ければ全て良し」の感じがあり、読者にとっても後味の悪い物語ではない。(「黄色い顔」)最後の一件は、長編4編の中のひとつ「恐怖の谷」で、物語を貫く殺人事件は解決するが、後で糸引く大黒幕は逮捕には到らない。結末のところでホームズは、「遠く将来に見入っているような目付き」で言う。「解決出来ないとは言いません、時間を貸していただかなければ」と先行きに期待感を込めて述べるのだ。実際、後にこの「犯罪の帝王」と呼ばれた大黒幕と直接対決し勝利を収めるのだが。

 

聖典(正典)60編は、9巻に分けられて出版されている。長編4編以外の短編56編が

5冊になっている。著者のサー・アーサー・コナン・ドイルが初めてシャーロック・ホームズを登場させたのは、1889年である。以降1927年までの間に計9冊を出版したのである。私は英語では5つの異なったeditionを入手し、何度も読み返した。何故同じものをいくつも買ったかというと、それぞれのeditionの解説が非常に興味深いからである。物語の背景、物語が展開するビクトリア王朝時代のロンドンやその近郊の雰囲気についての理解が深まり、読み返す度に「付加価値」が高まる感じがする。中には、解説の部分が本文より多いような版もある。

 

ホームズの物語は、日本語でも多くの訳が出版されている。子供の頃に読んだ名作文庫以外は、あまり日本語訳を読まなかったが、60代に入り、翻訳・通訳の仕事に従事するようになり、勉強のために訳本を手にするようになった。これまでに入手可能な日本語訳は全て入手し、目を通した。私が読んだ日本語版は、次の通りである。

 

延原謙訳:これが最初の日本語の完訳である。今でも入手可能。但しこの訳は

     紙数の関係で短編集全5巻を6巻に分けてしまっている。無論、

     短編集は、いずれも読み切りであるから、読み方には支障はないが、

     原作と比べるにあたっては違和感がある。

大久保康雄訳:今は絶版のようである。

小林司・東山あかね共訳:90年代に発刊された訳で、唯一のハード・カバー豪華本である。しかし残念ながら今は絶版となっている。

阿部知二訳:8巻まで出版されたが、訳者が他界したので最後の1巻は、

      深町真理子が訳した。

深町真理子:上記の通り、ピンチヒッター的に阿部の未訳を完成したが、その後

      自ら最初の8巻も訳した。阿部版と出版社が同じなので、この出

版社は阿部版を絶版にしたと見られる。

日暮雅通 :大変現代風な訳となっていて、ビクトリア王朝の雰囲気が出てい

ない部分がかなりある。こちらは、現在も入手可能。

 

深町真理子 訳の 「バスカヴイル家の犬」

 

他にも全9巻ではなく、1-2巻を単発した訳もあるが、これらは全て絶版と

なっている。児童向けは全集ではなく、「選集」的なものが複数出ている。

 

他に、全2巻に収められたフランス語訳を持っている。フランス語訳は、これ

一種類しか存在しないようである。

 

これら複数の翻訳を読んで感じることは、どの訳者も原作に忠実に、少なくと

もサー・アーサー・コナン・ドイルの格調高い英語の響きを残そうと努力してい

ることである。いくつかのパラグラフを読み比べてみると、こんなに違うのか

と思う箇所もある。いずれも意訳の巧みさが、非常に参考になる。ドイルの英語

は、流暢、正確、明解で格調高く模範的とされ、短編のいくつかは、教科書に採

用されている。

 

さて、私はドクター・ワトソンが記録するシャーロック・ホームズの熱烈なる

愛読者であるが、いわゆる「シャーロッキアン」と呼ばれるシャーロック・ホー

ムズ研究家とは違う。シャーロッキアンたちは、ホームズとワトソンに関わる

あらゆる関連事項、記録されている事件の背景、特に事件の発生年月日、登場人

物の正体などをあらゆる角度から検討、分析する。彼らの立場は「ホームズとワ

トソンは実在の人物」、ということを前提としているので私には違和感がある。

しかし少なくとも30人の権威あるシャーロッキアン学者が存在すると言われる。

彼らやそのほかのシャーロッキアンたちが発表した「研究書」の文献リストは

1冊には収まらないであろう。私も何冊か読んだが、これらは解説書としては抜

群のものである。

 

ホームズとは、どのような人物であろうか。聖典(正典)の中で描かれている彼の人物

像は、おおよそ以下の通りとなる。彼は1854年生まれ、それは1914年に発生

した事件の中で「60歳がらみの男」と触れられていることから、そのように

推定される。これにはシャーロッキアンの研究者たちもほぼ異存を唱えていな

い。彼は大学を2年で大学を中退したらしい。在学した大学は、ケンブリッジ

かオックスフォードか、シャーロッキアンたちが議論をたたかわせているが、

聖典の中に触れられている事項から、オックスフォード説が有力であるが、強、

い異論もある。彼自身、「民間諮問探偵」と呼び、この「職業」を自ら開業した

のは、1874年頃と推定されている。以降ほぼ30年に亘り彼は多くの事件の解

決に当たってきた。

 

しかし1891年から1894年にかけて「大空白期間」というのがある。1891年に彼は、宿敵、犯罪の帝王モリアーテイー博士と彼の率いる大犯罪組織の壊滅を計るが、その過程において、スイスのライヘンバックの滝壺へ、モリアーテイー博士取っ組み合いながら転落してしまった。二人は相討ちとなり、ホームズも死んだと見られた。しかし彼は死んでいなかった!1894年の春、彼は突然ロンドンへ劇的な生還を果たすのである。彼が行方不明となっていた3年間が「大空白期間」と呼ばれている。この間、彼は探偵業は行っていないので、彼が「民間諮問探偵」として活躍した期間は、1874年から1903年の29年マイナス1891年から1894年の3年間で、差し引き約26年である。しかし彼の引退年は、はっきりしているものの開業時期は特に宣言がないので、ホームズの現役期間についてシャーロッキアンの間で議論もある。

 

ホームズが頭脳明晰であったことは、間違いないがそれに加え、彼はいくつかの分野で専門家顔負けの研究をしている。知識の幅も広い、例えば、十数種のたばこの灰の違いを見極めることが出来る。化学の実験を趣味とする。ヨーロッパの犯罪史に精通している。自らヴァイオリンを弾き(彼はストラデバリウスの名器を持っている。)コベントガーデンやアルバート・ホールへオペラやヴァイオリンの演奏会の鑑賞に出ける。彼自身16世紀の作曲家ラッスス(Lassus)の多声声楽曲に関する小論文を発表している。若い頃はフエンシングやボクシングに興じ、身体を鍛えている。

 

ホームズは、現役の間に年平均20-30件の事件を扱ったとされており、総件数は数百件を超えると推定されている。正確な数は、シャーロッキアン研究家の間でも推定出来ないでいる。彼の手法は、広範囲に及ぶさまざまな分野の知識をもとにして鋭い観察力と推理を駆使するものである。特に彼の推理(deduction)は有名である。これにより多くの事件を次々と鮮やかに解決していくのである。しかし彼は、いわゆるスーパーマンではない。事件の捜索が思うように進展しない時には、いら立ちを見せたり、まれにではあるが悲観的な言葉を吐くこともある。

 

ホームズは感情を表さず、感傷をきらう「機械のような人間」という冷徹な一面もある。しかし実際には、依頼人に対し思いやり深く丁寧で、根本的にはジェントルマンである。謝礼も「実費プラス定額」方式で事件によって額を変えることはない。ある依頼人に「謝礼はあなたが払えるようになった時でいいです」と思いやりを見せる。

 

ホームズにまつわる更なるエピソード、シャーロッキアン研究家たちを今も悩ませている問題、彼の相棒であるドクター・ワトソンの人物像、二人はどのようにして行き会ったのか、などについては稿を新たにして書くこととしたい。

 

 

Oxford World Classics の一冊 Paper Back であるが

全9巻この形式で発行されている。