煙草
部屋の中は紫煙と沈黙で満たされている。
アキラがやって来た。
アキラが来るのは大抵金曜日が終わりそうな頃。
片手にビール。
片手にレンタルDVDの入った袋を提げて。
インターホンも鳴らさずに、勝手に作った合鍵で。
勝手知ったる我が家全として。
テーブルにビールを置き。
床にレンタルショップの袋を置き。
すぐに洗面所で手を洗う。
念入りに。
アキラは、どこか神経質で。
昔は四六時中なにかというと手を洗っていた。
今は、昔ほどではないが。
洗う回数こそ減りはしたが。
洗っている最中のアキラの顔は無心といった風で怖い。
手を洗い終え。
リビングに戻ってくると。
すぐにDVDをプレイヤーにセットし。
また、洗面所に戻る。
アキラは他人が苦手だ。
それでも、DVDはもっぱらレンタルなので。
『なんでそんなにイヤそうに触るのにレンタルすんの?』
『勿体ないよ。何度も見るわけじゃないんだし』
そう笑って答えたけど。
アキラは金持ちだ。
自分で十二分に稼いでいる。
たぶん、アキラの同年代の何倍。
下手すると。
何十倍も。
だから思う。
アキラは持ち物を増やしたくないのだ。
何度かアキラの家へ行ったことがあるが。
部屋はかなり広かったが、殆ど家具も装飾も無く。
あるのソファーにベッドに本棚にパソコンやパソコンデスクくらいだった。
がらんとした部屋は落ち着かず。
あまりアキラの家へは行かなくなった。
アキラはビールを飲みながら映画を見るのが好きだ。
普段は忙しく。
寝食を削って仕事をしているアキラの日常のなかでの唯一の生き抜きなんだろう。
ハイネケン片手にセブンスターの紫煙を燻らせ。
無言で
TV画面を凝視している。
映画が終わったようで。
アキラはまた新しい煙草に火を点けた。
ソフトパックからするりと出てきた様子を見ると。
残りは少ないようだ。
おもむろに立ち上がり。
プレイヤーからDVDを抜き。
レンタルショップの袋に仕舞う。
そして、そのまま洗面所へ向かう。
最近気がついたが。
アキラの手を洗う時間がだんだんと長くなっている。
気のせいではない。
「アキラ」
アキラは問いかけには応えるが自分からは殆ど、いや、全くと言っていいほどに喋らないので。
自分から口火を切ることにした。
現に今も、返事をせずに私を見つめているだけだ。
「私、転勤が決まったから」
「……」
「ドイツ。来月から」
「……」
「でも、来週から引継ぎとかいろいろでもうこの部屋には戻ってこないと思う」
「そう」
「この部屋、そのままにしとくから。アキラが来たかったら、いつでも来ていいから」
「……」
アキラは何も言わない。
それは、アキラは人が嫌いだから。
アキラはなにも言わないままに。
レンタルショップの袋を片手に部屋を出て行こうとした。
「アキラっ」
アキラの背中に声をかけると、ゆっくりと振り返った。
「アキラ。これで、私たち終わり……」
なにも言わないアキラ。
いつもよりも冷めた眸でこちらを見ているアキラに語尾が震えた。
アキラは、微笑んだ。
力なく。
哀しそうに。
でも、その眸は少しだけ優しくなった。
「ミオ」
柔らかく微笑んでいるアキラは神々しい美しさをたたえている。
「ミオ。僕は、何処にも行けない。何も出来ない。何者にもなれない。僕といても、ミオは幸せになれないよ。今日で、さよならだ」
アキラはゆっくりと滔々と喋った。
今までになく、長く。
「僕は、ミオが好きだけど。ミオは行かなきゃならない。これは自然なことだよ。今までが不自然だったんだ。さよなら」
「……」
「そんな顔しないで。笑って」
そう言って、アキラは微笑んだまま出て行った。
あれ以来私はビールが飲めないし。
煙草が吸えなくなった。
金曜の終わる頃には部屋にいることが苦手になり。
たいていどこか他の場所で土曜日を迎えるようになり。
部屋にTVは置かず、映画もみなくなった。
アキラとはそれっきり。
日本を去る前日に、電話をかけ。
アキラの家へ直接行ってみもしたが。
電話から聞こえるのは電話番号が使用されていない旨の無機質なアナウンス。
そして、アキラの家は転居したようで空室になっていた。
アキラ。
何処にも行けないのなら、アキラは何故に行ってしまったのだろう。
あのとき、アキラを引き止めなかった私は一生アキラに囚われ続けるのだろう。
整合性
どうもその場その場に合わせて私は嘘を吐くようで
局所的にはその場凌ぎで辻つまが合うが
大局的にみると全く笑ってしまうほどに辻つまどころか浅はかとしか言いようのないことをしてしまう
しかし概ね私は肯定するだけで
相手がストーリーを組み立ててしまうような気がする
その人が信じていれば
総ては真実であり
総ては魔やかしでもあるのだ
だって曖昧な言い方をしさえすれば
相手の空耳や妄想で
どうとでも取ってくれるのだから仕方ないよ
でも
どこでなにを言われたか私は覚えてなんかいないので
困ってしまうのだ
そこは少しだけ参る
なんだってこうなったのかよくわからないが
たぶんに私には自己というものが欠けているのだろう
それは言い換えれば
各所に異なるアイデンティティを持っているということでもあり
喜ぶべきことでもある
モンスター
そこで立ち止まり、或いは、思い止まれるかどうか
自制心なりなんなりで自分を律することができるかどうかで人の資質が問われるのだと思います
しかし
私は自分で自分がよくわかりません
自分を誇れることもなければ
卑下するわけでもないけど
往々にして凡庸だと思うのです
決して謙虚なわけではなく
自らできないことを
他人に求めるのは傲慢だと思うし
世の中の人がなぜ平然とできていることができないのか
わからないし
一方で
なんの苦労もなく
人並みのことができるやるせなさがあるのです
私が自分を凡庸であり愚劣だと思うのは
苦労なくこなせる一方で
いくら努力をしても人並みを脱せられないことです
たいていの人が疑問を持つ場面で
持つであろう場面で
疑問がわかないのです
それは
私がなにも理解していないし
理解しようとしていないのかもしれないのだけれど
わからないのです
なにがわからないのか
なぜわからないのかが
だって
目の前にあることに手一杯で
それ以上のことは
考えのなかにも及ばない
範疇外のことだから
たぶん
私はなにも見ていないし
なにも聞いていない
だから
なにも言えないのだ
亡霊
なんかそんなもんを見た。
見たのは一瞬だったのにどうしても頭から離れません。
昔やったやってはいけないことのいくつかのうちのかなりの部分を占めているか、或いは、それに関するどうしようもないことのせいです。
それはもう変えようもないけど。
悪いことは拭えません。
ブーゲンビリヤの咲く丘
麗は拾った。ブーゲンビリヤの花を。
生えている草木でさえ熱によって萎れ、煮え立ったように見えるなか。そのブーゲンビリヤは清々しく、まさに今咲き始めたような恰好をしていた。
遠くから微かに、微かに聞こえてくる歌声。哀しみ、喜び、怒り、その他全ての感情を毛穴から注ぎ込まれ逆流させたような歌。
ある男の話
特にこれといって特徴らしい特徴もなく。
説明をしなければならないなら、平板で平凡な男。
体つきは中肉中背。
禿げてもいなければ、髪がふさふさなわけでもなく。
黒子のひとつも、ましてや痘痕などひとつもなく。
つるりとした左右対象の顔は整いハンサムといっていい。
しかし、特徴がないのだ。
彼に直接会ったとしても目を逸らしてしまえば、たちまち彼の顔はイメージすることが困難になる。
彼はいつも清潔で上品な服を着ておりそれでいて嫌味がなかった。
彼に会ったことのある人は皆口を揃え「いいやつ」或いは「いい人」だと言った。
いい意味でも悪い意味でも、それ以上でも以下でもなかった、
男は常に親切で優雅であり、誰にも嫌われることもない代わりに好かれることもなかった。
また、誰とも険悪になることもなく。
親密にもならなかった。
頭がいい代わりに、想像力に欠け常識の範疇を出なかった。
学習力と理解力、応用力ともに概ねそういった常人並というものだった。
ユーモアがないわけではないが、男のユーモアはとおり一遍のもので箸休め以上のおもしろみもなかった。
男は絶え間無い喪失感のなかにいた。
彼はなにも失ったわけではなく。
ただ、初めから持っていなかっただけであった。
しかし、彼はその喪失感を埋められるものを永遠に得られないことだけは漠然とわかっていた。
過不足のない不足。
特別では
ないとても天気のよい日曜。
気持ちのよい朝日を見ながらジョギングをし。
丁寧にシャワーを浴び。
身支度を終え。
ゆっくりと健康的な遅くもなく早くもなく、多くも少なくもない朝食を摂り。
手早く洗いものを終え。
腰を落ち着けじっくりと新聞の一面から死亡広告欄にまで目を通し。
コーヒーを炒れブラックで飲みながら頭のなかで一日の予定を思案する。
頭のなかで一通りの予定を立て終えると、冷蔵庫の中身を調べ昼食と夕食のことを考える。
おもむろに電話に手をかけると、タイミングよく電話が鳴る。
来週の約束を知り合いの誰かと取り付けながら、他愛のない話をする。
つかの間の談笑。
そのまま別の部屋――書斎兼寝室――へと向かう。
窓を開けるとカーテンを風がはためかす。
引き出しを引くと乾いた音がする。
乾いた木の香り。
冷たい鉄の感触。
コツンと鉄が気に当たる音。
紙をめくる音。
一切の音が止む。
温められた空気と土と水の匂いが風に乗って運ばれてくる。
爆音ではないがささやかでもない破裂音。
なにかがぶつかりひしゃげる音。
残ったのは火薬の匂いと鉄。
部屋からは全ての音が失われ。
意志を持った動きも失われた。
2
「うーわぁー。美味しい」
とても静かで上品な内装の店内の中、大きな亮子の声が響く。
「おい。お前、ちょっとは静かにしろよ」
小声で嗜める。
「なによ、バカ晶。美味しいもんを『美味しい』って言って、何が悪いのよ?黙って食べてたらもっと美味しくなるとでも言うの」
違うでしょ、とまるで問い詰めるかのように亮子が反論した。
「まぁ、そうなのかもしれないけど……」
「亮子ちゃん、賞賛はうれしいけど。お店の雰囲気も一緒に楽しんでもらえるとうれしいんだけどな」
俺の背後から、落ち着いた声が聞こえた。
「雄吾!だってあんまり美味しいから」
「ありがとう」
いっそう近くなり、今ではテーブルに影を落とすぐらいの距離まで迫っている。
座っている今ならなおさら、立っているときでさえ見上げるほどの長身。ほっそりとした体躯に小さめの顔。整った顔はあまり派手ではなく、落ち着いた印象を受ける。すべてが整然としている中で、一点、異彩を放つものが。
「雄吾……。な、なんだその髪?ついに気でも狂ったか」
「バカ晶。年長者に向かって呼び捨てはないだろう」
爽やかな笑顔が逆に寒気を呼び起こすほどに恐ろしい。
きらきらと光を受けてきらめく雄吾の金髪。
「雄吾。今日の桜餅も美味しいけど、いつものと微妙に違うねー。」
「あぁ。さすがに亮子ちゃんにはわかったか」
「うん。もう、ばればれ」
「今日はついに俺に桜餅任してくれたんだよ」
「すごいすごい。桜餅って言ったら、看板商品じゃん。おめでとう」
「ありごと」
もう一口桜餅を頬張ると。
「これが雄吾の味かー。美味しいな」
微笑みあう二人を見ていると、なんだか居心地が悪くなった。
「亮子、俺先に帰るから。雄吾さん、ご馳走にさん」
鞄を引っつかむように、何かに駆り立てられるように晶は席を立ちそのまま退店した。
その背中を見送るようにし、雄吾が言った。
「いいの。止めなくて」
「いいんだよ。晶は踏ん切りも就かないくせに、嫉妬だけするんだ」
いつもは朗らかな亮子の顔が切なそうに歪められた。
泣きそうな目元に、噛み締められた口元。
「俺はもう何も言えないけど。言いたいことがあったら、何でも言って。何もできないけど。気休めくらいにはなるだろ」
優しい表情に泣きたくなる。
「亮子ちゃん。俺がいると、せっかくの桜餅がしょっぱくなっちゃうね。包むもうか」
「お願いします」
晶はいない。晶は知らない。
晶、いつだって私は晶が大好きだったんだよ。
1
「亮子、お前またそんなもん食ってるのかよ」
ぷー
ぱんっ
「もうっ、晶が煩いから割れちゃったじゃない」
薄っぺらい甘さが鼻につく息で話す亮子の言葉の中には、息の中にあるような甘さはまったくない。
「はいはいはい。すみませんでした」
「なによ。その馬鹿にした言い方!このはげ!!」
「お前の下手さのせいなのに、謝ってやった俺になんの恨みがあるんだよ」
「『謝ってやった』だぁ~……。悪いと思ってないなら、謝るんじゃねぇーよ。はげ」
幼いころを海外で過ごした亮子は“謝る”と言う行為を日本人のそれと異なり、はるかに重く捉えている。“謝る”のは誠心誠意自分の非を認めたときだけなのだ。その代わり、謝意だけはよく言葉にする。ついつい謝ってしまうようなシチュエイションでも、“ありがとう”だけはふんだんに使う。
「それより。俺もう帰るけど、お前も帰るか?」
「あー。うん。帰るぅ~」
亮子の説教はいつも長引くので、強引に本来の目的に方向転換させた。頭に急激に血が上りやすい代わりになのか、亮子はどちらかと言うととり頭のようにすっきり切り替えがつく。
先ほどの苦言も忘れ、当然と言うようにサブバッグを俺に持たせる。
「今日は甲賀堂に寄っておやつ食べたいぃー」
「甲賀堂……。って!それ、寄り道じゃなくて遠回りだろ。反対方向だし」
「だからわざわざ今言ったんじゃん。甲賀堂の桜餅が食べたいの」
おずおずと俯き加減に普段と違って急にしおらしくなった。
「風雅館のじゃだめなのかよ」
「だって、甲賀堂の桜餅は程よい塩加減の桜の葉にほっこり蒸されたもち米とさらにそれが包み込む上品な漉し餡が売りなんだよ」
一気にまくし立てた。
「桜の葉の塩加減がもち米をより甘く。さらに中核とも言える漉し餡なんかくどくないこの上ないくらいのふくよかな甘みを湛えいて。そりゃーもう、絶品の一品。いや、極上の逸品なんだから」
らんらんと輝く眸と今にも涎の滴り落ちでもするかのような口元。常軌を逸してやがる。
「行かないって言ったらどうなんだよ」
俺が訊ねると、ふっと一歩寄ってきた。
「ひ、引き摺ってでも行く」
もう焦点も合わないくらいに危ない光をたたえた眸で、力強く俺の腕を握り締めたかと思うと引っ張った。
「わかったよ。行くから」
「……」
了承しても、力が緩まらない。
「落ち着け。とりあえず、涎を拭け」
亮子の口の端からは、既に、妄想の桜餅に対する最上の賛美として涎が惜しげもなく垂らされてしまっていた。
無言の囁き
新しい街での暮らしは順調で順当だ。
新しいバイト先の喫茶店のマスターは至極親切で。
この街でたまたま最初に入った店で募集中の張り紙が出ていたので、その場でマスターに聞いてみたら二つ返事で了承された。
「可愛い女の子大歓迎」
私の大き目の旅行鞄を見て。
「なに?もしかして、宿ナシだったりする?」
「……」
私の沈黙を肯定ととり、ますたーは言った。
「住むとこないなら、知り合いのとこ紹介するけど」
どうする。
と言うように眸で問いかけてきた。
「……お願いします」
当てがないのは本当だし、これからお店でもお世話になることだからお願いした。
あれからもう1ヶ月近くがたった。
この平板すぎる日常に落ち着いている。
ワンルームのアパート。
簡素な部屋の中。
この街で最初に買ったプラスチックのケースと持って来た衣類があるだけ。
要るのは、ほんの少しのものだけ。
プラスチックケースから取り出したケータイ。
完全に死んでいるディスプレイ。
要らないのに。
要らないと思っているのに捨てられない。
あの街を後にしてから一度も電源を入れず、一度も充電していない。
しっくりと手に馴染むデザイン。
「杏奈ちゃん、今日はもう店閉めようか」
「はい、マスター」
カララン
CLOSEを表に出す。
あらかたの片付けを終わらせかえる用意をしていると。
「杏奈ちゃん、コーヒーでもどう」
既にカップに注がれたそれをカウンターに置きながら。
「いえ。もう帰ります」
「そういわずにさぁ。ほら、もう注いじゃったし」
気のいいマスターらしく、世間話を始める。
ほぼ上の空で聞き流すように相槌を打つ。
「この街にはそろそろ慣れたかな?」
「はい」
「アパート不便なところはない?」
「はい」
「……」
「……」
無言。
漂う沈黙とコーヒーの香り。
「悪い。ちょっといい?」
そう言ってマスターはタバコとライターを取り出した。
カチッ
ふーっ
「……マスター。煙草吸うんですね」
ふっ
「ついつい辞められなくてね」
「料理人は煙草吸わないもんだと思ってました」
「あぁ。舌が鈍るからね」
ふーっ
「杏奈ちゃん。不躾なのを承知で訊くけど。大丈夫?」
「……」
「初めて会った日から、ずっと思ってたんだけど」
吐き出す煙に、昔が見えた。
囁きの先の無言
「夏樹。お前最近付き合いわりーよ」
「あぁ。うん……」
もう、言葉を発することももどかしい。
いや、ものを考えることすら煩わしい。
「お前店にもこねーし」
「あぁ」
彼女がいなくなってから、必要最低限以外部屋から出なくなった俺を訝しがって源龍がやってきた。
「お前もともと変だったけど。ますますおかしくなってるぞ」
「……」
「今日、店行くぞ。翠もくるらしいし」
源龍に引きずられるようにDISASTERに連れて行かれた。
「源龍今日早いね~。なんかあったのぉ?・・・・・・ってか、夏樹じゃん」
「おぉー。翠おめー相変わらず化粧濃いなー。ケバっ!!!」
「うっせーよ。源龍。夏樹久しぶりすぎて翠様の顔忘れたの~?」
「・・・・・・」
ぼかっ。
翠が頭をはたいた。
それでも依然として無反応な夏樹。
「ちょっとー。源龍、夏樹が変なんだけど~?」
「いいよ。ほっとけ」
「えぇぇ~~~」
結局は不満そうな顔をしながらも、翠と源龍はフロアに出て行った。
ひとりぽつんと取り残された夏樹。
あぁ。
前は考えても言わない言葉がたくさんあったのに、今は何の言葉も湧いてこない。
彼女はどこに行ったのだろう?
ここはどこなんだろう?
「あ。気がついたぁ~?夏樹よくあんなにうるさいとこで寝れるね」
目の前に翠の顔があった。
大きくくるんとした薄い色の眸。
長いまつげに縁取られている。
小さな顔のなかでは大きく見える口。
俺は翠の顔から視線を落とし、翠のパンツの中に手を滑り込ませた。
「あん。ちょっ・・・・・・」
一瞬形だけの抗議を示す。
空いている手で胸を包み込むように触れる。
翠が眩しそうに目を細めると同時にベッドに引きずり込んだ。
今気がついたのだが、どうやら自分の家に帰ってきているようだ。
熱くなってきた翠の体とは反対に、俺の頭は冷め続ける。
少し乱暴に服を脱がせ、自分は服を着たままで強引に挿れた。
「ん。……あん」
煩いな。
なぜこんなに煩く感じるのだろう。
本当にわずかに、翠が漏らす声すら耐えられない。
翠がぐったりとしている。
でも、俺は体も頭も冷め切っている。
カラカラカラ
窓を開けてテラスへ出る。
翠の眠るベッドでは横になる気にもなれない。
彼女がいるときにはむしろぐっすりと眠ることができたのに。
月が出ている。
月はあんなにはっきりと見えるのに。
俺には何も見えない。
見えているものに何の意味も見出せない。
俺は、いったいどこで間違えたのだろう?
このどうしようもない喪失感はどこからやってくるのだろうか?
