那珂湊の反射炉 | 本を持って南の島へ

那珂湊の反射炉

酒列磯前神社から車で約15分、那珂湊の反射炉にやって来ました。

 

 

駐車場すぐ脇の山上門はひたちなか市の指定建造物。もともとは水戸藩江戸小石川邸正門右側の門。

反射炉とは繋がらないけど、現在残存する唯一の建築物。当時の陸軍省から払い下げを受け移築。

那珂湊反射炉

 

 

反射炉は9年前に行った韮山の反射炉以来です。

那珂湊反射炉

 

 

那珂湊の反射炉は1855~57年に建造されたものの、1864年に元治甲子の乱(げんじかっしのらん)(*1)で破壊されました。

現在の反射炉は、1937年に復元された模型。

那珂湊反射炉

 

 

幕末、那珂湊沖にも異国船が現れるようになり、水戸藩の徳川斉昭(*2)が大砲の鋳造(ちゅうぞう)のため反射炉を建設。

那珂湊反射炉

 


口径約21cm、射程約2,800mのモルチール砲3門、口径約9cm、射程約1,400mのカノン砲1門などが製造されました(茨城県教育委員会)。

展示されている大砲はレプリカ。

那珂湊反射炉

 

 

後ろ側にまわってみます。

那珂湊反射炉

 

 

ドーム状の天井に反射した熱や炎を一点に集中させ、鉄を溶かす構造。

大型の大砲を製造するには2基の反射炉が必要でした。

 

 

横の穴は左が燃料を入れる焚口、右が鋳口。

那珂湊反射炉

 

 

反射炉から少し降りた場所にあるのが煉瓦焼成窯(復元模型)。

反射炉に使用された耐火レンガ4万枚を製造。

那珂湊反射炉

 

 

斜面を利用した登り窯です。

那珂湊反射炉

 


では那珂川を渡ってホテルへ向かいます。

 

 

この日は大洗のホテルに一泊し、翌日は那珂湊のおさかな市場へ行きます。

 

追記: 総集編はこちら

 

 

(*1) 1864年(元治元年)に水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。

 

(*2) 徳川斉昭(とくがわ なりあき、1800年3月11日 - 1860年9月29日)は第9代の水戸藩主。尊王攘夷思想を持つ。1858年二度目となる失脚で水戸に幽閉。1860年に桜田門外の変(*3)が起こると、水戸藩兵が尊王攘夷運動を展開。斉昭はその責により1860年自刃。

 

(*3) 暗殺された井伊直弼は日米修好通商条約の調印を進め鎖国政策を終わらせた。