カッコよくなるために最低限必要なのは「鏡」である。
自分の姿を映して見ることなく「カッコ良く」することはできない。
ある国が、ある「民族集団」がカッコよくなるためには、その「文化」がカッコ良くならなくてはならない。
ではそのための「鏡」とは何か。
「文化」のための「鏡」とは何か。
「文化」の主体は言語である。
日本人は日本語を使っているから日本人なのである。
その日本人が使う現代日本語の元は何か。
それは、過去の日本語である。
では、過去の日本語を伝えるものは何か。
それは古典である。
古典とは時代を超えて評価され続けて残った文書である。
そこに日本人の言語的価値判断の集積がある。
古典を知らなければ、古典の音とリズムと意味の伝達の流れを体感しなければ、現在使っている日本語を客観化し、そしてそれを高めることはできない。いやもしたとえ他の道があったとしてもそれは「遠回り」である。
カタカムナ音読を行い、古典文を古い方から順々に現代へ向けて音読して繋ぐ。すると何が起こるか。古典文がそのまま理解して読めるようになることだけではない。明らかに言語能力が向上して現代文も読めるようになる。しかも言語的コミュニケーション能力が発達して、周囲との関係が優位になる。おまけに作文を書こうとすると、文章の方から立ち現れてくるようになる。もちろん学力も向上する。
これは古典文音読を通じて、自分の日本語を映し見る「鏡」を持ったからである。
日本語とはどう言うものであるかを体感了解したからである。
つまり「カッコ良くなる」元を持ったことになる。
日本人の子どもをカッコよくしたい。
それには、「鏡」を与えることが欠かせない。