とりあえず目前に片付けなければならない「活動」上の仕事を終えて、するべきことは次の段階に至る。
例年通り、「受験」一段落して、やや「余裕」の生まれつつある中、次の「算段」を「夢想」せざるを得ない。
19日に奥多摩焚き火合宿に参加して、焚き火の炎と同時に、やはり遠景の山桜は例えようもなく美しいものだと念じた。「未来」を夢見た気がした。
かつて過去に誰かが植えた苗が成長した結果を現在の我々が愛おしむ。それは「誰か」がそれをしたせいである。
この「感触」が与える「エネルギー」は大きい。
私たちは、「未来」に存在する人たちのために活動しているのである。
今するべきことは何か。
それは連休中に個展を開く芸術家のための讃助文執筆である。
5月より始まる親子音読会のための案内文&テキスト制作である。
また、次の「著作」へ向けての準備と執筆である。
他にも書きたいものがあるが、後回しである。というより書き始めるタイミングを図っている。
このところ筆者長年実践してきた「音読法」の正しさが多方面多角度から決定的になりつつあるが、それは単に日本語古文を一音一音声に出して読むことであるから、誰でも習得可能な極めて単純なことである。
それに加えての「抽象構成作文法」の効果をどう伝えていくべきか。
抽象構成法も、極めて単純にして、誰でも自分の思いを文章化することを可能にするものであるが、実はChatGPTなどの生成AIが行なっていることもこれと「ベース」は同じことなのではないか。
だとすると、「部分」をダイアローグによって「観念抽出」することこそが必要最重要行為ということになり、ここに単なる言語の意味の連結だけではなくて、そのための発想すること、イメージする力の重要性が浮かび上がってくることになる。
AI社会で必要なのは、AIにまだinputされていない新しい発想とその連結レトリックである。
それには、既存の文章レトリックからの逸脱と、新たなる文章記述の試みの意識が欠かせない。
それは強いて言えば「遊び心」のようなものである。
AIには、「戯れ」たり「遊ん」だりすることはできない。
のように用いるのは「人間」であり、AIには「楽しい」「面白い」という感覚や意識はない。
カタカムナ・古典音読を習得し、抽象構成作文法を知った生徒たちは、自在に文章記述をする能力をものにし、すでにある意味で新しい言語記述の可能性を試みる「作家」たちである。
いつでも戦うことができる「野生の猛獣」―彼らが「未来」に向けて記述するべきことは何なのか。
極めて興味深い。
これまでの「教え」は皆どこか「古い」。
意味のない「思考回路」を使うことを要求して止むことがない。
これを「逸脱」しつつ、知能の純粋な向上を目指すとどのような「地点」に至るのか。
それは、「未来的可能性」がある可能性が高い地点であろう。
「未来」が何であるかはわからない。
それは「未来」がこれから「つくられる」ものだからであり、その観点においては「予言」は現実的ではない。
「未来」は「抽象」である。
「過去」は、「現在」において「認識変換」可能であり、「未来」は「確想不能」である。
あるのは、多くは「直感的営為」であり、「実験」である。
その「実験」の「傍観者」であるとき、人は「覚醒」を失う。