思想の抽出選択の自由ーリベラルアーツについて | JOKER.松永暢史のブログ

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いくら「冗談」でも、こんなことを書くと、「左」と「右」の、あるいは「保守」と「守旧」の人たちの反感を買うことになるのかもしれないが、自己の「思想」を特定の「立場」において語る時、必ず自家撞着に陥ることが透いて見えてくる。

つまり、強く主張すればするほど「矛盾」する。

では、「特定の立場」に自分を置かないとはどういうことか。それは如何なる「選択」であるのか。

「コミュニティ」に参加する前に、主体的な自己を自覚的に持つこと、それは思想以前の「判断」であり、その元は「感覚」である。

特定の「思想」を選択した場合、自己の感覚的な「好き嫌い」の一部は捨象されることになる。

「感覚」の元は「習慣的判断」である。

「自己」を完全に保つには、自己の習慣的判断において「自由」であることが「前提」となる。

だから、一つの思想的立場を強く選択することは、完全には「自由」ではない立場を選択したことになる。

したがって、その思想の「対象」になる者は、「自由」の意味を了解しない人たちということになる。

自分では思いつけない「知的判断」と思われることを与えるのが「宗教」である。

つまり、「宗教」とは、自ら主体的な判断ができない人たちに向けての「レトリック」によるコミュニティ作りに他ならないことになる。

でも本当にそうだろうか?

主体的判断に先行して「感性」がある。

「感性」がなければ、「主体的判断」は存在しない。

「感性」は、「認識」、「思考」に先行する。

そして「感性」は文学化され、「思考」は哲学化される。

そのどちらも「レトリック」によって成立する。

言語化されることによって成立する。

そして、複数の「思想」は、読書によって同時比較吸収可能である。

リベラルアーツ初級は、『老子』を読了し、『論語』に入ることになった。

上級は、引き続き、『エミール』と『イーリアス』を読むが、奥多摩合宿が毎月第4週土曜日にあり、どういうわけかその参加者が初級参加者と多く被るので、6月より、初級を第1週第3週、上級を第2週第4週に変更しようと思う。