新年あけましておめでとうございます。

 

2022年ですね。

 

わたしは新年にマインドマップでその年のビジョンを書くことを毎年の習慣としていますが、

今年はマインドマップはやめにしました。

 

今年は一言だけ。

 

 

「他力本願で生きる」です。

 

 

他力本願とは、人任せや人に頼るというような意味で使われますが、本来は仏教用語で、それとはまったく違う意味になります。

ググりますと、親鸞聖人の教行信証に「他力と言うは如来の本願力なり」とあり、

如来とは阿弥陀如来、仏様であって、その仏様の本願を拠り所とするということが他力本願だとのこと。

「私」から離れ、仏様の願いだけを聞き止めてその通りに生きていくということが、本来の他力本願の意味のようです。

 

わたしは仏教の難しいことは分かりませんが、

どうしてだか最近、自分がお釈迦様の手の上の孫悟空であったような気がしていて、

人生というものはもしかして自分でコントロールできるようなものではないのかもしれない、

とそんな風に思うようになっています。

 

おそらくそれは真理だと思います。

 

自分という小舟が漂う海は思っていたものより遥かに広大な大海原なのだと思います。

その広大な海に比べたら自分は水の一滴のようなものです。

どこかへ行こうと必死で漕いでも結局は海の漂う先にしか向かっていないので、パドルを漕ぐ手を止めても何も問題はありません。

問題ないどころか、漕いでいようが止まっていようが実際は何も起こっていないのです。

 

なので、どこかに行こうとせずただぼんやりと漂ってみようと、今年はそんな風に生きてみようと思うのです。

未来のために準備することも、成長しようとすることも、何かを得ようとすることも、

自分の人生をコントロールしようとすること全てをやめてみようと。

 

「如来の本願」と言うとちょっと自分には恐れ多い気がしますが、

わたしの人生に起こることは起こるし、起こらないことは起こらないことと受け入れて、

目の前に来たもの全てをただ戴いていこうと思います。

 

目の前の仕事を丁寧に一生懸命にやる。

ご縁があった人には感謝して誠実に丁寧に関わる。

「今」に留まり「今」をしっかりと味わう。

「如来の本願」が直感から来ることを信じて直感を捉えてそして従う。

そんな感じです。

 

 

皆さんはどんなビジョンを描いていますか。

豊かで平和で幸福な一年になりますよう。

 

最後まで読んでくださりありがとうございます。

 

 

 

 

こんにちは。

 

今日はわたしの実体験から、引き寄せが起きる時ってこんな状態になってるよ、ということと、執着の手放し方のお話をしたいと思います。

 

 

今わたしは都内某所のオフィスでこのブログを書いています。

 

オフィスは大都市エリアにあって、最寄駅から徒歩1〜2分、コンビニも飲食店もたくさんあって便利な場所です。

スペースは広くはありませんが3〜4人は入れる広さ。

わたしにとって立地も広さもベストです。

 

このオフィス、わたし個人のものではなく、クライアントさんの会社の営業所として借りているものです。

そこを週に1〜2日わたしが使っています。

 

 

実は、わたしは個人的に、週1〜2日程度どうしてもこのエリアに場を持ちたい事情がありまして、

使用する曜日や時間帯が決まっていなくてプライバシーも必要とするため、時間貸しスペースやシェアオフィスではダメなのです。

 

小ぶりの賃貸オフィスを探しましたが、都心ですから、小さな部屋だとしても毎月結構なお家賃がかかってしまう。

毎日使うわけでもないのに大きな固定費は厳しいなー、けど、どうしてもこのエリアに場が欲しい。。。 

とぐるぐる考えていたのです。

しかし、自分で借りる以外にどうやって手に入れるかという方法は全く思いつかず、

ただ毎日毎日、あったらいいな、どこかにないかな、と思っていたわけです。

 

そんなことを思い続けて半年も経つと、オフィスを持つという願望が薄らいできました。

というのも、別の手段でまあなんとなくやりたかったことはやれてるという状況ができ初めていたので、以前と比べたらかなりふわっとした心持ちになっていました。

 

もはや執着はなく、「あってもいいしなくてもいいか」と結果を手放せている感じです。

 

 

そうしたら手に入りました。

ベストな場所にベストなオフィスが。あっさりと。

それはまったく思いもしなかったところからポーンと飛んできた感じで、

結果を手放せた頃からだいたい2〜3ヶ月の間に願望が叶いました。

 

 

「執着を手放せている」状態になって、初めて引き寄せの法則は回り出すのだと思います。

 

 

これは新しいアイデアでもなんでもなく、あらゆる引き寄せ本で言い古されていることですが、真理です。

しかし、どうやったら執着が手放せるか、ということが難しく、そこら辺をきちんと解説しているものはありません。

 

 

それをこれから解説します。

 

 

はず、執着を持ったままでは執着を手放すのは無理だ、と断言します。

 

なんか言葉のトリックみたいになりましたが、それは例えれば両手に水の入ったコップを2つ持っている状態で、目の前にあるボールに入ったスープを飲もうとするようなものです。

無理ですよね。

 

執着というものはその裏にべったりと「不信」を張り付けています。

つまり、なぜ執着になるかというと、そもそも「無理だ」という信念があるからなのです。

手に入れられる自信があれば執着する必要はありません。

 

コップの例えで言うと、右に執着のコップ、左に不信のコップをもっているようなものです。

その上で、目の前のスープ、つまり欲しいものを得ようとしています。

 

目の前のスープはいい匂いで暖かそうな湯気を立ててとても美味しそう。

飲みたい!と思えば思うほど頭は冷静にものを考えられなくなります。

右と左のコップを手放せばいいのに、パニックでそんなことも考えられません。

 

「コップから手を離せ」つまり執着を手放せ、と引き寄せマスター達は一様に言います。

しかし、そう言われても、手を離せばコップが下に落ち粉々に割れて大変なことになってしまいそうでできません。

「願望を忘れろ」と言われても、美味しそうなスープが目の前にあるんだから忘れることもできない。

 

その状態が、執着を持ったままで執着を手放そうとしている、ということです。

 

 

いきなり執着を手放そうとしても無理。

その前に今の状況を一歩前に進める「行動」が必要なのです。

 

つまり、あたりを見渡してコップが置ける何かしらを探すことです。

 

それがゴツゴツした岩だったとしても斜めの板だったとしても結構遠くにあったとしても、とりあえずそこに行ってコップを置いてみることです。

そうすると両手が空きます。

つまり、執着と不信が手放せた状態になるのです。

 

 

わたしの場合、オフィスを借りるという代わりに、時間と場所をいちいち毎回変えるということでなんとかやりたいことをやり出してみました。

そうすることで、最初の「全くできていない」という状況から「少しやれてきた」という状況に変わってきました。

そうすると「執着」が緩むのです。

だって、理想の形にはほど遠いにせよ代替策で目的のことはなんとかできているのだし、「絶対何がなんでもオフィスが必要だ!」という力みがなくなります。

オフィスは欲しいけど、今の状態をずっと続けるのも望まないけど、「とりあえず、、、まあいいかなー」くらいの軽さになる。

 

「まあ、どっちでもいいかなー」という軽さ。

これがまったく手放せている状態、つまり、引き寄せが発動する時の心の状態です。

 

 

するとあっさりと欲しいものが手に入ります。

想像もできなかった方向から、最終的に欲しいものそのものがちゃんと手に入ります。


オフィスがなぜ欲しいかというと、そこを使ってやりたいことがあったからですが、そのやりたいことができるようになれば結果オーライじゃん、というはぐらかしではなく、「オフィス」という願望がちゃんと手に入るのです。

それが引き寄せの摩訶不思議なところです。

 

 はっきり言って仕組みはわかりません。

いまわたしは、電気の仕組みはわかんないけどスイッチいれたら灯りがつくよ、という話をしてします。

 

 

はてさて、そうやって手に入れたこのオフィスですが、実はクライアントの意思で3ヶ月後に解約されることになりました。

そしてわたしはといえば、もうこのエリアにオフィスは必要ではなくなったのでなんの問題もありません。

 

 

人生は止まることなく常に変化しています。

その時その時に欲しいものを自分はちゃんと引き寄せられるということをわたし達は信じていいのだと思います。

 

 

最後まで読んでくれてありがとう。

ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

こんにちは。

 

日々生きていれば困ったことも嫌なことも起こりますね。

事象はそれ自体良いも悪いもないのですけどね、悪い状況からはできるだけ早めに抜け出したいものです。

 

今日はわたしの実体験から最近気づいた、困った時こうすると事態は驚くほど好転するかも?というお話ししたいと思います。

 

 

先日、協力会社とあることで揉めました。

簡単に話しますと、感情的なもつれがあり先方が激怒して、結果こちらが必要な情報を「出さない!」と引き上げてしまった、という厄介なトラブルです。

さらっと書きましたが、その時は大人の男の人(だいぶ年下)に頭から怒鳴られまくるという結構な修羅場が繰り広げられておりました。。。

思い出したくもない。うう、つら。。。

 

 

結局、その日は話がまとまらず、また時間をおいて仕切り直すということにその場はなんとか着地したのですが、

それからが日々feel so 地獄なわけです。

なんであんなに怒ってるかさっぱりわからない。なんでわたしがこんな目に?この件社長にどう説明したらいい?うわわー、めんどくさい。ていうか、あの人とまた話すのやだなー。今度怒鳴られたらメンタル折れるわー。無理無理ー。

と、気持ちは現実から脱げまくりです。

 

散々逃げまくった後に、現実を受け入れる日は必ずやってくるものですね。

こうしてても何も変わらない。逃げるのはもう諦めようと、ふと足を止めるのですね。

だってどう考えても逃げきれないし。

 

 

その時の気持ちは「しょうがねえ。。。やるか」それだけ。

 

しょうがねえ、という思いの中には、

また怒鳴られてもさらに拗れることになっても、それはそれで受けていくよ、という潔い覚悟がありました。

 

 

やっとその問題に向き合い、社長に状況説明し、止まってしまった仕事を調整し、謝罪文と再度打ち合わせのセッティングメールを送り、と粛々とやるべきことをやって、打ち合わせの日を迎えたのです。

 

そしたら、驚くことに、協力会社の人は終始にこやかで、極めてスムーーーーズに話は進み30分程度で終わりました。

拍子抜けするくらい。

 

 

その時すごく不思議な感覚に包まれたのですが、

zoom打ち合わせの状況は見たところは前回の打ち合わせとほぼ同じです。

目の前のブラウザには協力会社の男の人とそのアシスタントの女性がいて、その隣にわたしがいて、見えるものは一緒。

 

ただ、前回は協力会社の人は顔を真っ赤にして怒っててアシスタントの女性もムッとした表情、わたしはといえば青ざめていました。

しかし、今回は同じ人がにこやかに笑っていて、わたしも笑顔。(アシスタントの女性は同じくムッとしてたんだけど。。。)

 

なにこれー?と、なんだか狐につままれたような不思議な感覚になりました。

 

まるで物語が自分の選択次第で展開していくゲームをやっているような感じです。

 

選択A:相手が激怒し困ったことになる。

選択B:相手は笑顔で円満になる。

 

AからBに選び直して、Bの展開が目の前で起りそれをわたしが客観的にみている、そんな気がしたのです。

 

「しょうがねえ。。。やるか。」

とわたしが腹を括った時に、選択Bがポチッと押され、ゲームがまるで違う展開になった、とそんな風に思えて仕方ありません。

 

思い返してみると、これまでの人生の中での数々のピンチの局面で、わたしは同じような流れで状況を建て替えてきました。

マイナスの状況からプラスの状況までの途上には、必ずどこかで「しょうがねえ。。。」という一節を経ています。

その時のわたしは結果はまったく手放しています。

結果を手放すということは、「どんな結果でも受けていく」という腹がくくれた状態ということです。

 

つまり、腹をくくると困った事態は好転するんではないかと思うのです。

 

考え方だけです。

後はやるべきだと思えることをやる。真剣にとか、心を込めてとか、完璧にとかではなく、最低限やればいいのです。

 

自分の思考が現実を作るとよく言われますが、それって真理だとわたしは思います。

 

 

今悩み事がある方、困った状況にいる方、

一旦問題から目を離し、頭を静かにして「しょうがねえ。。。」と呟いてみることから試してみてください。

どんな結果でもまあいいか、と思えたら腹がくくれたサインです。

 

最後まで読んでくださってありがとうございます。

good luck!

 

 

 

 

 

 

東京人形町にある小綱神社に久しぶりに行ってきました。

今回の目的は商売繁盛のお願い。

 

小綱神社は金運がつくことで有名な神社で、お金関係ならここ一択、と言っている人もいるくらい。

 

 

人通りの寂しい路地の一角に唐突にある小さな神社です。そこだけ人が密集している不思議な場所。

 

 
御祭神は、蔵稲魂神(うがのみたまのかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)、福禄寿。
蔵稲魂神はお稲荷さん、市杵島姫神は弁天さんのようです。
 
弁天さんと福禄寿は外に出ていて、弁天さんの像の前で銭洗いができます。
庶民の神様なんでしょう。敷居が低い感じがすてきです。
 
 
神殿の中を覗くと右側に美しい金龍さんの絵が見えます。
「小綱神社で本物の金龍を見た(絵や彫り物じゃなくて)」という人もいるくらいなので、きっと本当に金龍さんがいらっしゃるんだと思います。
 
 
龍は、エネルギーに集まると聞いたことがあります。
夢中で何かに取り組んでいる人の強いエネルギーが大好きで、龍にとっては善悪は関係なく、ただただ強いエネルギーを発する人をサポートするんだそうです。
 
龍は誰にでもついてくれて、ついているとすごい速さで願望達成するし、人生はどんどん展開して忙しくなるそうです。
 
「この人絶対龍がついてるよなー」と明らかに思う知り合いがいます。
全然寝ないし仕事ばっかりしてるんですが、その分事業は大きくなってお金もすごくついてくる。ちょっと普通じゃ考えられないスピード感で人を巻き込んで次々とやりたいことをやっていく姿は、まるで昇り龍の背中に乗ってるようだなと思います。
 
わたし自身も、過去を振り返ると、龍さんがついててくれた時期がなんとなくわかります。
渡米と転職をした30代前半、そして子育てから仕事復帰して独立した40代半ば。あの時期は我ながらすごい勢いがあったし、人生も勢いよく展開していってたなーと。
 
龍さんはずっとついててくれるわけではなくて、割と短期間でいなくなる気がします。
落ち着いたり立ち止まったりしたら、興味をなくしてスッと離れていく感じです。
 
ずーっとついてもらっててもそれはそれで大変な人生だと思います。
 
わたしにはここ2年くらいはご不在。のんびりしたかったので仕事も減らしてただただボケーと生きていました。
そんな人は面白くもないので、龍さんは当然いてくれませんね。
 
でもね、長い休憩期間を経て、いよいよペース上げていくかー、と最近やっと思い始めたところ。
なので、龍さんを呼んでみることにしましたよ。
 
 
「龍は呼んだら来てくれるよ」
と、先日、そちら関係に詳しい知人から聞いたので、試しにやってみようかと。
 
 
「龍さん、○○という目標を達成したいのでこれからは時々わたしのところに来てください」とお願いしました。
お願いの仕方わからないんで、心の中で言ってみただけ。。。
 
その後、不思議なことが起こりました。
お願いしてからベッドでごろごろしてたらすぐウトウトしてしまい、寝たか寝ないかの時に突然目の前に金色の龍の顔がパッ!と映って一瞬で消えました。
「あ、金龍さん来た」と気付きました。
 
 
それで早速昨日、小綱神社に参拝に行ったというわけです。
 
 
たまたまかもしれませんが、実は、今日になりコーチングのお願いが2件と相談が1件入りました。
お金はともかく、忙しくなる兆しは確実。。。
金龍さんのおかげとありがたくお受けしたいと思います。
 
 
お金の回りをよくしたい、事業を大きくしたい、願望達成を急ぎたいという方は、龍さんを呼んでみてください。
龍の画像を待ち受けにしたり、龍グッズを身につけたり、1日に何度も思い出してイメージの中でなるべく龍さんに親しんでいくのがいいと思います。
行く先々に龍の絵や彫刻を目にしたり、龍形の雲や、時にゾロ目で龍さんはその存在を教えてくれるようですよ。
 
 
最後まで読んでくださりありがとうございます。
では、また。
 
 

もともと夢は滅多に見ないタイプですが、

ここ数ヶ月神社仏閣通いをはじてめから、不思議とよく見るようになってきました。
しかも割とはっきりした夢を。
 
 
今日は最近見た不思議な夢のお話をします。
 
夢の中で、わたしは誰だか知らないおじさんと話をしています。
見たところ50代後半から60代前半の痩せた小柄なおじさんでした。
薄汚れた白い着物を着て、少し薄くなった白髪混じり髪の毛は肩のあたりまでぼさぼさと伸びて、はっきり言うと貧相な感じ。
 
わたしは何故かそのおじさんに悩み相談をしているのです。
何を相談したかは分かりませんが、とにかく真剣に話をしていました。
 
おじさんはうんうんとわたしの話を聞いていましたが、そのうち話を遮ってこう言いました。
 
「逆をやればいいんだよ。そうすればあんたの場合はうまくいくよ。逆をやんなよ」
 
 
それを聞いてわたしは、なんだかものすごく合点がいって「そうか!」と手を打ちました。
それから、おじさんに、「ちょっと待って今メモするから、待っててよ!」と叫ぶように言い、そしてばっ!っと夢から覚めたのです。
現実との区別がつかないようなめちゃめちゃはっきりした夢でした。
 
 
逆をやればいい。
 
って、どういう意味だろう。
その日からしばらく考えていましたが、数日前、ふと「もしかしてこういうことか?」と思いつきました。
 
逆をやるとは、求めずに与える、ということかと。
 
 
例えば、
自分が仕事が欲しければ、誰か仕事を探してる人に仕事を与える。
自分がお金が欲しければ、誰かお金を必要としてる人にあげる。
良いご縁が欲しければ、誰かに良い相手を紹介してあげる。
 
わたしは、欲しいものは求めることしか考えてませんでした。多くの人はわたしと同じ発想だと思います。
お金が欲しければ稼ぐ方法を考える。ご縁が欲しければ人や神社にお願いする。仕事が欲しければスキルを上げてより良い仕事を取る。
と、なんでも追いかけていく、そんな発想です。
 
夢のおじさんが教えてくれたのはわたしにはなかった着眼で、でもわたしの成功のための唯一の方法なのかもしれません。
得るためにはまず自分が求めるものを与えていけ、と。
 
なんだか、無性に納得してしまったので、これからはしばらくおじさんが教えてくれた通り逆をやっていこうと思います。
その先に今までにない人生の展開があるような気がします。
 
 
後日、この話を友達にしたところ、こんなことを言われました。
 
「そのおじさんってさ、もしかしたらあなたの家の氏神様じゃない?」
 
うちの氏神様は、神社と言い難いところで、空き地にぼろぼろな祠だけあるめちゃめちゃ小さなところです。そう言われてみると、痩せて貧相な感じとか、薄汚れた白い着物と白い鳥居と、夢のおじさんとぴったりイメージが重なりました。
管理する人もいないのか、お供えもないし敷地はいつも草ぼうぼうなので、通りがかりにたまにゴミ拾いしたり草むしりしたりしているのですが、もしかしたら、そのお礼に夢に出てきて教えてくれたのかもしれません。
神様は等価交換と聞きます。何かやってあげるとちゃんとお礼をしてくださるみたいですね。
 
 
更に後日談ですが、
それから数日後、なんと、その氏神様がきれいに草刈りされて、松ぼっくりだらけだった祭壇もきちんとお片付けされていました。
 
貧相なイメージはもうなくこざっぱりした良い神社になっていました。神様が次に夢に出てこられたら、もしかしたらステキなおじさんになってるかもしれないですね。
再会が楽しみです。
 
 
最後まで読んで下さりありがとうございました。
ではまた。