周防監督が11年の沈黙を破り、
世に問うたのがなんと痴漢に間違われた青年の話とは。
丁寧に撮られた良い作品だと思ったが、
作中の登場人物誰ひとり印象に残らなかった。
誰ひとり魅力的な人物がいないのである。
まさに淡々という言葉がぴったりだった。
この作品を見終わって私が感じたのは、
恐怖でもなければ、
かといって憤りでもなく、
絶望でもなくて、
敢えて言葉にするならあきらめかもしれない。
何に対するあきらめかといえば運の悪さにである。
まっとうに生きてきたにもかかわらず
自分が刑事事件の被告人になってしまうことは確かにあると思う。
それは痴漢の冤罪かもしれないし、
もっと他のことかもしれない。
映画の中でも述べられている通り、
こうなってしまったらどうしようもない。
なぜならその時我々が相手にしているのは
目の前の検事でも裁判官でもなく、
もっと得体の知れない国家そのものなのだから。
それではいったいどうすればいいのか?
私の考えでは映画のタイトルの通り
「ボクはやってない」と訴え続けていくことだと思う。
それは無罪になるためではなく、
自分が無実であると信じて欲しい人たちに、
自分の無実を証明するために。

ひとり日和 / 青山七恵/著

何の取材か知らないが、爆笑問題の太田が

自分の表現で世の中の価値観を変えたいという趣旨の発言をしていた。

何を偉そうにと思うが、自分自身を表現者と自認する者なら

これぐらいの志を抱いてもいいのかもしれない。

何でこんなことを書くのかといえば、今作も含めて、

近年の芥川賞受賞作を読んできて、もはや文学は世の中を震撼させるような、

言い換えるなら新しい価値観を形成するような存在には

なりえないのだということを感じたからだ。

現代の問題を扱っているように見えても、

それは後追いのなぞりにすぎない。

読んで面白い小説はたくさんあるし、

小説を読んで世の中のことがわかるということもあるだろう。

しかし、文学はもはや古典芸能の一つにでも数えたほうがいいのかもしれない。

かつてのように文学によって世の中の動きが大きく変ったり、

隠れた闇をさらけ出したりすることはないのではないだろうか。

何だか寂しいのだが。そういった意味で、今作によって、

私の何かが、読む前と読んだ後で変化するということはなかった。

しかし、本書自体は読んで好感を持った。

知寿と吟子の微妙な関係が非情に巧みに描かれていると思う。

20代のフリーターの生き方や人間関係の作り方は

上の世代には非情に捕らえにくいと感じると思うが、

これを読むと彼ら彼女らの心情が少し分かるような気がするのではないだろうか。

付き合っていた男に他の女がいてもたいして落ち込みもしない淡白さや、

はやく歳をとりたいと本気で考えてしまうような無気力さには、

同世代の私でも歯がゆさを覚える。

それでも吟子の様子が気になって、電話をしたり様子を見に行ったりする優しさや、

男にふられて死にたいと思ったり、自分がいまのままでいいのか自問自答するような姿など、

無気力なのではなく、生きるペースが遅いだけなんだなと思う。

そういう意味で選者の誰かも書いていたが、

わたし〈知寿〉の本当の生活はまだ始まってさえいないのだろう。


国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて / 佐藤優/著

佐藤氏にとって最初の著作だけあって若干力みが感じられた。

一番興味深かったのは国策捜査についての記述だ。

佐藤氏と西村氏(担当検事)の間で、

国策捜査は「時代のけじめ」をつけるために必要だというやりとりがある。

確かに指摘の通り、佐藤氏の事件だけでなく、

そこで例に挙げられる山本譲司の件、大蔵省過剰接待の件など、

国策捜査と考えられる事件のあとで、

この国で大きな価値観の転換が起こっている。

なぜ鈴木宗男氏がターゲットにされたのか、

という考察は納得がいったのだが、

いったいそのターゲットを選ぶ、

言い換えるなら価値観の転換を図ろうとする国家とは何なのか?

『国家がいわば「自己保存の本能」に基づいて、

検察を道具にして政治事件を作り出す』とするならば、

国家とは何なんだろう?

国家とは小泉総理なのか。

たぶん小泉総理(今なら安倍さん)もまた道具にすぎないのだろう。

だとしたら国家とは何なのか……

ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき / 佐藤優/著 魚住昭/著

最近、佐藤氏が論壇の新しい知識人として注目されているのはもちろん知っていたのだが、

私が本書を手に取ったのは先日読んだ「野中広務差別と権力」 の巻末に掲載されていた

魚住氏との対談を読んだことがきっかけだ。

私は彼の次のような発言を読み、その鋭くも人間的優しさを含んだ発言に感心し、

佐藤氏に興味をもった。長いが少し引用しておこう。

佐藤 ぼく、その発想はすごく健全だと思う。

人間は何か商売をしないと食っていけないわけで、

だからぼくは、今公判を抱えながら若干文筆をやっている。

これ、食っていくためにやっているんですよ。

それ以前は外交をやったことがあって、これは人を傷つけることはたくさんあった。

ある情報をもってきて、それを流せば、ある人間を叩きつぶすことになるかもしれない。

(中略)

だから魚住さんの人間としての、

書いた作品のあるところで痛みを感じる人がいるという感覚をもっているというところが、

ぼくはこの作品のすごく重要なところで、野中さんという政治家が一流の政治家であることは、

むしろこのテキストの中よりも、テキスト外で証明されているとぼくは思うんですよ。


実際、本書を読んでみて佐藤氏の知識に裏付けられた的確な分析に圧倒させられるとともに、

彼がこれまでの知識人とは何かが違うという思いを強くした。

私なりに分析するなら、彼は間違いなく知識人だが、

知識人特有のエリート意識がないのではないか。

それは彼の経歴に由来しているような気がする。

特に、ホリエモン事件への的確な分析(ホリエモンはすなわち貨幣である)や、

丸山眞男の捕らえ方と、日本人=集団主義という定説の否定の部分など

圧巻としか言いようがない。この人の書くものにもう少し注目していきたい。


2週間で小説を書く! / 清水良典/著

それにしてもというのもおかしな始まりだが、新書が次から次へと創刊されるものだ。

新書は価格、内容も手ごろだが、総じて読み応えのないものが多い。

本書も失礼ながらそんなにたいした内容ではなかった。

ただ、こうしたテーマのものはテックニックに走りがちだが、

むしろ小説の読み方というか本を読むことのの楽しさを示しており、好感をもった。

書くこともいいが、まずはいろんなジャンルの小説を読んでみてはいかが?



もうひとつの日本は可能だ / 内橋克人/著


私の信頼する経済評論家の一人内橋氏の2003年の著作の文庫版である。

前半で語られるマネー資本主義批判は2007年の現在でも色あせることはない。

それに対して彼は食糧、エネルギー、人間関係について、

地域内に自給自足圏を形成していくことの重要性をとく。


「今日に明日をつなぐ人々の営みが経済なのであり、

その営みは、決して他を打ち負かしたり、他におもねったり、

他と競り合うことなくしてはなりたちえないとういうふうなものでなく、

存在のもっと深い奥底で、そのものだけで、

いつまでも消えることない価値高い息吹としてありつづける、

それが経済とか生活というものではなかったでしょうか。

おぞましい競り合いの勝者だけが、

経済のなりたちの決め手であるはずもないのですから」


3時間近くの長丁場の講演だったが、話に引き込まれていたせいか長くは感じなかった。

お体の調子があまり良さそうではなかったので心配だ。

その辺見氏が冒頭で今は未来のためにあるのではなく、

今という永遠として大事なんだと語ったのは心を打った。

講演の内容を簡潔にまとめることは難しいが、無理を承知で試みるならば、

「言葉」と「記憶」が犯されている現代への危機感と、

単独者としてその現状に抗っていくことであると思う。

辺見氏はギュンター・グラス氏の武装親衛隊所属の告白を取り上げ、

彼の語ったSchande(重く深い恥)をこの国で語る者が皆無であることを指摘する。

そして、この国には一億総懺悔はあっても、主体的な恥や罪の意識は存在しないこと、

皆が悪いとは結局誰も悪くないことと等しいと言い放つ。


そして今また「沈黙の螺旋」という現象がこの国に侵攻しつつあることを訴える。

孤立への恐怖心から多くの人が口を噤んでしまっているという。

一人一人が当事者としてロールプレイングできるかが重要だという。

彼が冒頭で語っていた通り、自身の、そして他者の内心の声に耳を澄まし、

グロテスクなまでの価値観の多様化を拒み、

単独者として迷いながらも、訥々とではあっても言葉を紡ぎ発語していくことが大事なんだと思う。


しかしながら、辺見氏の著作を読んだり、講演を聞いていつも思うのは、

単独者であろうとすればするほど感じる、一人であることの心細さだ。

それでも僕は抗っていくしかないんだと思う。

彼の生きかた / 遠藤周作/著

この作品は遠藤氏の仕事のなかではそれほどには重要な位置を占めるものではないであろう。

ただ、読む者をひきつける力がある。読み進めていくと作中で最も強者であったはずの加納も含めて

人間とはいかに弱い存在であるかということが突き付けられる。そしてとてつもなく身勝手でもある。

私がこの作品で一番興味深いのは朋子の心の移り変わりである。

一平に対して弱虫と口にした彼女が結局は強い者に絡めとられていく弱き者であり、

弱虫と罵倒された一平が最後は猿を守り通す強い意志と行動力を示すのである。

しかし結局彼女が選ぶのは最後の最後に加納の見せた弱さの方なのである。

結局彼女が求めたものとは何だったのか?

ここのところが人間の分かりにくさなのかもしれない。


野中広務差別と権力 / 魚住昭/[著]
魚住氏自身がエクスキューズできないことをしたという感覚を現在でも抱き続けると告白しているように

心のどこかに後ろめたさを抱えながらもなぜ彼は調べ、書き、発表したのだろうか。

魚住氏に悪意がなかったのは読んだものにはわかるはずだが、

悪意から発生していないからこそ、余計に困難であったはずだ。

彼の言う業という言葉だけでは理解しにくい部分がある。

しかし、多くの人を傷つける可能性を自覚し、

自身がそれに苦しみながらも書くという行為は業という言葉でしか表せないかもしれない。

だとすればその業の中身とは何なのか?読者はよく考えなければならないと思う。

残念ながら私はまだそれを表現する言葉を持たない。

黄泉の犬 / 藤原新也/著


本人が後書きで述べている通り、

この原稿は「インド体験が宗教に反映するか表現活動に反映するかの違いこそあれ、

私と彼らは同根の樹に生る異なる果実のようにも感じられ」

「しかし同根の果実でありながら、(中略)決定的な違いが」あることを

若い人達に伝えようという意図で書かれたものだ。

そういう意味では麻原が水俣病であったかいなかという記述はたいして意味のあるものとは思えず、

単行本発刊にあたり掲載したのは何らか圧力に屈したのではないことを証明する証としか感じられなかった。

それを抜きにしても十分に内容の濃いものだった。

興味深かったのは2章と5章で一方では一人の若者をインドへ送り出し、

もう一方では一人の若者を狂気の世界から連れ戻している。

インドを目指す若者には現実世界への絶望がある。

本当に信じられるものを求めて彼らは旅に出る。

しかし、信じられるものを他に求めている限り結局同じなのだということを

藤原氏は氏の圧倒的な体験を通じて述べている。

自分探しなんて言葉は好きではないが、文字通り自分と徹底的に向き合うしかないんだと思う。

おそらくインドはそれをするのに大変適した場所なんだろうが、

私たちが今いる場所でだってそれはできるはずだ。

例えどんなに困難だとしても。


中国の兵隊が、と老僧は言った。

「・・・中国の兵隊がやってきて寺の仏像をたたきこわしはじめたとき、

ある小さな町寺の若い僧は最後に残った小さな仏像を握りしめて

決してそれを離そうとはしなかった。

そこで中国兵は若い僧の右の腕を切り落とし、河に投げ捨てた。

切り落とされた右腕はなおも仏像を握りしめたまま河の表を浮き沈みしながら流れていった。

それから十年を経て片手の若い僧が私のもとにやってきたとき、

彼はときおり夢をみた。眠っている時も、そして目覚めて起きているときでさえ、

彼はすでに失われて久しい右腕がそこにはっきりと実在しているのを感じるのだ。

(中略)若い僧はそのたびに、そこに仏像がないことに失望し、うちひがれ、

あるとき旅に出たいと言い出した。仏像を探しにだ。

私はその必要はないと応えた。仏像はお前の失われた片腕があった場所に実存しているのだ、と。

若い僧は私には見えないと言った。私は応えた。

お前がそれを感じたその時に、その仏像は存在しているのだ、と。

お前が失ったものはただの鉄屑にすぎない、と」