スキャンダル / 遠藤周作/著


「人生の同伴者」 において遠藤氏が

初めて本格的に悪について取り組んだ作品であると語られていた本作。

ずっと読んでみたいと思っていたが、絶版になっていて手に入らなかった。

しかし最近偶然立ち寄ったブックオフで発見し、読むことができた。

この作品はこれまでの遠藤文学とは明らかに趣が異なる。

私は登場人物の勝呂が遠藤氏自身とは思わないが、

勝呂が作中述べている通り自らのテーマを追求する過程で、

結果的に性や生々しい欲望の描写を避けてきたというのは、

遠藤氏自身の考えでもあったのではないかと推察する。

それが負い目となったのか、

はたまた純粋に悪からの救いはあるのかという命題への興味なのかは定かではないが、

これが書かれた当時は遠藤氏が悪からの救いは存在するのか、

存在するとすれば何なのかという問いに正面から取り組んでいこうとしていたのは間違いない。

そういう意味で本作はまだ序章といった感じだ。

悪が存在することを示したのが本作であり、

その先の救いについては光という言葉であいまいに触れられているにすぎない。

しかし、ご存知の通り次作が書かれることはなかった。

大変残念であり、日本文学における大いなる機会損失であるとさえ思える。

しかし、体調を崩し自分の残りの生を考えた時、遠藤氏が深い河を選んだのは当然のことのようにも思える。

悪を扱うには時間が足りなすぎた。

中途半端に書いては、それこそ遠藤氏の築き上げてきた思想を汚すスキャンダルになりかねない。

本作が何故絶版なのかは知らないが関係者が

遠藤氏の著作リストから外してしまいたい気持ちも解らぬではない。


「群集はイエスが血まみれで十字架を背負って刑場に行く時、罵ったり石を投げつけたでしょう。

あれはいつも申しあげる快感のためだったとお思いになりませんか。

無垢で清らかな人間が眼前で苦しんでいる。

それを更にいじめる快感があの時、群集のすべてを支配したと考えてはいけません?

イエスがあまりに無垢だったから、あまりに清らかだったから……わたくしたちが破壊したくなるほど……。(後略)」

屈辱と歓喜と真実と "報道されなかった"王ジャパン121日間の舞台裏 / 石田雄太/著

それぞれの選手が超一流でも、それだけではチームとしては機能しないものなんだと感心した。

そのなかでWBC日本チームにはイチローという絶対的存在がいたことが、やはり大きかったようだ。

それぞれがプライドを持った存在であっても、

イチローほどの絶対的実績を残している存在には一目置かざるえない。

やたらと日の丸の重みという言葉が出てきて若干違和感を持ったのだが、

やはり特別なものがあるということなのだろう。

野球人気低迷と言われて久しいが、まだまだ野球人気は顕在だと思う。

北京オリンピック、次回のWBCも楽しみだ。

そして今年のペナントも。カープ頑張れ!!

ゆれる

見た人の評価が高く、期待していた作品だった。

兄弟を演じた香川、オダギリの両俳優のうまさが光った。

しかし、脚本がイマイチで不完全燃焼だった。

変な言い方だが、監督自身も兄弟がどんな人間なのか

結局最後まで把握できていなかったのではないかと思えてしまう。

だから兄も弟もどちらも本音が見えてこないのだ。

主題は「ゆれる」なんですよと言われても開き直りにしか聞こえない。

解説によると人間のエゴと救いを描いているらしいのだが、

救いには到達しているとは思えない。

一番気になったのが、弟が法廷で自分の人生を犠牲にしてでも

兄を取り戻すために真実を述べると言って、兄が女性が突き飛ばすのをみたというシーンだ。

あそこは、自分が前日女性と肉体関係を持ったがゆえに、

二人の関係に微妙な変化が生まれたという事実をあわせて告白しなければ成立しない。

だからオダギリー演じる弟の軽薄さばかりが気になってしまう。

また、田舎の生活が必要以上に単調でつまらない重苦しいものとして描かれているなど、

一見秀逸な人間心理を描いた作品のようでありながら、

ところどころでステレオタイプの捉え方が顔を出しており、

その点も作品を見せかけだけのものにしてしまっている。

善き人のためのソナタ


傑作である。

冷戦下の自由の制限された監視社会を描きながら、

それぞれの登場人物の人間くささが、本当に濃密に描かれている。

そして、それぞれの人物の国家から規定された役割と、

個というものとの葛藤が、物語をさらに面白くしている。

戦時下や戦後の東西冷戦の頃を扱った映画というのは、

暗く凄惨なものか、有り得ない程無垢なものになりがちだが、

そうした時代であっても実際人々は悩みながら、自分の役割を果たしていたはずだ。

監視社会という異常な状況下における、

人間であるが故の葛藤を描ききった本作は見る者を虜にする魅力がある。

見た人の中にはにはドラマ仕立てに過ぎると言う人もいるだろうが、

私はあのラストの場面に好感を持った。

そこには希望の光が満ちているような気がするから。


余談だが、芸術にとって抑圧はマイナスに違いないが、

自由を求めるという行為にこそ、芸術の存在意義があるような気もする。

また、自由への渇望こそが作品の力にもなるのではないか。

だとしたら現在が芸術不毛の時代なのもわかる気がする。

なぜならそもそも存在意義を見出すことが困難なのだから。

すばる 2007年 04月号 [雑誌]

ご存知かどうかわからないが、こういった文芸誌の発行部数は驚くほど少ない。

その大半が図書館にいくことを考えると、実際一般の読者が購入するのは、

数百冊ではないかと想像される。

私も久しぶりに文芸誌を購入したのだが、

動機はずばり特集である。

やはりドストエフスキーというのは本読みにとっては特別な存在であり続けているのだ。

特集記事自体は期待していたほどではなかったが、

またドストエフスキーの作品を読み直してみたいなとは思わせてくれた。

それにしてもドストエフスキーを語るとき、

必ずトルストイが引き合いに出される。

恥ずかしいことにトルストイはイワンのばかしか読んだことがない。

せめて「戦争と平和」でも読んでみようかな。

ドナウよ、静かに流れよ / 大崎善生/著

小さな新聞のウィーンで日本人男女心中という小さな記事に
なぜだか惹きつけられた著者が、

この事件を調べていくとなくなった女の子(当時19歳)は、

なんと顔見知りの女流棋士の娘であったりと、

奇妙な因縁に引き寄せられていく。

なぜ彼女は死んだのか、著者はそれは愛のためなんだと言う。

なんとも使い古された言葉だが、この物語を読み進めてきた読者は、

抵抗なくこの言葉を受け入れることができる。

私が衝撃を受けた部分の一つが彼女が遺書に書き残した言葉だ。

両親へ向けた最後の言葉が、何ともつらい。

「テメエら覚えておけ。のろってやる。死ね。クソやろう。

ぎぜん者ぶりやがって。死んでしまえ!」

彼女も両親が自分を愛していることは分かっていたと思うのだが、

私が読んでいても感じる両親のいくつかの判断ミスにより、

取り返しの付かない溝を生んでしまうのである。

理屈や拒絶される恐怖もはねのけ、

彼女のもとに飛んでいっていれば、何かが変ったような気がしてならない。

しかし実際は二人の想いとは裏腹に、彼らの行動が彼女の居場所を奪っていった。

だからといって赤の他人である我々が、二人を批判することはできない。

人間は悲しい、一番愛しい人へ思いを伝えられないのだから。

だから彼女は人を愛していること愛されていることの証明に川に身を投げたのかもしれない。

19歳の若者の浅はかな考えだと一笑に付すわけにはいかい切実な生の叫びある。

それにしても著者の文章は美しい。

特に、9章では少女の遺体が発見された場所へと向かう場面での、

表示板の数字が少しづつその場所へ近づいていく描写など、

芸術の域に達している。

優しい子よ / 大崎善生/著


表題の「優しい子よ」が作品の核になっている。

不治の病に苦しむ少年と、女流棋士である著者の妻との心の交流を描いたものだ。

いい話なのは間違いないのだが、よくある話でもある。

むしろ私が心に残ったのは、自分の最初の作品を高く評価してくれた、

テレビプロデューサー萩元氏の交流を書いた、「テレビの虚空」「故郷」の方だ。


こんな場面がある。

彼が二作目の作品「将棋の子」 を発表した後、萩元氏から手紙が来る。


挫折していく青春像は痛々しくて読み進めるのに骨が折れました。

大崎さんの本当に書きたかったことがわかったような気がします。また近々。


それに対して著者は苛立ちを覚えるのである。

私自身も「将棋の子」は名著だと思うのだが、彼は何故か苛立っている。

そこにはまわりから求められるものと、自身の目指すものの間のギャップがあるのかもしれない。


ノンフィクションは冷たい。

人の死や挫折を書き続けなくてはならない。

冷徹に客観的に、踏み込まずに、ルールに怯えながら。

(中略)

小説は自由だ。

自由こそが小説の美徳である。自分はそれを手に入れるために立ち向かっているのだ。


現在、同じく大崎氏の著作である「ドナウよ、静かに流れよ」(ノンフィクション)を読んでいる途中であるため、

余計と彼の言うことがよくわかるのだ。

ノンフィクションは綺麗ごとではすまない。

本当は晒したくないはずの、極めて私的な事柄にも触れていかねばならない。

もちろん、決して暴露趣味で書いているわけではないが、それでも人を傷つけることもあるだろう。

「ドナウ~」について言えば、嫌な言い方をすれば、

娘の生きた証を残したいという気持ちを人質に私生活をさらけ出すことを了解させたと言えなくもない。

当然書く側にも痛みが伴う。

彼が小説のほうを志向するのは、彼が弱いからではない。彼が優しいからだ。

ただ、この優しさが、彼のノンフィクションを一流の域に高めていると言えなくもない。

やりたいことと、自分がやるべきこと・・・・人はこの狭間で思い悩む。

しかし、悩めるということは、ある意味幸せなことでもあると思う。

ワーキングプア いくら働いても報われない時代が来る / 門倉貴史/著

ところどころ太字になり、おまけに章ごとにまとめまで設けてあり、

まるでここが大事なんだよと教え諭されているような気がして、

そこがちょっと有難迷惑だった。

ただ、ドキュメントワーキングプアのところなど大変興味深く読んだ。

今の世の中は、まるでゴールの見えない短距離走みたいだ。

スタート時点でいい位置にいた者と脚力の強いものが先頭集団を形成し、

それ以外の者は、どんどん引き離されていく。

先日の東京マラソンで全員がスタートするまで20分以上かかったそうだが、

短距離走で同じような現象が起こったと仮定したらどうだろう。

後ろの方の者は、始まりから死ぬまで先頭なんて夢のまた夢だ。

そして、いまの政府は先頭集団しか見てはいない。

前の者が走りやすいように道を整備することはあっても、

力尽きようとする走者のことなど知ったことではない。

自分で何とかしろと言い放つ。

大多数は、先頭集団から零れ落ちているはずなのに、

何故この国の仕組みは変らないのだろう。

それは彼らが無気力だからだ。

私はあと10パーセント投票率が上がったらこの国は変ると思う。

民主党はその受け皿になれるかは確かに疑問だが、

決して先頭には追いつけない私たちにもこの国を変える力はあるはずだ。

累犯障害者 獄の中の不条理 / 山本譲司/著

「居場所のなさ」

本書を通読して感じたのがこの言葉だ。

健常者が剥き出しの悪意をもって障害者に接するということは、

今は少なくなっていると思う。

しかし、同時にできることなら関わりを持ちたくないと考えてしまうのが、

多くの人の偽らざる心境なのではないだろうか。

この不作為が実は彼ら彼女らから居場所を奪っている。

押し込め、居場所を奪っておいて、

何か罪を犯すとそら見たことかとなる。

彼らを支援しようというボランティア組織も存在し、

その活動は大変素晴らしいと思うが、

民間組織でできることには限りがある。

山本氏が言うように福祉が何とかしなければいけないはずだ。

しかし、結局は我々が関わりたくないという気持ちから、

現状を思考の埒外においている限り何も変らない。


日本国憲法 / 森達也/著

この本の基になった連載がQuickjapanというどちらかというと

若者向けの雑誌に掲載されていたということは理解した上で、

敢えて述べさせて頂きたい。


森さんちょっと消費されてきちゃったんじゃないの?


正直この本はほとんど中身がない。

森氏の魅力は独自の切り口と、対象への独特の眼差しだと思う。

しかしこの本には何もない。

対象と徹底的に向き合うからこそ、森氏の葛藤は意味をもつ。

こんな誰でも得られる情報から論理を組み立てられても心は動かない。

これでは森さんの葛藤も単調な繰り返しとしか思えない。

映像だろうが、活字だろうが同じではないだろうか。

生活の糧でないから天皇のドキュメンタリーを安易な妥協をせず断念したのなら

活字でも同じ気概を示して欲しい。

余計なお世話かもしれないが、彼にはどこにでもいるような評論家にはなって欲しくない。

彼は対象と真摯に向き合ってきたからこそあれだけ素晴らしい作品を残してきたはずだ。

原点に立ち戻って欲しい。