15で女子プロレスに入団、イジメで退団、フリーターを経て、19終わりの時フーゾク界入り。取材に来た編集者にイラストを描いたら仕事をくれたのがきっかけでイラストレーターに。
しかし昔の夢捨てられず23でまたもプロレスの世界へ舞い戻りもうすぐ20年。途中、妊娠結婚出産離婚を経験。イラスト、文章、キャバクラ、スナック、店舗型ヘルス、店舗型イメクラ、SMクラブ、専業主婦、兼業プロレスラーその他諸々。小学校の時からなんだか生きづらいなと思ってたら統合失調症でした。思い出話が多いブログです。
◆試合予定◆
呼ばれた団体にはほぼ出るよ。
◆チケットはtwitter urauranとbambihauran
またはurauran@gmail.comまで!
◆お知らせ◆
LINEスタンプ売ってるよ。
佑天寺うらんで検索してみてね。
退院!そして入院!
2024年、約2ヶ月ちょっと入院していた。
最初は腰が痛くなり救急車で緊急入院。
オペを二回して足に麻痺が残り歩けなくなる。
リハビリの日々。
杖を使って歩けるようになりなんとか退院!
本当は、色々な患者さんの話がいっぱいあるのだが、書く暇がない。
なぜなら今、わたしは膝で入院している。
今まさに病院のベッドの上で消灯を待ちながら去年の病気の入院の話を書いていた。
またかよ、である。
去年の入院は急だったが、今回の入院は計画的にオペの予約をとって入院した。
手術法が決まり、予約をとり、1ヶ月待った。また外に遊びに行けなくなるからと、最後の方は遊びまくった。杖をつきながらね。
そして入院、次の日に膝の手術。
それから11日経った。
今は松葉杖でトイレに自分で行けるようにはなった。だけど膝が痛くてトイレに行きたくなさすぎて水を飲まないようにしている。笑
膝が、痛い。
突然、痛くなる。突然、ビリビリする。
耐えられない。
トイレでも体重の掛け方を間違い膝が痛くなることがたまにある。トイレの中でどうにもならなくて立ち尽くすことがよくある。
2度目の「歩けない日々」を経験して思う。
「歩けるって本当に幸せ」
48歳は最初から最悪な年だった。2度も入院して、今はまだ退院も決まっていない。一年働けず、たまにスマホが止まる。
それでもこの病気になって良かったと思う。
なぜだと思う?
人生は健康第一と気づけたからだ。
私は好きなことを好きな時に好きなだけやってきた。それが信条でもあった。
そして一時期は体重が110キロまで増えた。
そして、体を壊した。
好きなことをするのは、不健康になることとは違う。好きなことのためには、我慢することも必要だと気付いた。
なんつったって健康第一である。
退院した時、外のご飯が濃すぎて舌がビリビリしてビックリした。ご飯の量も多くて食べきれなかった。
家ではお茶にハマり、色々飲んだ結果、最終的に今飲んでいるのは「白湯」である。笑
ヨガもやり出しそうな雰囲気もしてる。(私は体に合わないのでやらないけど)
是非、健康第一から少しでもおかしな方向に行ったら止めてほしい。それほど私は今健康を第一に生きている。
やりたいことのために必要なことは何か。
健康である。
幸せの第一条件は何か。
健康である。
なんのためなら人間は死ねるか。
健康である。冗談である。
体を壊してわかったことがある。みんな、健康診断に行っていない。「めんどくさ〜い」「胃カメラ怖〜い」。そんな理由のために、大事な病気を発見できなくて体を壊したら意味がないのだ。
みんな、健康診断に行ってください。
お願いします。
私はまだ退院が決まっていない。だけどきっと退院する。コツコツ家でリハビリしてまた歩けるようになる。そして、プロレスに復帰するつもりだ。
やりたいことをやりたい。
それは変わらない。ずっと昔から変わらない。
そのために「健康」が必要なことも、ここ一年で分かった。
看護師やリバビリの方々の優しさで、少し、人を信じられるようにもなった。
頑張ったら褒められる嬉しさも改めて知った。
楽しかったことが奇跡的だったこともわかった。
だからもっと大事にしていく。仲間も、ファンも、親も姉妹も。もちろん、息子も。
これからも応援よろしくお願いします。
ブログもまた書くね!
歩けなくなった
人生で一番びっくりしたことってなんだろう?
たぶん、歩けなくなったことだと思う。
2024年9月に腰に膿がたまり手術した。右足に麻痺が残った。その麻痺のおかげで歩けなくなった。
最初は横になるのが精一杯で、ベッドに腰掛けることもできなかった。腰に体重がかかりしんどくて座っていられなかった。
あと、痩せてお尻の骨が痛くて座っていられなかった。
それも、日々が過ぎると慣れていく。だんだんと車椅子で移動できるようになり、私は面会ルームの自販機であったか〜いコーヒーを買うことを覚えた。1日2度はコーヒーを買いに行った。今思うとそれもリハビリの一環だったな。
そして私の前歯は真っ黒になった。。。
車椅子の使い方を習うと、次は杖の使い方を習った。これがまた難しい。まず、まともに立っていられない。立ったら動けない。足が前に出ない。足を前に出すことはわかっているのだけど、どうやったら足が前に出るのかがわからない。私は平行棒の間で右足を前に出そうとなんとか動かそうと粘った。
足が出ないということを説明したいのだがなんと書いていいのかわからない。とにかく足が前に出ない。筋肉もないし足に感覚もない。だから何もできない。
私このまま歩けないんじゃないかと、もちろん思った。車椅子で生活するのかも。そしたら一階のアパートに引越ししないと。プロレスはもうできない。お金はどうしよう。
色々考えて、全部否定した。
私は歩くしプロレスをやる。今は歩けないかも知らないけど、リハビリ毎日やって少しずつでも歩けるようになるんだ。最終的に歩けるようになって練習するようになってまたプロレスをする。決めた。私はプロに復帰する。絶対にだ。
それからは、部屋で出来る筋トレを何種類か教えてもらった。リハビリの時間は1日に数時間もない。その他の時間が勿体無い。出来ることがあるなら、部屋で1人でリハビリやっておきたい。歩くために必要な筋肉を毎日コツコツ鍛えた。筋肉がついたのかどうなのかわからないけどだんだん辛さも慣れていった。リハビリ姉さんもやる気になってくれて色々自主トレを教えてくれたが、自主トレの種類も増え、全部覚えていられなくなるぐらいだった。
それでもさぼりたくなるときもあった。「めんどくさいな」「つかれたな」だけど、ちゃんとやった次の日、リハビリ姉さんは、「ちゃんとやってますね!」と笑顔になってくれる。ちゃんと分かるのだ。それは、すごいなーと思った。褒めてくれると余計に頑張れる。リハビリ姉さんのおかげで毎日自主トレが捗った。
リハビリ姉さんと別で、スパルタ兄さんという人もいた。その人もリハビリの人なんだけどこれがまたスパルタで有名なお兄さん。笑いながら、キツいことをどんどんやらせてくるような人だった。
ある日、まだまだ杖なしじゃ怖くてまともに歩けないとき、スパルタ兄さんが担当になったことがあった。「歩いてみようよ」兄さんは簡単にそう言った。「はい、じゃ、きょうは帰りの部屋まで歩きね!」まさにスパルタだ。
最初は杖を持ち、杖を支えにせず一歩一歩慎重に歩いた。怖かった。足は片足の力がまだなくてガクンと歩く時股関節が落ちる。
「やっぱむりですよー」
リハビリ兄さんが「いける」「やれる」「やってみや「ほら!」と言って私の杖を取ってしまった。サイさょは私の腰のあたりを軽く支えていた。私は不安ながらに自分なりにガクンガクンしながら歩き出した。
「あ、歩けた…!」
杖もなしに、自分の力で歩けて嬉しかった。
前へ前へ私は止まらなかった。いつのまにかスパルタ兄さんは私の腰を支えていなかった。
リハビリ姉さん
いま、この記事を書いてる私は膝の手術をして入院している。
入院しながら、去年腰の病気で入院していた時の日記を書いているのである。
何度入院したら気が済むのだと言う感じである。
去年の秋、2度目のオペが終わり、やっと、やっとこ痛みが徐々に引いていく日々を過ごしていた。
看護師さん達とも徐々に話せるようになり、目を見て顔を覚えることもできるようになった。
仲間だと認識したのだ。それまでは顔を見ないから誰が誰かわからなかった。まぁ、それでいいと思っていた。そのうち、仕事に一生懸命な看護師さん達を見て、病気を治す手伝いをしてくれる、この人たちは仲間だ、一緒に病気を治そうとしてくれているんだと思えるようになった。そのあたりからいろいろ私も協力的になったし、一人一人の顔も覚えてお話したりなんかもできるようになった。
私は本当に人見知りで、人が苦手だ。特に女の人が苦手だ。男は絶対的に女に優しいが、女はすぐに裏切る。勝手にそういうイメージがあって女の人が苦手だ。
だけど、入院生活が続くと、どんどんいろんな人と仲良くなっていけたのが嬉しかった。
私と仲良くしようとしてくれた1番の人がいる。
リハビリの担当さんだ。お姉さんはリハビリに来るたびにいろんなプライベートな話をして私と仲良くなろうとしてくれた。私はというと、適当に返事して、全く仲良くなんて考えていなかった。話が何度も止まり、沈黙が流れた。ある日お姉さんは言った。「わたし、もう、話題がないです…」
私はハッとした。このお姉さん、私のリハビリのたびに、何を喋るか考えてきていたようなのだ。そして毎回一生懸命に、私と楽しくリハビリができるようにお話をしてくれていたのだ。
それを私はただただ適当に「はぃ」「はぁ」「へぇ」なんて返事しかしてなかった。そりゃ、どんなに話題を考えても話題なくなるわ。
ごめんなさい。素直にそう思いました。それからは私はちゃんと返事するようになりました。そうするとやっぱり人って仲良くなっていくんですね。毎日のリハビリがそれまでよりずっと楽しみになりました。
オペ
その日は朝から騒がしかった。承諾書だかなんだかわからない紙をたくさん書かされ、たくさんいろんな説明を受けた。
オペの時間は確か3時間ぐらいだったかな。
全身麻酔だ。
生まれて初めての全身麻酔。
麻酔の先生も部屋に挨拶に来てくれた。
先生、私、生きて帰ってこれますよね?
聞きたかったが聞かなかった。
腰の痛みから逃れられるならもうなんでもよかった。早くオペして痛みから解放されたかった。だけど、全身麻酔は少し怖かった。失敗する可能性ゼロじゃないけど文句は言いませんよ的な書類にも名前を書いていた。
母親が来て、いざオペ室へ。
こわかった。
だけど、もう、オペするしかない。
私はバタバタする中、覚悟決めて母親にピースサインしてオペ室に入った。
明るい部屋の中に、麻酔の先生がいた。
例のアレを口に被せ、「ゆーっくりかずかぞえてねー」と言われた。
1…
2…
気がついたらベッドが騒がしく動いていた。母親と父親が私をベッドの脇から覗き込んでいた。
「終わったんだ」
そう気づいた。
2回目のオペ
部屋に戻り、また私は痛みに耐えていた。
「手術したら痛みなくなるんじゃないの!?」
泣きそうだった。腰は相変わらず痛いし、痛み止めは効かないし、眠れないし、もう、最悪だった。
腰からはドレーン(管)が出て、いらない血やいらない液体が流れ出る仕組みになっていて、1日何度か看護婦さんがその量を見に来てくれていた。
腰の痛みは相変わらずだった。だんだん良くなる…信じたいがそんなこと全然起こらなかった。
痛い。
とにかく痛い。腰から管が出ているので、寝返りもなかなか打てない。下になっている足のパジャマの皺すら痛くて泣きそうだった。いや、実際何度か泣いた。
なんで良くならないの。。。
1週間後、ドレーンから流れる血の量がおかしいということで血液検査やMRIを撮った。
その結果、またオペをすることがすぐ決まった。
えーーーーまたやるの!?
でも治るならまたやって!!!
相反する気持ちでドキドキしながら私は少し慣れたオペ室への道をベッドで移動した。
その頃の記憶が、実際はあまりない。
痛くて痛くて、あまりいろんなことを覚えていない。だからこそ覚えていることを記録しておこうとブログを書こうと思ったのだが、はっきりと書けないことに今とても悔しい気持ちでいっぱいだ。
オペをまたやり直し、私はまた蘇った。
腰は相変わらず痛かったが、今度は段々と、本当に少しずつだけど、痛みが引いていく感じがあった。
毎回ドレーンをチェックに来る看護婦さんともすこしずつだが話せるようになった。チェックして「大丈夫だね!」なんて声をかけてもらうと嬉しかった。
2回のオペで、腰の膿はほぼなくなったようだった。やっと治っていくんだ…少しだけ安心した生活が始まる。
オペの前にトイレの話。
入院後すぐは、ベッドに横になるしか出来ず、トイレに行けそうにもなかった。
だけど生きていると、尿意は勝手にやってくる。
ナースコールを押して看護師にそれを伝えると
「車椅子押すから! 乗れる?」と飛んできてくれた。
今思うと、最初は足の腫れで入院したのだから、車椅子で運んでくれるだけでもありがたい事だった。でも実は私は腰の痛みの方が酷くて、その後腰の病気が発覚していく。
腰の痛みでベッドに腰掛けることも出来なかったけど、トイレに行きたい時は、人としての尊厳を守るため、ベッドを汚すわけにはいかない!と気合いで車椅子に乗って運んでもらった。
私はその度に全神経を集中させてブルブル震えながらベッドに一瞬腰掛け、車椅子に出来るだけ速く飛び乗る。
何度かそうしていたが、ある時、もう身体の痛みが限界だった。
「ちょっと待ってください……すぐ乗るんで
……」
看護師を待たせ、気合を入れ直していると
「どうする? オムツにする……?」と言われた。
オ……オムツ!!!!!!
考えてもいなかったらビックリした。
まだ48歳で、オムツする選択肢がある事にビックリした。だけどカーテンの向こうのおばぁ達は聞こえる限りみんなオムツをしているようだし、そうか、その選択肢もアリなのか。
「はい、そうします」
情けないとか恥ずかしいとか言ってられなかった。
痛みが酷すぎて、車椅子に乗るのはもうムリだった。
もう、諦める。しょうがない。
だけど同時に「あぁ、もう起き上がらなくていいんだ……」と安堵した。
だけどやはり考えた。
「知らない人たちにお股を見られるんだ……」
「私まだそこまで行ってないはずなのに……」
そこで、ハッとした。
「まだそこまで」……とは一体なんなんだろう?
私は、知らず知らずのうちに、オムツで入院生活を送っている人たちを下に見ている事に気付いた。
私はまだそこまで行ってない。そう思っている事に気付いた。
そう思ってることの方が恥ずべきことだし、それこそ情けないじゃないか。
私は反省して考えた。
「よし、ここはひとつ、皆さんの仲間入りをさせてもらおう。」
人は絶望すると急にポジティブになる事がある。
絶望に耐えられないから脳が考え方を変換するんだ
と思う。人間ってよく出来てる。
何があっても、ブーブー言ってもメソメソしても、何も変わらないのだ。そうなるともう、受け入れるしかないのだ。
子供の頃から考えると2度目のオムツ生活、入ります〜。
私はそう思う事にした。
実際オムツをしてみると、なんだか色々新鮮だった。
まず、赤ちゃんのようにあんなに足が広がらない。あれは、赤ちゃんだから出来ることなのか。
柔軟度の問題と別に、やはり恥ずかしさもあった。私は、オムツ出来るギリギリのラインまでしか股を開けなかった。多分オムツ付ける人、大変だったと思う。
「はーい、腰浮かせて〜」看護師に言われて力を入れようとするが、力が入らない。1ミリも腰を浮かせる事ができず、左右に足を振り、なんとかオムツを履かせてもらう。
それを繰り返していると、看護師もそれに慣れてくる。私も痛みに耐えながらなんとか左右に足を運んでオムツが入る隙間を作れるようになっていった。
だが、おしっこはまだ良かった。
問題は大きい方の時だった。
嫌だなぁ……、そう思いながら、ナースコールを押す。
「すいませーん、オムツ変えてください……」
「はい、わかりました〜」
大きい方のオムツを変える時は、まず、お湯をかける。生ぬるい親の感覚を感じ
「え? そこまで広がったの!?」
と思う事があったり
「あれ? そんなに出てない!?」
という事もあった。感覚がおかしくなっていたのでは?と思う。
看護師が柔らかい紙か何かでお尻を拭いてくれる。
日によってお尻より前の大事な部分を拭いていることもあった。
そういう時は、屈辱的というか、なんだか情けない気持ちにはやっぱりなる。だけどやらないより他はないから、悩んでる時間はない。
私はオムツの処理をしている間、脳みそを空っぽにし、頭を真っ白にして、何事もないかのように深く息をして処置が終わるのを待つ。仏になった気分だった。
そのうちおしっこの回数の多さに、カテーテルを勧められた。尿道に管を入れて外の入れ物に無意識に流れる仕組みのやつだ。
自殺未遂で病院に入院した時、カテーテルを入れられた事が確か人生で2回ある。あの時を思い出した。あの時はカテーテルを勢いよく抜く痛みに「ギャッ!」と声を出した記憶がある。
(ちなみに自殺未遂の患者に看護婦は冷たい。多分、いや絶対そうだと思う。だから水で湿らせてゆっくり抜くことをしないで、乱暴にバッと抜かれた。)
だけど、これで看護師さんを呼ぶ回数が減るならそれでいいか。私はカテーテルを入れる事になった。
「あら」
ある時、オムツを変えてもらおうとしたらオムツの中を見て看護師さんが言った。
「あれなのね〜」「そうなのねー」
看護師さんはいつも2人体制だった。2人が話すのを聞いて私は気がつく。
生理が来ていたのだ。
うわぁ、この処置もしてくれるのか……。
ごめんなさいね……。
これだけはなんだか本当に申し訳ない気持ちになった。
私は生理が重い方である。生理が来るようになってから、30年以上、毎月腰痛と腹痛で毎回前後3日は苦しんでいた。
それが全然痛くない。
痛くないというか、腰が痛すぎて、生理に気づかなかった事に気付いた。
すげぇ。
私の腰の痛み、ここまで来てんだ。
そこでもう一つ気づいた事がある。
数年前からずっと痛い膝。横になってひざがしらが当たる衝撃だけで、朝起き上がれないこともあったし、痛くて眠れないことも、朝起きて固まって動かないこともしょっちゅうあった。
それが、入院してから一度も膝が痛いと感じていない。
私の腰痛の凄さ、分かっていただけるだろうか?
私はそれらに気づいてなんだか可笑しくなってしまった。
どんだけ痛いのよ、腰。レベル違いすぎるわ!
その頃、友達と交わしたラインを今でも覚えている。
「陣痛が7だとしたら今の腰の痛みいくつ?」
「9だね! もう、死ぬ寸前だね!」
陣痛の痛みを超えたのは驚きだった。人生で1番痛いNO1をずっと突っ走り続けていた30歳の時の陣痛の痛み。
それを17年ぶりに更新してしまった。
オムツの話で言えば、男性看護師の話がある。
いつものようにナースコールでオムツを頼むと、男性と女性2人がやってきた。
男性が言う。
「ボク、男だから、席抜けた方がいいよね!」
私は別に構わなかった。男性でも女性でも見られる事に変わりはない。男性だから嫌とか、特にそういう事は私は感じなかった。だけどまぁそう言うなら、とそのまま男性看護師を私は黙って見送った。
数日後ナースコールを押すと、その男性看護師がオムツを変えにやってきた。
(え? 来ないんじゃなかったの?)
そう思ったが、まぁどっちでもいいので黙ってオムツを変えてもらう。
私はまたいつものように、頭を空っぽにし心を静かに保ち仏のように……
「◯◯さん、どこ出身なんですか〜?」
「え?」
「生まれはどこなんですか〜?」
(ヤダ! 何も考えないようにしてる時に、話しかけてきた! 私、いまお股を晒しているのですが分かってます!?)
「あぁ……岩手です……」
仕方なくそう答えると「ボクもです〜!」と看護師さんははしゃいだ。
その後その男性看護師は、オムツを替え終わるまでずっと楽しそうに岩手の話をしていた。
人のお股を拭きながら何を言ってるのですかこの人は。
もしかして、あの人は他の患者さんに、オムツ交換NGと言われた事があるんじゃないだろうか?
男性だからダメなんじゃなくて、そういうところがイヤな人は多いんじゃないかな……。
真相は未だわからないままだ。
面会
母は毎日病室に面会に、病院で必要なものを持ってきてくれていた。
でも、特に何もする事がなくても、母は毎日病室に来てくれた。
私はその時それが当たり前に思っていたが、今思うと、相当ムリさせてしまったなと、後悔している。
父親が来てくれたこともあった。
「リップクリーム持ってきて」
ご飯をそう食べていなかったので栄養も取れず、唇がガサガサになっていたことに気づいたのだ。
父親はリップクリームを買って面会に来てくれた。
その時私の病室には看護師がいて、点滴の入れ替えをしてくれていた。父親がいたのはわかったが、カーテンの向こうで父親はずっと待っていたようだった。
看護師が居なくなり、父親が入ってきてリップクリームを「はい」と渡してくれた。
私は寝たまま、「ありがとう」と言い、父親がソワソワしてるのでどうしたの? と言ったら「お父さん、帰る」と言って出て行った。
面会が15分と決まっていたので、それをすごく気にしていたようだった。真面目な父親なのだ。
その辺から私の中に変化が生まれた。
本名が嫌いな私が何十年ぶりに本名で呼ばれる日々を送っていた。看護師が点滴を何度も持ってきてくれたり、ナースコールに対応してくれてるうちに、病気と戦っているのは私だけじゃないのだと気づきだした。
看護師さん達も、私の痛みをなんとかならないかと先生に報告したら、他の患者と間違わないように注意しながら食事を持ってきてくれたりしていたのだ。
もちろんそれは仕事だからやってくれないと困る。だけど、看護師さん達が一生懸命仕事をする姿を見て、私は徐々に看護師さんと心を通わせるようになって行った。
「明日オペ◯◯時からですねー」
紙を見ながら看護師さんがそう言う。
「今日◯時までしか物食べちゃいけないって。あ! 待って! ほら、書いてる! 飲み物は◯時まではいいみたいよ!」
なんか、そういう、患者に寄り添う看護師さんとは、だんだん喋れるようになっていった。
相変わらず本名を呼ばれるのは苦手だったが、それもなんとなく受け入れる事が少し楽になって行った。
看護師さんは
「絶対良くなるよ」とか「がんばって!」とは絶対に言わなかったけど(そういう決まりがあるのだろう)、それでも病気が良くなることに向けて懸命に仕事してくれていることにだんだん感謝出来るようになっていった。
私は捻くれ者だし、初めての痛みによる怒りで最初は同室のオバァ達に心の中で悪態をついていた。
だけど、それもだんだんと
「あの人にはあの人の人生があって、病気になってツラいのは私だけじゃいんだ」
そう思えるようになっていった。
斜め向かいのポジティブオバァ、「ナースコール呼びましょうか?」って言ってくれたこと、あの時はありがとうって思えるようになっていた。
ちなみにポジティブオバァは、看護婦さんがくるたびに「飴玉ひとつ食べちゃダメかしら?」と聞いていた。看護師さんは毎回「先生が良いって言ったらいいですよ」と言っていたが、オバァは看護師さんがくるたびに同じ質問を繰り返していた。
「わたし糖尿病じゃないし、食事にも甘いもの何もないんだもの。飴玉ひとつぐらいいいじゃないのぉ〜?」あまりに必死なのでわたしもそのうち「頼む。飴玉ひとつぐらい許可してやってほしい」と思うほどになっていた。
横の統合失調症オバァの延々と喋る演説も良いBGMにきこえるようになっていた。たまにカーテン越しに「そうですねぇ〜」と言うと「そうなんですー」とお返事が返ってきたりしてた。
向かいの偏屈オバァは、イヤホンつけずにテレビを見たり看護師に悪態ついたりやりたい放題だったが、認知症入ってるようで夜になると自分が退院できるのか不安でたまらないようで看護師さんに「明日息子来るの?」「嫁は来るの?」と何度も確認していた。
テレビの爆音はナースコールで何度もチクっていたが、夜の寂しそうな声を聞くと、なんだか大変だなぁ。なんて思うようになっていった。
腰の痛みに対する対応を少しずつ覚えながら、私は自分の中の何かが変わっていくのを感じていた。
入院部屋が決まる。
腰が痛すぎて救急車を呼んだのだが、右足の腫れのほうが重要だったようで、それが原因でなんとか入院出来た。
色んなところをベッドは移動し、とある場所でベッドは落ち着いた。そこがこれから過ごす病室みたいだった。
たぶん抗生剤と痛み止めを点滴し、私はベッドに横になっていた。
母が私を気遣って何か言ってくれているが、痛みを耐える事でそれどころじゃなかった。
多分、適当に返事していたと思う。
(甘ったれですいません。娘より。)
ある時、そこが4人部屋だと分かる。
先生や看護師が変わる変わる来てはみんなのところを回って患者に声をかけお話ししてる。
向かいの人は大腿骨を骨折した偏屈ババァのようだった。
右側の人が何で入院か分からない統合失調症のババァ。
斜め向かいが、謎のポジティブババァ。
私はみんなのことを心の中でババァと呼んでいた。
別に仲良くなる必要無いし、聞こえる話からするにみんなずっと年上のようだったし今後話すこともないだろう。
ベッドの脇に、私の名前が書いてあった。ここで数日間過ごすのだきっと。
本名で過ごす時、私は知らない人が苦手だ。
誰も信用しない。誰の目も見れない。
本名で呼ばれる時は、私は人に決して心を開かない。
本名で生きていた20年を私は「地獄」と呼んでいる。
親も姉妹もよく出来た素晴らしい人達だった。私はそれにいつも追いつけなかった。頑張っても頑張っても「普通」に出来なかった。だけどそれを怒られたわけではない。いつも、全てを受け入れてもらっていた。
それでも私は勝手に、みんなに比べられてると被害妄想し、劣等感を持って生きてきたのだった。
入院は久々に本名で過ごす日々の始まりだった。
名前を聞くだけで萎縮する。名前を聞くたびに辛い気持ちになる。イヤな思い出がフラッシュバックする。
どんなに看護師が身の回りのことを世話してくれても、適当に返事をして顔も見なかった。
「なにかあったらー! ナースコール押してねー!」
大声で看護師が言う。声が大きいなと思ったけど、それもどうでもよかった。今思うに、お年を召し、耳が遠い人が多いから看護師はみんな大きな声だったんだと思う。
最初は、右足の異様な腫れが入院理由だった。肌が赤くなり、皮膚が割れてカサカサになっていた。少し熱い感じはしたが、それ以外何もなかった。
痛み止めを点滴し、一時的に腰の痛みが和らぐ。和らぐと言っても、声が出ないぐらいの痛みなだけで、それでもずっと腰は重く痛みは耐え難かった。
そのうち痛み止めが切れて、また気が遠くなりそうな痛みが押し寄せる。死にたいぐらい痛い。けど、死ぬことができないぐらい痛い。気を失いたいと思う。けど痛みで気も失えない。
もう、朦朧とするから眠りたかった。だけど痛みで眠れない。
なんなんだ一体。私の腰には今何が起きているのか。そして右足の腫れはなんなのだ?
その後いろいろな検査を受けた。
私は腰が痛すぎるから足より腰の痛みを取って欲しいと訴えていた。
看護師さんは最初、私の足ばかり気にかけてくれた。私は(腰が痛いのにな)と思っていた。
入院理由が右足の腫れだったので右足を中心に色々としてもらった。
だけどやっぱりそっちじゃない。痛いのは、腰だ。
そのうちCTやMRIを受けたのだと思う。
ベッドのまま行ったり来たりしていろんな検査を受けた気がする。
ある時、部屋に先生らしき男の人が来て、「聞いてくださいね」とMRIの写真を見せてきた。私は首だけ動かして話を聞いた。
「ここに影があるでしょう? これ、膿か血の塊です。これが腰の痛みの原因です。」
「血なら問題はありません。でも膿なら出さなきゃいけないです。手術です。」
「これがどちらなのかは、開けてみないと分かりません。」
えええ。やっぱりギックリ腰じゃなかったんだ。
痛いと思ったよ。でも膿ってなんだよ……。どっから来たんだよ……。膿じゃ無いよね……? 血の塊だよね…??
「手術しますか?」の言葉が終わる前に「します!」と叫んでいた。藁にもすがる思い。一刻も早く、痛みから解放されたかった。
先生は用事が済んだらすぐに出て行った。
私はまた1人になり考えた。
痛みが消えるならなんでもいい、何でもしてくれ……お願い……
てゆうか膿だったらどうなるの? わたしどうなるの?
痛いの続くの? もうこんなに痛いのに??
カーテンで仕切られた部屋の中で、じっと痛みに耐えていた。耐えられなくなったらナースコールを押してそれを訴える。
でも痛み止めの点滴はそんな劇的に効くものでも無かったし、それなのに使うには数時間空けないといけないと言われた。なんとか、点滴と飲み薬を交互に出してもらい気を紛らす。
時間を待つ時私は横になった姿勢のまま動かない。そのうちまた痛みが増し、ナースコールを押して訴える。
「あと1時間半、待てる? まだ点滴出来ないのよ。」
いいから点滴しろ! オメーらが何かあったらナースコールしろって言ったんだろうが!
痛いんだ、メチャクチャに痛いんだ、ゲロ吐きそうなんだ、死にたいぐらい痛いんだ、分かる!?
分からないよね、私じゃないもんね、痛くないもんね、いいね看護師は簡単にそう言えて!!
心の中でそう叫んで、痛みをどうにかマシにしようと体を動かそうとするのだが、痛みが増すだけでそれは何の意味もなかった。
そして諦める。どんなに痛くても時間を待つしか無いのだ。痛みを耐えるために、どうにか寝ながらスマホを動かしてツイートをした。
ツイートしてない時は脂汗を垂らしながら唸っていた。
カーテンの向こうに人の気配がする。存在を知られたく無いため静かにしたいが、痛みで声が出てしまう。
「うぅ……うぅ……」
斜め向かいのポジティブババァが
「あら……大丈夫ー? 誰か呼びましょうかー?」
シカトした。
(うるせー! 大丈夫じゃ無いから唸ってるんだ、黙れクソババァ! 呼んだって点滴してくれないし何も出来ないんだよ! お前だって何も出来ないクセに! 黙れ黙れ黙れ!!うるせーうるせー黙れ黙れ黙れ!!)
私は心の中で怒りのすべてをババァに向けていた。
だけど痛みは消えなかった。時計をずっとみながら1時間半をただ唸りながら待つ。1分が1時間に感じた。時計が進まない。時間が止まってるのかと思うほど。
痛くて痛くて気が狂いそうだった。
そして、なにもかもに腹が立つ。
時間になるとご飯が運ばれてくる。
配膳間違いがないように
「自分の名前を言ってください」と言われる。
またも本名問題。
それでもそこで揉めるのも面倒なので私は観念し、心を真っ白にして口先だけで記号のように名前を言う。
ただの屈辱。
1日3度はその時間が来る。朝6時、昼12時、夜18時。
その度に私は記号を唱える。そうすれば看護師は配膳を終え出て行ってくれる。
ベッドに座ることもできなかったので、ご飯はベッドの上に置いてもらい、横になったままスプーンでなんとか口に運ぶ。味がしない。糖尿病食だから塩分控えめなのだ。
それだけが1日の中の唯一の変化なのに、全く味がしない食事を、基本的に半分以上、時にはほとんど残した。ただでさえ量が少ないのに、腰の痛みで、お腹が空く事はなかった。
効いてるか効いてないか分からない点滴を打ち、終わったら次の点滴を待つだけの日々。
痛みから逃れたい一心でXに、ババァ達のことをポストしまくった。
だけど一応プロレスラーとして嫌われたくはないから、愚痴や本音は何も言えなかった。
それでもそれだけが救いだった。
救急車
右足の腫れが酷くなってもらっていた薬がなくなり、私は腰痛で動けなくなっていたので母に代わりに病院に行ってもらった。
薬を持ってきたは母に「病院に行った方がいい」と言われた。
あとで分かったのだが、実は病院で医師に「ほっとくと命にかかわりますよ!」と言われたようだ。
焦った母は私にそのことは伝えず「病院に行こう?」と言ってきた。
だけど私は腰が痛くて病院にいくことも出来ないし、母がこの巨大を担いで行くこともムリだった。
そうこうしてると母親が「救急車呼ぶ?」と言ってくれた。
「この痛みなら…ゼェゼェ…救急車呼んでも…ゼェゼェ…怒られないよね…?」
救急車を呼ぶ敷居は高い。こんな事で呼ばないでくださいなんて言う話はよくネットの記事でよく見たことがあった。
過去に、ODで意識不明になり救急車を呼ばれたことは何度かあった。
(その節はすみませんでした…お世話になりました…。)
でも自分で呼ぶのは生まれて初めてのこと。
母親と話して、やはり救急車を呼ぶ事で意見は一致した。
さて、救急車を呼ぶことになったが、初めての自力救急車要請に緊張が走る。
私は普段、電話は緊張するのでほとんどしない。
「LINEで済まないものか。」
日頃LINEでなんでもかんでも済ませる私は一瞬そう思ったが、すぐに痛みが痛みでもうなんでもよくなった。
無事救急車を呼び、来るのを待つ。
どれぐらいで救急車が着いたのか全く覚えていない。長かったような短かったような気がする。
それほどの痛みをずっと耐えていた。
救急車が到着し、母親が玄関を開けた。
「動けますかー?」と救急隊員が言う。
私はいろいろ考えた挙句、なんとか自力で階段を降りたはずだがそこの記憶がすっぽり抜けている。多分、痛みで頭が記憶を消去したのだと思う。
ストレッチャーに乗る時のことは覚えている。痛くて横になれない。けど立っているのもツラい。
こんなに痛いのに、そこに寝なきゃいけない。
「救急車まで歩けますか?」
「歩けません…!!」
そんなとき人間はどうするか。
馬鹿力が出るのである。
「うおーーっ!!」声を出して一瞬で素早く横になる。
ゼェゼェしながら、そして思ったより小さいストレッチャーから落ちないように、身体に変な力を入れながら移動開始。
少しの段差で腰に激しい痛みが走る。こんなに痛いのにさらに痛いなんてマジでどうかしてる。この痛みに限界はあるのか。痛みが限界を越え続ける。
もうパニックである。
救急車に乗る瞬間にまた更なる痛みが待っていた。
「イヤ! 怖い!」
だけどそれを断るわけにもいかない。もうされるがままに乗るしかなかった。
「ガシャン!」
(ぬおおおーーー!!!いてぇえええ!!!)
実際は多分声に出ていたと思う。
中に入ったら少し、ほんの一瞬考えた。
初めての記憶のある救急車乗車。
中はどうなっているのか、何が設置されているのか、ちゃんと見ておこう。あとで文章にしたい! 痛いながらも、まだ命に関わる病気と分かっていない私には少し余裕があったのだと思う。
私は目だけを動かし救急車の中を色々見た。
…つもりだった。
けれど、その何もかもを、今は思い出せない。
痛すぎてそれどころじゃなかったし、色々見たはずのことは全てぼやけてしか思い出されない。
なんとなく緑の何かが二つ壁に付いていた。記憶にあるのはそれぐらいだ。
母親が一緒に乗車したようなしてないような? その記憶すらその時は無い。
痛みを耐え続ける中、耳だけが救急隊員の声を拾っていた。
「◯◯病院、◯◯です!」
「◯◯病院、◯◯です!」
なにやら業界用語を使っているのだが、病院に断られたことだけは分かる。
「救急車なのにぃ…救急なのにぃ…!!」
痛みに朦朧とする中そう思った。
そこでやっと「救急車乗るレベルだったのか問題」の迷いが吹っ切れた。
(私は救急患者です! どこか病院様、なんでもするので入れてください! 本当にマジで! 痛いんですぅ!!)
三件目の病院への電話の時、母親が言った。(あ、オカン居たんだ….とそこで気づいた)
「その病院、前にコロナになった時入院されてもらったところなんです。なんとかなりませんか??」
(オカン…ありがとう…けど、そんな人情話、通用しますか…?)
その話が功を奏したわけでは全然なかったが、結局私たちはその病院に行くことになった。
あああきっとこれで痛みが取れる…!!!
少しだけ安心して記憶が飛ぶ。
そこから少しの間、記憶がない。
多分いろいろ検査をして入院が決まり、部屋に通された。天井を見ながらまだ私は唸っていた。
昼も夜もなく、ライトがずーっと付いていたことだけ覚えている。今だから思うけど、あれは、救急患者用の部屋だったのではないだろうか?
多分痛み止めを点滴をされ、半日なのか一日なのか分からないがそこで過ごした。だけど痛みが消えたわけではなかった。ずっと痛かった。痛くて首を動かすことも出来ず、眠ることもできず、私は朦朧としていた。
ベッドを何度か移動して部屋を変えながら、最終的にはベッドは落ち着いた。
母親がいる。優しく何か言っていたが覚えていない。(覚えていないばかりですみません)
病名発覚。
「右下腿蜂窩織炎」で入院したことが分かった。
これは右足膝下がパンパンに腫れてたやつの正体で、皮膚の下に菌が入って腫れた状態のことのようです。
「腰椎部硬膜外膿瘍」
これが腰の痛みの正体でした。
腰の骨の隙間に膿が溜まる病気。
菌がどこから来たのかは不明。
「右下腿蜂窩織炎」で入院。
その後、「腰椎部硬膜外膿瘍」も併発していると判明。という感じです。
その二つの病気に突然なったのは、精神病薬を勝手に半分に減らして飲んだのが原因なんだと思う。
5日間吐き続け、体の抵抗力が落ちていたところに菌が入ったようで。なんとも情けない……。
腰の痛みに耐えながら病名をXにポストすると、KAZUMA先輩が「俺もそれ、なったことあるよ」とリプをくれた。腰の痛みの方だ。
すぐにLINEしていろんな情報をもらった。
保険のことや痛み止めのこと。
点滴と、飲み薬と、最終手段は坐薬。
うまくローテーションを組めれば、楽になる、とアドバイスもらった。
「最終的には健康だよね」
「悟りましたね」
そんな話をしました。
同じ病気で同じ痛みを乗り越えた人がいてものすごく励みになった。KAZUMAさんみたいに最後は治るんだ。そう思えた。
けど私は、オペしないといけなくなった。
先輩……抗生剤で治るって言ってたじゃないですかぁ〜。
オペが決まってから、看護師が何度も何度もいろんな書類を持って病室へ来る。麻酔関係の同意書やオペの同意書。
私はそれらをチラッとしか読まずにサインをする。
チラッとしか読まなかったのは、腰が痛すぎてそれどころじゃなかったし、オペするんだったらサインしなきゃいけない。もう、いい。なんでもいい。オペしてくれ。
その気持ちだけでサインを書き続けた。
私がふてくされて同室の患者の悪口ともとれるポストを書いてることに、妹があるとき気づいた。
妹から「ババァはちょっとアレじゃない? 一応さ、人前に出る仕事してるんだしイメージ悪いかもよ」
と、言葉を選んだラインをくれた。
面白おかしく書いてるつもりだったが、ババァという書き方が悪かったのかも……。
「おばぁちゃんは長いから、これからはオバァにするね」「うん、いいんじゃない?」
それから後、私は一度もババァと書いていない。
みんなのことはその時からオジィとオバァだ。
腰の痛みは背中まで達していたが、腕だけは動いたので、気を紛らす為にずーっとスマホを握っていたし、ポストし続けた。
何もする事がなくても、スマホはほとんど手に握っていた。まるで子供がお気に入りの毛布を持って安心するように、私はスマホだけを頼りにしてオペまでの数日を過ごした。