発病
2024年9月21日。
私の48歳目の誕生日。
その直前にわたしは勝手に精神薬を半分に減らし体調をメチャクチャ崩してしまった。
固形物はおろか、水分を取ることも口の中を湿らす程度にしか出来なくなっていた。
しかし、誕生日の一日店長を、新宿2丁目とゴールデン街でやることになっていた。
誕生日1週間前に二丁目。誕生日当日はゴールデン街と、その時は欲張ってしまった。
お客さんにもたくさん営業してたので急に中止するなんて選択肢はなかった。どうにか二日間頑張ろうとその時は思っていた。
誕生日1週間前、なんとかその1軒目の2丁目のバーに出勤。お酒を恐る恐る飲んでみたら意外に飲めた。
「これはイケる!」
意外だった。水は飲めないけどお酒はいけた。何故だろう?今でも分からない。
数時間お客さんと話し楽しく飲んでいた。たくさんの人が来てくれて嬉しかった。お寿司の差し入れもいただき本当にありがたかった。
数時間後、腰痛に気づいた。
なんか痛いな…そう思いながら、慣れない丸椅子に座ってたから痛めたのかな? そう思い、朝まで頑張ったが、段々エレベーターまでお見送りが出来ないぐらい痛みは強くなっていた。だが、ちょうど時間も終わりの時間が近かったので、終わりまでは頑張ろう! そう思ってなんとかヨボヨボながら頑張った。
終わる頃にはもう痛くて痛くてもう限界だった。駅までの10数メートルが歩ける気がしなかったのでタクシーで1万かけて家に帰った。タクシーの中では、座っているのもツラいほどの痛みになっていた。私は「ぎっくり腰だな」と思った。
家に帰る頃にはもう限界も限界を超えていた。
なんとか横になり動けなくなった。
寝返りも打てず、倒れたままの姿勢でゼェゼェ息をしていた。それでもずっと痛かった。
「これは酷いぎっくり腰に違いない」
ぎっくり腰になったことのない私はそう思った。
しかし、誕生日当日はゴールデン街で一日店長である。
お客さんもたくさん呼んだし、差し入れ何が良いかの話も進めていた。
しかし腰が限界だった。前日夜まで粘ったが無理と判断、泣く泣くイベントを断ることにした。
急にイベント中止になり、お客さんへの連絡に追われたが何しろ腰が痛い。痛くて痛くて泣けるほどだった。そんな中、お客さん個別に中止のお断りを入れる。店は「お大事に!」と言ってくれて助かった。
ちなみに、いつも足のむくみが酷い私なのだが、数日前に右足だけが赤くなり異様に腫れていたことがあった。
「なんだろな?」これは痛みがなく「まぁ浮腫んでるだけだろう」とその時は思っていた。
病院に行くと飲み薬をもらったので飲んでいたが、その後も症状は変わらなかった。その薬がなくなり、病院に行きたかったが、腰が痛くて動けない。母にお願いして代わりに病院に行ってもらい、薬をもらってきてもらうことにした。
そのまま2日ぐらい過ごしたがもう痛みが限界だった。泣きそうになりながら先輩に電話。先輩に車を出してもらい、整体へ運んでもらう。
しかし施術ができないぐらい痛くて動けない。横になるのもツラくいし座ってるのもツラい。終わってもツラい。痛さは何も変わらずだった。帰りに先生が杖を貸してくれた。
人生初の杖。痛みが酷すぎて藁にもすがる思いだった。
行った整体の先生の勧めで、そのまま整形外科に行くことになった。そこまで先輩に送ってもらい、診察を受けようと思ったら待合室がメチャクチャ混んでいる。座る場所などなく「もう終わった」と思った。
痛すぎて脂汗が出てくるし、息もゼェゼェしてて体が小刻みに震え、「うぅ〜…うぅ〜…」とずっと唸っていた。
待合室はいっぱいだったが、私の様子を見て目の前のおばさんが席を譲ってくれて私はようやく座ることができた。おばさんありがとうございました。でも、座ってもずっと息が切れ、唸っていた。ちゃんとありがとうもいえなかった気がする。ごめんなさい。
レントゲンを撮るのも一苦労した。待合室からレントゲン室に歩くのもヨボヨボでちょっとずつしか動けない。先生にもたれかかりながらなんとかレントゲン室に入り、硬いレントゲン台の上に寝る。それも数分かかる。先生がイライラしているのが分かる。でもそんな事どうでもいい。痛いんだこっちは。
痛くて痛くて、泣きそうだった。ぎっくり腰ってこんな痛いの!? なったことがないから本当のところは分からない。
なんとかレントゲンを終え、診察を待ちながら、試合直前にぎっくり腰になって控え室で動けないでいた先輩のことを思い出した。
「こんなにツラかったんだ…」先輩、みんなでゲラゲラ笑ってごめんなさい。
診察室で先生に「ブロック注射打ってください」とお願いしてみた。整体の先生にそう勧められていたのだ。
「持病ある?」
「糖尿です」
「じゃあムリ」
チーン。
出ました、またも糖尿病の弊害。
実は数ヶ月前、膝のPRP治療という注射を整形外科でお願いしたところだった。そこでも言われた言葉。
「A1cの値が正常じゃないとその治療は出来ません。」
A1cとは、数ヶ月の平均の血糖値のことである。
当時私はその値が8.8あった。普段から血糖値が高いという事である。平均値は4.6〜6.2。そこまで落ちないとその治療もできないということで、食事を変えたりしてみていたが、なかなかその数値を落とせずにいた。
A1cが正常値でないと、感染症の可能性があるとのことだった。だから注射治療が出来ないと。
ブロック注射を糖尿病のせいで断られ、言われるままにコルセットを買う。
元々腰が強くないのでコルセット何個か持っていたので本当は要らなかったのだが、「もしかして病院のコルセットは違うのかも…!」期待というか、もうなんでもいいから助けてくださいと思って買ってようやく自宅へ帰った。
それと、いつも足のむくみが酷い私なのだが、数日前に右足だけが赤くなり異様に腫れていたことがあった。
「なんだろな?」これは痛みがなく「まぁ浮腫んでるだけだろう」とその時は思っていた。
病院に行き、飲み薬をもらったので飲んでいたが、その後も症状は変わらなかった。その薬がなくなり、病院に行きたかったが、腰が痛くて動けない。母にお願いして代わりに病院に行ってもらい、薬をもらってきてもらうことにした。
次回救急車のお話です。
読んでくれてありがとうございました。
発病、入院、の前の話。
元々、鬱と不眠症がきっかけで20代から精神科の服薬治療を続けていた私。薬の量は年々増え、3〜4回に分けないと飲み込めない量を、もう何十年も飲んでいる。
私は他人も医者もずーっと信じていなかった為、20〜30代前半は、ネット(主に2ちゃんねる)で評判のいい欲しい薬を探し出し、先生を誘導して欲しい薬を出してもらうことを続けていた。15年ほどそうだったと思う。今思うと合わない薬を乱暴に飲み続けたのが原因で鬱はどんどん酷くなっていった。
そんなことをずっと続けていた為、本当の病名がわからず、いろんな病気と診断され続けていた。
最初はセックス依存症、そのうち境界性人格障害、鬱。
そのどれもが本当でどれもが100%本当じゃ無い感じがしていた。
欲しい薬も、その時のネットの書き込みを見て先生にウソの症状を言うから、どんどん変わる。先生が薬を減らそうとしたら転院。また同じことを繰り返す。
アッパー感を感じるもの(もう今はただの鬱では処方されないやつ)や、昏睡じゃねーかみたいな爆睡できる薬(生産終了したやつ)をたくさん飲んで、そしてたくさん家に溜め込んでいた。
30代中旬、そういうやり方についに疲れた。
鬱がまたひどくなり、引越しを機に受診した医者に全てを任せた。そしてついた病名が「統合失調症」だった。
統合失調症の特徴は、幻覚、幻聴、誰かに追われている、常に誰かに見られている感覚など。
遠くの人が私の悪口を言ってるのが聞こえたり、家中に隠しカメラを設置されてる感じは確かに若い時からずっとあった。
それを薬で抑え付け、そのうち鬱は抑えられ、日常生活が送れるようになっていった。
「なるほど。あの声は、あの影は、病気のせいだったのか……。」
そして、統合失調症という病気は生まれつきの脳のバグで、治るものじゃ無いということも分かった。
薬で抑える生活を続けていたが、精神科の薬は太りやすいとよく言われる。副作用にも体重増加と書かれているものが多い。
私はそれがずっと気になっていた。60キロ前後だった20代の頃から気になっていたのだが、30代になり出産を機に10キロ増え、痩せにくくなっていたのに無理なダイエットをしてはリバウンドを繰り返していた。
薬をやめたい。けど、やめたらまた世界は何が本当かわからなくなる。幻覚はお化けだとずっと思っていたのだが、薬で抑えられていた。薬は効いてる。だけど太りたく無い。
だけどプロレスの方では、太っていくたびに試合が楽しくなっていった。60kgではどうしても男と対等に戦えない。私の憧れていたヘビー級の試合が出来ない。
そのうち太り出したのだが、試合だけは楽しくなっていった。100キロを超えて男子とのシングルマッチを重ねてある時、完全に分かった。
「あぁ、わたし、太れば良かったのか。」
だけど裏では葛藤していた。試合は楽しい。薬も効いている。でも薬を減らしたい。酒も飲むし薬の量も尋常じゃない。肝臓も悪くなっているだろうと思われた。
「痩せれば可愛いのに」「昔は可愛かったのに」
太ってからすごく言われた。でも100キロを超えてからは何言われても平気だった。
「でもプロレスが楽しいの!メチャクチャ楽しいの!プロレスやめるまでは100キロで行くって決めてます!」そう言ってた。それは本当だった。10年続けてやっと見つけた、納得の出来る男子との闘い方だったから。
だけどそうしているうちに、ある日突然、膝が壊れた。
寝ていても歩いていても試合してても痛い。まともに歩けない。曲げられない。しゃがめない。そんなんだから、100%の力で試合できない。
整形外科でレントゲンを撮り、医者には「変形性膝関節症です。」と言われた。
「70代の膝ですね」「治りません」「進行するだけです」先生は淡々とそう言った。
膝のためにはまず体重を落とさなきゃいけない。けど100キロで理想の試合がしたい。だけどこのままじゃ動けない。
すんごい葛藤していた。でも試合は入るからなんとか試合をこなす。うまくできなかった現実逃避で酒を浴びるように飲み、お金がなくなったら家に帰り眠剤の力で無理やり寝る。それを、なんと数年も続けてしまっていた。
痩せる機会も無ければ痩せれる自信も無かった。痩せたく無い気持ちもあり、痩せる決断も出来ずにいた。
そうしているうちに、今飲んでる精神薬が痩せる邪魔をしているんじゃないか? そして、「今飲んでる薬を減らしたい」またそう思うようになった。
その頃、通っていた精神科が、遠くへ移転し、私は最寄駅の内科に通うことになった。血圧が高く、毎晩信じられないぐらいの足のむくみが気になっていたが、時には2日間も飲み続けているからそういうもんなのかも。なんてずっとほったらかしにしていた。
血液検査の結果、確か「血圧の薬出すね」と言われた。
それが糖尿の薬だってよく分かっていなかった。
「先生、精神科の薬がもう無いの」
「じゃ、それも出しとくね」
内科には1ヶ月に一度、痛い膝を抱えて通った。
毎回血液検査をし、数値の説明を受ける。そして段々と
「あぁ、わたし糖尿病なんだ……」と分かる。
血圧の薬はいいとして、精神科の薬を減らそうとある日担当医に相談してみた。
「うちは精神科じゃ無いから、減薬とかできないのよ。変えるなら新しく病院探して下さい。」
新しい精神科を探そうと思ったが、なかなか評判の良さそうで通える距離の精神科が見つからなく、知らない病院に電話するのも怖くて出来ず、そうこうしているうちにまた時間だけが過ぎていく。
膝が痛い。糖尿もある。
痩せたい。精神薬を減らしたい。でも精神科に通ってないから減らせない。
もう、自分で減らすしか無いと思った。
でも、精神科の薬の減薬は自分ではしないでというのは昔からよく言われていたことだった。
「出された分は必ず飲んでください。医者と相談の上、徐々に減らさないと逆にうつがひどくなったりして危ないですから」大抵の医者に言われていたことだった。
それはよく分かっていた。でもそれが実際どうなるかはやったことが今までなくて分からなかった。
だけど、気合いでどうにかなる気がした。
「精神薬なんて気の持ちようなんじゃないか?」
その時はそう思った。
2024年9月、わたしはそれをついに実行に移す。
もらっていた8種類の精神薬、すべて2錠ずつ処方されていたのを半分の一錠にして飲んだ。
眠剤も飲んで布団に入る。眠気がやってきてわたしはそのまま眠った。
数時間たった夜中に吐き気で起きた。すぐにトイレに行って吐いたが、薬はもう消化されていたようで何も出なかった。よだれを垂らし、トイレに篭った。今までに無い吐き気だった。
吐き気がおさまらないままフラフラで布団に戻り横になる。体が重くてとにかく怠い。そして気持ち悪い。やはりすぐに吐き気がやってきて、壁を伝いながらトイレにまた向かった。
それを何度も何度も繰り返した。トイレの前にしゃがめば楽なのだが、膝が悪くてしゃがめない。変な体制でずっとゲーゲー胃液を吐いては布団に戻るを繰り返した。
精神的にも耐え難い苦痛があった。頭がぐるぐるし、もう勘弁してと思うほどの吐き気と気持ちの悪さ。わたしは横になったまま最終的には動けなくなった。
何時間経ってもそれは治らなかった。頭がモヤモヤしてグルグルする。気持ち悪い。それに耐えられなくて死にたくなるが、とてもじゃないが死ぬ元気が無い。
ただただ寝室とトイレを往復した。そんな状態だから当然お腹も空かない。気持ちが悪すぎて食べる気もしない。
「これ、このまま死ぬわ」
そうとしか考えられず数日のたうちまわった。椅子に座ることもできず寝ては吐いての繰り返しで数日を過ごした。気持ちもかなり沈み、頭が回らず死ぬ気も起きず、だけどこのまま食べずに布団に居たらいつか死んでくれよってなんとなく思いながら苦しんだ。
「先生が言っていたことはこういうことだったんだ……。」
3日目ぐらいにようやくそう思えた。自分で減薬する苦しさをマジで心底思い知らされた。
ご飯も食べずろくに寝ず、体が弱りきっていた。5日で多分5キロぐらい減ったんじゃないだろうか。だけどこんな痩せ方病的だし全然「嬉しい」などの感情が一切湧かなかった。頭はもうズーンと低空飛行。立ちくらみなども加わり、ご飯も食べれず、もう最悪の状態だった。
そして気がつくと、9月21日の誕生日が近づいていた。
入院してました。
ブログをまた書こうと思ったのは、去年末病院に入院したことがきっかけでした。
毎日いろんなことが起こり、初めての体験を沢山し、これはまとめておこうと思ったのが理由です。
Twitterでは日々の記録をしていたのですが、やはり文字数の関係、Twitterの性質上、思ったことが全部は書けなかったので、改めてこの「書きなぐり。」を更新することにしました。
で、Ameba blogを開いて自分の書いてた記事を読んでみました。
…病んでますね。これは末期です。
もう死んでてもおかしくない。
でも死ななかった。
病院入院して初めて実感しました。
やっぱり私は生きたいみたい。
こんなことに気づかなかったなんて、やっぱ私どうかしてた。
9月終わりから入院したんだけど、そこで沢山のことを経験して考えて実行して2ヶ月ちょい。やっと12月頭に退院。
病気のことは次のブログに書くけど、退院した時右足に麻痺が残り、いまは杖をつく生活をしてる。
でも今、めちゃくちゃ前向きでやる気があって楽しく健やかに過ごしてます!!
人生初かもしれないぐらいの気持ち。私は病気しなきゃ一生気付かなかったかもしれない、バカだから。
病気になってわかったことが沢山あって、早く書きたくてたまんない。でも長くなるから今回はここまで!
ではこれから、よろしくお願いしますぞ。
コロナとちゃんよたのデビュー戦
先日試合した後輩から
「コロナ陽性になりました、バンビさんは濃厚接触者になるそうです」とラインがきた。
私はその日、新宿FACEで午後試合が組まれていた。
でも体調も悪くないし大丈夫だろうと思った。
鞄の準備をしていると、大会主催者から電話がきた。
「まだ話し合いの段階ですがもしかしたら欠場してもらうかもしれませんすみません」
それぐらいの大変なことなの?って呑気に思った。
その日の試合は、ずっと一緒に練習してきた女子のデビュー戦だった。
私はその子と組むことになっていた。
初めての試合、シングルマッチよりタッグマッチの方が気分が楽だと思うし
それまでそう言われてきたんだからやっぱりタッグマッチでやりたかったに違いないんだけど、私がもしもコロナ陽性で、会場に行って誰かに移したりしたら大変なことになる。
コレは欠場しかないのかな。
あの子は大丈夫かな。。。
結局私は試合を欠場することになった。
元気なのに欠場。悔しかった。
Twitterでその大会のツイート見るたびに悔しかった。
その次の日、なんとなく体調が優れなかった。
関節の痛み、頭痛、風邪のひき始めって感じだった。
病院でspcr検査を受けて帰宅。
夜に向け、熱がどんどん出てきた。
身体中が痛い。吐き気もする。
コレはコロナではないか。はっきり言ってコロナなのではないか!
デビュー戦の女子は大健闘したらしく、Twitterが賑わっていた。
大会主催者から試合の映像アドレスを送ってもらい、家で見た。
ちゃんよたというその子は、本当に頑張っていた。
デビュー前の練習の時点で誰よりも練習を頑張っていたし、練習の予定のない日は相手を探し体育館の武道場で練習していたみたいだった。道場を持たない団体も増えているが、まさに道場が無い状態でも、ここまで練習できるんだってこと、示したと思う。
練習は裏切らないってよくいうけど、コレはまさにそういうことなんだろうなって思った。
病院からは次の次の日に連絡があった。「陽性ですね」
やはり。この体調の悪さ、感じたことのない感じ、コロナじゃなかったらなんなんだって感じだったから、ものすごく納得した。
一度は自宅療養のはずが、重症化の可能性があるってことで入院することになった。
最初は、病院の隣の人の気配とか少しの音が私はものすごいストレスに感じてしまうので入院嫌だな、コレぐらいの具合の悪さだったら家でもいいし…。と思ってた。
でも、姉から電話があり、優しく説得された。
「家族もみんな心配なんだよ。急に悪くなったら怖いよ。入院しよ?」
「うん、わかった」完全に家族のためだけに入院を決めた。
病院は暇だろうからと、単行本を五冊持っていった。
入院手続きやらなんやら紙に書いて、システムを教えてもらって、パジャマに着替えてすぐ点滴。私の腕、針刺さんなくて5〜6回はり刺すの失敗した。
でも怒りません、脂肪が多くて刺さらないんだろうと思ったから。
時間型立つごとに、私の具合が悪くなっていった。いつもは滅多に出ない熱がだんだん出てきた。頭痛もひどくなって横になったり起きたりを繰り返した。
途中からはもう起きてられなくてずっと横になってアイスノンを顔の上に置いて顔面冷やし続けた。
「身体大丈夫?」「何かあったら言ってね」たくさんのラインがいろんな人からずっと送られてきていた。朦朧とする意識の中、できる限り返信をしたのだが、もう、誰に何も送っているのかわからなくなってた。
そんな時先生が来て「カクテル療法しましょう」「そうすればすぐ良くなりますよ」
先生に言われ、「治るならなんでもいいです早くやってください…!」とお願いした。
熱と頭痛でしんどくて、何をやるのかもよくわからないまま承諾した。
カクテル療法ってのは点滴で薬を体に入れるみたいだった。
何度も点滴の液を変え、私は頭痛と熱でグラングランになってた。
どれぐらい唸ったか分からないけど多分二日後ぐらいに先生がやってきた。
「もう退院できますよ♪」
結局持っていった本は一冊も読めなかった。
雨の中、病院の玄関で保健所の車を待った。
ずーっと頭が痛かった。
運転席と後ろの席にぴったりした仕切りがある車に乗り込み、家まで送ってもらった。
あぁ。退院したんだ。。。
頭はずっと痛かった。薬を飲んでも寝ても起きてもマッサージしてもツボ押しても頭は痛かった。
そして二日後ぐらいの夜7時ごろ、薬を飲んだらフッと頭が軽くなった。
ついに頭痛が、止まったのだ。
そこからはとんとん拍子で体調が良くなっていった。
吐き気と食欲不振はあるけど、食べられないわけでもない。大丈夫。
熱は35,5まで下がった(平熱が低すぎる)
あとでいろんな人に聞くと、「頭痛」が症状に出る人も多いのだそうだ。
あの頭痛は寝ても起きても24時間痛かったから、かなり体力消耗したな。
もう二度と嫌。
まじで。
というのが最近の出来事です。
まだ自宅療養だけど、この調子で行けば元気になると思う。
早くちゃんよたと一緒に練習したい。
今度は絶対組もうね。
4年前の過ち
リストカット(腕を故意に切りつけること)やらオーヴァードーズ(薬物大量摂取)、ここには書けないいろんなこと、前回の入院でもう懲り懲りと思っていた。
だけどまたその衝動に駆られた事があった。
たった4年前のことだ。
とても悲しいことがあったのだ。
そうなったらもう私は止まらない。
大事に取っていた薬を集め、机の上に集め全てプチプチとシートから薬を出す。
入れ物に入れてザザザーっと口に入れ、その頃大好きで毎日飲んでいたカフェオレでそれを一気に胃に流す。
安堵する。なぜか。なぜか薬をたくさん飲むと安心する。
その後、だんだんと意識が遠のいていくのが楽でスゥーっとするからだ。
その後のことなんて考えてない。
その瞬間楽になれるなら、それしか考えてない。
覚えてないけど、また心配かけるなって思った。
記憶が消える前に、近所に住んでる妹に「薬飲んだ」ってラインしてたみたい。
助けて欲しいんじゃない。
ごめんねって気持ちがあったからだと思う。
気がついたら病院だったと思うが、前回と同様、薬でグラグラのまま家に帰らされた。
多分胃洗浄をして、でもそれ以上は何もしてくれない。
自殺未遂に医者は優しくない。前回も前々回もそうだった。
っていうか毎回そうだ。
そりゃそうだ。
本当に苦しんで助けを求めてくる人がいる病院で、私のような馬鹿を相手する暇などないのだ。きっと。
グラグラの頭で何がなんだかわからない状態で、私はずっとラインをしてた。
文字がなかなか打てず、ずっとラインと格闘してた。
だけどラインできる状態じゃなかった。
お母さんに、「今はやめておこうね」って優しく何度か言われた気がする。
なぜ薬を飲んだのか。
私は失恋をしたのだった。
それ如きのことで、もう生きていたくないって思って
薬を大量に飲んで、意識を飛ばしてしまいたかった。
その時は本当に強くそう思ったんだ。
だけどそんなことを認めてくれる人なんていない。
親に迷惑をかけ、姉妹に迷惑をかけ、お医者さんに迷惑をかけ、お金がかかり(親が負担)、いい歳して本当、やることじゃない。40歳を過ぎていたんじゃないかな。
自分で考えてもメンヘラ爆発だ。
だけどそんなこと、私がパニックになったら誰にも止められなくて。
家に一人でいるとずっと悲しいことばかり思い出され、いてもたってもいられなくなって、もう薬で意識飛ばす事しか考えられなくなるのだった。
病院から実家に行き、それからはずっと実家にいたけど、私の強い要望で自分の家に帰ることが出来た。
親たちは反対したけど、私は別れた彼氏が戻ってくるって信じてた。
家に送ってもらい、部屋の掃除しなさいねって言いながら母親が床の雑巾掛けをしてくれた。
なんかごめんね、と思いながら私は元彼氏にどうにか連絡をしようとラインと格闘してた。
気がついたら、元彼氏が家にいた。
どうやって入ってきたかとかは覚えてない。
「帰ってきてくれた」私は単純に嬉しかったの覚えてる。
心配かけたとか、胃洗浄したって脅してビビらせて戻ってこさせたとか
何も考えられなかった。
ただただ、元彼氏が戻ってきたことが嬉しかった。
これからもずっと一緒にいられるって思った。
元彼氏は、自分のせいで人が死んだりしたらたまらんと思ったのだろう。
今ならそう思える。
でも私はその時は何も考えられなかった。
ボーッとしたまま、彼氏と二人で話した。
何を話したかは覚えてない。
うんうん、と言いながら、言ってることは何もわからなかったが「戻ってきてくれて嬉しいなぁ」ってしか思ってなかった。
私の精神状態が普通に戻るまで、元彼氏は私の相手をしてくれた。何日だったか何週間だったか、まるで覚えてないけど、元彼氏は毎日家に帰ってきてくれた。
だいぶ私が落ち着いた頃、改めて彼氏に振られた。
理由はなんか、取ってつけたような理由だった。
だけど思う。
別れた途端に薬をいっぱい飲んで入院して胃洗浄する女なんて、誰にも優しくない。
自分の事しか考えてない。
そんな女と付き合いたい人なんていないと思う。
その時私は冷静に、「あ、もう無理なんだな」って思った。
「わかった」簡単に別れ話は成立した。
別れたからにはもうこの人に優しくしてあげることもない。
私は一緒に入っていたお風呂を無言でザバンと出て、服を着て髪の毛を乾かしていた。
追いかけて風呂から出てきた彼に「ねぇ、なんで冷たいの?」って言われたけど、
「なんで別れた人に優しくしなきゃいけないの?」って感じだった。
「荷物、明日までに全部持っていって。持てない分は明日郵送して」
事務的にそう言うと、なんと彼は突然泣き出した。
「なんでそんなに冷たいの」ウゥウゥと泣きながらそう言われた。
この人、自分から別れるって言ってるのに、人に嫌われたくないんだな、って思った。
なんか、しらけた。
別れてよかったって思った。
だけど私もついさっきまでこの人のこと好きだったから、「ごめんね」って優しくしてしまった。しょーーーーーもなっ!
共依存ってやつではないかと思う。
そして、どっちも自分勝手なんだよね。
「最後に写真とろ?」
「うんわかった」私はそう言って写真撮ったけど、すぐ捨てた。
そうやって優しくすることでこの人は私に嫌われたくないんだってことを私に植えつけようとしてるって思ったから。すぐ捨てた。
まぁ、それで別れたんだけど、彼が泣いてくれたおかげで、なんとなく私の気持ちは白けて、最後は結構すんなり別れることが出来た。
ちなみに泣くほど私に優しくして欲しかったはずの彼は、実際別れた後私からのラインに返信をくれなくなった。
なんなんだよチクショウ。気が済んだら終わりかよ。
今はその人のこと、なんとも思ってない。
なんとも思ってないって言うか、嫌いかもしれない。
優しいふりして自分勝手なとことか、(私もそうかもしれないけど)腹が立つことはあっても、また付き合いたいなとかいい人だったなとか、もう思わなくなった。
なのになぜあんなに執着してしまったかと言うと、彼に依存していたに他ならない。
浮気者の私が、一度も浮気せず付き合っていたことはすごいなって思う。
だけど彼は浮気してたことが後でわかった。
許さん。
それから結構立って、今思い出すこともあるのだが、彼の何が好きだったのか、一切わからなくなったよ。一体なんだったんだろう。
好かれてるってことが嬉しかっただけなのかもしれない。
でも浮気してたってことは、そんなことなかったかもしれないね。
バイバイ。簡単に人前であまり泣くなよ。男の子なんだから。
魚喃キリコ 未収録作品集
好きなマンガ家さん何人かいるが、これが発売されて小躍りした。布団の中で眠る前に少しずつ少しずつ読んだ。
たまらん。表現方法っていろいろあるんだなと思った。
マンガだから絵だけ、じゃなく、文字だけのコマが多いのも、特徴で、それらの文字が心にズシンときた。イラストのページはもうカンペキな線でしか描かれていない。それ以外の線がまるで見当たらない。
マンガの部分はもぉ、才能の無いわたしにはツラい程素晴らしい。
もう、この本は、才能のお祭りだ。わっしょいわっしょい。
もっともっとこの人の漫画が読みたい。
もっともっと私もマンガで人心を動かしたい。
ピピたん
フーゾクで働いてた時、「うらん組」というグループを作っていた。
当時、フーゾク店は、他のお店の女の子と仲良くしてはいけませんという風潮があり、他店のスタッフや女の子に会わないように、わざわざ通勤路を課していた店もあった中、わたしは様々な業種の女の子を集め、月に一度飲み会や遊園地の遠足や、行きやすい性病検査のできる病院一覧を載せた会報などを配る などと言った活動をしていた。
わたしは当時もうすでにイラストや文章の仕事もしていて、「うらん組」は、その連載ページにケータイ番号を載せるという乱暴な組員募集の仕方をしていた。
他のお店の人から取材拒否をたくさんされた。
女の子は、他のお店の情報を知ると、いかに安く働かされていたかと知り、女の子について行って、お店をやめてしまうのだ。
だからわたしはお店の人には当時嫌われていた。
うらん組の女の子にピピたんという女の子がいた。
老舗の店舗型ヘルスで働いていた女の子だった。
私たちは家が近いということもあり、他の組員よりも仲良く、よくうちに呼んで遊んでいた。
そしてその頃、私は、以前所属していた団体の社長と知り合うことになる。
社長は言った。
「プロレス観においでよ」
なんかやんかで私はピピたんを誘い(一人だと心細かった)
プロレス会場で売店係をすることになる。
そのうち、休憩時間にリングの上で新作Tシャツの紹介などをするようになった。
私たちのチーム名は「ノーブラー」。
その頃私は全然プロレスを追っておらず、なんとなくどこかの団体で「ノーフィアー」と言っている人がいたようないないような?というぐらいの知識で、ソレを文字って「ノーブラー」というチーム名を作った。
私はセックスをしないと人と喋れない病気(?)なので、リング上でマイクをもつことはなかった。
そこは呑気なピピたんにマイクを預け、私がTシャツを一枚一枚脱いで、ピピたんに紹介してもらう、って形で毎回売店で脱いだばかりのTシャツを売っていた(これは、ブルセラなのだろうか)
ピピたんはリングの上に立って言った。
「みなさ〜ん、元気ですかぁ〜!」
アントニオ猪木である。
客席がざわつく。ピピたんは何も知らないし気づかない。
隣で私は笑いを堪えるのに必死だった。
そのうち私たち、自分たちのTシャツを売ったり、二人お揃いの格好をしてリングに上がり続けた。
売店時は売店ガールをし、試合中は試合を見る。
試合を見ていると思い出す、15歳の時の記憶。
私、プロレスラーになりたかったなぁ。
そんなことを考えながら、売店ガールを続けていた。
ある時は京都まで自費で行き、インフォメーションコーナーをやらせてもらったこともある。いい思い出だ。
私たちは仲が良かった。
これからもずっとこうして売店ガールを続けようと思っていた。
が、お互い大声を出すような大喧嘩をしてしまい仲違いしてしまう。
ピピたんは当時、私がイラストが文章ではたらくことを羨ましいと思っており、私のようにライターになりたかったようだった。
そこで、私が紹介した(セフレの)ライターに仕事をもらって浮かれていた。
「今度、女の子の取材に行ったらその後3Pするの」
ピピたんは自慢げにそう言った。
「…3Pって仕事なの?」
「私とヤリたいって言ってたもん」
いや、そうじゃなくて。
3Pするためにライターみたいなことをさせてもらえるだけなんじゃないの?ナメられてない?っていうかライター、私のセフレなのに、紹介した女の子に手出してんじゃねぇぞ?ナメられてるのは私も一緒か。
結局その話で、私たちは仲違いした。
結局ピピたんが3Pしたのかどうかは知らない。
そのライターにも、ピピたんにも呆れた。
もう、どちらとも連絡を取るのをやめた。
そして私は一人になった。
ソレでも会場には出向き、売店係をし、試合中は試合を見てた。
そのうちマネージャーをやらないかという話になり、「昭和子」が誕生する。
その子と決別してて良かった。
結局、ピピたんは、すっぴんという雑誌だったと思うが、ソレのグラビアが原因で親バレしてしまい、表舞台には出なくなった。
噂では、上野のソープにいるらしいと聞いたが、それももう20年前の話。
ピピたん、元気かな。
って思うぐらいには、セフレの取り合いしたことがばかばかしくはなった。
私も大人になったと思う。
嘔吐
わたしは最近、毎日吐いている。
喉にすっぱいのが上がってきて、吐くのが分かる。
口に手を突っ込んで、吐く。
オウレェエエエエエエエ
気色悪い声を出し、胃の中の物を出す。
多分、逆流性食道炎だ。
最近分かったのだが、吐き気を催すのは、油だと思う。
アイスクリームも、クリーム系だと吐く。
牛乳も、吐く。
味の濃いものも吐く。
食べすぎると何もかも吐く。
吐いた後はスッキリする。
だけど、胃が空っぽになって、お腹が空く。
今まで、過食嘔吐になったことが何度もある。
初めては20歳の頃。
ソレからはちょくちょくなったり治ったりしてて
30歳の妊娠期間にも、過食嘔吐になった。
その度にお腹が張って相当しんどかった。
ソレがあるからか、私は吐きやすい体になってしまったのかもしれない。
きょうも吐いた。
明日も吐くだろう。
過食は治ったけど、嘔吐は止まらない。
今まで三度、胃カメラを飲んだことがある。
またそろそろその時期かもしれない。
お酒のせいかなとも思ってたけど、最近禁酒してても毎日吐くので関係ないのかもしれない。
吐きすぎて、慣れた。
こんなことに慣れたくない。
出会い系サイトで知り合った可愛い女の子の話。
今回の話、前もブログに書いたような気がするけど、ふと思い出し、また書きたくなったので書かせてくださいそして読んでください。
小さい頃から人と接するのが苦手だった。
友達がいなかったと言ったら嘘になるけど、沢山の友達がいたわけではない。どちらかと言うと、一人と仲良くなったらそれ以上に手が回らなくて常に二人でいることが多かった。
そしてそういう友達ともいつの間にか疎遠になっていく。
19歳の終わり、フーゾクの世界に足を踏み入れた。
男の人は優しかった。
可愛いね、天使だね、女神様だよ!みんなそう言ってくれた。
そしてお金をくれた。
私は自分の価値をお金で知ることが出来た。
今日の私は7万円。
昨日の私は8万円。
そうしているうちに男の子と話すことが苦手ではなくなった。
普通の人のように、男の子と喋れるようになった。
セックスという手段があれば、だけど。
22歳ぐらいの時、女の子ともそうして普通に喋れるようになりたいと思った。どうしたらいいんだろう。
私の出した答えは、今思うととんでもないことだった。
「そうか!女の子ともセックスすればいいんだ!」
ネットが好きな私は、女性同士の出会い系サイトを覗くようになった。
そこでいろいろわかった。
女の子を好きな女の子ってのは、攻めと受けがあること。
私は攻めだということ。
サイトは掲示板形式が多かった。
私は大人しい性格なのだといつも思っているのだけど、たまに突拍子ないことをする性質があった。
サイトに女の子募集の書き込みをした。
何を書いたかは覚えていないのだけど、確か「気持ちよくさせます!」と強気だった。今思うと恥ずかしい。死にたい。
数日したら、ある女の子からメールが届いた。
「会いませんか?食事からで」
舞い上がる私。
そして自分の写真を送った。彼女も写真を送ってくれた。
全然ちゃんと写ってない写真だったけど、逆にそれが私の想像力をかき立てた。
メールで会う日にちを決めて、その日を待った。
ちなみにその時私には彼氏がいた。
なんでもいうことを聞いてくれる優しい(というか気が弱い)彼氏。
私は彼氏に「今度出会い系で見つけた女の子と会う」と伝えた。
彼氏、怒るかなと思ったらこう言った。
「何それ!すごい!俺も見に行きたい!」
興奮する彼氏を黙らせ、私はその女の子に会いに行った。
年齢は19歳と言っていた。
22の私とちょうどいいんじゃない?そう思った。
初めて会ったのは、私の住む街のオムライスの店。(今はもうない)
店に入るとすぐに分かった。一人の小さな女の子が、ちょこんと椅子に座っていた。
(む、無茶苦茶かわいい、、、!!!!)
これは当たりだ。初っ端からこんなに可愛いこと知り合えるなんて、出会い系サイトすごすぎね!?
「こんにちわ」
「あ、ミィです。」
「うらんです」
最初こそドグマギしたが、出会い系サイトで出会い、「気持ちよくさせます」と言った割に、私たちはなんだか全然性的な話じゃない沢山の話をした。
奇跡的に私たちは話が合った。オムライスを食べながらいろんな話をした。大学辞めたい、そんな相談的な話もした。中卒の私には、学校なんて行かなくても楽しく生きれるよって軽く言った。彼女はうーんってやっぱり悩んでた。何か、助けになることできるのかな、ってもうすでに私はその子に気持ちが入っていた。
とにかくその子は可愛かった。
小さくて、目が大きくて、上目遣いでハキハキ喋り、たまにけらけらと笑う。まるでリスのようだった。そう、小動物のようだった。
私は彼女に夢中になった。
会話が途切れた時私は言った。「…どうする?」
どうする?とは、もちろん、セックスする?ってことなんだけど、彼女は「なんでもいいです!」目をキラキラさせてそう言った。
聞くと彼女は、ずっと女の子が好きで生きてきたようだった。
私なんて、女の子とするの初めてなのに、上から目線で「気持ちよくさせます」とかマジでどこ目線よって感じだったのだが、彼女は私が女の子初めてなことに気づいてなかった。
「…いこっか」
私は、近くの自分の家にその子を連れ込んだ。
彼女は慣れた感じで、自然にセックスの流れにもっていってくれた。
ちんこがまんこになっただけ。
私は自分を励まして、女の子をリードして生まれて初めての女性同士のセックスをした。
初めての割に、セックスはうまくいった。
それが終わり、お布団にくるまり二人でお話ししてる時彼女が言った。
「女の子。初めてじゃ、、、ないでしょ?」
上目遣いでそういう彼女に私は言った。
「うん、まぁね、、」
私はそう言ってはぐらかした。
まさに、童貞気分だった。
そして童貞を隠す男子の気持ちが分かった。
分かったと同時に「すまん」という気持ちも湧いたが、私はそのまま、経験ありまっせの態度を崩さない。こんなこと日常茶飯事。出会い系サイトよく使ってます。結果も出してます。気持ちよくも出来ます。童貞じゃありません。そんな気持ち。
もうほんとに恥ずかしい。死にたい2回目。
あまりにとんとん拍子でセックスができて、普通に女の子とおしゃべりが出来て、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
すると、彼女が言った。
「うらんさんと付き合いたい。彼女にしてほしい」
きたー!これが怖かった。
私は彼氏がいるのだ。まさか男と女の二股はこんないい子にできるわけがない。
「ごめんね、今彼氏いるんだ」
「そっか…」
「でもまたデートしよう」
「うん」
腕枕の中で目を瞑りながら、彼女はいった。
彼女を駅まで送り、振り返って手を振る彼女を見て、か、可愛い、、、どうしよう、、、もったいないことした、、、。
数日考えた。
優しい彼氏と魅力的なあの子。
私は決めた。
彼女と付き合おう。
その日、彼氏に別れ話をした。
ちょっと凹んでいたけど、彼氏はそれを了承してくれた。
よし、これからはあの子を大事に付き合ったいこう。
二週間ぐらい合っただろうか。
私たちはまた、彼氏と同棲してる私の家でセックスをした。
腕枕で彼女に言った。
「やっぱり、みぃちゃんと付き合いたい」
「うん」
それを期待していたし、そうなるに違いないと思っていた。
だって、二週間前、彼女はそう言ったんだもの。
だが、思っても見ない言葉が彼女の口から出た。
「いや…そういうんじゃなくてもいいんじゃないかなぁ〜?」
「え」
「うらんちゃんのことは好きだけど、付き合うとかは、う〜ん、別にいいんじゃないかな〜?」
軽い感じで、私はフラれた。
彼氏と別れてまで付き合おうと思ったその子に。
ショックだった。男も女も失った。
「どうして?」
どうしてもしつこくそう言ってしまった。
そして話を聞くと、もう彼女が出来てしまったんだと。
早い。
19歳の行動力、どうなってんだ。
どう考えても仕方がないので私ももう付き合うことは諦めた。
「でも、また会おうね(ヤロうね)!」
「うん!もちろん!」
それだけで少しショックが薄れた。
なんか知らないけど、結局元カレも彼女に会っている。ナゾなんだけど、3人で遊んだりごろ寝してうちに泊まったりもしてた。
彼女、それから20年たった今でも連絡をとっている。
今彼女は体外受精で子供を産み、母親として息子と暮らしている。
私たちはお互いの子供の写真を送り合って、「可愛いね」「大きくなったね」と言い合っている。
あの時付き合ってたらどうなっていたんだろう。
今でも思い出すし、思い出したらラインを送っている。
本当に可愛くて、リスみたいで、子供で、体がすべすべで、気持ちよかった。あ、気持ちよくさせてもらったのは、一切体を触られなかった私の方なのかもしれない。
出会い系一発目でそんな金星に会えたもんだから、その後の出会い系で知り合った子のことは好きになれなかったな。
とってもいい出会いをしたと思う。女の子の体は素晴らしかった。もうずーっとスリスリして居たいって思わせてくれたな。
流石にもうセックスはしないだろうけど、関係は一生続くと思う。
それでもいつかまた、襲ってみたいって、密かに思ってる。
チョコレートパフェ
昨日、マキちゃんについて書いたが、その頃ある事件があった。
学校の家庭科の時間に、各班がメニューを考えてみんなでおやつを食べるという授業があった。
私とマキちゃんは同じ班で、色々考えた結果、「チョコレートパフェ」を作ろう!ということになった。
そこでひとつ問題が出た。
「グラスどうする?」
普通のコップだと全くパフェ感が出ない。
私たちは、いつもマキちゃんのお金で食べていたあのチョコレートパフェを再現したいのだ。
みんなで話し合い、私たちはみんなでいつもの喫茶店に行った。
その中でも1番元気なミキちゃんがお店の人に声をかけた。
「私たちは○○小学の五年生です。今度、家庭科の授業でチョコレートパフェを作ります。グラスを貸してもらえませんか?」
みんなで考えた案だったが、ミキちゃんがそれを伝えた時はドキドキした。知らない大人の人にこんなお願いをして、果たして聞いてくれるのか。
お店の人は少し困った顔をして、「店長に聞いてくるね」と言って厨房に消えた。
しばらくすると、店長と思われるおじさんが出てきた。「君たち、どうしたの?」
ミキちゃんがまた、授業で使いたいのでグラスを貸してほしいという。
店長はしばらく考え、「分かった。いいよ!」と言ってくれた。
私たちは嬉しくてみんな笑顔になった。
その日、グラスを割れないように紙で包んで、数人に分けて六個ぐらいのグラスを持ち帰った。
私たちの班が1番スゴいものを作れるとみんな信じてた。そうなると、実際の家庭科の時間が楽しみになってくる。みんなで「言ってよかった!」「貸してくれて嬉しいね!」と言い合った。
さて、家庭科の授業当日。
私たちは誇らしげにカバンからパフェのグラスを出した。まさにパフェのグラス。私たちはみんなに注目されるに違いない!
「コラァ!」
家庭科の先生(男)が、突然大声を出した。
「おまえら、どこからこれ持ってきたんだ!」
グラスを指して大声を出す先生。
突然のことに驚いたが、ミキちゃんが、喫茶店にお願いしに行ったこと、快く貸してくれたことを先生に説明した。
「そんなことしたらダメだろう!」
先生がまた大声を出した。
「壊したらどうするんだ!返してこい!」
私たちはみんな黙ってしまった。
他の班の人もびっくりしてみんな黙っている。
ちゃんと手順は踏んだはずだった。
お店の人にお願いして、借りたこと、何も悪いはずがないと思っていた。
しかし先生の怒りは止まらない。
「なんで先生に一言言わないんだ!」
「返してこい!」
「先生も行くからな!」
私たちはしゅんとした。
結局私たちは、その授業で、何も作らなかった。
放課後、先生と一緒に喫茶店に謝りに行った。
店長が出てきて「全然問題ないですよ!いい子たちですし!信用して貸し出しましたから!」
先生は驚くほど腰を曲げて何度も何度も謝っていた。
私たちは、間違っていたのだろうか。
今でもそのことを思い出すと、疑問符が浮かぶ。
先生は何であんなに怒ったんだろう。
私たちがまだ子供だったからなのだろうか。
みんなしょんぼりして帰ったのを思い出す。
いまだにたまに思い出す話。
そして、ちゃんと説明してくれず怒るだけの先生を、イヤだなぁと思い出すたび毎回思う。