「自分軸の再構築」⑥ - 懺悔のプロセス | 北インド☆ゆるヨガライフ

北インド☆ゆるヨガライフ

ヒマラヤで出会った夫と、北インドローカル暮らし8年目。
お見合いが主流のインドで年の差婚、3度の流産、文化や習慣の違いに奮闘中。
スラム支援のNGOで働いたり、子宮腺筋症と共存しながらゆるーくヨガを続けたり。
40代インド生活の気づきと学びです。

みなさまナマステー!お久しぶり?です。

 

「自分軸の再構築」という心理ワークを進めて来て、ここ1週間ほど越えられない壁に突き当たってました。と言うのも自分や外界に対する認知の変化の後、「感情の大きな揺れが来る」ことへの備えが不十分で、ガチで波に揉まれていたんだと思います(笑)。そんな反省があり、自分の実践の場合ではどんな補足や改善点があるかを今回、見てみます。

 

これまでのワークはこちら↓

「自分軸」の再構築 ① - 怖れ=願望 を知る

「自分軸」の再構築 ② - 素直になる

「自分軸」の再構築 ③ - 感情の錬金術

蘇える「原体験」について

「自分軸の再構築」④ - 自動思考と古い信念

「自分軸の再構築」⑤ - 現在の視点で振り返る

現実世界が入替わる - ワーク振り返り3

 

あくまでも自身の実践の記録です。本来はお見せするものではないのかもしれません。心理療法士でもないですし、ワークの手法も自己流で自分のために行っていて、書き方も自問自答です。まだまだ自分の中の変化も明確ではありません。どころか、色々とこんがらかって前のブログは書きかけでアップするしかなかった位です。よろしければお読みください(笑)

 

↓私の中でNo.1「懺悔」シーンと言えば映画「マスク・オブ・ゾロ」か「デスペラード」。セクスぃー(笑)

「唯一の罪っていうのは、ハートで本当に感じるものを否定することさ」。。。by アントニオ。

 

「自分軸の再構築」⑥ -「懺悔」のプロセス 

 

 

正しい「懺悔」のプロセスが必要。

 

過去の出来事や現実について、さまざまな角度から見ることができるのは、視野や選択肢が増えて、今後のためには良かったと思う。

 

でもその後、「今なら、あんな失敗しないのに」「選択肢がなくて道を間違えた」「何て馬鹿だったんだろう」っていう感情の揉み返しが来ることに、備えが甘かったと思う。

 

「自分を責めない」といくら誓って臨んでも、そんな簡単なメカニズムじゃなかった。責める責めないの問題なんかじゃない。「どれだけ懺悔できるか」が勝負と言ってもいいくらいで、この「後悔」と「懺悔」の中にこそ真実が見えてくる。

 

「後悔しないように」とは言われるけど、よく見ると意味不明なコトバ。後悔しないように、何も失敗しないように生きればいいの?失敗した時は?「後悔しないように」できなかったことを「後悔」しないのか・・・?()

 

「自分を許す」というのもポジティブ・スピの本とかで見るけど、何もしないで許せる社会構造で生きていないので、ハードルが高い。子供にも悪いコトしたらちゃんと謝ってけじめを付けるよう教えるのに。自分に対しても、その非をを認めて改めるって訓練がいる。

 

「非を認める」のは「はいはい、わかりましたよ」って口だけでもいけなくて()、逆に「どうせ私なんて」って開き直っても進歩がない。他の誰でもなく、「自分」とする約束。ごまかしもウソも、いずれ清算する時が来る。素直に非を認めるしかないけれど、この行程がどうしてそんなに辛いのだろう?

 

究極には「自分を信じてない」からだと思う。最初から信じられたら人類の苦しみなんてない。信じてもいない自分に、できるかどうかも分からない約束をし続ける。もがいてももがいても私はそんな半生しか送れなかった、でも責めるのとは別の方法を探している。

 

「懺悔」という方法があると思う。私の中でもカトリックのイメージが強すぎて結びつかなかったけど。悔い改めることなんだけど、自我というより、神さまに対して行うもの。宗教の壁を取っ払えば、「自分の中の神性」に対して行うものとも言える。

 

神さまに謝ったら何でも許されるの?と思っていた。そんな無責任?な。でもね、神道でも御神体が鏡であるように、神さまってそのままの自分を映し出す鏡だと思っていい。罪悪感も後悔も、期待も祈りも、感謝も苛立ちもすべて、ただ反射して映してくれるだけ。

 

お賽銭やお布施をいくら渡しても、その結果は自分で背負うしかない。だって神さま、そこにいるわけじゃないもんね。人間じゃないから。鏡だから。つまりは自分自身でしかないから。ここでの分かれ目は、自分の中に神のカケラが宿っていると、信じられるか、信じられないか。そんなもの見えない時は、ただ神さまを信じてお任せする時。

 

「自分軸」のワークに、懺悔のプロセスを加えなくちゃと思うのは、正直ワークの後に私の頭と心の大・大・大混乱が起きているから()相手の気持ちが分かってきたり、自分の非が見えてきたり、選択肢が見えてきたり、するべきこと、するべきでないことが見えてくると、もうこの後の人生で頼れるのは自分だけ。言い訳や甘えが利かなくなるので、めっちゃ怖いのだ、まじブルってます()

 

ちゃっちゃと非を認めて、さっさと、淡々と自分の道を進む人になるって、簡単なようでトラウマ経験者には天変地異に近い。着々と、世界がひっくり返る日が迫ってくる感じ。それだけ今までゾンビでいた。生きたい、生きたいって、言ってるだけの死体。この際、蘇りの儀式でもするか?って()

 

 

ここから先に進むためには、信じるっていう灯を心に燈さなくては何も見えない。人を信じるっていう意味じゃなく、自分を信じるっていうこと。それが信じられなければ、神さまを信じること。一体何のために生まれて、何のために死んで行くのか。それを問い続けて疑い続ける時代は終わったっていうこと。それよりも大切なことがある。生きてやってみないと分からないことがある。自分にしかできないことが、きっとある。

 

だから謙虚でいなくてはならない。感情や理論に身体を乗っ取られてる場合じゃない。やれる事は何でも惜しまずやらなくてはならない。40も過ぎるとこの身体が永遠じゃないことが良く分かってくる。悔いを残して、それでも役割を託して逝く人たちも知る。この命は自分のためだけに与えられたものじゃない。でもそれを体現できるのはこの身体しかない。だから自分の軸を強く持たなくてはならない。

 

ヨガに取り組む人は、日常でも高い理想と現実の統合をはかりたいと精進する人が多いのではないかと思う。どんな使命においても、軸の強さ・柔やかさ・揺ぎなさがいると思う。私も自分軸ワークで、古い自分の概念を一回壊してリノベーションするなんてこと、少しでもヨガを知らなかったら潰れてると思う。人間というものの中に少しでも「神性」が見えなかったら、私もとっくに諦めてまた精神科に行ったかも。

 

 

過去のトラウマ、修羅場、暴力、悲しみ、別離、後悔、罪悪感、被害、加害、された、られたの、幻想の霧の中でうずくまる時、私たちは自分を知る・人を知る・愛を知る・光を知るという一種の機会を与えられるのだと思う。

 

そこで諦めてもいいのか、諦めなくても良い道があるのか。それを示せるのは、その道を歩き続けて行く人だけ。次々と課題が与えられて、新しい壁が現れる度に、怖れるのではなく淡々と、答えを求めて歩みを進めて行く。それが見えただけでも、生きていて意味があったと思う。この先も精進あるのみ。

 

↓先日のふたご座のスーパームーン。金色に明るく輝いてた。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」 (新共同訳「マルコ」1:15)

 

 

またブログが書けて良かった。この混乱を抜けて行きたい。

 

次にこのシリーズが書けるのはいつのことやら?

また新しい気付きがあれば面白いのですが、その前に進歩がないとね。

 

ワークを実践している間に、なぜか私の大好きな宇宙・地球・神さま・占星術に関することの情報量が増えて、夢中になって調べているので、次はそんな話題でも。ちなみにさそり座のアセンダントの方、この時期さそり座入りした惑星たちにかなり揺さぶられてませんか?さそり座と言えばオカルトが得意分野(笑)