宮脇 流の「昭和を話そう」 ( BOSSのブログ) -50ページ目

宮脇 流の「昭和を話そう」 ( BOSSのブログ)

70年代や、あの時代に輝いていたアレやコレや。
クリエイティブディレクターが語る、「思い出のエッセイ」です。

$昭和を話そう、BOSSのブログ。

食品のおまけには、いつの時代もカードが多い。昭和の人気カードと言えば、野球カードに仮面ライダーカード、ともうひとつ、写真の「東海道五十三次カード」である。永谷園のお茶漬け海苔を買うともれなく1枚付いていたカードだけれど、当時は20枚集めて返信用切手を一緒に送ると1セット(55枚)がもらえたと記憶している。ただ、ひとつ疑問だったのは、集めたカードとセットでもらえたカードはどこが違っていたのかということだ。それは謎のまま、今に至っている。しかしなぜに、そんな渋いカードがウケたのだろう? 高度成長期を経てちょっと余裕のある庶民の間で、浮世絵的な絵画が流行ったからかもしれない。実の所はさておき、 昭和40年頃の市販のマッチにも、確かに歌麿や北斎のシリーズがあった。昭和40年代は、そういう時代だったのだ。あの頃の食卓に、いつもあったお茶漬け海苔。カードが先か、お茶漬けが先か、理由は不確かなままだけれど、ある特定の年代に「歌川広重」が馴染み深いことだけは間違いない。あの絵を見ると、なんだかお茶漬けが恋しくなるのである。

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$昭和を話そう、BOSSのブログ。-光速エスパー
1967年から日テレ系で放送された「光速エスパー」は、実写版だった。少年時代の三ツ木清隆が主演だったけれど、私なんかはむしろ東芝のマスコットとしての記憶の方が濃い。あの頃は、電気屋さんの店先に何が立っているかで、どの系列の電気屋さんかが子供でもズバリわかった。松下電器のナショナル坊やとか、日立キドカラーのキドちゃん、三菱電機のメル子ちゃんにビクター犬のニッパーくん・・など。その人形の人気が、そのまま家電メーカーの人気にもつながっていたのだ。小学生の頃、同じクラスに三菱と東芝の電気屋さんの息子が二人いて、どっちのメーカーが凄いかをよく言い争っていた。クラスでも評価は二分していたけれど、当時東芝のお店でもらえた光速エスパーの鉛筆欲しさに、私は東芝に加担した。お店からくすねてきたであろう光速エスパーの鉛筆がクラス全員に行き渡るのに、そう時間はかからなかった。写真のマスコットは、初代の光速エスパーを可愛くアレンジしたバージョン。ちなみに、光速エスパー(主人公)の名前は、東ヒカル。♪ヒカル、光る東芝・・♪ だったのである。


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$昭和を話そう、BOSSのブログ。
前回の続き、そうEXPO'70のお話。写真は、パビリオンでもらったバッジと会場で購入した記念メダルである。上の左は、サンヨー館でもらったのだけれど、どうして鯉のぼりのデザインなのだろう? もしかすると、こどもの日あたりにもらったのかもしれない。このサンヨー館で展示されていたのが、「人間洗濯機」だった。水着を着たお姉さんがボディシャンプーの泡にまみれて洗濯機の中にいる姿は、子供心にもなんだかドキドキした。その隣のバッジは、象印のもの。だけど、象印館なんてあったかなあ・・。という風に、記憶は時々混乱しているけれど、いろんなパビリオンで当時バッジが用意されていたのは確かだった。カナダ館でもらえた楓型(カナダの国旗)のピンバッジは、大人だって欲しがっていたのをよーく憶えている。アメリカ館とソ連館は競うほどの人気パビリオンで、だいたいが3時間待ちの長蛇の列。仕方無く、すぐに入れるシンガポール館やマレーシア館、ペルー館なんかを観て回った。手に入れたパンフレットの束は、大事にとっていたはずなのに、結局どこかに消えてしまった。記念バッジとメダル、そして輝いていたあの頃の夢だけが、こうして私の引き出しの中に残ったのだ。

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