「庭園美術館」は、その名の通り、広い庭園の中にある美術館である。
私たちは、邸内の中に入った。
平日と言うこともあり、お客さんは、少なかった。
料金は、彼が全部支払ってくれた。
相変わらず、一つ一つに説明をしてくれていた。
その彼の説明を聞いて、私たちの前にいた中高年の婦人二人組は振り向いた。
『そうなんですか。』
婦人たちは、彼の説明に、うなずいた。
彼は、その様子を見て、嬉しいそうである。
そんな単純な面も持っていた。


彼は、ある絵について、別の意味があることを教えた。
私は、そのことに応えた。
『それは、バーテンダーの人が、ワンフィンガー、ツーフィンガーを
 別の隠語として使うのに、似てますね。』
彼は、びっくりして、私の顔を見た。
『あなた、そんなことを、知っているんですか。』
少し、不愉快な様子が見て取れる。
『花電車とかも、知ってます。』
『女性が口にすることでは、ない。』
明らかに怒っている。私は、彼に質問した。
『花電車に行ったことが、あるでしょう。』
確信した口調で、私は言った。
『ありますよ。』
彼は、言い放った。
『やっぱり。そうやと思てました。
 私、吉行淳之介の小説とか読むから、そういうこと、知ってるんです。』
『そう。』
彼は、嫌がっている。
私の友人は、私の言うことを、まったく理解していない。
バーテンダーの隠語も、「花電車」の意味も知らない。
それでも、彼は、何も聞かなかったように、続けて絵の説明をした。

それでも、彼は、いろいろと話をした。
食事は、おいしかったが、私は緊張していた。
それは、彼の緊張が私に伝染したようであった。
食事が終わった後で、彼は、私たちにお手洗いの場所を教えた。
確かに、お化粧直しをする必要があった。
『ええ人やん。』
私の友人は、お手洗いの鏡越しに話しかけた。
私は、『うん、まぁな。』としか言えなかった。


お手洗いから出ると、彼はすでに、清算を済ませていた。
彼の手には、私のコートがあった。
彼は、私の背中にそっと回り、コートを着せてくれた。
ウェイターは、そんな私たちの姿をチラと見た。
一体全体、こんなことをされて、嬉しいと思う日本人女性は、
何人くらいいるのであろうか。
私は、オロオロしているばかりである。

奥の席に案内された。
そして、メニューが差し出された。
彼は、私たちに申し出た。
『僕が決めていいかな。
 本当は、ワインが飲めればいいんだけど、今日は、やめておこう。
 何か、きらいなものは、ある?』
私たちは、彼に決めてもらうことにした。
多分、それが、一番、間違いがない。
『食事の後、この近くの「庭園美術館」に行こうと思ってるんだ。
 いいかな。』
私たちには、依存がなかった。
『あなたに会ったら、これも話そう、あれも話そう、と考えていたんだけど、
 いざ、会ってみると、何も話せない。
 それが、悔しいんだ。』
彼は、しばらくの沈黙の後に、言った。
私は、空気が薄くなっていくのを感じていた。
息苦しい。
「たまらんなぁ。勘弁してほしい。」そう思っていた。
結局、私は彼の気持ちを利用していることになるのだろうか。
他人から見たら、そうなるだろう。
どうすれば、いいのか。
食後のお茶に関しても、彼は、砂糖もミルクも
きちんと私の好みにして、そっと差し出してくれる。
私の友人には、しない。
彼のレディーファーストは、特定の女性のみに向けられるらしい。

面接の前に、彼は、ランチを一緒にとろう、と言った。
彼は、目黒にあるフレンチレストランに、予約を取ってくれていた。
季節は、冬になっている。
待ち合わせの目黒駅に行くと、すでに、彼は待っていた。
スーツを着ていた。
ご自慢の銀座であつらえた冬物のスーツである。
いい生地であることは、すぐにわかった。
彼の言うところの、どぶねずみ色のスーツだ。
けれど、すっきりとしたデザインで、彼に合っていた。
初めて会った時の印象とまったく違う。
いかにも仕事のできそうな男の顔であった。
フト、私は、「この人は、他人に頭を下げることができることができるのだろうか。」
と疑問を感じた。
営業の仕事は、確かにどれだけ自分のペースに相手を巻き込むことができるか、
が勝負である。
しかし、頭を下げるという行為も、とても多いはずだ。


そのフレンチレストランでは、常連なのであろう。
彼が名前を言わなくとも、店の人がやって来て、名前で呼んだ。
彼は、私の後ろにそっと立って、私のコートを脱がせた。
私は、一瞬、びっくりした。当然だろう。
彼は、『いいんだよ。』と優しく声をかけた。
そして、コート掛けにかけてくれた。
彼は、私の友人の平田には、同じことをしなかった。
平田は、自分でコートを脱いで、自分でコート掛けにかけた。

彼と会ってから、どれくらい過ぎた頃だろうか。
彼からいつものように、電話があった。
『僕の幼ななじみが、ある東証二部の会社の社長の息子なんだ。
 そこの会社で働いてみる気はないかな。』
その会社は、ある事業を組み入れて、
これから、大きく伸びようとしていた。
私は、そのことは、知っていた。
一応、その頃は、日本経済新聞を読んでいたから。
『もし、その気があるなら、彼に頼んでみるよ。
 正直言うと、もう話は通してあるんだ。』
彼は、申し訳ないが、一度、上京してくれないか、と言った。
私は、少し、考えさせてほしい、と返事をして、電話を切った。


私は、東京の男性に熱をあげていた私の友人である平田に、相談した。
彼女は、私に強く勧めた。
『加藤(私の名前)、チャンスやん。
 ほな、一緒に、東京、行こか。』
彼女も、好きな男性に会いに行くというのである。


彼と電話をして、日時を決めた。
そして、私は彼宛に履歴書を送った
私の友人とも、調整して、私たちは、上京することにした。
彼は、その日、会社を休んでくれていた。
はぁ。これで、私は、彼に対して、またしても、借りができた。
ただの単なる好意だけであれば、感謝の気持ちだけで済む。
彼の気持ちは、熱すぎるのだ。
ぬるま湯だといつまでも入ることができる。
けれど、熱過ぎるお湯は、私に危害を与える。