元々、この映画を観に行く予定はなかった。ある映画館の無料招待券をいただいて、他の映画がチピッ子ものだったりして、仕方なく、この映画を観ることになった。

 ポスターを見ただけで、ボクシングものであることがわかるし、クリスト・イーストウッドがヤマダヤスオの声と『ダーティ・ハリー』のイメージが強すぎて、なかなか受け入れない。

 映画の上映期間も終わりに近づいたこともあり、劇場は、人がそんなに多くはなかった。

 アカデミー賞受賞ということであるが、これも、余り信用ならない。しかし、そんな先入観はすぐになくなった。


 特に関西地方の人は、「イラチ」と呼ばれ、短気の人が多く、映画の最後に流れるスタッフロールが始まると立ち上がる。もちろん、私もそうだ。しかし、この映画は、別だった。映画の余韻で誰一人として、席を立つ人はいなかった。黒地に白抜き文字のスタッフ名がダラダラと流れる間、登場人物のこれからについて、考えていた。そういう映画は、そんなに多くはない。他には、私は次の映画を映画館に観に行ったことはないが、多分、この映画も強い余韻で立ち上がることはできないと思う。【LEON】である。

 スタッフロールにしても、ほとんどが黒地に白抜き文字で、画一的である。映画によっては、【パイレーツ・オブ・カリビアン】3部のようにスタッフロールの後で、映像を流す。こういう手法は、好きではない。

 スタッフロールをきちんと見ている人がどれだけいるだろうか。よほどのマニアでない限り、「この監督は、いつもこの照明さんを使うなぁ。」とか「今回は、タイムキーパーの人が変わったんだ。」なんて、考える人は少ない。ただ、私の家族が映画のスタッフであれば、ほんの短い間でも名前が流れれば、誇りに思うだろうし、嬉しく感じる。そのための、ものだ。

 あるいは、【世にも不幸な物語】みたいにスタッフロールの間、この物語のダイジェスト版を影絵で流す。これだと見る。こういう工夫が必要だ。

 スタッフロール時に立ち上がって欲しくなければ、この映画のように強い余韻を残す映画を作るか、【世にも不幸な物語】のように工夫をするかのいずれかでなければならない。


 もし、【ミリオンダラー・ベイビー】を観たことがない人がいれば、ここから先は、読まないで欲しい。なぜなら、この話を語る上で、最後を話さないわけには行かないからである。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%A4%E3%83%93%E3%83%BC



 この話の大きな柱は、『死生観』である。人は何のために生まれ生き、何のために死んでいくのか。また、目的は必要か。

 

 寝たきりになって、死を望むマギー・フィッツジェラルドに対して、クリストイースウッド演じるフランキー・ダンは、励ます。

 我々は、肉体と精神と言う二つの構造から成り立っている。肉体と精神が必ずしもリンクしているとは言えない。肉体の分類は、精神の分類に対して簡単だ。日本の成人男性の身長を何cm以上を高いとして、何cm未満を低いとする。そして、その間を普通と分類する。

 ところが、精神的なものは、難しい。「大雑把、普通、神経質」。これらの基準は何か。私の友人は、言う。『少なくとも、動物を飼っている人は、ある意味において神経質ではない。』と。確かにそれは、言える。

 【サザエさん】の磯野家は、タマという猫を飼っている。タマが外から家に入ってきたり、ふっと外に出かけるシーンは、よく見かける。ところが、タマが外から帰ってきて、それをみつけた磯野家の人が、『タマが帰ってきた。』と言って、タマの足の裏を拭いたり、その後、タマの歩いただろう足跡を拭き続けるというシーンは見たことがない。上下が一緒なのである。足を拭くために各部屋に必ず雑巾が置いてあり、さらに、その後、消毒をする。そんなシーンがまったくない。

 食事も一緒である。タマの毛が食事に入ることはないのか。そして、その毛には、ダニなどがいないのか。多分、そんな風に考える神経質な人間は、動物が飼えない。私の家では、動物を飼ったことがないし、これからも飼うことはないだろう。どこかの神経を殺さなければならない。

 特に食べ物を扱う職業の人で、基本的には、あるいは、人によっては、絶対的に動物を飼わないと言う人は多い。私は、ある女優の婚約報道を聞いた時、この問題についてどの芸能記者もつっこんで質問しないことに疑問を感じた。川島なおみである。彼女の婚約者は、有名なパテェシエで、当然ながら、食べ物を扱っている。そして、川島なおみという人は、シナモンという犬を飼っていることは、有名だ。結婚後、犬を飼い続けるのか否かは多分、大きな問題になるだろう。動物を飼っていても平気だというお客さんもいるだろうが、私は、基本的にはダメだ。鉄工所を経営していると言うのであれば、特に問題視することではない。また、食べ物を扱う人が動物を飼ってはいけないということではない。プロ意識の問題なのだ。
 (話がそれて、申し訳ないです。)


 寝たきりになった時に、自分の体をもてあますのではない。その状態を受け入れきれない精神をもてあますのではないだろうか。

 病院で働いていた時にドクターをご飯を食べに行く機会が何度もあった。その時に、尊厳死の話をしたことがあった。医療に従事するものにとって、基本的には、患者の病状の良好ないし保持である。最低でも、悪化を防ぐことに全力を尽くす。けれど、その状況が悲惨な物であった時に、特に、人の痛みをわかろうとする人間であれば、あるほどにつらいものがある。


 続きは後で。




 この作品を初めて観たのは、「GYAO」の無料映像であった。モノクロ映画で、たたずまいに惹かれるものがあった。

 タイトルから想像がつくかもしれない。もっとわかりやすく言うと『悪い血筋』である。

 DNAという言葉が普通に話されるようになったのは、いつの頃からだろうか。確かに、いろいろな要素が先祖から引き継がれる。いい部分も悪い部分も含めて。

 骨肉の争いと言うのは、同じ血が流れているだけに、相手の行動が、自分自身に跳ね返り、すざましく憎んでしまうのではないだろうか。自分の中にある悪い部分を身内に見つけたときに、ゾッとしてしまう。


 この映画を観たときに、池田の小学生殺害事件の犯人の父親が、息子のことを『親の手に負えない。』と、自分の責任ではないと話していたことがふっと頭をよぎった。

 この物語の母親も自分の娘に悪い種子を見つけたとき、衝撃を受け、思い悩む。そして、自分の母親が殺人犯であることを知る。その遺伝子が隔世遺伝子となり、自分の娘に引き継がれたことを確信する。

 一体、悪い遺伝子-殺人者という要素は、引き継がれるのか。

 村上春樹の『ノルウェーの森』でも、直子の姉が自殺したときに、彼女の父親が「俺の血筋かな。」と話していた。


 私たちは、誰かを親に持つ。好むと好まざると関らずに、その一部の要素は、引き継がれる。一族の顔と言うのがある。たとえば、冠婚葬祭のときに親戚が集まる。私はすぐに父方、母方と区別がつく。父方の容貌は大方、標準以上である。きれいな顔をした親戚は、父方である。それに比べて母方には、何人か、「え、これは人間?妖怪?」という人がいる。父方の親戚はエゲツナイ性格の人が多い。人間として冷たいのだ。信用ができない。

 私は自分の中に父方の親戚の誰それの一部を感じると、とてつもない嫌悪感を感じる。なぜなら、具体的な人物が目の前にいて、それを私自身がみているからだ。それは、漠然とした人物像ではない。


 ただ、この話に関して言えば、我々が日常的に感じる血のつながりではない。夫の優柔不断なところが自分の子供に引き継がれている、そんなレベルではないということだ。ここでの物語は、致命的な問題である。しかも、それが、年端もいかない自分の娘に認められたときに、まともな神経の人間であれば、選択肢がそんなに多くはない。誰を犠牲にするべきか、つきとめていくと一つしかない。

 ここでは、結末は述べない。なぜなら、最後の字幕で、結末を話さないように注意書きが書かれているから。


 『悪い種子』と名づけられたこの映画は、極限的な血液の悪い流れを示しているが、我々も自分自身でさえどうにもならない部分があるということを強く感じさせられる。

 主演の田中裕子と岸部一徳は、間に沢田研二という人物を挟んで、つながっている。ある意味、別の三角関係が思い浮かぶ。


 年齢は、目元・口元・首元に現れる。田中裕子は、目元に出ている。若いときの彼女と50を過ぎた彼女の顔はつながっている。岸部一徳もそうである。まったく、別物ではなく、あの顔がこの顔になる、というのが理解できる。

 コンビニで藤井フミヤのコンサートのポスターを見た。しばらく、動けなかった。彼の目元の老いが余りにも激しく、田中裕子とまったく同じタイプの老い方である。目が「へ」の形に垂れ下がっている。中年のそれではなく、初老の垂れ方なのである。

 誰も彼もが、黒木瞳や吉永小百合のようになれるわけではない。

 この物語も、しまらない冴えない容貌の二人であることが重要である。これが、『失楽園』コンビの黒木瞳と役所広司では、別の物語になってしまう。

 年齢を重ねると3つの「シ」が出てくる。シミ・シワ・白髪である。それをどのように受け入れるか、精神の強さが必要になる。


 髪をひっつめにし、化粧気もなく、地味な服を着て、人から見たら何がおもしろいのかという生活を送る田中裕子演ずる大場美奈子。牛乳配達とスーパーのレジで生計を立てている。

 末期ガンの妻を看病しながら、毎日、市役所の福祉課で働く岸部一徳演ずる高梨槐多。

 そして、二人が過ごす町は、山肌を削って住宅を建てたような小さな町。まるで、チロリン村である。


 この物語の感想は、ツタヤDISCUSでも書かれているので、別の視点から考えてみたい。

 私もいい年をして、独り身である。だから、彼女の生活には共感できる要素がある。一人で生きる人間にとって、一番大切なものは、と問われたら、私は『自分の世界』と答える。では、『自分の世界』とは何か。自分ひとりで完結する世界である。この映画の主人公の大場美奈子は、読書である。これも一人で完結する。


 私は、何年か前、ほぼ毎日、銭湯に通っていた。大体、行く時間は同じで、出会う人も決まってくる。その中の一人が50過ぎて独身であった。彼女は、度の強い、フレームの大きなメガネをかけていた。いわゆる薄型の高価なおしゃれなメガネではなく、牛乳瓶の底の様なメガネである。髪は長く、ひっつめにしていた。化粧気もなく、洋服にはお金をかけない。

 大阪の梅田のあるレストランに勤めていて、ゴムの手袋をはめて、朝から夜遅くまで、人の食べた後の皿洗いをしていた。30半ば位から現在に至るまで、同じ店でただ皿を洗い続ける。例えば、私のようにコンピュータ・エンジニアをしているような人間のように、常にスキルアップに追われることもなく、ただ、絶え間なく運ばれ続ける皿を洗うのである。単調な仕事である。

 彼女の仕事の時間は、非常に不規則である。朝10時から14時まで働き、17時までの3時間の休憩がある。そして、17時から22時まで仕事に戻る。休憩の間、彼女は梅田のマチをさまよったり、喫茶店で本を読んだり、家が近いので、一度家に戻り、テレビを観たりする。

 彼女の好む本は、赤川次郎である。あるいは、わかりやすい犯人の推理小説。一度、私は宮本輝を勧めてみたが、『暗い』と言ってつき返された。少なくとも、そういう意味では、私とは歩幅が合わなかった。彼女は、また、2時間のサスペンスドラマが好きで、特に、片平なぎさ、船越栄一郎主演の『小京都シリーズ』がお気に入りであった。読売テレビに電話をかけて、シリーズを続けるように要望したと私に話した。

 休みの日は、競馬に出かける。賭けるお金は小さいが、毎週、欠かさず通うので、結構なお金を費やしたらしい。


 私と彼女は、お風呂から上がると、家の方向が同じだったので、よく一緒に帰った。短い時間であるが、たわいない話をした。

 ある日、いつものようにお風呂から上がると、お風呂屋の奥さんが別のお客さんと脱衣場で話をしていた。取立てて珍しいことではない。奥さんは、よく、お客さんと話をしていたから。私はこの奥さんが、苦手だった。一度、彼女に自分の息子の嫁にならないかと声をかけられたことがあった。私は、この人を姑として務めるのは、無理だと感じていた。

 しかし、その日は、別だった。明らかに、レストランで働く彼女のことを非難していたのである。私も目が悪く、視力は0.1を切っている。そのために、気がつかなかったのだが、彼女の背中いっぱいにできものができていて、それにもかかわらず、お風呂屋にやって来ることを皮肉めいて話をしていたのだ。彼女が脱衣場にいても、奥さんはお構い無しに話を続けて、彼女を指差していた。私は非常に不愉快だった。

 確かに、公衆浴場であるから、清潔に勤めなければならない。背中にニキビがちょこっとできているというレベルの話ではないことは、わかる。それであれば、直接、彼女に話せばいいのだ。


 その日の帰りに、彼女は私にいきさつを伝えた。何ヶ月前から仕事のストレスで、背中に真っ赤な吹き出物が一斉にできだした。それを見た、お風呂屋さんの別のお客さんから苦情が来て、奥さんに『湯船に入らないように』と言われたそうである。『私かて、湯船に入りたいこともある。』と彼女は話した。彼女のアパートにはお風呂がなかったので、それでも我慢して、お風呂屋さんに通い続けた。

 業を煮やした奥さんは、そんな風にして彼女にあてつけを始めた。

 多分、どちらが悪いという問題ではないのである。


 1週間くらい後で、彼女と私はまたお風呂屋さんで一緒になった。彼女は、来週からこのお風呂屋さんに来ないと言った。彼女には姉がいて、離婚していた。そのお姉さんのアパートにはお風呂があるので、事情を話したところ、お姉さんが憤慨して、『そんなとこ、行かんと、ウチのお風呂に入りにおいで。』と言ったそうである。


 それから、私もお風呂屋さんの近くに変な男性が出没するので、家のお風呂を利用するようになった。私は彼女を見かけることは、なくなった。


 多分、同じような生活を続けているのだろうと思う。自分の世界を持って。そして、私もそうである。

 最近、いくつかの映画をDVDで観た。今頃であるが、松本人志監督の『大日本人』である。

 この作品は、酷評されている。すでに映画の評論文を残す松本監督だけに、特に期待されたものであるが、実際に、幕があがると、その評価は、あまり芳しいものではなかった。

 私もこれを例えばレディースディーのような1000円で観られる日に行ったとしても、非常につらい。1000円で、コンビニおにぎりや肉まんが9個買える。それを諦めてまで観る価値があるか、どうかの問題である。

 確かに、ある意味、新しい試みであった。


 松本監督の前に北野武監督がいわゆる芸人として、監督として成功したとされる。けれど、私の周りの映画好きな友人の間では、北野監督の評価はさほど高くない。私自身は、北野監督が映画に意図する意味がわかる、と話す。実際のところ、何を意図するかわからない映画も多いからである。

 俳優としてのビートたけしの評価は、非常に高い。最初に観た映画は、大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』であった。

 前のブログでも述べたが、私の中で、俳優として認める基準のひとつとして、ドキュメントかドラマかわからないと言う演技が一番評価が高い。『戦場のメリークリスマス』のハラ軍曹を演じたビートたけしの演技は、まさしく、ドラマかドキュメントかわからないほどに、すばらしいものであった。

 その後、在日の立てこもりの犯人役のビートたけしを観た。これも、すばらしいものであった。

 それらを観た時に、「格好の悪いことが、格好がいいことである。」と感じた。


 ところが、北野武監督の作品に出演する彼自身は、まことに格好がいい。『その男、凶暴につき』、『ブラザーズ』、『座頭市』。何となく、わかる気もする。しかし、残念ながら、そんなに魅力を感じない。


 それと、真逆に松本監督の作品に出演する松本自身は、格好悪い。月30万円の生活費で、日本を救い、家庭的にも恵まれず、強い相手に対しては、逃げ帰ってしまう。最後は、アメリカのヒーローに助けられ、さらに、いろいろと注意を受ける。「あの時に、あうするべきだ。」と言われるのである。格好が悪い。

  『ダウンタウンのごっつええ感じ』の『トカゲのおっさん』シリーズは、とても好きなシリーズであった。トカゲと人間の間の子として存在している「トカゲのおっさん」は、身体的なハンディがありながら、気負いなく生きている。

 彼の姿かたちを見て、人々はいろいろな反応をする。一人の人間の中の優しさとエゴを上手く描いていた。それを観て、私は松本人志と言う人の奥の深さを感じた。しかも、それを笑いにのせているのである。すごい才能である。


 以前、NHKで松本人志が旅をする番組を観た。彼が旅先として選んだのは、ゴッホとアンネ・フランクのゆかりの土地であった。以外に思う人もいるかもしれないが、私は納得がいく。彼の笑いは、単純なものではない、憂いがあるのである。「おもろうて、やがて哀しき」である。


 だから、もう一度、松本人志監督に映画を作る挑戦をしてほしい。格好が悪いまま終わるのではなく、「格好悪いことが、実は、格好いいのだ」と示して欲しい。



Zは、私のことを、決して、名前で呼ばなかった。
『あなた』と呼ぶ。
私のことを、『あなた』と呼ぶ人が、
もう一人、過去にいた。
彼は、中国人だった。
同じアジア人でありながら、
我々日本人は、他のアジア人とあたかも一線を画しているかのように
考える節がある。
あるドラマで、我々日本人のことを
「バナナ」と呼ぶアフリカ人がいた。
見かけは、黄色だが、皮をむくと白い実が出てくる。
結局は、自分たちを白人と同じように考えているという比喩である。
私は、「うまいこと、言うなぁ。」と感心した。
アジア人が、日本で暮らす苦しさを私は二人の人物から学んだ。
一人は、中国人男性で、
もう一人、同じマンションに住む韓国人女性である。
この二人は、祖国では、
底辺に暮らす人たちでは、ない。
上流社会に属する人たちだ。
彼らは、私に言った。
『日本人で普通に接してくれるのは、あなただけだ。』と。
私は、いつも関心を抱くのは、
その人間の持つ深さや、特異性や、あるいは、美しさであった。
人種や、背景は、関係がなかったのだ。
私の知り合いの中には、
中国映画は好き、という人も
実際は、中国人と関わりを持とうとしない。
それどころか、馬鹿にしたような発言をする。
自分と関係のない小説や映画の世界は受け入れることはできても、
直接的な人間関係は避ける。
これが、現実なのかもしれない。
それに、残念ながら、私自身も、今や中国人に対して、いい感情は持ち合わせていない。