この作品を初めて観たのは、「GYAO」の無料映像であった。モノクロ映画で、たたずまいに惹かれるものがあった。
タイトルから想像がつくかもしれない。もっとわかりやすく言うと『悪い血筋』である。
DNAという言葉が普通に話されるようになったのは、いつの頃からだろうか。確かに、いろいろな要素が先祖から引き継がれる。いい部分も悪い部分も含めて。
骨肉の争いと言うのは、同じ血が流れているだけに、相手の行動が、自分自身に跳ね返り、すざましく憎んでしまうのではないだろうか。自分の中にある悪い部分を身内に見つけたときに、ゾッとしてしまう。
この映画を観たときに、池田の小学生殺害事件の犯人の父親が、息子のことを『親の手に負えない。』と、自分の責任ではないと話していたことがふっと頭をよぎった。
この物語の母親も自分の娘に悪い種子を見つけたとき、衝撃を受け、思い悩む。そして、自分の母親が殺人犯であることを知る。その遺伝子が隔世遺伝子となり、自分の娘に引き継がれたことを確信する。
一体、悪い遺伝子-殺人者という要素は、引き継がれるのか。
村上春樹の『ノルウェーの森』でも、直子の姉が自殺したときに、彼女の父親が「俺の血筋かな。」と話していた。
私たちは、誰かを親に持つ。好むと好まざると関らずに、その一部の要素は、引き継がれる。一族の顔と言うのがある。たとえば、冠婚葬祭のときに親戚が集まる。私はすぐに父方、母方と区別がつく。父方の容貌は大方、標準以上である。きれいな顔をした親戚は、父方である。それに比べて母方には、何人か、「え、これは人間?妖怪?」という人がいる。父方の親戚はエゲツナイ性格の人が多い。人間として冷たいのだ。信用ができない。
私は自分の中に父方の親戚の誰それの一部を感じると、とてつもない嫌悪感を感じる。なぜなら、具体的な人物が目の前にいて、それを私自身がみているからだ。それは、漠然とした人物像ではない。
ただ、この話に関して言えば、我々が日常的に感じる血のつながりではない。夫の優柔不断なところが自分の子供に引き継がれている、そんなレベルではないということだ。ここでの物語は、致命的な問題である。しかも、それが、年端もいかない自分の娘に認められたときに、まともな神経の人間であれば、選択肢がそんなに多くはない。誰を犠牲にするべきか、つきとめていくと一つしかない。
ここでは、結末は述べない。なぜなら、最後の字幕で、結末を話さないように注意書きが書かれているから。
『悪い種子』と名づけられたこの映画は、極限的な血液の悪い流れを示しているが、我々も自分自身でさえどうにもならない部分があるということを強く感じさせられる。