近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら
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二見興玉神社から伊勢神宮・豊受大神宮(外宮)へ。
そして、皇大神宮(内宮)に参拝いたします。

堀川に架かる火除橋を渡り、正宮 豊受大神宮を目指します。

昨年、豊受大神宮(外宮)に参拝した時の拙ブログは→こちら

正宮 豊受大神宮(外宮)
伊勢市の中心部、高倉山の麓に鎮座する豊受大神宮は、衣食住、広く産業の守護神である豊受大御神をお祀りし、古くから内宮に対して外宮と並び称されています。
今から約1500年前、天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)として丹波国(たんばのくに)から現在の地にお迎えされました。内宮の御鎮座から約500年後のことです。以来、外宮御垣内の東北に位置する御饌殿(みけでん)では朝と夕の二度、天照大御神を始め相殿(あいどの)及び別宮の神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)が続けられています。
由緒
豊受大神宮のご鎮座は『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』や『豊受皇太神御鎮座本紀(とようけこうたいじんごちんざほんぎ)』によると、雄略天皇の御代に、天照大御神が天皇の夢に現れてお告げをされたことによります。その内容は、「一所(ひとところ)にのみ坐せば甚苦いとくるし」ということと、「大御饌も安く聞食きこしめささず坐すが故に、丹波国の比治の真名井(ひじのまない)に坐す我が御饌都神、等由気大神(とゆけのおおかみ)を、我許(あがり)もが」と教え諭されたことでした。天皇は夢から目覚められて、等由気大神を丹波国からお呼びになり、度会の山田原に立派な宮殿を建て、祭祀を始められました。これが「御饌殿の創設」、「日別朝夕大御饌祭の創祀」を始めとする御鎮座の由来です。 -伊勢神宮公式Webより

多賀宮
多賀宮は、外宮に所属する四別宮のうち、第一に位しています。殿舎の規模も他の別宮よりも大きく、正宮に次ぐ大きさです。ご祭神は、豊受大御神の荒御魂。
由緒
今から約1500年前、第21代雄略(ゆうりゃく)天皇22年に天照大御神の御神勅によって豊受大御神が丹波の国から御饌都神(みけつかみ)として迎えられ、豊受大神宮が創立されたのと同時に創建されたと伝えられています。外宮には多賀宮、土宮(つちのみや)、月夜見宮(つきよみのみや)、風宮(かぜのみや)の四別宮がありますが、多賀宮だけは『止由気宮儀式帳』および『延喜神名式(えんぎじんみょうしき)』に記載され、他の別宮が後年、宮号宣下(きゅうごうせんげ)されたことに比べると、別宮として特別な待遇を受けています。 -伊勢神宮公式Webより

伊勢神宮 外宮 御朱印

駐車場に戻ると車が増えていました。
しかし、後ろを向けて駐車しているアホな車が多いことにビックリ。


皇大神宮(内宮)に到着。


五十鈴川にかかる宇治橋を渡り、五十鈴川御手洗場で身を清めます。

そして、天照大御神様(御正宮)に会う前に取次ぎをされる神様・
瀧祭大神をお祀りします瀧祭宮を拝礼します。

昨年、皇大神宮(内宮)に参拝した時の拙ブログは→こちら

正宮 皇大神宮(内宮)
神路山(かみじやま)、島路山(しまじやま)の麓、五十鈴川のほとりに鎮座する皇大神宮は、皇室の御祖神であり日本人の大御祖神である天照大御神をお祀りしています。
今から2000年前、皇位のしるしとして受け継がれる三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)をご神体として伊勢の地にお祀りし、国家の守護神として崇める伊勢信仰は平安末期より全国に広がりがみられました。現在でも全国の神社の本宗として特別に崇敬を集めます。
由緒
瓊瓊杵尊に授けられた宝鏡は八咫鏡(やたのかがみ)と呼ばれ、天皇が天照大御神をお祀りするご神体となっています。八咫鏡は代々宮中で天皇ご自身がお祀りされていましたが、崇神(すじん)天皇の御代になるとお側でお祀りすることに恐れを抱かれ、皇居を出られ、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に神籬(ひもろぎ)を立ててお祀りすることになりました。
そこでは、天皇にお代わりして、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が皇大御神をお祀りしていましたが、垂仁(すいにん)天皇の御代に、倭姫命(やまとひめのみこと)が新たに皇大御神をお祀り申し上げるにふさわしい地を求められることになりました。倭姫命は大和の国を始め伊賀、近江、美濃の諸国を巡られた後、伊勢の国の度会(わたらい)の地、宇治の五十鈴の川上に到られ、皇大御神のお教えのままに「祠やしろ」をたててお祀り申し上げることになりました。今からおよそ2000年前のことです。祠は社やしろとも書き、家や屋の代という意味で、大きなお祀りに際してその度新たにたてられる建物のことです。神籬や祠のように臨時にたてられる建物が、神の宮、つまり神宮と呼ばれるほどに大きな規模になったのは、天武天皇から持統天皇の御代にかけてのことと考えられています。20年に一度の大祭、神宮式年遷宮もその時代に始まりました。 -伊勢神宮公式Webより

荒祭宮
荒祭宮は、内宮に所属する十別宮のうち、第一に位しています。殿舎の規模も他の別宮よりも大きく、正宮に次ぐ大きさです。ご祭神は、天照大御神の荒御魂(あらみたま)。神様の御魂のおだやかな働きを、「和御魂(にぎみたま)」と申し上げるのに対して、荒々しく格別に顕著なご神威をあらわされる御魂の働きを、「荒御魂」とたたえます。 -伊勢神宮公式Webより

伊勢神宮 内宮 御朱印

続いて、導きの神、旅の神でもございます猿田彦大神をお祀りします、
猿田彦神社に参拝いたしました。 昨年の参拝時の拙ブログは→こちら

猿田彦神社
歴史・由緒
天孫降臨を啓行(みちひらき)された猿田彦大神は、高千穂に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を御案内した後、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)と御一緒に本拠地である「伊勢の狭長田(さながた)五十鈴の川上」の地に戻り、この地を始め全国の開拓にあたられました。
そして、神宮第一の古典『皇大神宮儀式帳』等にあるように、宇治土公宮司家の祖先で猿田彦大神の裔である大田命が、倭姫命の御巡幸に際して、猿田彦大神が聖地として開拓された五十鈴の川上にある宇遅(宇治)の地をお勧めし、そこに皇大神宮(内宮)が造営されました。そのため宇治土公家はその後、神宮において代々「玉串大内人(たまぐしおおうちんど)」という特別な職に任ぜられ、式年遷宮で心御柱と御船代を造り奉るなど、重要な役割を果たしてきました。
-猿田彦神社公式Webより

佐瑠女神社(境内社)
ご祭神:天宇受売命(あめのうずめのみこと)
天照大御神が天岩窟(あめのいわや)にこもられたときに神楽をされ、大御神が再び現れて平和な世を迎えられたと伝えられます。天孫降臨の際は猿田彦大神と最初にご対面、 大神が御啓行(みちひらき)の後は詔により、ともに五十鈴の川上の地に来られ、功により"媛女君"の称号を受けられました。
俳優(わざおぎ)、神楽、技芸、鎮魂の祖神と仰がれます。
-猿田彦神社公式Webより


猿田彦神社 御朱印 佐瑠女神社 御朱印
つづく
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