2023年5月1日(月)、京都市内(四条堀川)にある京都フランシスコの家の跡地を訪れました。京都駅から四条大宮行きのバスに乗り、その四条大宮から四条堀川方面に向かって5分ほど歩いて岩上通りを曲がると京都フランシスコの家の跡地があります。

 

 

私の青春時代にオランダ人司祭であるルカ神父(本名 = ルーク・ヘンドリック・ホルスティンク = Luke Hendrick Holsting)の思い出が詰まっている京都フランシスコの家が2013年秋頃に老朽化為解体された更地を見て涙が出るのではないかと内心少し心配していましたが、午後1時ちょっと前に現地に到着した際には京都フランシスコの家の鍵を保管して下さっている小林さんというお向かいのお家にお住まいの町内会長さんが明るく私を出迎えて下さったので、自分の心を昔の思い出から現実に引き戻すことができました。ちょうど、その時、小林さんは京都フランシスコの家の中庭だった場所に植えられている樹木にお水を上げて下さっていました。

 
 

 

下差し 現在、長野県佐久市内にあるカトリック教会で司牧されているルカ神父さまは今日から1か月の間故郷のオランダで夏休みを過ごされる予定です。(2023年4月9日(日)カトリック佐久教会で録画しました。)

 

ルカ神父さま:「8日、来月第一の日曜日の次の月曜日、私は一ヶ月向こうに残る。」とおっしゃっています。

 

 

そして、2013年の秋頃に京都フランシスコの家が老朽化の為解体されてからルカ神父さまは大阪市生野区にあるフランシスコ会生野修道院で2014年まで理事長として過ごされた後、84歳で長野県佐久市内にあるカトリック佐久教会へ赴任されたのでした。もう、これから3年間お元気にカトリック佐久教会でのお務めを終えたら再び大阪市生野区にあるフランシスコ会生野修道院で隠居生活をされることになります。100歳までお元気でいてほしいです。

 

※ お年寄りというのは、絶対にそうという訳ではないのですが、もし例え病気もせず体が丈夫でお元気そうに見えても耳や頭がやられていることが多いんですよね。だから、100歳になっても私たちの顔を認識できるようお祈りします。お願い

 

 

 

※ これまでにルカ神父さまについて書いた記事がこちらになります。

 

 

下差し そして、私がカトリック佐久教会を初めて訪れたのが2015年1月12日(月)でした。新幹線で行くと軽井沢駅の次の佐久平駅で下車します。田舎の教会にしてはキレイな教会でした。

 

 

 

下差し 2016年のゴールデンウイークにカトリック佐久教会へ行き、ルカ神父さまのオランダから来日されたご親戚の方々と共に佐久市内を観光した際に書いた記事です。

 

 

 

下差し そして、今年の4月9日に再びカトリック佐久教会で復活祭のミサに出席した際のことについて書いた記事です。

 

 
 

 

下差し そして、京都フランシスコの家に住んでいたのはルカ神父さまだけではなく、オランダ人司祭のゲラルド・サレミンク神父さまもいらっしゃいましたが、1997年4月に亡くなられました。十字架

 

ゲラルド・サレミンク神父さまは、とても物静かな方でしたが生前には戦時中に日本軍に捕虜として苦しめられて亡くなられたオランダ兵たちのご遺族と共に水巻町に慰霊碑を立てる為の活動をしていらっしゃいました。

 

(画像提供:十字架の塔 心の旅路)

 

その頃、まだ19歳だった私はゲラルド・サレミンク神父さまがそのような素晴らしい司祭であったことすら知らず、私がゲラルド・サレミンク神父さまについて覚えていることは単に彼は毎日ヨーグルトきのこを食べていらっしゃったということだけでした。ヨーグルトきのこを大きな瓶で培養して毎日牛乳を入れて食器棚に置いて発酵させての生活をされていました。当時、あの頃は万能薬とされるヨーグルトきのこが流行っていましたが、私が京都フランシスコの家に宿泊する時はいつも関西空港からドイツへ戻る前日でしたので「ヨーグルトきのこを少し分けて下さい!」といえませんでした。 

 

そして、その年の次の夏休みだったか・・・、私が再び関西空港からドイツへ戻る際に京都フランシスコの家に宿泊した時にルカ神父さまが私に「ゲラルド、死んじゃった。」とおっしゃったのでした。その時の私の気持ちは「悲しい」と同時に「ヨーグルトきのこって万能薬じゃないじゃない!」ということでした。それから、私の中でヨーグルトきのこに対する憧れは消えていきました。

 

ゲラルド・サレミンク神父さまがお亡くなりになられた後、入れ替わり立ち代わりでフランシスコ会のドイツ人司祭や修道士が京都フランシスコの家で暮らすようになりましたが、最終的に最後まで住んでいたのはルカ神父さまだけでした。

 

 

下差し 京都フランシスコの家の跡地で今年の5月1日(月)に撮影した中庭の風景がこちらになります。1987年に京都フランシスコの家が売りに出される前は染物屋さんが所有する京町家でした。町内会長の小林さんがおっしゃるには、この京都フランシスコの家がある岩上通り四条下る佐竹町の周辺は染物職人の方々が暮らす地域なのだそうです。

 

 

下差し この写真は、1988年に、私が19歳の頃の春休みに京都フランシスコの家を訪れた際にルカ神父さまと共に撮影しました。背景には現在でも跡地に残されている中庭が写っています。

 

 

下差し 私が石川県金沢市内にある四年制大学で学んでいた頃、カトリック広坂教会に通っており大学2年生の時に参加した黙想会を指導する司祭がルカ神父さまでした。

 

ドイツ語もおできになるルカ神父さまとゲラルド神父さまが住んでいらした当時の京都フランシスコの家は京都を旅する外国人が宿泊する施設も完備されていていました。その外国人の宿泊客と英語やドイツ語で交流したいが為に私も頻繁に京都フランシスコの家に出入りしていたのでした。

 

 

上差し 昭和生まれの私ですから大学生の頃は全く化粧もせず男っぽい性格でしたので股を広げて座っています。

 

あの頃、私が目指していたのはアイドルの松田聖子さんでもなく中森明菜さんでもない、ドイツ人の平和活動家で緑の党政治家でもあり原子力発電所反対運動の活動家として知られていたペトラ―・ケリー(Petra Kelly)氏でした。自分なりにドイツ人女性のサバサバさとブレない意志と主張の強さ、女性を感じさせないカッコ良さに憧れていたのでした。

 

 

上差し 因みに、ペトラ―・ケリー(Petra Kelly)氏が書いた著書「Um Hoffnung Kaempfen」を和訳したのは大学時代の恩師である田村光彰教授です。

 

 

 

下差し こちらが、京都フランシスコの家の見取り図です。ふっと思い立って昨夜5時間かけてWINDOWのペイントで作成しました。

 

京都フランシスコの家の最初の所有者は染物職人の方であったと書きましたが、典型的な「うなぎの寝床」と呼ばれる京都風の奥行の長い京町家でした。その染物職人さんが所有されていた頃に店舗として使用されていたと思われる玄関の土間が「フランシスコの家・キリスト教文化資料館」でした。その店舗の部分と実際に暮らす住居は別々になっていました。

 

※ もう少し手直しして再度記事として投稿したいと思います。

 

下差し こちらが2階の部分になります。「フランシスコの家・キリスト教文化資料館」の上の2階は外国人観光客者が宿泊する為のゲストハウスになっていました。私がこの京都フランシスコの家に出入りするようになったのは1988年で、ルカ神父さまとゲラルド神父さまが北海道から京都へ転勤になられたのが1987年でしたから、あの頃はまだゲストハウスにリノヴェーションしている最中でした。宿泊客用のお風呂とトイレを造っていたのを見ていました。そして、最初に宿泊客用のトイレとお風呂を私が使わせて頂きました。

 

因みに、私がいつも泊めて頂いていたお部屋は図上では自転車置き場の横のお部屋でした。

 

上差し 神父さま方の個人のお部屋は母屋の2階にありました。

 

 

下差し 1988年にルカ神父さまと共に合同撮影した際に背景になっていた中庭が今でも残されています。

 

 

下差し ちょっとスマホのアプリを使って撮影した為、左右が逆になってしまっています。

 

 

下差し そして、当時の写真を真似てルカ神父さまの代わりに町内会長であり京都フランシスコの家の鍵を保管して下さっている小林さんと合同撮影しました。あの頃に撮影した同じ場所であるものの、もう既に中庭は枯山水状態ですから全く別ものですね。

 

 

現在、町内会長をされている小林さんとは今回が初対面ではなく、約20年前にお会いしているんですよね。小林さんは忘れてしまわれたようでしたが、ルカ神父さまが玄関の戸を施錠して出かけてしまった為に中に入ることができずスーツケースを小林さんの玄関に置かせて頂いたことがありました。

 

 

下差し もう37年前のことですので私の記憶も確かではないものの、この聖母マリア像は中庭に立っていたと思うんですよね。京都フランシスコの家の解体後は、こうして祈りの家の前に立って私たちを出迎えて下さっています。お願い

 

 

下差し こちらが新して建てられた祈りの家「信仰の初穂 日本26聖人殉教者発祥の地」の看板があります。

 

 

下差し この灯篭は、あの頃もあったと思います、そのまま中庭に立っていると思います。

 

 

下差し こちらの灯篭は、町内会長の小林さんのご説明によると隠れキリシタンの遺品で下に「人間」の形が彫られているのがお分かりでしょうか?

 

 

下差し この「人間」の形がイエス・キリストには見えないですが、隠れキリシタンは隠れなければならない訳ですからイエス・キリストに見える形だと殺されてしまいますからね、仕方がないです。

 

 

下差し こうして改めて見ると、大きさはもっと大きかったですが京都フランシスコの家の母屋に似ています。

 

 

下差し この小道に沿って尖っているコンクリート製の石が置かれているのは、日本26聖人殉教者たちが逃げ回っていた町々です。

 

 

下差し こちらが、祈りの家の玄関ですが・・・

 

 

下差し ちょっと良く分からないのですが、そのまま縁側から出入りできるようでした。縁側の窓ガラスから内部を見ることもできます。

 

 

下差し 町内会長の小林さんがご厚意で祈りの家の内部もお見せして下さいました。お願い

 

 

下差し 町内会長の小林さんのお家ではないですが・・・、殆ど小林さんに全てをお任せしてある為、小林さんが内部の展示品などについてご説明して下さいました。

 

 

炎 そして、祈りの家の前で小林さんと奥さまと3人で昔のことを思い出しながら立ち話をしているとご近所でボヤ騒ぎがありました。消防車の音が聞こえると直ぐに私たちは3人で野次馬のように走り現場へ行きました。

 

 

炎 消防車と救急車が駆けつけてきましたが、どうにか消防車と救急車が到着する前に鎮火することができたようでした。

 

 

やっぱり、町内会のことですからどの家が何を商売とされているか皆さんご存じで、このボヤ騒ぎがあったのはデイケアの会社でした。本当にボヤ騒ぎで終わって良かったです。この地域は住宅が密集していますのでね、火事があると村全体が消滅する危険性があるでしょう。