あけましておめでとうございます
ずーっとご無沙汰したまま、間が空いてしまい、年を越してしまいました。
ご訪問ありがとうございます。
早速?ですが、昨年の記事から引き続き、高千穂の歴史を紐解いて行きます。
高千穂町上野地区の鬼切畑という所(画像中央左奥の二つの峰は二上山、その左側の小高い丘は国見ヶ丘)
「鬼切畑」
凄い地名です。
「鬼切石」
伝承によると、この地に現れた荒ぶる神、「鬼八」が十社大明神(高千穂神社祭神、初代神武天皇兄神)に一太刀、斬り付けられたものの、外れ、この石を切ったので、その時の太刀跡ということです。
「鬼切石」の由緒?(説明表示板)によると、「鬼八(走建はせたける)」は、力あるままに高千穂を領し、美女を求めて乱行するなど民を悩ましていたため退治されることになった」とありました。
鬼八は、押方の乳ヶ窟から逃れて(押方)横原(地名が具体的です)三ヶ所内ノ口、諸塚、椎葉、米良山に入り肥後(熊本)の八代を経て阿蘇谷から祖母山に至り、身を隠し、その後、押方の二上山に帰るべく、この地に現れたのだそうです。
高千穂八十八社に数えられる聖域だそうです。
窟は、巨大な磐座のようで?その下の部分に、どこまで続いているのか未確認(だそうです)の空間(穴)がありました。
鬼切畑で負傷を負ったものの、その場を逃れた鬼八は、ついに住処を目前にした三田井神殿市の堀で撃たれ、退治されてしまいます。
鬼八の住処だったと伝えられる押方や高千穂峡一帯?のアララギの里に隣接する小高い丘の上にある高千穂神社は元々、鬼八に象徴される高千穂土着の民の王?の神殿だったのではないでしょうか?
高千穂神社の鎮座地は、高千穂町内外、九州各地の古社や先史時代の遺跡、祭祀場跡、聖域との直線的配列が指摘されています。
高千穂八十八社の総社である高千穂神社の鎮座地は、各地の祭祀場や聖域との直線的配列の交点に位置していることから、太古の先史時代から日本人の祖先の信仰の重要な祭祀場だったことが伺えます。
撃たれた鬼八はその後、度々生き返り、民を悩ませた為、三つに切り離し、それぞれを高千穂神社周辺の三ヶ所に埋めたと伝えられています。
一度、退治された鬼八が度々生き返り、民を悩ませたとの言い伝えは、鬼八とは一人の反抗者ではなく、支配者に反抗した複数の土着の民衆だったのではないか?ということが伺えると思うのです。
高千穂で撃たれる以前の鬼八が椎葉や熊本、阿蘇などに出没?したという伝説も、鬼八に例えられる反抗者が各地に存在していたことを物語っていると思います。
この場所に立つと二上山の山頂と高千穂神社、天香具山山頂、天岩戸神社が一直線上に並んで位置していることが実感できます。(反対方向の二上山男岳山頂と五ヶ瀬町の祇園山山頂も同様)
(高千穂神社は阿蘇の縄文時代の巨石遺構、押し戸石の丘と宗像大社とも直線的に並んでいます。また高千穂神社を挟んだ反対方向には宮崎県日向市美々津の巨石遺構、石神山が位置しており、一直線に並んでいます)
このように壮大な祭祀場の直線的配置を可能?にした私たち日本人の祖先の太古の先史時代の信仰とは一体、どんなものだったのでしょうか?
皇室の祖先神、天孫降臨神話の聖地、日本神話のふるさと高千穂は、鬼(土着の民)を支配した支配者と支配者に反抗した鬼(土着の民)との攻防の歴史を伝える場所でもあると思います。
神と鬼の伝説についても、「そこまで書いてもいいんですか⁉︎」というところまで書かれています。
この一冊をきっかけに高千穂のことをより深く知っていただけたら幸いです。
続きます。
最後までお付き合いくださりありがとうございました。
今年もよろしくお願いいたします。