【 「 田原レイマン 」 の 記事 】 | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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Q. [ 田原礼幡 ] の墓碑の 田原レイマン のことは、フロイスの 「 日本史 」 の どこに記述されているのですか。

 

A. 「 日本史 」 に記述されているのではなく、

 1575年5月4日付、堺発信の、カブラル宛の フロイス書簡 の中に

記述されています。

 

 河内キリシタン達の名前や、三ケ ( 三箇 ) などの地名が 多く登場

する、貴重な史料ですので、その内容を紹介しますと、

 

● ロレンソ修道士は、本年 ( 1575年 ) の初めの頃から 復活祭に

かけ、出血を伴う下痢を病み、また 胃弱で 高熱を発し 嘔吐した。

 三ケマンショ ( 頼照の息子の 頼連  ) は、自らロレンソの食事を

用意し、深い愛情を示した。

 

 フロイスは、四旬節の二日前 ( 2月17日 )、ロレンソと共に 三ケ

赴いた。

 フロイスが 日曜 ( 2月20日、和暦 正月10日 )、摂津に向かったところ、淀川の対岸で ダリオ ( 髙山飛騨守 ) から迎えられた。

 フロイスは、荒木信濃 ( 村重 ) を伊丹に訪い、「 正月の礼 」 を行い、歓待された。

 高槻に戻り、オルガンチーノが 三ケに至った。

 

 フロイスと ロレンソは、 若江 に赴き 三十名に授洗したが、その中には、池田丹後守 ( シメアン 教正 ) の生まれたばかりの息子もいた。

 庄林コスメ は、その地で 模範を示した。

 

 聖週と 復活祭は 三ケ で盛大に催され、甲可、若江、田原、堺などからのキリシタン 三百名が集まった。

 

 当時、五畿内のキリシタンは、ミサの際、日本の改宗のため、

 「 パーテル ・ ノステル 」 と 「 アヴェ ・ マリア 」 の祈りを 各三回 大声で祈る習慣があった。

 

 復活祭には、石橋 ( 義忠 ) が 三ケ に来た。

 復活祭の一週間後 ( 4月10日 )、フロイスは 三ケを出、堺と 烏帽子形 ( えぼしがた ) のキリシタンを訪ね、

 ついで 都に至り、

 オルガンチーノと共に、信長から親切に迎えられた。

 ( ※ 信長は、4月13日に入京、相国寺 慈照院 に宿泊 )

 

 池田丹後守、三ケマンショ、結城ジョアン、田原レイマン、その他

河内のキリシタン武士も 信長に挨拶に赴いた。

 

 尾張からは 毎年のように、コンスタンチイノ が、復活祭を祝うために、七十歳にもかかわらず 都にやって来た。

 

 フロイスは、4月23日、池田丹後守、三ケマンショと共に、三ケに至った。

 

 

       【 大阪 ・ 河内大会 】 に出席いただいた方からの

        お礼状に添えられていた 、見事な 柿の 墨絵

 

 

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 ※ こちらも < おすすめ >  【 カレー風味の チヂミ 】

 

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 ※ というわけで、今日 ( 11/27 ) の 一品料理

  昼食に、【 カレー風味の チヂミ 】 に チャレンジしてみました。

  ズッキーニのコリコリ感と カレー風味が 新鮮で、おいしかった

 です!

  考えてみれば、チヂミは、いろんな材料や味を試してみて、

 おいしく食べればいいんですよネ。