【 基調講演 ・ 「 河内キリシタン 」 は どうなっていったのか? 】 ( 6 ) | 高山右近研究室のブログ

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監修 右近研究家・久保田典彦
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   神田宏大牧師の妻 ・ マサミさんが、参加者全員にプレゼント

    してくださった ステキな 折り紙の   【 薔薇の花 】

 

 

● 神田牧師は、長年、「 河内キリシタン 」 について、研究して来られました。

 

・ 飯盛城主 三好長慶の家臣ら 73名が、キリスト教の信仰を持

 ち、集団洗礼を受けたこと

 

・ 近畿地方における キリシタン宣教の 初期段階で、最もキリス

 ト教が広がり・繁栄した場所であったこと

 

・ 日本で 最も古い 「 キリシタン墓碑 」・そして 2番目に古い 

 「 キリシタン墓碑 」が、河内で発見されていること

 

 ━━ これほどの 「 河内キリシタン 」たちが、その後の 豊臣秀吉や 徳川幕府による、苛酷な 反キリスト教の権力支配のもとで、どのようになっていったのか?

 「 寺請制度 」で、強制的に 寺の檀家に組み入れられ、キリシタン信徒であることが見つかったら、自分たちや家族だけではなく、「 五人組制度 」 の中にあって、連帯で責任を取らされ、皆殺しにされるということさえある危険の中にありながら、どうしていったのでしょうか?

① 信仰を捨てていったのか?
②「 隠れキリシタン 」として 潜伏するために、苦悩していた

  のか?
③ そのような 厳しい状況の中でも、命懸けで、

 “ 自分は キリシタン信者である ” ということを 密かに語ろう

 として、その思いを 秘密裏に 発信していたのか?

 
 この 3つの内の どれだったのでしょうか?


 ━━ そのようなことさえ、見逃さず ・ 許さないほどの、苛酷な、徳川幕府による、国家権力の安泰を図る手段としての、大禁教・反キリスト教政策だったのです。
 あれほどの、キリシタン信仰の 「 聖地 」 として栄えた 河内のキリシタン達は、いったい、どこに・どのような形で潜伏していたのだろうか?


 ━━ というのが、神田牧師の、長年の疑問だったわけです。

● 通称 「 野崎観音 」 は、正式には ()眼寺(げんじ) という 曹洞宗の禅寺です。本尊は、十一面観世音菩薩。

 

 先代の (いっ)(ぽう) 和尚を、神田牧師が訪れた時、
「 神田先生。この寺が、キリシタンとかかわりがある と聞いているが、いったい誰に尋ねていいのやら 分からんので、一度、キリシタンのことを ゆっくりと教えてくださいや。」

 

「 神田先生。この寺の境内の 小字名(こあざめい) は 『 波羅奈沢 』

( はらなさわ )、もしくは

『 ハライザオ 』 と言いますねん。
 これは、『 ハライソ 』( 天国 )から来たんと違いまっしゃろか。

 

 この 南の石段を降りていくと、この下が 『 地獄谷 』 という 小字名ですねん。
 キリシタンと関係があるのだっしゃろか。」

 ━━ さあさあ、どうなのでしょうか ???

 
 
 
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      山崎合戦前の 円明寺川 「 月下の斥候 ・ 斎藤利三 」
                                   (としみつ)
 
             「 山城 小栗栖 月 」 ( おぐるす)
 
 
 ※ 今日 ( 11/25 ) の、思い出の写真!
              2008.6.7 ( 土 )
        「 野崎観音の謎 」 の 出版記念講演会
 

 

              熱く語られる 神田宏大牧師

 

   今は亡き お二人。 露の五郎兵衛 師匠が挨拶されています。