神田宏大牧師の妻 ・ マサミさんが、参加者全員にプレゼント
してくださった ステキな 折り紙の 【 薔薇の花 】
● 神田牧師は、長年、「 河内キリシタン 」 について、研究して来られました。
・ 飯盛城主 三好長慶の家臣ら 73名が、キリスト教の信仰を持
ち、集団洗礼を受けたこと
・ 近畿地方における キリシタン宣教の 初期段階で、最もキリス
ト教が広がり・繁栄した場所であったこと
・ 日本で 最も古い 「 キリシタン墓碑 」・そして 2番目に古い
「 キリシタン墓碑 」が、河内で発見されていること
━━ これほどの 「 河内キリシタン 」たちが、その後の 豊臣秀吉や 徳川幕府による、苛酷な 反キリスト教の権力支配のもとで、どのようになっていったのか?
「 寺請制度 」で、強制的に 寺の檀家に組み入れられ、キリシタン信徒であることが見つかったら、自分たちや家族だけではなく、「 五人組制度 」 の中にあって、連帯で責任を取らされ、皆殺しにされるということさえある危険の中にありながら、どうしていったのでしょうか?
① 信仰を捨てていったのか?
②「 隠れキリシタン 」として 潜伏するために、苦悩していた
のか?
③ そのような 厳しい状況の中でも、命懸けで、
“ 自分は キリシタン信者である ” ということを 密かに語ろう
として、その思いを 秘密裏に 発信していたのか?
━━ そのようなことさえ、見逃さず ・ 許さないほどの、苛酷な、徳川幕府による、国家権力の安泰を図る手段としての、大禁教・反キリスト教政策だったのです。
あれほどの、キリシタン信仰の 「 聖地 」 として栄えた 河内のキリシタン達は、いったい、どこに・どのような形で潜伏していたのだろうか?
━━ というのが、神田牧師の、長年の疑問だったわけです。
● 通称 「 野崎観音 」 は、正式には 慈眼寺 という 曹洞宗の禅寺です。本尊は、十一面観世音菩薩。
先代の 一峰 和尚を、神田牧師が訪れた時、
「 神田先生。この寺が、キリシタンとかかわりがある と聞いているが、いったい誰に尋ねていいのやら 分からんので、一度、キリシタンのことを ゆっくりと教えてくださいや。」
「 神田先生。この寺の境内の 小字名 は 『 波羅奈沢 』
( はらなさわ )、もしくは
『 ハライザオ 』 と言いますねん。
これは、『 ハライソ 』( 天国 )から来たんと違いまっしゃろか。
この 南の石段を降りていくと、この下が 『 地獄谷 』 という 小字名ですねん。
キリシタンと関係があるのだっしゃろか。」
━━ さあさあ、どうなのでしょうか ???
https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12212866865.html
https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12212670517.html
熱く語られる 神田宏大牧師
今は亡き お二人。 露の五郎兵衛 師匠が挨拶されています。