豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(12) | 気まぐれな梟

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 今日は、「愛と青春のうた [Disc 1]」から、中村雅俊の「ふれあい」を聞いている。

 

 宝賀寿男の「豊臣秀吉の系図学(桃山堂)」(以下「宝賀論文」という)は、秀吉の母親やその兄弟姉妹、秀吉の兄弟姉妹は、鍛冶とかかわりがあったと以下のようにいう。

 

(13)鍛冶屋奉公の伝説 

 

 浅井氏の居城であった小谷城の城下に、草野という集落があり、古来、鍛冶で有名なところです。この地に秀吉にまつわるひとつの伝承があります。秀吉はこの地で生まれ、少年のころ、草野の鍛冶屋で奉公していたというのです。中公新書「豊臣秀吉」のなかで小和田哲男氏が紹介しており、よく知られた話だとは思うのですが、とうてい史実とは考えられないこともあって、それほど注意を払われていないようです。
 

 草野神社では秀吉が祭神の一柱として祀られ、神社から歩いて一、二分のところにある源五郎屋敷跡が秀吉の鍛冶修行の場所と伝承されています。

 

(a)戦国時代の全国屈指の武具の生産地、草野

 

 草野は戦国時代、全国屈指の武具の生産地で、とくに「草野槍」と呼ばれた槍が有名でした。江戸時代以降は農家で使われる鍬や鎌などを製造する野鍛冶に転じています。明治時代のはじめの記録によると、百十軒の鍛冶屋があったといい、滋賀県内はもとより岐阜県をはじめ他県にも得意先を持っていたそうです。現在の地名でいえば、長浜市鍛冶屋町あたりです。すでに産業としての役割は終えていますが、鍛冶場の施設は保存されており、定期的に実演も披露されています。

 

 草野の鍛冶集落から草野川に沿ってくだると、七キロメートルほどで国友です。ここには戦国時代から江戸時代にかけて多くの鉄砲鍛冶がいて、大阪の堺とともに二大産地となっていました。秀吉の鍛冶屋奉公は不可思議な伝承というしかありませんが、草野といい、国友といい、日本列島において最高水準の鍛冶集団がこの地で活動していたのは紛れもない事実です。
 

(b)鍛冶屋奉公伝説の発生


 なぜ、鍛冶屋奉公伝説が発生し、語り継がれたのでしょうか。

 

 ひとつの可能性としては、信長の家臣時代、秀吉は長浜城主としてこの地を治めていたので、それを懐かしむ民衆によって、伝説が捏造されたということが考えられます。領主であった秀吉の求めに応じて、草野の鍛冶たちは大量の槍を生産しています。その功を大として、今後、夫役を免除すると記した秀吉の書状が地元の旧家に伝わっているので、秀吉に対する親しみの感情があったことまでは確認できます。


 しかし、民衆による素朴な創作という解釈に納得することができないのは、私たちは種々の系図の検討を通して、ふたつの情報を得ているからです。

 

 ひとつは、いくつかの系図が秀吉の先祖の地を近江国浅井郡としていることです。秀吉の曾祖父の出生地とも伝わる丁野と草野は、わずか五、六キロメートルほどの距離です。

 

 もうひとつの情報は、「太閤母公系」のほかいくつかの所伝により、秀吉の母方は代々の鍛冶と伝わっていることです。

 

 このふたつの情報を踏まえて、草野における鍛冶屋奉公伝説を凝視してみると、この伝説のもつ背景は相当に奥深いのではないかという印象が募ってきます。

 

 桃山堂の編集者は「秀吉は信長に仕えるまえ、各地を放浪していたようですが、父親の縁故の地である浅井郡に来て、鍛冶師のもとに滞在した事実を反映した伝承ではないでしょうか」という推理を披露していました。

 

 秀吉自らが来たよりは、その父祖がなんらかの形で草野の鍛冶集団と関係したのかもしれません。

 

 宝賀論文は、このように秀吉の「鍛冶屋奉公伝説」を否定するが、後述する、秀吉の「薪拾い」伝承も併せて考えれば、家を出て放浪していた秀吉が、近江国浅井郡草津村で鍛冶職人の下で鍛冶に従事していた可能性は高いと考えられる。

 

(c)大和国宇多郡草野村からの移住

 

 江戸時代に書かれた地誌「近江輿地志略」に、草野鍛冶をめぐるひとつの伝えが記されています。


 源頼朝、大和国宇多郡草野村より鍛冶一人、此地に召し置かる。今に其子孫多し。

 

 将軍頼朝が大和国の宇陀郡にいた鍛冶を近江の草野に連れてきて、今の草野の鍛冶師たちはその子孫だというのです。頼朝のことは信じがたいですが、大和からの移住者によって、当地における鍛冶がはじめられたという所伝は史実を反映している可能性があります。宇多郡、宇太郡と漢字表記はいろいろありますが、現在の奈良県宇陀市あたりに相当します。ここは「太閤母公系」の鍛冶系図が、秀吉の遠祖としている佐波多村主の定住地にほかなりません。朝鮮半島から日本に渡来したあと、大和国宇太郡に居住していたことが『新撰姓氏録』に書かれています。


(d)奈良県の宇陀市域に刀鍛冶がいた


 日本刀鍛冶の始祖とも称される伝説的な刀工、天国は宇陀を拠点としていたといい、奈良県宇陀市菟田野稲戸というところに天国が作刀のときに使ったと伝承される井戸があります。JR宇陀駅からバスで二十分、国宝の社殿で知られる水分神社があり、そこから歩いてひと山越えた集落にある八坂神社が井戸のある場所です。取材に行った桃山堂編集者からの報告によると、刀剣の愛好者が時々訪れるようです。井戸のそばに、社伝をしるす板があって、境内において石凝姥神や天目一箇神の後裔たちが崇神天皇の御前で神鏡、神剣を造ったと書かれています。いずれも製鉄や鍛冶の祖神的な存在の神です。


 天国の名とともに語られる名刀、小鳥丸は平家の重宝として知られており、現在は皇室御物となっています。刀鍛冶の系譜を載せた最古の史料といわれる「銘尽」にも、天国の名があり、大宝年中(八世紀初頭)の人としていますが、実在の人物であるかもはっきりしておらず、佐波多村主と同族なのかどうかもわかりません。 

 

 室町時代から江戸時代にかけて、奈良県の宇陀市域に有力な鍛冶集団がいたという記録はありません。しかし往古、この地域に刀鍛冶がいたのは確かであるようで、富山県域における刀冶の主流は、鎌倉時代末期、大和国宇陀郡より移住した古人道国光を祖とすると伝えられています。それによって、「越中国宇多派」と称しています。


 今も昔も、奈良から北陸に向かう人は琵琶湖に沿って北上して、国境の山塊を越えて越前に入ります。草野の鍛冶集落のある長浜は、都から北陸に至る道の真ん中にあるのですから、奈良の宇陀にルーツをもつ鍛冶がいたというのは地理的な整合性ももっています。

 

 弥生時代の青銅の鍛冶に対する鉄の鍛冶は、古墳時代の中期の秦氏の渡来によって日本れ島に伝播していくが、秦氏が定住したのは河内国や和泉国と大和国の葛城地域であり、葛城地域から三輪山山麓や宇陀郡にも秦氏と共に鉄鍛冶は伝播していき、宇陀郡にも鍛冶集団の拠点が形成され、その末裔が宝賀論文が指摘するように刀鍛冶となっていったと考えられる。

 

 鉄鍛冶は全国の鉄鉱石や砂鉄採取ができるところに拡散していき、それらの鉄鍛冶の拠点は流通・交通のネットワークで繋がっていたと考えられ、宝賀論文が指摘するように「都から北陸に至る道の真ん中にある」草野は、伊吹山系の鉄鉱山を後背地に持つ鉄鍛冶の拠点の一つであったと考えられる。

 

 そして、いつからか、大和国宇陀郡の刀鍛冶が有名になると、そこから刀鍛冶の人達が、各地の鉄鍛冶の拠点を繋ぐネットワークをたどって拡散していったと考えられ、その一部が近江国浅井郡の移住先に故郷の村の名と同じ草津の名を付けたと考えられる。

 

 宝賀論文によれは、「諸系譜」の「太閤母公系」では、秀吉の母の「なか」の系譜は天蓋包永という大和国の刀鍛冶が初代であり、天蓋包永は佐波多村主の後裔であるとしているというが、「新撰姓氏録」によれば、この佐波多村主は大和国宇陀郡に住んでいた渡来系氏族であるという。

 

 この「太閤母公系」の伝承は、本来は美濃国の有名な鍛冶職人だった関鍛冶の伝承であり、鍛冶職人だった「なか」の家系が、自分たちは関鍛冶の一族であったということを主張するために、関鍛冶の系譜に自分たちの系譜を接続したことで、「なか」の家系の先祖伝承とされたのであったと考えられる。

 

 だから、「なか」の家系は末端の鍛冶職人の家系であって、美濃国の有名な鍛冶職人の関鍛冶の系譜とは繋がらないものであったのだが、「なか」の家系がこうした系譜を創作したのは、末端の鍛冶職人であった自分たちの家系を飾ろうとしてからであり、そのことから、「なか」の家系が、末端ではあっても代々の鍛冶職人の家系であったと考えられる。

 

(e)秀吉の母方、父方の情報の草野での交差

 

 草野鍛冶と秀吉を結びつけているのは、民間伝承にすぎないので、話を飛躍させすぎるのは禁物ですが、母方、父方の情報が、この地において交差しています。

 

(14)秀吉の「薪拾い」伝承

 

(a)海外の宣教師の報告書に書かれた秀吉の「薪拾い」の伝承

 

 渡邊大門「戦国大名は経歴詐称する(柏書房)」(以下「渡邊論文」という)は豊臣秀吉の出「薪拾い」伝承について、以下のようにいう。

 

 秀吉の極貧というべき生活ふりは、イエズス会の報告書(「一六〇〇年及びヱ『○一年の耶蘇会の日本年報」)にも、以下のように詳しく記されている。

 

 彼(秀吉)はその出自がたいそう賤しく、また生まれた土地はきわめて貧しく衰えていたため、暮らして行くことができず、その生国である尾張の国に住んでいたある金持の農夫の許に雇われて働いていた。このころ彼は藤吉郎と呼ばれていた。その主人の仕事をたいそう熱心に、忠実につとめた。主人は少しも彼を重んじなかったので、いつも森から薪を背負って彼にいいつけることしか考えなかった。彼は長い間その仕事に従事していた。

 

 秀吉の出自を物語る、同時代に近い史料としては、朝鮮の儒学者・姜伉の著書「看羊録」がある。同書には、「(秀吉の)父の家は、元来貧賎で、農家に雇われてどうにか活計(生計・生活)をたてていた」と書かれている。
 

 パブロ・パステルスの「16-17世紀 日本・スペイン交渉史」に引用された史料には、「関白殿は(かつては)薪売りに過ぎなかったのに、(今や)皇帝になったことを誇りとし、もはや全国を従え……(以下略)」(大修館書店)と書かれている。
 

 これらの報告書などを見る限りにおいては、秀吉が若い頃、薪売りで生計を立てていたのは、諸外国まで広く知られた事実であった。

 

(b)秀吉が「薪拾い」をしていたのは鍛冶職人か須恵器職人のところ

 

 渡邊論文は、秀吉は織田信長に仕官する前に薪売りで生計を立てていたことがあったという。

 

 秀吉は「いつも森から薪を背負って」いたというが、一般の農家でそれほど薪が必要だったとは考えられない。

 

 雄略大王の時代に大和国の葛城地域にいた秦氏は雄略大王によって移動させられ、山城国を北上して、葛野や深草に定住して付近を開発したが、そのとき、秦氏と一緒に鴨氏も移動していき、京都盆地に定住して賀茂神社を奉斎した。

 

 秦氏と鴨氏がセットになっているのは、秦氏が従事していた鍛冶に、その燃料の木材を供給していた人々が鴨氏に組織されていたからであった。

 

 鍛冶や須恵器製作には大量の薪が必要になり、和泉国の陶邑窯の近くには鴨氏がいて、鴨氏は三河国の猿投窯の近くにもおり、全国の賀茂郡や加茂郷には、近くの須恵器窯などへの燃料としての木材を供給するためのものも含まれていた。

 

 そうすると、秀吉に「いつも森から薪を背負って」くるようにいいつけていた「ある金持の農夫」は、鍛冶職人か須恵器職人であったと考えられる。

 

(c)秀吉が「薪奉行」で成果を上げたのは「薪拾い」の経験があったから

 

 渡邊論文は、秀吉が織田信長の下で「薪奉行」だったと以下のようにいう。

 

 ここで執筆しておくべきことは、若き秀吉が信長のもとで薪奉行をしていたという「甫庵太閤記」の記述である。


 「甫庵太閤記」によると、信長から薪奉行を申し付けられた秀吉は、一年間にどれだけ薪が必要かを分析し、現行の三分の一の量で済むのではないかと考えた。その結果、年間に一千石ばかりを無駄にしているとの報告を信長にしたのである。秀吉の高い計算能力や企画提案能力がうかがえる。


 この提案によって、秀吉は信長に改めて才覚を認められ、さらに出世を遂げることになった。よく知られている逸話の一つである。具体的な年次は不明であるが、おおむね永禄初年のことと考えてよいであろう。

 

 ここで、秀吉が「一年間にどれだけ薪が必要かを分析し、現行の三分の一の量で済むのではないかと考えた」のは、「一年間にどれだけ薪が必要かを分析」出来たのは、おそらく、彼が須恵器職人、または須恵器職人のもとで「薪拾い」をしてきた経験があったからであったと考えられる。

 

(14)秀吉は鍛冶のネットワークを活用して「放浪」していた

 

 渡邊論文によれば、秀吉が確実な史料に登場したのは二十九歳のときであったと以下のようにいう。

 

 秀吉が確実な一次史料に登場するのは了水禄八年(一五六五)十一月のことである(「坪内文書」)。秀吉は天文六年(一五三七)の生まれといわれているので、史上に登場したときには、もう二十九歳になっていた。

 

 豊臣秀吉が織田信長に仕官したのは天文十三年(一五四四)ごろと言われ、そうであれば秀吉が十八歳ごろことであり、秀吉が「おね」と結婚したのは永禄四年(一五六一)と言われ、そうであれば秀吉が二十五歳ごろのことであったと考えられる。

 

 秀吉が筑阿弥の家を出されて光明寺に預けられたのが八歳のときで、光明寺から追放された秀吉が、筑阿弥の家を出て放浪生活に入ったのが十歳のときであったとすると、途中の松下之綱に仕官した時期を含めると、秀吉が織田信長に仕官する前に、八年間の放浪生活があったことになる。

 

 そして、途中に尾張国愛知郡清須の乞食村への流入があったにしろ、この八年間を秀吉が生き抜けたのは、近江国浅井郡草野村の秀吉の「鍛冶屋奉公伝説」や秀吉の「薪拾い伝承」の存在から、秀吉は、やみくもに放浪をしていたわけではなく、鍛冶に係わる人達のネットワークを活用して、それらに人々の間を転々として生活し、その道中は、おそらく彼の指が六本ある右手と去りに似た顔を活用して、猿真似の大道芸で針を売って移動していたのだと考えられる。

 

 そして、彼が鍛冶に係わる人達のネットワークを活用できたのは、彼の母系が鍛冶職人の家系であり、彼の母親の「なか」も、そのネットワークを活用して生き延びてきたからであったと考えられる。

 

 渡邊論文は、「秀吉が薪売りをしていたことは史実の可能性が高いが、秀吉が信長のもとで薪奉行をしていたという話は創作で」、「秀吉が、薪奉行だった話は若き頃の薪拾いとしての経験を膨らましたものと考えられる」というが、秀吉の「薪拾い」が鍛冶職人の下で働いていたときのことであり、そこでの経験が、秀吉が「薪奉行」として薪を節約することを可能にしたとすれば、秀吉の「薪奉行」に話は創作とは言えず、渡邊論文の主張には従えない。

 

 鍛冶と秀吉は強く、そして深く結びついていたのだと考えられる。