豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(13) | 気まぐれな梟

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 今日は、「愛と青春のうた [Disc 1]」から、小坂明子の「あなた」を聞いている。

 

 宝賀寿男の「古代氏族の研究⑱ 鴨氏・服部氏(青垣出版)」(以下「宝賀論文2」という)は、豊臣秀吉の母系の家系の鍛冶との係わりについて以下のようにいう。

 

(15)秀吉と猿と日𠮷大社

 

(a)日吉大社と猿

 

1)日吉大社の祭神は山の神「大山咋命」

 

 比叡山連峰の八王子山(牛尾山)の東北麓、近江国志賀郡、現・大津市坂本に鎮座する日吉大社(山王総本宮)は、崇神天皇の御世に創祀されたと伝え、全国三千八百余の「日吉・日枝・山王」という名の神社の総本宮とされる。

 

 祭神は大山昨命と鴨玉依姫(妃神ともいう。摂社の樹下宮で祀る)を主体に東本宮で祀るが、西本宮のほうには大己貴命や宇佐宮・白山宮等も祀られる。これは、天智天皇が大津京遷都で即位した時に、強力な地主神に加えて、強力な神々を更に加えたといわれる。

 

 懸造りの奥宮などがある牛尾山頂の付近には、金大巌(こがねのおおいわ)と呼ばれる大きな磐座もある。日吉大社の東本宮参道の脇にも霊石があり、正面から見た凹凸が、しゃがむ猿の形に似ていて、「猿の霊石」と呼ばれる。日枝山(比叡山)に日吉大社があり、葛野の松尾山に松尾大社があって、ともに大山咋神を祀るが、この共通の祭神を祀る社の存在だけではなく、八王子山と松尾山の両方には、巨大な磐座と古墳群(日吉社東本宮古墳群、松尾山古墳群)もあって、共通点が多い(江頭務氏の「日吉大社 山王三聖の形成」)。


 祭神の「大山咋命」という神は、「奥津日子神。次に奥津比売命」(竈神のカップル)の弟とされ、「亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝山(比叡山、八王子山)に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と伝える。

 

 日吉大社の山王祭は、湖国三大祭りの一つに数えられるが、そのなかに四月十四日の「申の神事」「神輿渡御」もある。

 

2)日吉大社の神使は猿

 

 日吉大社では猿を神使とする。猿神は、太陽神の使者とされるサルの化身であるが、中世日本の説話にはサルの妖怪としても登場する。日吉大社と猿との関連性についてはよく分からず、「山末之大主神」が鉱山神という性格で、鉱山探索の山歩きに由来するものか。「鉱脈を求めて歩く鉱山師の一団は猿のように見える」との説もあり、金山彦神に通じる(猿田彦神にも通じるか)。大山咋神の妻の化身が雌猿ともいうが、これは肯き難い。

 

 美作国苫東郡の名神大社、中山神社は吉備弓削部などが関与したようだが、同社も猿に所縁がある。「今昔物語」や「宇治拾遺物語」には、「中山の猿神」が登場しており、猿神社は境内の後方五〇群の岩の上にある。同社は南宮社とも呼ばれ、美濃国の不破郡の名神大社・南宮大社(仲山金山彦神社。岐阜県不破郡垂井町宮代峯の南宮山の北東麓に鎮座)や恵那郡の中山神社(恵那市串原に鎮座。大和国吉野の金峯神社の分霊を勧請と伝える)とも、祭神が金山彦で同じであったとみられる。

 

3)日吉大社と猿は鍛冶に係わる

 

 1)2)の宝賀論文の指摘から、日吉大社の祭神の「大山咋命」の神格の「山末之大主神」は鉱山神であり、「鉱脈を求めて歩く鉱山師の一団は猿のように見える」ことから、猿が鉱山神に係る神社で重要視され、日吉大社の神使が猿とされたのだと考えられる。

 

(b)猿と秀吉

 

 「猿」といえば、豊臣秀吉を想起される方も多い。秀吉が勳名を日吉丸といわれ(後世に造られた名前ともいうが)、猿面冠者とも異称があるのも、日吉神社に関係ありそうだが、その辺が史実かどうかは不明である。

 

 すなわち、尾張国愛知郡中村郷(現・名古屋市中村区)の下級階層の生まれとされる秀吉には、清洲町朝日出身の母が清洲の日吉神社(愛知県清須市清洲に鎮座。清洲山王宮)に詣でた時日輪が懐中に入る夢を見て授ったとの誕生エピソードがあり、日吉丸の名の由来もそこにあるという。併せて、素早い身のこなしと彼の顔立ちは、日吉神社の神の使いの猿に似るとのことで、あだ名が「猿」になったともいう。

 

 こうした宝賀論文の指摘から、猿と秀吉の関係については、以下のように考えられる。

 

 秀吉の顔や姿が猿に類似していたのは事実であり、おそらく秀吉の幼名の「日吉」は、猿を神使としていた日吉大社、あるいはその系列の神社の名に由来するもので、もしかしたら「秀吉」の名も、彼が松下之綱か織田信長に仕えるようになったときに、「日吉」から作られた名であったのかもしれない。

 

 そして、そうした猿への類似と共に、秀吉の母系の家系では、日吉大社かその系列の神社の信仰が身近なものであったことからも、秀吉の幼名を「日吉」としたのだと考えられる。

 

 なお、「祖父物語」は父を尾州ハサマ村(甚目寺町廻間)生まれの竹アミ(筑阿弥)とし、秀吉幼名をコチク(小竹)とする。この点は「太閤記」も同じで童名日吉としながらも、信長はしばらく小筑と呼んだとある(「太閤素性記」。

 

 「祖父物語」がいうように、秀吉の本来の、というか母「なか」が筑阿弥と「再婚」して以降の、童名が「小筑」であったならば、そして「太閤素性記」がいうように、秀吉が信長に仕官してからしばらくの間、信長から秀吉が「小筑」と呼ばれていたとすれば、秀吉の「日吉」は、もしかしたら「秀吉」の名と共に、秀吉の母系の家系の信仰をもとに、信長によって下賜されたものであったのかもしれない、

 

(c)秀吉の日吉社崇拝と鍛冶


 こうした秀吉伝説には後世の捏造・偽作も多くあるかと思われるが、豊臣家が日吉社を深く崇拝しており、妻の寧々(北政所)もその母とともに日吉神社を深く崇敬したとされる。あるいは、寧々の実家も秀吉の父母関係の生家も、鍛冶関係で共通するものがあったか。

 

 鈴木真年は、愛智郡下中村の鍛冶五郎助の姪、「於仲」が秀吉の母だと記す(「史略名称訓義」)。どこまで信頼できる系図かは不明も、於仲の父が愛智郡御器所の関弥五郎兼員で、大和当麻の刀鍛冶天蓋氏や美濃の刀工文殊・関氏の流れを汲むという。この系図も「諸系譜」第二冊に見えており、これでは、下中村の五郎助兼善が於仲の伯父に記載される。

 

 こうした宝賀論文の指摘から、鍛冶と猿に係わる鉱山神の「山末之大主神」を祀る日𠮷大社を秀吉の母系の家系が信仰したのは、秀吉の母系の家系が鍛冶に係る家系であったからであったと考えられる。

 

(16)秀吉と鍛冶の係わり

 

 櫻井成廣・蒲池明弘の「豊臣女系図(桃山堂)」(以下「櫻井・蒲池論文」という。なお、本文は櫻井成廣、解説は蒲池明弘が書いているが、一括する)は、秀吉と鍛冶の係わりについて以下のようにいう。

 

(a)秀吉の母系は禰宜

 

1)秀吉の母方祖父は「尾張愛知郡御器所村の禰宜」説

 

 櫻井成廣氏の代表的な論文「現存する豊臣氏の血統」は雑誌「刀と剣道」の昭和十五年八月号に発表されており、そこから四十年ほどのあいだ、大幅な改稿が重ねられています。改訂原稿は五回前後、発表されており、最後の改訂において、ひとつの注目すべき見解が示されています。この論文には櫻井氏によって復元された系図が掲載されているのですが、母方祖父について「尾張愛知郡御器所村の禰宜」と記されているのです。

 

 櫻井氏はこの新説について本文では触れず、系図のなかに「禰宜」と記しているだけです。典拠となった史料あるいは情報源は何なのか、どの程度の確証を楼井氏がもっていたのか、そのあたりのことが書かれていないのです。この件について発言しないまま、他界してしまいました。

 

 楼井氏の作成系図に記された「禰宜」については系図研究家、早瀬瘧夫氏の「織豊興亡史 三英傑系譜考」をはじめ、いくつもの著作、論文で取り上げられています。

 

2)秀吉の母方祖父は「尾張海東郡萱津村の禰宜」説

 

 その後、名古屋市の郷土史家、横地清氏が「中村区歴史余話」(平成四年刊)のなかで、秀吉の母方祖父が禰宜(神官)であったという伝承を紹介していますが、横井氏の記述と少し違っています。秀吉の生まれた尾張国中村の川向こうにある甚目寺町(愛知県あま市)の人が記録していた次のような伝承です。

 

 秀吉公の母は此の萱津村の禰宜、八兵衛の娘で初産のため親元で出生した。八兵衛のあとが自宅を寺とし、林光院と称した。(中略)土俗の云う秀吉の生誕地である。

 

 この件について横地氏に問い合わせたところ、この文面はガリ版刷りのような粗末な冊子に書き残されていたもので、それ以外の資料は見つかっていないそうです。横地氏は「秀吉の生まれた中村には、木下という集落があったようで、神社につとめる人たちが住んでいたという話も伝わっています。秀吉にかかわるという確証はありませんが、気になるところです」と話していました。

 

3)秀吉の母の家系は神社に所属(=隷従)していた鍛冶職であった

 

 「豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(3)」では以下のように書いた。

 

 宝賀寿男の「豊臣秀吉の系図学(桃山堂)」(以下「宝賀論文1」という)は、秀吉の母親の生家について、鍛冶と禰宜(神官)という説を紹介しているが、「神社や寺院に従属していた鍛冶師も少なくない」のであれば、以前「中臣氏の出自について」で論述したが、中臣氏が枚方神社に隷従していた卜部氏の出自であったように、秀吉の母親の生家もどこかの神社に所属(=隷従)していた鍛冶職であったと考えられる。

 

 秀吉の母「なか」出生地は尾張国愛知郡御器所村とされるが、この御器所村の名の由来は、この村では古くから熱田神宮で祭事に使用する土器を作っていたからであったという説があり、御器所村にはそのための陶工が住んでいたと考えられる。

 

 御器所村で作られていた土器はおそらく須恵器であったと考えられるが、須恵器の処理は鍛冶の高温処理と同じであり、陶工と鍛冶職人は同一の存在であったと考えられる

 

 「なか」が御器所村で生まれたということは、彼女も父や母も御器所村に住んでいたということであるが、秀吉の母親の生家もどこかの神社に所属(=隷従)していた鍛冶職であったとすれば、移住先の尾張国でも同様の生業についていたと考えられ、そのために神社と関係が深い御器所村に住んだのだと考えられる。

 

 このように、秀吉の母親一家が御器所村に住んだことが偶然ではなく、そこに何らかの根拠があったとすれば、秀吉の母の生家は、古くは神社の隷従していた鍛冶職人の家系であったと考えられる。

 

4)御器所村で生まれ萱津村で出産した「なか」

 

 櫻井・蒲池論文が紹介する、秀吉の母方の祖父が神社の「禰宜」であったとする説は、おそらく、神社に係わっていた鍛冶職を神社の「禰宜」と美化して表現したものであったと考えられるが、伝承には、「なか」が生まれた村を御器所村とするものと萱津村とするものがあり、「なか」の父の名は前者では弥五郎、後者では八兵衛であったとされている。

 

 海東郡萱津村は庄内川を挟んで中村村の対岸にあり、中村村の東方に御器所村がある。萱津村にはヤマトタケルの東征伝承にも登場する萱津神社があり萱津村はその名のとおり庄内川の水運の津と鎌倉古道の宿場町であったが、萱津村の宿場の東宿は庄内川の対岸にあ、中村村と隣接していた。

 

 秀吉の母方の祖父が御器所村から中村村に移住してきたとすれば、おそらくそこでは萱津神社に係わる鍛冶を行ったと考えられ、その仕事の関係で中村村から萱津村に移住していた時期もあったのかもしれない。

 

 「なか」がその母の初産で萱津村で生まれたというのではなく、「なか」が自分の初産で萱津村の実家に帰ったというのであれば、そして、「なか」の初婚の相手が弥右衛門ではない別の人物で、清須に住んでいたのであったとすれば、「なか」の父はその時点では御器所村にも中村村にも住んでおらず、萱津村に住んでいたと考えられる。

 

 中村村との距離とその後の中村村との係わりなどからすれば、「なか」は御器所村で生まれ、結婚して清須に移住したが、萱津村の実家で初産を迎えたとすれば、1)と2)の伝承は矛盾はしなくなる。

 

 また、「なか」が「再婚」したとされる筑阿弥は、「祖父物語」によれば、海東郡甚目寺村廻間の生まれであったというが、この甚目寺村は萱津村の西隣にあった村であり、「なか」は、御器所村で出生し、家族と共に萱津村に移住し、おそらく清須に嫁ぎ、清須から帰って以降は中村村に住んだと考えられるので、「なか」の生活圏は、おおむね甚目寺村、萱都村、中村村の範囲であったと考えられる。

 

 なお、「なか」の家系の名字の「関」が、関鍛冶の出身だったという意味でしかなく、関兼員の名も後になって創作されたものであったとすれば、弥五郎ではなく八兵衛が正しい名だったのかもしれない。

 

(b)秀吉の母系の姓

 

1)秀吉の母は跡取り娘か?

 

 秀吉の父親はきわめて影の薄い存在です。実父とされる弥右衛門、継父とされる竹阿弥(筑阿弥)はその墓の所在さえわからなくなっています。弥右衛門が実の父親であるかどうかは今もはっきりせず、秀𠮷の家臣団に父方の縁者はほとんどいません。楼井氏によると、弥右衛門、竹阿弥ともに、「入夫」だというのです。入夫とは「女戸主と婚姻して、その夫となること。また、その夫」(広辞苑)。秀吉の生家の戸主(家長)は母親である。

 

 秀吉の母なかは跡取り娘だったと著者は考えている。「太閤素生記」[江戸初期の旗本土屋知貞の著作。父親は徳川家康に仕えた検校で、秀吉の御伽衆ともいうが不詳]と「平豊小説弁」には彼女が竹阿弥を入夫したと伝えており、入夫というのは跡取り娘が夫を他家から迎えることを意味するからである。

 

 櫻井・蒲池論文によれば、「なか」が入夫したと書かれているのは筑阿弥だけである。

 

2)弥右衛門を離別して生んだのか?


 さらに秀吉の実姉日秀尼がその余生を送った瑞竜寺の記録盲に、秀吉の実父木下弥右衛門の命日を天文十二年(一五四三) 一月二日と記してあることが渡辺世祐博士によってすでに発表されているし、幕末水戸藩の学者の編した「系図纂要」の号外十八にも「天文十二年正二死、織田信秀鉄炮方、妙雲院栗木」とある。この日付が重要なので、それは、なかが竹阿弥を入夫して後に生んだ秀長の誕生日、天文九年三月二日より後の死去である。秀長の妹旭姫の誕生は天文十二年で弥右衛門死去の年である。


 そこで、なかは弥右衛門の生存中に離別して竹阿弥を入夫して、秀吉の弟と妹とを生んだということになる。秀吉が実父弥右衛門の供養を公式に営んだ記録がないのは、それが離縁となって実家に戻り、木下家の人でなくなっていたからではあるまいか。

 

 しかし公式にではなく父祖の供養をしていたのではないかと思われる史料としては、茶の湯の「南坊録」さ巻之六墨引の巻に「一とせ殿下御曾祖父遠忌御執行の時」の文字がみいだされる。[「南方録」とも。福岡藩家老が編纂。千利休の秘伝書ということについては疑問視されている。

 

 櫻井・蒲池論文が指摘するように、弥右衛門の死亡日は、なかが竹阿弥を入夫して後に生んだ秀長の誕生日、天文九年三月二日より後の死去であり、秀長の妹旭姫の誕生は天文十二年で弥右衛門死去の年である。

 

 櫻井・蒲池論文はここから、弥右衛門は離縁されてて実家に戻り、木下家の人でなくなっていたと推定するが、秀吉の実父が弥右衛門や筑阿弥ではない別の人物であったという伝承もあるので、もしかすると、もともと弥右衛門と「なか」は正式な婚姻関係にはなく、弥右衛門の存命中に彼と「なか」との関係が解消されて、筑阿弥との関係が開始していたということかもしれないし、秀長や旭姫は弥右衛門の子であったのかもしれない。

 

 櫻井・蒲池論文が、弥右衛門は離縁されてて実家に戻り、木下家の人でなくなっていたと推定するのは、「なか」の家系が木下の名字を名乗っていたということを前提にしているが、その根拠はない。

 

3)秀𠮷の母系の姓が木下か?

 

 尾州愛知郡というのは名古屋市のある郡で、名古屋市の東部に「御器所村」(今は町)があって秀吉の母お仲はそこの人であったと伝えられ、市の西部には秀吉の誕生地「中村」がある。「御器所は名古屋市昭和区、中村は中村区。江戸時代はじめまでは、上中村、中中村、下中村の三つに分かれていて、秀吉は中中村の生まれと伝わる」とすると関家は御器所村に住んでいたわけである。また関といい、また兼の一字のつく点は刀工を思わせるが、刀工としての関は職名で本姓ではないから、関が本姓であれば伊勢の関氏の流れかと推測される。

 

 秀吉は微賤の生まれではあったが木下という苗字を持っていたのであるから、まったくの庶民とも思えない。


 木下という姓はおそらく居住地からきたのであろうが、尾張では犬山城の近くに木下村があり、伊勢の関の東隣に木ノ下村がある。木ノ下村は大古墳もあって古代から開けていたところであるから、ここにいた関氏の一支流が木ノ下を称し、他国に移ったかも知れない。

 

 櫻井・蒲池論文はこのようにいうが、以下のように考えられるので、従えない。

 

 宝賀論文1によれば、秀吉の母親の生家の系譜は、美濃の名高い鍛冶職人に繋げられているが、おそらくこれは、後世、秀吉の母系の系譜を創作する際に、秀吉の母親の生家が鍛冶職人だったので、美濃の名高い鍛冶職人の末裔ということにしたのだと考えられる。

 

 宝賀論文1によれば、秀吉の母親の生家は関氏とされているが、この「関氏」も、美濃の関鍛冶の末裔という意味で、秀吉の母親の生家が「関」という名字を名乗っていたわけではなく、関兼貞の名の「兼貞」も、美濃の関鍛冶の有力な一族の名を模倣して創作されたものであったと考えられる。

 

 そうであれば、「なか」の家系には名字はなく、関鍛冶の流れを自称する「関」の名乗りはあっても、木下の名字はなく、木下は秀吉が織田信長に仕官した際に付けられた名字であったと考えられる。

 

 だから、弥右衛門も筑阿弥も木下の名乗りはしていなかったと考えられる。

 

 尾張国丹羽郡木下村付近に楽田織田氏の織田勝久が木ノ下城を築城しているので、木下村にいた在地領主層を楽田織田家や岩倉織田家が組織して、彼らが織田家の家中の木下姓の武士になっていった可能性はあるが、それと弥右衛門が木下姓だったということが事実であるという主張が成り立つかどうかは、別問題である。

 

4)弥右衛門の旧姓は星野姓か?
 

 弥右衛門の旧姓はなんであったろうか。それを探るひとつの手掛かりは福島正則の伝記である。正則は星野成政の実子で福島家の養子になったのであるが、実父新左衛門が弥右衛門の腹違いの兄弟であったと「落穂集」【江戸中期の軍学者、大道寺友山の著作】にあるから、弥右衛門の実家の姓は星野氏であったと思われるのである。

 

 宝賀論文1は福島正則が星野成政の実子で福島家の養子になったことについては否定的であるが、福島正則が養子になってから弟や妹が生まれたとするならば、養子説はありうるかもしれない。

 

 その場合、星野新左衛門成政が弥右衛門の腹違いの兄弟であったとすれば、弥右衛門が鍛冶に係るので、星野新左衛門成政も鍛冶に係わっていたと考えられる。

 

5)木下家の本来の紋


 木下家の本来の紋がなんであったかがその系譜を知るひとつの大切な手掛かりとなるのだが、秀吉が太閤桐を使う前の紋が一向にわからない。もし関氏なら平家の揚羽蝶のはずであるが、福島正則が沢瀉紋を使うのは、秀次がもっとも単純な沢瀉紋を用い、日出の木下元子爵家【大分県日出町にあった日出藩木下氏。おねの兄家定の家系】も沢瀉紋を用いるので、それが木下の本来の紋だったからであろうと正則の子孫の方から教えられた。また細川家が秀吉から賜った紋も、伊達政宗が秀吉から賜った具足の紋も九曜であることもひとつの研究資料となろう。

 

 櫻井・蒲池論文はこのようにいうが、木下の姓は秀吉が織田信長に仕えたころに下賜されたもので、そのときに同時に、あるいは少し遅れて、おそらく沢瀉紋の家紋を用いるようになったと考えられる。

 

 以上みてきたように、これらの検討からも、秀吉と鍛冶は深く結びついていたと考えられる。