気まぐれな梟

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第九章王臣子孫を武士化する武人輩出氏族-「将種」への品種改良

↑パズルの最後のピースーーどこから武人的資質が持ち込まれたか

 武士を形作るのは、血統や技能や所領だけではない。武士である自覚と、そこから生ま
れる武士らしい生き様が不可欠だった。その生き様を中世には「弓矢の道」といい、古い
時代には「兵の道」といった。平良兼や平将門は、「兵の名(名誉)」を惜しんだ。

 良兼は甥の貞盛に、「兵は名を以て尤も先と為す。何ぞ若干の財物を虜領せしめ、若
干の親類を殺害せしめて、其の敵に媚ぶべきや(兵は名誉を最優先する。多くの財物を奪い、
多くの親類を殺した敵に媚びるものか)」と、兵の道を説いた。また将門は良兼と戦う前に、
「将門は偏に兵の名を後代に揚げんと欲す(私の望みは全く、兵として名誉を高めて後世に残

すことだ)」と表明し、「新皇」と称した後に京の摂政藤原忠平に送った書状で、「昔は兵  

威を振ぴて天下を取る者、皆、史書に見ゆる所なり。将門。天の与ふる所、既に武芸に在  
り。思ぴ惟るに、等輩誰か将門に比ばむ(天は私に、誰もかなわない武芸の才能を与えたよ
うだ。武力がある者が天下を取るのは。昔は普通だったと史書にある)」と豪語した。
 良兼や将門には、卓越した武芸の持ち主という自覚と、「兵」という自覚があった。そ
して「兵」として後世まで評価されたい欲求があり、そのためにどう振る舞うべきかとい
う問題意識があり、「兵」は保身を優先せず勝つまで戦いを挑むべき、という信念があっ
た。
 平高望の子の段階で、「兵」として技能と意識は完成の域に達し、孫の代で「武芸が誰
より強い自分は天下を取ってよいはずだ」と豪語して半ば実現するレベルに達していた。
そこまでの完成度が、外部からの補助なくして、一~二世代で獲得できるとは考え難い。
 ではその外部的な刺激、つまり王臣家を武士にする要因は何か。それが最後のヒースだ。
「兵」としての高い自覚や技術は通常、ゼロから自生してこない。いい換えれば、武人が
いない環境で生まれた男性が、誰からも教わらずにそうした自覚や技能を身につけること
はまずない。通常、それを教えるのは父親だ。将門の父良持は鎮守府将軍を務めた武人だ
から、彼が将門に仕込んだのだろう。では。良持にそれを仕込んだのは誰か。武人だった
証拠がない父の高望かどうかは怪しい。仮に高望が武人でも、彼にそれを仕込んだのは誰

か。早世した高見王ではあるまい。万一、高見王が武人でも、父の葛原親王がそれを仕込
んだ可能性は皆無だ。どこかで必ず。それを仕込んだ者が外から供給されたはずだ。
 それが何者か、平氏については証拠が何もない。しかし、秀郷流藤原氏にはヒントがあ
る。秀郷の曾祖父藤成は播磨介だった弘仁四年(八一三)に、俘囚対策に専従する「夷俘
専当」となり、ほかではあり得ない濃密な交流を蝦夷と持った)。その蝦夷は、
「生来騎射に長じ、朝廷の歩兵一〇人も蝦夷の騎兵一人の敵ではない」といわれた(四四
頁)。彼らの日本列島で最も優れた騎射術を学ぶ機会が、秀郷の祖先(を含む限られた夷俘
専当)だけにあった事実が、秀郷の比類ない武芸と無関係だと考える方が難しい。
 秀郷の武人的資質は卓越していた。何度も追捕の対象となりながら、かえって一国を制
圧した。そして、誰も勝てなかった将門を滅ぼした驚異的な軍功も、主に秀郷のものだ
(戦後の褒賞が秀郷だけ突出しているのが証拠)。さらに中世には、源頼朝をはじめ多くの武
士が、秀郷故実、つまり秀郷が子孫に伝えた弓馬術の技術や故実(合戦の作法や軍略)を
知りたがった。そのように中世武士の武芸の元祖のように扱われた者は、ほかにいない。
秀郷の超絶技能が独特・独自だったなら、それは独自の経路で身につけたと考えるのが自

然であり、それが夷俘専当という曾祖父藤成の地位だったと考えることも、極めて自然だ。
 子孫の小山朝政によれば、藤成の子の下野少掾豊沢は下野国の押領使で、「検断」を

一手に執行したという。押領使とは、国司のうち軍の統率に専従する者で、検断は犯罪の  
取り締まりだ。朝政の主張を信じるなら、豊沢は下野一国の軍事と警察を一手に任される
立場にあった。その地位は平均以上の武人的資質を必要としたはずで。それは父が夷俘専
当だった時期に、豊沢が蝦夷から弓馬術を学んだ成果と考えるのが自然だ。  

平氏にも、蝦夷から騎射術を習得する機会はあった。将門の父良持が鎮守府将軍として
陸奥に赴任した時だ。将門の、平氏一族の中でも抜群の強さとその自覚は、この父の経歴
と無関係ではあるまい。後述の小野春風の実例を参考にすると、将門は幼少の頃、父良持
と陸奥で暮らした可能性さえあり、しかも小野春風のように辺境防衛の最前線で少年期を
送った者は、蝦夷語を習得するほど蝦夷の生活に密着し、入り込んだ。もしそこまで蝦夷

の生活習慣の中に入り込んだなら、騎射術も直接習得する機会があった可能性が高い。
 なお、大部分は中世以降の系図一記録の情報だが、良持の兄弟の国香・良文や、国香の
子の貞盛にも鎮守府将軍の経歴があり、貞盛の弟の繁盛に陸奥守・鎮守府将軍の経歴があ
ったという。それらすべてが史実かは別として(貞盛は確実)、平氏一族の「兵」としての
自覚・技能が、陸奥で蝦夷と接して培われた可能性は否定できない。将門の乱を避けて貞

盛が陸奥に潜行しようとした事実は、陸奥に受け入れ先となる近しい縁者がいた証左だ。
 ただ、これだけですべてを説明するには無理がある。特に鎮守府将軍は。任じられる段

階ですでに武人である必要があり、その資質をどう調達したかを、説明せねばならない。
t元慶の乱に見る武人とその他の境界-誰が「将種」か

そのヒントは元慶二年(八七八)の蝦夷の反乱、元慶の乱にある。この時、小野春風が
鎮守将軍に、坂上好蔭が陸奥権介に登用され、精兵を率いて出羽に下った。登用理由は当

人の武勇と、小野・坂上氏が将を代々輩出する氏族だったことによる。
 大より擢んでた技能・心得を体得する最良の方法の一つは、誰より早く長く訓練を積む
こと、つまり幼時から学ぶことだ。そうした生まれの武人を「将種」とか「将家」と呼ぶ。
 坂上氏が将種であることは、初の征夷大将軍・坂上田村麻呂の傑出した武勲で明らかだ。
坂上滝守(田村麻呂の弟鷹養の孫)の没伝にも「坂氏の先、世に将種を伝ふ」と明記され
ている。また小野氏も「前右近衛将監小野春風は累代の将家にして、驍勇人に超えたり」
と評され、歴代武将を輩出する血筋だった(『藤原保則伝』)。
 春風は「少くして辺塞に遊び、能く夷の語を暁る」、つまり「夷語(蝦夷語。恐らくアイ
ヌ語)」を流暢に操るバイリンガルだった(『保則伝』)。弘仁四年(八一三)、俘囚の反乱鎮
圧のため父の小野石雄が陸奥に下った時、于の春風も下って最前線に身を置き、身につけ
た能力である。祖父の永見も鎮守副将軍として蝦夷征討に携わった。少なくとも祖父・

父・子の三代で蝦夷征討に従事した「累代の将家」であったことが、彼の武将としての才  
能を育んだ。彼は元慶の乱で登用されると、その経歴と能力を生かし、単身非武装で蝦夷
軍を訪ね、敵意がないことを蝦夷語で懇切に説いたので、蝦夷側もすぐに和睦に応じた。
 逆に。「「累代の将家」でないから戦乱に関わりたくない」と声高に主張されたのも、元
慶の乱が初めてだった。大納言の源多は当時、陸奥出羽按察使を兼ねていた。それは「陸
奥・出羽の諸軍事を督する」職、つまり陸奥・出羽の国司や鎮守将軍・副将軍などの、多
様で雑多なメンバーの蝦夷討伐軍全体を統轄する、重要なポストのはずだった。
 しかし、乱が始まるや否や、多は辞職を希望した。その理由は。「器は其の分に違ひ
……任は其の才を越ゆる(自分の器と能力では務まらない)」という自覚だった。そして彼
は自分の能力不足を証明する根拠として、「臣、族は将種に非ず、門は兵家を謝す(私の
一族は将軍を輩出する。将種・でなく、私の一家は戦士を輩出する。兵家”と関わりがありませ
ん)」と述べた。多の父は仁明天皇で、どう考えても「将種」ではない、という主張だ。
 元慶の乱では、藤原保則という人も、「身、旧文吏にして、いまだ嘗しより馬に跨り弓
を引くことを知らず(私は文官ばかり経歴し、昔から弓馬の術は少しも知りません)」と述べ
て参戦を辞退したが、摂政藤原基経は却下した。「天智天皇の時から藤原氏は勲功を重ね、
篤く頼られてきた。私は賢才でないが、畏れ多くも摂政として国を統べている。その私に

は紛争を収拾する責任があり。君は私の一族として令力を尽くすべきで、知恵と謀を尽
くして収拾にあたれ」と。要するに、ともに藤原氏の責任を果たそう、という話だった。
 基経が述べたのは、中大兄皇子(天智)と藤原鎌足が、蘇我入鹿を斬り殺した大化元年
(六四五)のクーデター(大化の改新の発端となった乙巳の変)のことだ。藤原氏の祖鎌足の
最初の大仕事は武力で天皇に貢献することで、それが藤原氏の原点だ。その後、どれだけ
平和で藤原氏が文官ばかりになっても、その原点を忘れず、必要に応じていつでも原点に
立ち戻るべきだ、と基経は諭した。基経が保則に求めたのは、官吏としての実績を見込ん
で軍略家、というよりも戦争自体を回避する智略を持つ政略家としての貢献だった。保則
は理に服して出羽権守として赴任し、期待通りにそれを果たしたのである。
 基経にいわせれば、「自分には文官しか務まらない」というのは誤った決めつけで、「私
は弓馬術を少しも知らない」というのは、個人的で小さな事情に過ぎない。多くの藤原氏
は、自分や父祖が文官ばかり経歴してきたので、自分たちは将種でないと決めつける。し
かし、将種かどうかは、その氏族が軍事的貢献を期待されて天皇に奉仕し始めたかどうか、
その原点というべき実績で決まるのだ、と基経は主張した。
 その実績が、源多の氏族にはない。というより、彼は仁明天皇の子で臣籍降下した一世
なので、彼より前に彼の氏族は存在しない。ならば彼に流れるのは君主の血であって、世54

襲的な軍人の血ではない。多が確かに不適格だと。基経に認めさせた理由はそこにある。  
↑母系の血と教育で王臣子孫を「将種」に転換する
 しかし、それなら同様に、桓武の曾孫高望王や清和の孫経基王も「累代の将種」ではな
い。ならば彼らの子孫はなぜ武士になれたのか。答えは一つしかあるまい。彼らの身にも
「累代の将種」の血は流れていた。ただし、父系の血でないなら、母系から供給された血
として、だ。
 私が父系・母系の血というのは、遺伝的な意味だけではない。片親の遺伝子が子に引き
継がれる可能性は二分の一で。特定の職業に望ましい父の資質は、必ず二分の一の確率で
消失する。しかし、それでも中世には、特定の家が何世代も武士の役割を果たし続けた。
武士の役割とは、武芸を磨き、戦で勲功を挙げ、主君のために討死すること、それらの責
務を果たすべき家に生まれた自覚を保ち、磨き、名を惜しむ(世の評価を重んじる)こと
だ。
 鎌倉幕府の成立後、武士の家は固定し、ほぼ世襲だけで維持された。その中には一定数、
武士に適さない遺伝的資質の男子が混在したはずだが、右の役割は果たされ続けた。遺伝
的な継承が不完全なのに特定の資質が保たれたなら、それを可能にしたのは教育しかない。

 古代・中世で子に教育を施すのは父などの家族だ。父が望むなら、武芸や戦士の心得を
父自身が教え、兄たちや後見人・従者に教えさせ、さらに血縁・婚姻・地縁・交友・同僚
関係などから、子の教育に適した人物に引き合わせ、武士の価値観と行動原理で動く集団
で生活させ、価値観や行動原理をたたき込む。これで、大抵の知識や技能は教え込める。
 まして、教育とは一種の洗脳なのだから、脳や身体が未熟なうちから知識・技能を反復
させればよい。それで脳や身体を知識・技能に最適化した形で発達させ、知識・技能を人
格や身体能力の一部に融合させられる。現代日本で伝統芸能の家元の子が、幼時から親の
芸を仕込まれるのと同じだ。天才的な家元からそうでない後継者が生まれるのは仕方ない
が、誰よりも早く持続的に専門教育を施せば、家元と名乗れる程度の専門能力は身につく。
t世襲的教育による「将種」坂上氏の形成

 そうした世襲的教育の利点を最大限に活用した古代氏族は、恐らく坂上氏だ。古代中国
で魏が帝位を簒奪した時、後漢の一二代皇帝・霊帝の曾孫の阿智使主が難を避けて朝鮮半
島の帯方郡に移住し、応神天皇の代に配下の民を率いてわが国に帰属した、と坂上氏自身
は主張している。しかしこの系譜伝承には、坂上氏が武人の資質に秀でるべき要素が全く

ない。武人としての活動が確認できる最初の人物は、奈良時代初期の坂上大国だ。詳細は

不明だが、大国は右衛士大尉という武官にあり。確実に武人だった。
 武人の資質を大々的に評価された初めての人物は、その子の天養である。天養は聖武天
皇の寵愛が篤く、正四位上まで昇り、聖武の娘の孝謙天皇の時に、聖武が執心した東大寺
の造営・修造を担う造東大寺長官を兼ね、晩年は優賞されて播磨守・大和守を歴任し、封
戸(税を取る権利) 一〇〇戸を与えられ、天平宝字八年(七六四)に八三歳で没した。彼は
父と同じ衛士府に勤めたが、聖武の引き立てで、父をはるかに超える左衛士督に昇った。
    おさな   ぶさい もつ たた     丶丶丶丶丶
犬養は「少くして武才を以て称へらる(少年期から武人の才能を讃えられた)」という。武
人の父から幼くして武人教育を受け。少年期までに資質を開花させたことが明らかだ。
 犬養の子の苅田麻呂は、武芸・武略・忠誠心という武人の資質を最大限に発揮し、坂上
氏の武人輩出氏族としての地位・名声を確立した。彼は天平宝字八年(七六四)の藤原仲
麻呂の乱で仲麻呂の子の訓儒麻呂を射殺し、称徳(孝謙)から賞として従四位下・勲二等
を授けられ、同時にカバネの忌寸に「大」の字を加えて「坂上大忌寸」姓に格上げされた。
 称徳は、信任していた頃の仲麻呂に恵美朝臣姓と押勝の名を与え、和気清麻呂に輔治能
真人姓を与え。道鏡事件で称徳を怒らせた清麻呂に別部穢麻呂の姓名を与えて貶めるなど、
臣の功罪を名で表現することを好んだ。しかし、彼女がカバネに手をつけたのは、後にも
先にも刈田麻呂の坂上大忌寸姓だけで、いかに特別々評価を袮徳が与えたかが窺える。

 姓やカバネは、その氏放が何者か(いかなる職掌で天皇に仕えるか)を示す標識で、子孫
まで継承される。称徳は苅田麻呂の武功をカバネに刻み込み、坂上氏が続く限り彼の武功
が想起される仕組みを作った。それは坂上氏に、いつまでも優れた武人輩出氏族であれ、
と望む称徳の姿勢を示す。これで坂上氏は、武人輩出氏族に特化する制度的裏づけを得た。
苅田麻呂は期待に応え、中衛少将・陸奥鎮守将軍・近衛員外中将・右衛士督と枢要の

武官を歴任し、数ヶ国の右を兼ねた。父犬養と同様の官歴を子が歩むことは、孫も同様の
官歴を歩むことを世人に期待させ、廷臣としての性質を家単位で固定させる効果を生む。

天皇の親衛隊長としての信頼は光仁・桓武にも引き継がれ、苅田麻呂は桓武から封戸五
〇戸を与えられ、右衛士督を務め、延暦五年(七八六)に五九歳で没した。彼の資質に対
する桓武の評価が極めて高いことは、彼に従三位を授け、坂上氏に初めて公卿待遇を与え
た事実に明らかだ。坂上氏は、武功によって廷臣最上層に食い込む道を開拓したのである。
 彼の没伝に、「苅田麻呂は、家、世に弓馬を事として馳射を善くす。宮掖に宿衛し、歴
て数朝に事ふ(苅田麻呂は、代々弓馬を専ら扱ってきた家の出身で、彼自身も騎射に優れ、何
代もの天皇に仕えて宮殿の宿直護衛を果たした)」とある。弓馬(=騎射)を代々専らにする
家”が、彼の代までに成立していたのである。

  ↑田村麻呂と子孫による「将種」坂上氏の確立と維持
     その子の田村麻呂の時、この家系の名声は頂点に達する。彼は延暦二三年(八〇四)に
    征夷大将軍となり、蝦夷の首長の阿弖流為らを生け捕った功績で従三位となった。これで
    父の位に到達し、官職でも公卿待遇となる参議に昇り、さらに中納言を経て、何と大納言
    まで昇った。大納言の上には三人の大臣しかいない。桓武は篤い信任を、議政官の最上層
    で政府の意思決定に参画させることで示したのである。武官としては、天皇の親衛隊長と
    して最も誉れある近衛大将に昇り、弘仁二年(八一二に五四歳で。京の東郊の粟田の別
    荘で没した。
     その年に終わった三十八年戦争の終局に田村麻呂は参加しなかったが、弟で陸奥介の鷹
    養が征夷副将軍として参加した。武人輩出氏族の一員として登用されたことは明らかだ。
      田村麻呂の資質を、没伝は「家は世に武を尚び。鷹を調へ馬を相で、子孫業を伝へ、相
    次ぎて絶えず。田村麻呂は赤き面、黄の鬚にして、勇力は人に過ぎ、将帥の量有り。帝、
    之を壮とす(代々彼の家は武を貴び、鷹狩をして馬の品質を見分け、子孫もその技能を連綿と
    継爪した。彼は赤ら顏に俶色の鬚を生やし、淮より勇敢で力が強く、全軍の長の器で、嵯峨天皇
    は素晴らしい才能を認めた、と紹介する。田村麻呂の特色は、闘争心と力に加えて統率

力まで兼備したことで、没伝には、「頻りに辺兵を将ゐ、出づる毎に功有り。寛容に士を
待し能く死力を得(頻繁に辺境の軍を率いて出撃し、必ず勝って帰ったが、それは寛容に接し
た将士が彼を慕い、率先して死力を尽くしたからだ)」ともある。
 彼ほどの将の才能を発揮した子孫はなかったが、武芸・武勇を評価された子孫は多い。
 例えば田村麻呂の次男の広野は、右兵衛佐・右近衛少将・右兵衛督と武官を歴任し、陸奥守として辺境の防衛に従事した。「少くして武勇を以て聞こゆ(少年期から武勇で名を
知られた)」という彼の評判は、間違いなく田村麻呂の教育の賜物だ。
 広野の弟(田村麻呂の四男)の清野は優秀で、「少くして家風に慣れ武芸絶倫(幼少から
家風に馴染んで武芸を磨き、並ぶ者がなかった)」と評された。彼は平城天皇が選抜して才
能・品格を審査した「天下の騎射抜群の士」二〇人に選ばれ、また平城が清野を含む三人
に競わせた「歩射(徒歩の射撃)」の技能では、清野が最も優れていた。嵯峨が即位すると
二七歳で鎮守将軍に抜擢され、翌年に陸奥介、後に右近衛少将・陸奥出羽按察使を歴任し
て、辺境の防衛を任された。蝦夷を懐柔する能力に優れ、「夷民和親し関塞無事なり(蝦
夷と日本の民が親しく和やふ靴共存し、辺境は安全だった)」と評され、その後、右馬頭・右
兵衛督と武人の官職を務めた。
 広野の子の当道も優秀だ。「大射の礼(射礼)」という、正月に廷臣に射技を競わせる行

事で射手が不足した年、仁明天皇は内舎人(天皇側近の雑用係的な警備係。四七頁参照)で
五位に満たない当道を詔で呼び出し、代役を務めさせた。「少くして武事を好み、弓馬
を便ひて射を善くし。才・調を兼ね有つ(幼少から武芸に習熟して騎射術に堪能で才色兼
備)」という当道の評判が高かったからだ。後に当道は右近衛少将・左兵衛大尉・左衛門
大尉・右衛門権佐と武官ばかり歴任し、検非違使を兼ねた。その後。左近衛少将を経て。
清和朝で陸奥守となり、常陸権介も兼任して広域の辺境防備を担い、任期後もなお後任者
の着任まで五年も陸奥に留まり、九年も在国した末に陸奥で死去した。当道の陸奥在国中、
辺境はよく治まって日本の民も蝦夷も安穏に暮らし、自分は清貧で通して、最期には布の
衾(植物繊維の寝具)一つしか携えていなかったという。
 田村麻呂の弟・鷹主の子の貞守も「武事を好み弓馬を便ふ(武芸を好み騎射に習熟)」と
評され、右馬助・左馬助を経て長く左近衛少将を務め、文徳朝で右馬頭に昇るまでは武人
の官職ばかり務め、後に受領を歴任した。彼は、軍事や狩猟に不可欠な鷹と馬の鑑定が得
意で、性質から産地まで、一つも見誤らなかったという。
 田村麻呂の別の弟・鷹養の孫(氏勝の子)の滝守も、「幼くして武芸を好み。弓馬を便
ぴ桝ひて、尤も歩射を善くす(幼年から武芸を好んで弓馬に習熟し、特に歩射に優れた)」と
評され、二九歳で左近衛将曹となり、「歩騎兼射して騎射の両方で、定

例の武芸訓練行事に奉仕)」した。後に左近衛将監・左馬助・右近衛少将と武人の官職で昇
進を重ね、右近衛少将ながら貞観一一年(八六九)に大宰権少弐を兼ねて九州の大宰府
に赴任した。新羅の海賊が大宰府を襲撃して略奪したため、滝守を派遣して防備軍を指揮

させたのである。その後、大宰少弐・左近衛権少将に転じて大宰府の防備を続け、陽
成朝の元慶三年(八七九)に陸奥守となったが赴任せず、同五年に没した。

 ↑「武芸絶倫」の「家風」と坂上氏の弓馬術
 このように、苅田麻呂までの三代は。武人の供給源・という特性を坂上氏の最大の特長
に育て、田村麻呂・鷹主・鷹養ら兄弟とその子孫はよく継承・展開した。朝廷が卓越した
武人を必要とする時はいつでも坂上氏から調達可能である、という形を築き、維持するた
め、田村麻呂の世代とその子孫は幼少期から徹底して「武芸を好む」よう教育された。多
数の氏族が存在意義(つまり官職)を熾烈に競い合う朝廷で、坂上氏は独自の存在意義を
確立し、坂上氏の需要を朝廷の中で保ち続け、氏族の没落を防ぐ試みに全力を尽くした。
 その彼らが身につけた「武芸」の内実が、「弓馬(騎射)」であったことに注意されたい。
右に述べた略歴を顧みれば、坂上氏の礎を築いた苅田麻呂、孫の清野と貞守、曾孫の当道
と滝守らは皆、歩射か騎射の達人だった。苅田麻呂は藤原仲麻呂の子の訓儒麻呂を射殺し、

 藤原薬子の乱で田村麻呂は薬子の兄仲成を射殺した。彼らの「武芸」は弓術だった。それ  
は弓矢が最強の武器で。それゆえに最も習熟困難な武器だったからだ。坂上氏が。誰より
頼れる武芸の専門家一族・であるには、最強の武芸である弓術を習得するしかない。
 世代を超えて氏族の構成員に継承される性質を、当時「家風」といった。坂上清野の没
伝に、「少くして家風に慣れ、武芸絶倫」とある。坂上氏は「武芸絶倫」=誰も並ぶ者が
ないほど武芸に熟達する「家風」を確立し、継続的に再生産した。
 その「家風」と血統の関係について、滝守の没伝に「坂氏の先、世に将種を伝ふ。滝守
は幹略にして家風を墜とさず(坂上氏は何世代も将種を伝え。滝守は家風を損なわない武勇と
智略を備えた)」とある。武人の「家風」を担い続ける血統が「将種」で、そこでは「種」
の字が露骨に。将帥にふさわしい遺伝的な資質・を表現した。彼らの血統を中国風に「坂
氏」と呼んだのは、そうした「将種」のブランド名なのだった。
t「将種」の注入による品種改良―葛井親王と坂上田村麻呂
 かくして、遺伝的資質と、それを開花させる発育環境を兼ね備えた「将種」が確立する
と、ほかの氏族の、品種改良”が可能になる。「将種」の血統を女系から注ぎ込むことで、
これといった特色のないの氏族に、武人の遺伝的資質や発育環境を提供する、という形でだ。

 そうした品種改良が人皇一家に対して行われ。目覚ましい成果を挙げ、特筆大書された
事例が一つだけある。桓武天皇の一二番目の子・葛井親王である。
 彼が匸一歳だった弘仁二年(八一回、正月の射礼のついでに嵯峨天皇が親王・群臣に
射技を披露させた。この時、嵯峨が戯れて葛井親王に「弟よ、お前はまだ幼いが弓矢を于
に執って射よ」と語ると、親王は二発射て二発とも的中させた。すると、これを見ていた
坂上田村麻呂が興奮・動揺・欣喜雀躍し、立ち上がって親王を抱きかかえ、舞い始めた。
 「舞」は喜びのあまり踊ってしまう動きを形式化して袖を振る所作で、最大級の喜びの表
明だ。同じ意味をこめて踊るように足を踏みならす「踏」と合わせて「舞踏」という。
(礼》思想の実践者である嵯峨が、中国から導入して朝廷の正式作法として定めたものだ。
 田村麻呂は嵯峨の前に進み出て述べた。「私は以前、数十万の軍勢を率いて蝦夷を討ち
ました。向かうところ敵なしでしたが、それは天(から天命を下された天皇)の権威を背負
ったからで、勇敢さや知略、用兵術のお陰ではありません。ところがこの親王はまだ少年
なのに、これほどの武芸の技能を持っておられる。私の全く及ばない才能です」と。嵯峨
は「なぜたか将軍(田村麻呂)は大袈裟に外孫を褒めすぎる」と笑った。田村麻呂は葛井
親王の外祖父(母の父)で、彼の褒め言葉は、要するに親馬鹿の一種なのであった。

桓武は晩年に田村麻呂の娘の春子を後宮に入れ、彼女が葛井親王を生んで「将種」坂上 

氏の血を引く皇子が誕生した。その能力は、右の親馬鹿話にとどまらない。葛井親王の没  
伝に「親王頗る射芸を善くし、外家大納言(田村麻呂)の遺風有り」とある。親王は弓術
に大変熟達し、その技に外祖父田村麻呂の遺伝的な風格を感じさせた、というのである。
 右の驚きようから見て。匸一歳まで葛井親王の教育に田村麻呂は携わっていない。しか
し、外孫の才能に気づいた田村麻呂が、それから教育に携わった可能性は十分にあろう。
 そして葛井親王は王臣家だ。ならば右の事例は、古代の伝統的な武人輩出氏族の血―
「将種」を女系から王臣家に注ぎ込み、人為的に「将種」に転換して開花させる品種改良
が可能だった証明にほかならない。これこそパズルの最後のヒースで、桓武平氏や清和源
氏の単なる貴人を、短期間で超強力な「兵」に転換させたトリ。クとしては、最も有望だ。

↑清和源氏に注入された坂上氏の「将種」と元平親王の詐謀
 従来、清和源氏の系譜は父系しか検討されなかったので、初代経基がなぜ突然「武士」
化したかは謎で、誰にも解けなかった。しかし。母系からの品種改良を想定してよいなら、
話は簡単になる。経基の母系の祖先をたどれば、その先に謎の答えが待っているはずだ。

残念ながら、経基王の母については、一切伝承がない。しかし、経基の父貞純親王の母
なら、確実な記録がある。「三代実録」に「皇子貞純、母は王氏、中務大輔棟貞の女」と

あり、貞純親王の母が、棟貞王という皇族の娘だと判明する。棟貞王の経歴は正史で追跡
可能だ。清和朝の初期に下野守・越中守として赴任し、京に戻って中務大輔(詔勅の
発布などを司る中務省の次官)となり、神祇伯(朝廷の神祇祭祀を司る神祇官の長官)に出
世して陽成・光孝朝まで在任した。要するに、ありふれた皇親だが、それなりに有能で、
中堅どころの官僚を勤め上げた人物だ。彼は武官になった形跡がなく、また没伝がないの
で武人としての資質はわからない。
 しかし、重要なのは彼に流れる血だ。母は不明だが、彼の父こそ、あの葛井親王だった
のである。すると、葛井親王が外祖父・坂上田村麻呂の武人的資質を濃厚に継承していた
ことが、重大な意味を持つ。〈坂上田村麻呂→坂上春子→葛井親王→棟貞王→その女→貞
純親王→源経基〉という経路で、源経基には坂上田村麻呂の血が流れ込んでいたのだ。源氏の武人的資質には、坂上田村麻呂の「家風」「将種」に由来する部分が間違いなくある。
 ところが、清和源氏の血統には有力な異説がある。永承元年(一〇四六)、源頼信が石
清水八幡宮に告文(繁栄を祈願する文章)を奉納した。祭神の八幡神(応神天皇)の子孫と
して祈願する立場から、頼信は応神まで自分の系譜を遡って述べた。そこに「先人新発
(満仲)、其の先は経基、其の先は元平親王、其の先は陽成天皇……」とあり、源経基の父

が貞純親王ではなく元平親王、祖父が陽成天皇とされていた。関白基経に退位を強いられ、
荒れ狂う院宮王臣家の筆頭として、武装した騎兵団を連れて京や郊外を横行し、ほしいま
まに狩猟と暴力に身を任せた、あの陽成天皇だ。
 近い世代の子孫の告白なので重視すべきともいわれるし、現在伝わる告文が原本でない
ので(鎌倉時代の写し)信頼できないともいわれる。陽成は清和天皇の子なので。どのみ
ち血筋に大差ないと考えられるせいか、今日ではあまり真剣に真偽が問われない。ただ。
本書にとっては大問題だ。経基が貞純親王の子でなければ、右の説が成り立だなくなる。
 しかし、経基の父が元平親王なら、清和源氏が武士化した経緯は、実は説明しやすくな
る。弓矢で武装した騎兵団を率い。狩猟と暴力に明け暮れた陽成の日常は、経基の子の満
仲弋その子の頼親・頼信兄弟と酷似する。満仲は狩猟と殺戮に明け暮れて、気に入らぬ
従者を「虫ナドヲ殺ス様二」殺し(『今昔物語集』)、頼親も殺戮を繰り返して主筋
の藤原徼髟から「殺人の上手」と呼ば心迎。彼らの常軌を逸した暴力性の出所がこれまで
未解決の謎だったが、陽成の孫や曾孫なら、不思議でも何でもない。
 本書は、真偽を確実に判定する材料を持たない。しかし興味深い事実がある。告文で経
基の父とされた元平親王が源氏の系譜の捏造に手を染め、村上天皇に処罰されたのである。
 朝廷には正月の叙位で、王氏(皇族)・源氏・藤原氏・橘氏から一人ずつ氏長者に推薦

させ、従五位下(貴族のスタートラインとなる位階)を授ける「氏爵」制度があった。衰
退して公卿を出せない橘氏では、藤原氏の長者が是定という代行者として推薦した。皇族
も氏長者を定められないので(天皇が氏族の長だが、氏長者は臣下の制度なので)、王氏の一
人が是定として代行した。王氏には様々な天皇の子孫が混在するので、「巡」といって、
毎年順番で各天皇の子孫に推薦される資格が回され、その中で最有力者が是定を務めた。
 天暦七年(九五三)には「元慶御後」の巡=陽成天皇の子孫の順番が来て、陽成の長
男である元平親王が是定になった。ところが元平は、清和天皇の子孫の源経忠という者を、

陽成源氏だと偽って推薦した。この詐謀は発覚し、元平と経忠は遠流の判決を受けた(元
平は官当〔七〇頁〕で減刑されて贖銅=罰金、後に大赦で位記の没収で済まされた)。

清和源氏を陽成源氏だと主張する点が頼信の告文と同じで、しかも告文に現れる元平親
王が詐謀事件の主犯だ。さらに陽成源氏と偽った源経忠は、名が源経基と瓜二つだ。この
源経忠は系図類にも記録にも見えない。もし右の事件の記録の「源経忠」が「源経基」の
誤写だったら(図7)、事件と告文が完全につながる、という憶測を禁じ得ない。万一そ
うなら、経基を元平の子とする系譜は元平の捏造で、信じた源頼信は騙されたことになる。
 その憶測はさておき、元平親王を中心とする清和・陽成源氏の系譜捏造の動きは事実で、
頼信の告文のような、元平が登場する源氏の系譜の信頼性は劣る。しかも後の源氏は一貫

して清和-貞純-経基の系譜を主張しているので、陽成源氏説は退けてよいのではないか。
↑桓武平氏に注入された多治比氏の「将種」と平氏の郎等多治氏
 話を戻そう。清和源氏に女系から武人化させる品種改良の痕跡があるなら、桓武平氏はどうか。平高望の子世代ま
でに、母の素性が判明するのは葛原親王だけだ。彼の母は多治比長野の娘の真宗で。文官を経歴して参議まで昇った

長野は、祖父の大納言池守や、祖先の左大臣島(志摩)の血を引く、純粋な文官政治家だった。一見、平氏の武士化

と無関係なようだが、多治比氏全体で見ると、そうでもない。

 多治比氏は、宣化天皇の孫の多治比古王が名前に因んで多治比公の姓を賜り、天武朝でその子の島(志摩)が真人
のカバネを賜ったのに始まる。奈良時代初期、新羅の使者を迎える儀式で驚備の「畿内七道の騎兵」九九〇人が左将

軍・右将軍に率いられた時、左の副将軍に多治比広成(島の子)がいた。左将軍の大伴氏
と右将軍の石上氏(物部氏の末裔)が武人輩出氏族であることに加え、副将軍という肩書

や騎兵の統率という職掌から見て、広成は弓騎の武人として登用されたことが明らかだ。
 養老四年(七二〇)には多治比県守(島の子)が持節征夷将軍として、また延暦七年
(七八八)には多治比宇美が陸奥按察使・陸奥守・鎮守将軍として、陸奥の蝦夷征討の主

将を務めた。延暦九年には多治比浜成が陸奥按察使・陸奥守となり、翌年に征夷大使の大
伴弟麻呂の指揮下で、坂上田村麻呂らとともに征夷副使(副将軍)として、やはり蝦夷征
討にあたった。彼らは文官・議政官も務めたから、坂上氏のような武人輩出に特化しない、

文武両道の有能な政治家・官僚輩出氏族と見なすべきだが、多治比氏が武人の資質を持つ
人を継続的に輩出したことも疑いない。
 多治比氏は、天平六年(七三四)に遣唐使の広成が唐に行った時だけ、中国人向けの見
栄えを気にして姓を「丹禪」と表記し、後の天長九年(八三二)に子孫の貞成らがそれを
正式な表記に採用し。貞観八年(八六六)に貞峯らが、本来の古い表記を尊重しつつも三
文字では煩雑だとして「多治」の二文字に改めた(すべて読みはタジヒである)。

 これを踏まえて多治氏を探すと、天慶元年(九三八)に信濃国の牧監だった多治基国が
確認できる。牧監は信濃国内のヱ(の勅旨牧(天皇個人の牧)全体の統轄者であるから、

多治氏は東国で軍馬生産の中枢を担う人物を出していたことになる。そこで興味深いのが、 
将門の乱に登場する、常羽御廐の別当(長官)の多治経明だ(御厩は権門が馬を飼養・維持
する施設)。多治基国も経明も、同じ将門の乱の最中に、同じ東国で。馬の生産・管理の `」\
統轄者だった。極めて近い同族だと考えてよかろう。
 多治経明が任された常羽御厩は下総国豊田郡にあり、そこは将門の本拠地で、多治経明
は将門の従者だった。しかも彼は、将門が新皇として坂東諸国の受領を任命した時、将門
の従者から二人だけ選ばれたうちの一人だ。武士の死活問題である馬の管理を任された点
と総合するに、将門の腹心に間違いない。やや下って寛仁三年(一〇一九)に、刀伊の入
寇を筑前で迎撃・奮戦した勲功者の「同(筑前)国怡土郡住人多治久明」は、名の類似か
ら見て、九州で武士化した経明の同族ではないか。しかも、平良兼が将門の石井の営所を
夜襲した時、多治良利という良兼の「上兵(従者の戦闘員筆頭)」が将門に射殺されていた。
 初期の複数の平氏が腹心や従者筆頭に多治氏を抱えていたことは、将門の高祖父(良兼
の曾祖父)葛原親王の母が多治比氏だったことと、無関係ではあり得まい。多治比氏は、
葛原親王に武人輩出氏族(将種)の血統を提供し、そのまま彼の子孫に仕え、王臣家人と
なって一体化し、武人の資質を開花させた姻族平氏の郎等(郎党)として、将種としての
能力で貢献し、武士の郎等として生き残った、という筋書きを想定するのが最も自然だ。

 右の筋書きは、単体ではただの貴種にすぎない源氏・平氏が、いかにして急速に「兵」
の技能と精神を獲得したか、という本書のパズルの最後のヒースを埋めてくれる。これら
の煩雑な系譜関係を改めて系図にまとめると、図8のようになる。
↑秀郷流藤原氏と源平両氏の血統の違いI父系由来か母系由来か
 興味深いのは、こうした筋書きが藤原秀郷にはあてはまらないことだ。秀郷の母系の鳥
取氏は、任用国司を出すのが精一杯の郡司輩出氏族で、正真正銘の卑姓である。しかし、
かつて左大臣を出した多治比氏や大納言を出した坂上氏は、源平ほど貴くなくとも卑姓と
は全く違う、準貴姓というべき貴さを誇る。多治比・坂上氏は将軍を出し、軍を率いる将

種の家柄だが、鳥取氏は彼らに健児として従う階層にすぎない。坂上氏は高い専門性を氏 
族の存在意義とした武人輩出氏族だが、鳥取氏はそこまでの専門性を持だない有閑弓騎に
すぎない。多治比・坂上氏は、どれだけ地方に進出しても本来は中央の高級官僚の一族だ
が、鳥取氏などは最初から地方社会に根を張っており、中央へのパイプがないに等しい。
 こうした違いを背負い、秀郷流藤原氏は母系から武人の専門性を調達せず、俘囚(蝦
夷)との接点で自ら学んだ弓馬術を、父系で秀郷まで伝承してきたと見られる。
 源平両氏は後に棟梁級の武士(広範囲の武士を束ねる元締め)を出し、源氏に至っては武
士の政権=幕府の卜″プに登りつめたが、秀郷流藤原氏は棟梁級を出せず、幕府では完全
に源氏の家人に甘んじた。こうした命運の決定的な差と、右に述べた彼らの源流の差、特
に古代の武人輩出氏族として積み上げてきた専門性を母系から獲得したか司夕や、母系の
血筋の差、特に秀郷だけに「将種」の血が入っていない事実とが、無関係とは考え難い。