気まぐれな梟

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 今日は、パク・ウンビンの「無人島のディーバ」から THE BOYZの「We are(私たちは)」を聞いている。

 

 李 炳銑「日本古代地名の研究(東洋書院)」(以下「李論文」という)は、建国関連の城邑語について、以下のようにいう。

 

(29)建国関連の城邑語

 

(a)クニ‘国'の名称と高句麗語の「溝婁」‘城',百済語の「屈」‘城'


 日本語で,韓国語のnara‘国'をkuniという。このnara‘国'は日本の奈良(nara)・楢原(nara-hara)のnaraと同源語であるが, kuni‘国'も韓国の‘城'を意味する’kuru(溝婁・屈)と同源語である。

 

1)kuni‘国'の大きさは郡県や郷の大きさと同じであった

 

  kuni‘国'はその概念において古代と現代での差異がある。すなわち,現代における‘国'とは領域国をいうのであるが,古代の城邑国,または邑落国(村落国)の時代においては,君長(首長)が居住していた城,または邑落が‘kuni‘国'であったのである。

 

 中国の史料によれば,倭には百余国があったとしている。
 

  倭在韓東南大海中 依山島為居 凡百余国(「後漢書」)
  倭人在帯方東南大海之中 依山島為国邑 舊百余国(「三国志」,魏志東夷伝)
 

 この史書で,倭が山島に依り百余国があったという。それは紀元3世紀頃の倭を指すのであるが,この倭は当時の九州地方にあった群小邑落国を指している。当時の国の大きさは今の郡ほどのもので,その数の多いことは,平安朝前期の「延喜式」に590郡があることから理解される。

 

 また,日本では「国」だけでなく,「郡・県」や「郷」までもkuniといった。すなわち,「書紀」で,「郡国」(歛明28年紀)をkuni-guniと訓ませ,「韓郷」(紳代紀)をkara-kumと訓ませ,「郡県」(欽明23年紀)をkuni kohoriと訓ませている。

 

 このように, kuniの名称が郡県や郷にも広く使われ,また,郷を国に替えて使ったことから,中国から「国・郡・県・郷」の新しい行政上の用語が取り入れられるまでの群小邑落国時代には, kuniの大きさが郡県や郷の大きさと同じであったことが窺われる。

 

2)kuni‘国'は城邑国,または邑落国を呼称する名称によるもの


 次にkuni‘国'という名称について考察することにしよう。これは城邑国,または邑落国を呼称する名称によるものである。古代においては,君長(首長)が居住していた村が国であったので,「大村国」,または「村国」の名称がみられる。したがって,日本のkuni‘国’という語は,君長(首長)が居住していた邑落(郷・村),または城をいう名称に由来したものである。

 

 これは高麗語で‘城’を意味する*kuru(溝婁),百済語で‘城’を意味するkuru(屈)と比較される。
 

  溝婁者句麗名城也(「魏志」,高句麗)
  斌城県本百済賓屆県(「史記」,地理3,大山)

 

 古代の韓国語が開者節語であるゆえ,百済語の「屈」‘城'は,その用字の当時,入声韻尾の-tが外破灘化して*kut-u(uは添入された母音)に受容され, *kut-u〔屈〕の韻覯のuと添入された母音uとの關で,tはdに有声音化し,このdが間隙の大きい母音の間でrに同化(間隙同化)したのである。

 

 すなわち, *kut-*kut-u>kudu>kuruに変動したもので,「屈」は*kuruの表記と思われる。そして,‘城'を意味する高句麗の「忽」はその入声驥尾-tの外破音化による*koroの表記であり,それは「溝婁」(*kuru),「屈」(*kuru)の異形態の表記である。満州語で「省」(行政区域上の単位)をkoroというが,これは高句麗地名における「忽」「城」と,対応表記されている。


  買省郡〈一云馬忽〉(「史記」,地理4高句麗)
  国原城一云未乙省一云託長城)(「同」地哩4,高句麗)
 

  これは次の関係にある。
 

  省=城=忽=溝婁
 

 これをみても,満州語の‘省'は高句麗語の‘省’,すなわち'城'を意味する「忽」(*koro)と同じもので,これは'城'を意味する「溝婁」(*kuru)とも同じ語であることがわかる。

 

 再言すれば,日本語のkuniの語は'城'を意味するkuru(溝婁・屈)から変化であるといえる。ただ,この語が南下するに従って,その意味が縮小されている。


 上で述べた*kuru(溝婁・屈)とkuni‘国'との語形上の比較において,第二音節のr~nの交替が問題になる。そして,古代国名・地名においてr~nの交替(互用)は多くみられるのである。韓国語のrが日本語のnと対応する数例を挙げてみることにしょう。

 

   韓国語   日本語

  mʌrʌ(宗) : nune(宗)
  moro(旨) : mune(旨)
  maru(棟) : mine(峰)
  maru(棟) : mune(胸)
  kuri(銅)  : kane(金)
 

 これは国名・地名でもみられる。 kuru(溝婁・屈)‘城'の第二音節のu母音がkuni‘国'のi母音に変化したことについては,次の二つの場合が考えられる。

 

 その一つはnの調音位置に引かれてnu→niと変化したと思われることと,もう一つは, kuruに接尾辞の-iが添加されてkunu-i>kuniに語形変化したものと思われることである。古代地名では-iの接尾辞が多くみられるからである。接尾辞のiは古代日本語にもあった。

 

 ところで, kuru>kunu>kuniのnu→niの変化はおそらく前者,すなわちnの調音の位置に引かれて前舌母音(膾)化したものと考えられる。これは調音の位置による同化である。nとiの調音位置がほぼ同じであるからである。
 

  kara(韓)は’城’を意味する普通名詞から国名になったものである。このkara(韓)は’城'を意味する高句麗の*kuru(溝樓),*kol()(忽)の異形態とみられる。すなわち,‘城’を意味するkala/koro/kuruを合せたものが一つの形態素であり,各々の形態はその形態素の異形態である,

 

 また,使われる頻度の多いkaraを以って代表形態(基本形態)とする。一つの語(形態素)に数個の異形態があった。

 

 このkaraは三韓の「韓」,加羅国の「加羅」などに表記されて,固有名詞となったのである。日本では百済・新羅・高句麗・任那(対馬・韓郷之島)を従来の習慣から, kara(韓)と呼んだが,この「韓」(kara)の国名は韓半島や対馬で‘城邑'をkaraといったことに由来する。


(b)シロ‘城'の名称と高句麗語の「忽」‘城'


 日本では,‘城'を一般にsiroという。ところが,このsiroも古代韓国語から変化したものである。これは,高句麗の‘城’を意味する「忽」と比較される。


  大豆山城本非達忽(「史記」地理4,鴨洙水以北未降十一城)
  安市城旧安寸忽〈或云丸都城〉(「同」同上)
  鉛城本乃勿忽(「同」地理4,鴨淥水以北逃城七)
  積利城本赤里忽(「同」同上)
 

 上で述べたように,「忽」は「溝瀋」‘城'と同じ語で,「溝樓」の異形態の表記である。それでは,「忽」の語形とsiroの語形を比較する前に,「忽」で表記された語形を調べてみることにする。この「忽」の語形の再構成について,白鳥庫吉はこれをkolの表記とし、韓国の李丙熹はkhorの表記とした。これに対し,筆者は,「溝樓」が*kuruの表記であることに比して,「忽」は二音節の語形である*koro,または*xoroの表記であるとする。

 

 「忽」で表記された語形を,このように再構成する理由は次の通りである。
 

 まず,董同鉢(t), B. karlgren(k),周法高(c)が再構成した「忽」に対する上古音/中古音を考察しよう。
 

     (t)    (k)      (c)
 忽:mwat/―   xmwat/xuət  xmwət/xuət
 

 上のkarlrenと周法高が再構成した語頭の子音はx-である。また,「唐韻」「韻会」「正韻」において,みな「呼骨切」とし,音は「笏」とした。この「呼骨」の反切音は現在の韓国語音がholであり,また,「笏」の現代音もholであり,「忽」の現代音も>holである。

 

 しかし,15世紀の資料である「竜飛御天歌」に書かれている地名では,この「忽」がkolに表記されている(召忽島「竜飛御天歌」六58)。また,日本語における「忽」の現代音はコツkotsuである。つまりk-とx-(>h-)の両音がある。

 

 「忽」の母音をみると,韓国の現代音はoであり,その反切音を表わす「骨」や「笏」の母音もoである。中国から入った「忽」*kotの入声韻尾の-tは古代韓国語が開音節語であったために,外破音化されたのである(*kot→kot-o)。

 

 そして,外破音化されたtは,「忽」の韻腹のoと添入したo母音との二つのo母音の間で有声音のdに変化し,このdは前後の間隙の大きい母音の間でrに変化(間隙同化)した。その後,漢字音の影響による韓国語全般の閉音節化の傾向に従って,添入された母音が脱落してrがlに変わったのである。

 

 一方,「忽」*kotの語頭子音k-がx音化し,さらにh-音化して次のように変化したのである。
 

    (a)    (b)  (c) (d)
 

 A型  *kot→kot-c >kodo>koro>kol

 

 B型   *kot→kot-o >xodo >xoro>hol
 

 上記で,高句麗時代における「忽」は,A型またはB型のc段階の語形を表記したものであり,15世紀の「竜飛御天歌」のkol(忽)はA型のd段階の表記である。

 

 以上により,「忽」に表記された高句麗の‘城'は*koroと*xoroの両形を想定することができるが,日本語のsiro‘城'は*koro,または*xoroの両形が渡海して,次のように語形が変わったものと考えられる。
 

 *koro> xoro > horo > soro > siro‘城'
 

 上記のような変化で, siro‘城'は語頭のk-がx-→h-→s-に変化しsoro>siroで,第一音節soのoは摩擦音s-の調音位置に引かれて,iに変化しsiroになったのである。これは位置同化である。iとsはほぼ同じ位置で調音されるからである。このような語頭子音のk-がs一音化する音韻変化は,韓国語においてもその例がみられる。
 

  kol(谷):sil(谷)
  kal-mi-峰(大山峰):sal-mi(sal-miはhal-miを経て変化したもの)
  kol(頭):suri(頂suri)(頭の頂上部)
  kurəŋ(壑):surəŋ(壑)
  kuri(銅):soi(<*sori)(鉄)
  kul-(転):sure(車)
  kut-(堅):se-(強)
 

 このように,両型の共存は古代地名においてもみられる。韓国語のkol‘洞'を日本語ではhora‘洞'というが,このhora‘洞'の語頭子音のh-音はk-音から変化したものである。また,日本語のhuru-i‘古'は新羅の郷歌の「旧理・古理」‘古',現代語のhəl-‘古'と比較される。韓国語と日本語の語頭子音のk-が共にk->x->h->s-の過程を経て変化した例がみられる。すなわち,韓国語のhjə‘舌'は方言でse,またはs'eであり,日本語はsitaである。ところが, hjə‘舌'の古代形は*koro,または*kotoに再構成される。
 

 花園県本舌火県,景徳王改名今因之(「史記」,地理1,寿昌)
 

 舌火=花園の関係で,「舌」と対応する「花」の語形にkotsと共にkolがあり, kolの前次形は*koro(<*koto)とみられる。また,‘花'の慶尚南北道の方言はk'otであり,この古代形は二音節のkotoに再構成される。‘舌'の古代形もこれと同じくkotoに再構成され,この語形の語頭子音のk-がx->h-音化し,またs-音化して, sita‘舌'またse‘舌'になったのである。
 

(c)サジ城',サジギ城',シシギ城'と韓国語のdhsas‘城'系語


 日本では'城'をsasiという。「書紀」においても「城」をsasiと訓む。応神紀,継体紀などにみられる甘羅城・高難城・伊斯棋牟羅城・久禮牟羅城などで,「城」を例外なしにsasiと訓んでいる。このsasiは倭の国王の宮名にもみられるが,それには「刺」の字で借訓表記されている。
 

  イ)(歛明天皇)磯城嶋金刺宮(檜隈坂合陵)
 

  口)(飯豊青尊)忍海角刺客(葛城埴口陵)
 

 上記のイ)において,磯城嶋は城(siki) があった所に由来する。金刺宮の「金刺」はkamu-sasiの表記で,金刺宮はその地の宮名である。「金」は'君'を意味するkamuの借音表記であり,「刺」は'城'を意味するsasiの借訓表記である。

 

 口)の忍海は奈良にある地名である。角刺宮の「角刺」はtsunu-sasiの表記で,角刺宮はその地にあった宮名である。「角刺宮」があった忍海は奈良の葛城上郡と同下郡の中間に立地する所で,古代韓国に関連する多くの遺物が発掘された。このsasiは15世紀の韓国語, tsas‘城'と比較される。「朝鮮館訳語」にはこのtsasを「雑思」と表記している。これは中国人による表記である。これは韓国の西北方言の反映とみられる。この「雑思」はtsasの前次形tsasʌの表記であろう(「思」の音, sa)。日本におけるsasiの古代形は*sasuであり,その第二音節母音uが子音sの調音位置に引かれてiに変化し, sasiとなったものと思われる。韓国語のtsas‘城'と日本語のsasi‘城'において語頭子音のts-(ス)とs-の対応関係は次の例でもみられる。

 

  韓国語    日本語
 tsjə(彼)  : so(其)
 tsul(筋)  : sudi(筋)
 tsom(衣魚): simi(衣魚)
 tsop-(狭) : seba-(狭)
 tsaə-(少) : suko-(少)

 

 「佐須」「指」で表記された次の地名もsasi‘城'に由来したものとみられる。

 

 佐須(sasu)(東京都調布市)
 佐須(sasu)(長崎県対馬)
 天ヶ指(ama-ga sasi) (東京都西多摩郡)
 高指(taka sasiX埼玉県秩父郡)
 黒指(kino sasi)(埼玉県入間郡)
 大室指(oo muro sasi)(山梨県南都郡道志村)
 

 上の地名のsasu(佐須), sasi(指)を山中襄太は焼畑と城の意味であるとしたが,この地名は城のあった所に由来したもののようである。

 

 この語はこのほかにも多くの地名にみられる。このsasu,またはsasiがna‘壌‘,no‘野‘,ma‘処', bo‘所'と合成された地名が多くみられる。

 

 すなわち,対馬上島の北岸にある佐須奈sasunaはsasu‘城'とna‘地'の複合地名である。武蔵国の武蔵(musasi)は‘長城'を意味するmura-sasiから,raが脱落した語形の表記であり・武蔵野(musasi-no)はこれとno‘野'が合成されたのである。

 

 また,九州の薩摩国の薩摩(sasuma)はsasu‘城'と’所’を意味するmaが合成された地名であろう。また,軍港で知られる長崎県の西北部の佐世保(sase-bo)はsasu‘城'とbo‘所'で合成された地名と思われ, boは韓国語のba‘所',日本語のba-sjo(場所)のbaの異形態であろう。
 

 日本において,‘城'をsasiまたはsisi-kiともいう。すなわち,対馬にある嵯峨の志志岐神社,小浦の志志岐神社,久田の志志岐神社の志志岐はsisi-kiと読むが,これらの神社が十誡別王命を祭神とすることから,このsisi-ki(志志岐)は’城’を意味していることがわかる。

 

 そして, sisi-kiのsisiはsasiの第一音節のaが摩擦音sの調音位置に引かれ(sとiの調音位置がほぼ同じ),また第二音節のi母音に同化(逆行同化)されてsasi>sisiに変化したものであり, kiは接尾辞である。

 

 嵯峨にあった志志岐神社は,はじめは佐須賀にあったというが,このsasu-ga(佐須賀)の地名はsasu‘城'に地名接尾辞のga(<ka)が添加されたものとみられよう。

 

 また,対馬の厳原の桟原(sadzi-ki bala)のsadzi-kiも,‘城'を意味するsasi-kiから変化したものであろう。

 

 また,「書紀」雄略紀にみられる「近江狭狭城居韓岱」の狹狹城はsasakiと読むのであるが,この苗字名も,居住していた'城'に由来したものとみられる。石川県能美郡,新潟県北蒲原郡,同県岩舟郡,兵庫県出石郡,岡山県川上郡などにみられる佐佐木(sasaki)も‘城'に由来する地名であろう。

 

(30)批判と補足

 

(a)kuniという言葉は新しい言葉

 

 李論文は、kuniの名称が郡県や郷にも広く使われ,また,郷を国に替えて使ったことから,中国から「国・郡・県・郷」の新しい行政上の用語が取り入れられるまでの群小邑落国時代には, kuniの大きさが郡県や郷の大きさと同じであったことが窺われる、という。

 

 しかし、日本でkuniの名称が郡県や郷にも広く使われたのは、大和朝廷の部民制度が整備される過程で、朝鮮半島諸国の郡・県の名称を移入したkohoriの名称が屯倉の名称となり、郡(旧称「評」)が屯倉を拡充することで設置されていったことで郡がkohoriと呼ばれ、郡の下部組織の郷にもその名称が残存していたが、その後の律令制国家の建設過程で屯倉群や多数の郡を広域に管理支配する組織として国が設置され、その国の概念が従来の郡や郷に波及したことで、国も郡も郷もみなkuniと呼ばれる状況が生まれていったのだと考えられる。

 

 語源的にはkuniは、直接的には郡kohoriから派生した言葉であり、その初見は「隋書」倭国伝の「軍尼」であり、部民制の整備が進んだ推古天皇の時代時代に各地を巡回する役人として出発したときにkuniという言葉が誕生したのだと考えられる。

 

 そして中国から「国・郡・県・郷」の新しい行政上の用語が取り入れられるまでの群小邑落国時代にあった、後世の郡や郷を意味する言葉は、おそらく「奴(na)」であったと考えられる。

 

(b)日本列島を平和統一した大和朝廷

 

 李論文は、日本語のkuniの語は'城'を意味するkuru(溝婁・屈)の第二音節のu母音がkuni‘国'のi母音に変化したもので、君長(首長)が居住していた邑落(郷・村),または城をいう名称に由来したものである、という。

 

 しかし、日本語のkuniの語は'郡'のkohoriの名称から派生したもので、kuru(溝婁・屈)‘城'とは関係がない。

 

 李論文が、日本語のkuniの語は'城'を意味するkuru(溝婁・屈)から派生したものであるというのは、君長(首長)が居住していた邑落(郷・村),または城をいう名称が国名になったという例を根拠にしているが、個々の国名の起源と、国一般の言葉の起源は別次元のことであって、前者は後者の根拠とはならない。

 

 高句麗の国名は、古代中国人から「句麗」と呼ばれていた人たちが、その「句麗」に‘大‘という意味のkoという接頭辞を付加したもので、その接頭辞を「高」と音訳して「高句麗」という国名が成立したが、その「句麗」は、李論文が指摘するように'城'を意味するkuru(溝婁・屈)であったと考えられる。

 

 また、百済の国名は、palk-casで、palkは‘曙‘‘光明‘という意味で、casは‘城‘という意味である。

 

 高句麗や百済の国名に‘城‘という意味の言葉を含むのは、高句麗や百済が前漢や扶余などとの戦争や、高句麗の南下や百済の馬韓諸国征服などに見るように、周辺の濊人や韓人の諸国との戦争による武力統一で国家を発展させてきたという歴史的な経過を反映しているものであったと考えられる。

 

 しかし、日本の国家形成は、独立した地方首長たちが、朝鮮半島や中国との交易のために結成されたネットワークの管理者のもとに結集することで行われたのであって、大和朝廷は日本を武力統一はしておらず、城が国名になるという事態は日本ではなかったと考えられる。

 

 こうした日本の事情からも、日本語のkuniの語は君長(首長)が居住していた邑落(郷・村),または城をいう名称に由来したものであるという李論文の主張には根拠がなく従えない。

 

 なお、李論文は、kara(韓)は’城’を意味する普通名詞から国名になったものである、というが、この主張にも根拠がなく従えない。

 

(c)‘城'siroの初見は中世後期

 

 李論文は、日本では,‘城'を一般にsiroというが,このsiroも古代韓国語から変化したものである、という。

 

 しかし、古代の日本では‘城'はkiと呼ばれていて、‘城'がsiroと呼ばれるようになるのは、‘城'siroの初見が、文明六(1474)年の「節用集」の記載であることから、中世後期に下ると考えられる。

 

 このように、‘城'siroの言葉が中世前期まで見えないことからすると、‘城'siroが古代韓国語から変化したものであるという李論文の主張には、いくら音韻変化の可能性を主張しても根拠がなく、従えない。

 

 なお、古代日本語で‘統治‘することを、シルとかシラスとか言ったが、このシルが、中世後期に城を築城して周辺を支配した武士たちの支配拠点を指す言葉として、シル-トコロ(処)の意味で、シロとされたのだと考えられる。

 

(d)'城'saが初源形、'城'sa-kiのkiが独立して'城'kiが誕生

 

 李論文が指摘するように、古代日本語の'城'sasiは中世韓国語の tsas‘城'と同源で、その初源形は城'saであったと考えられるが、金 思燁の「古代朝鮮語と日本語(講談社)」(以下「金論文」という)によれば、古代日本語では'城'をsasiやsakiといい、古代朝鮮語では'城'をcas、cajといったというので、このcasが中世韓国語の tsas‘城'や、古代日本語の'城'sasiになったと考えられる。

 

 おそらく'城'casはca-saの省略形であったと考えられるので、'城'casとの関係でも城'saが初源形であったと考えられる。

 

 金論文は古代日本語では'城'をsasiやsakiといったというが、このsa-kiに分割できるとすれば、このkiの語形は古代朝鮮語の'城'kiや古代朝鮮語が伝播した古代日本語の'城'kiと同じ語形になる。

 

 この'城'kiについて、金論文は初源の語形のtiの音転形であったというが、金論文によれば、-kiは人名に付く尊称の接尾辞であり、'人'の意味もあるという。

 

 古代日本語の城の初源形がsa-tiであったとすれば、焼畑のsasiの初源形もsa-tiであり、その語形の意味は、'峰'saに'人'tiが係わることであり、sa-tiは、その係わりが城を築造することならば'城'の意味になり、焼畑耕作を行うことならば'焼畑'の意味になったのであって、おそらくsa-tiの語形はもっと長い語形の省略形であって、おそらく'城のsa-tiは城を築造するとかいう語形が、'焼畑'のsa-tiは焼畑耕作を行うとかいう語形が、それぞれ省略された結果、'城'と'焼畑'が同じ語形になったのだと考えられる。

 

 また、'城'sa-tiのsaが省略されて脱落し、接尾辞の-tiが音転して独立後のkiとなって、'城'kiが誕生したのだと考えられる。

 

(e)sasuは‘城'ではなく‘焼畑‘や‘焼畑‘が行われる山麓‘の意味であった

 

 李論文は、「佐須」「指」で表記された次の地名もsasi‘城'に由来したものであるというが、これらの地名の地に古代に‘城'や‘城邑'があったとは思えず、これらの地名のsasiはおそらく‘焼畑‘や‘焼畑‘が行われる山麓‘の意味であったと考えられる。

 

 李論文はまた、薩摩国の薩摩(sasuma)はsasu‘城'と’所’を意味するmaが合成された地名で、長崎県の西北部の佐世保(sase-bo)はsasu‘城'とbo‘所'で合成された地名だというが、これらの語幹がsasuであったとしても、そのsasuの意味は‘城'ではなく、sasi‘焼畑‘と同義語で、‘焼畑‘や‘焼畑‘が行われる山麓‘の意味であったと考えられる。

 

 李論文はまた、sasu,またはsasiがna‘壌‘,no‘野‘,ma‘処', bo‘所'と合成された地名が多くみられるといい、sisi-kiやsasu-na、sasu-ga、sasu-ma,sasa-kiなどを例示しているが、それらの語の語幹のsisi、sasu、sasaは、sa‘城‘に起源するものではなく、sa‘峰‘あるいはsa‘焼畑‘に起源するものであったと考えられる。

 

 なお、sasa-kiの初見はおそらく山林を管理した山部の氏族の山君のうちの、近江国にいた狭城山君であり、狭狭城山君が山を管理するという職掌を持っていたのであれば、その名のsasaは、sa‘峰‘を重ねたsa‘峰‘-sa‘峰‘という意味がその職掌にもふさわしいと考えられ、その場合のsasa-kiのkiも‘城‘ではなく、おそらく狭狭城山君の支配地=狭狭城山君の‘国‘という意味であったと考えられる。

 

 また、李論文は、磯城嶋金刺宮の‘刺‘や忍海角刺客の‘刺‘は‘城‘の意味であるといい、磯城嶋金刺宮の‘金‘は‘君‘の意味であるというが、これらの‘刺‘は‘城‘の意味であるという指摘は妥当だと考えられるが、継体天皇から欽明天皇にかけての時代は、磐井の乱の発生とその鎮圧、百済と継体天皇の政権が連携してきた大加羅との対立と戦争という朝鮮半島南部の軍事情勢の悪化、それらを背景にした安閑・宣化天皇と欽明天皇の、おそらく武力衝突の発生という軍事的な性格が非常に強かったので、磯城嶋金刺宮の‘金‘は‘君‘の意味ではなく、文字どおりの‘金‘であったと考えられる。

 

 そして、その‘金‘が象徴するのは、大和三山の一つの香具山の枕詞の「とりよろふ」が金属を産出した香具山にかけた「取り鎧ふ」つまり「鎧を纏った」という意味であったと考えられることからすれば、‘金属製の武器‘であり、そうであれば、磯城嶋金刺宮の‘金刺‘は、‘金属製の武器で満たされた城‘とでもいう意味であったと考えられる。

 

 なお、李論文は忍海角刺宮の‘角‘については沈黙しているが、金論文は、新羅の官職の上位に「角干」という官職があるが、この「角」は古代朝鮮語ではsi-pʌlあるいはspʌlといい、新羅の‘徐伐‘so-burəと同じ言葉で、「角干」は「京長」の意味であるという。

 

 忍海角刺宮が創作された宮であれば、この‘角刺‘は新羅王城の名から構想されたものであり、忍海角刺客が実在した宮であってこの‘角‘が地名であれば、忍海に集住していた、秦氏に起源したがその後に新羅系となった金工の工人たちが、自分たちの地に、si-pʌlあるいはspʌlという地名を付けたのだと考えられる。 

 

 また、畑井弘の「古代倭王朝論(三一書房)」(以下「畑井論文」という)は、忍海角刺宮の‘角刺‘の‘刺‘はcasで‘城‘のことであるとしたうえで、朝鮮語で「角(ツヌ)」はpulであるから、「角刺(ツヌサシ)」を「角城(プルサス)」を置きかえると、「青い」の語幹phuriw(プリ)との音訛から、「角城」宮に臨朝した飯豊「青(プリ)」皇女の符合が見える、という。

 

 高寛敏の「倭国王統譜の形成(雄山閣)」(以下「高論文」という)によれば、雄略天皇死後から仁賢天皇即位までの経過は、様々な物語を創作することで事実関係を覆い隠しているというので、飯豊青皇女の物語もそうした後世の創作の部分が多いと考えれば、畑井論文が指摘するように、飯豊青皇女の名が成立したことを前提にして、その「青」に対応する宮の名として「角刺」という宮の名が設定された可能性も高いと考えられる。

 

 なお、仁賢天皇や顕宗天皇の名などが、古代朝鮮語で解釈できること、それらが創作されたものを含むことについては畑井論文を参照してほしいが、そうした畑井論文の指摘は、高論文が指摘するような、「古事記」や「日本書紀」の元となった史書に書かれた物語は、百済系渡来人などが古代朝鮮語の知識を駆使して創作したものであったことを示していると考えられる。