豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(11) | 気まぐれな梟

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 今日は、「愛と青春のうた [Disc 1]」から、チューリップの「心の旅」を聞いている。

 

 宝賀寿男の「豊臣秀吉の系図学(桃山堂)」(以下「宝賀論文」という)は、秀吉の母親やその兄弟姉妹、秀吉の兄弟姉妹は、鍛冶とかかわりがあったと以下のようにいう。

 

(11)浅野氏

 

 「寛政重修諸家譜」三百九巻では美濃源氏土岐氏の支流が尾張国丹羽郡の浅野村(一宮市内)に移り住み、浅野を称したとありますが、確定された系図はありません。秀吉と関係をもつこの一族は、浅野氏嫡流ではなかった模様で、わからないことが多数あります。


 「太閤母公系」によると、兼員(秀吉の母方祖父)の長女は杉原家利と結婚し二人の娘が生まれましたが、ひとりは、おねの母親の朝日、もうひとりの七曲は浅野又右衛門長勝と結婚しています。秀吉と結婚したとき、おねは浅野長勝の養女であったと伝わっているので、浅井氏は秀吉にとって妻の実家でもあります。長勝に実子がなかったため、姉の子である長政が養子に迎えられ家督を継いでいます。

 

(a)浅野長政の生誕地


 浅野長政は養子となり浅野家を継いでいるのですが、血縁上の父親は安井五兵衛重継と伝わっています。ここまでは各史料に違いはないのですが、この人の居住地(すなわち浅野長政の生誕地)についてはいくつかの説があります。

 

1)尾張国丹羽郡宮後村説


 「寛政重修諸家譜」をはじめ多くの史料が浅野長政を尾張国の生まれとしており、北名古屋市北野に生誕地の碑があります。養父の浅野長勝は織田信長に仕えていたというので、長政とその実父も尾張の人と考えるのが最も自然ですから、一応、定説ということができます。

 

 ただ、尾張国丹羽郡宮後村(江南市内)の安井弥兵衛という人が浅野長政の実父だという所伝もあり、「武功夜話」は、宮後村にいた安井氏の娘が蜂須賀小六正勝の母という系譜を示しています。

 

2)近江国浅井郡小谷説

 

 これに対し、浅野忠純氏(男爵)が執筆し、明治四十三年に刊行された「浅野長政公伝」では、長政の出生地を近江として、以下のように記述しています。

 

 天文十六年を以て、近江国浅井郡小谷に生る。本姓は安井氏。公の父は安井五兵衛重継と称す。近江国小谷の住人なり。浅井備前守長政に仕ゆ。母は浅野又兵衛長詮の女なり。

 

 この家伝に従えば、浅野長政の父親は近江の大名浅井長政に仕えていたというのです。

 

 「諸系譜」の「北政所系」によると、浅野長勝には姉(あるいは妹)がいて、「江州浅井郡小谷地士 安井五兵衛尉 善滋(源)重継妻 長政母」と注釈されています。長政の血縁上の父親は浅井郡小谷の武士で、苗字は安井、本姓は善滋あるいは源氏ということです。ほぼ同じことが鈴木真年の「華族諸家伝」上巻の浅野長勲の項目にも書かれています。
 

(b)浅野長勝の妻は近江国の「たけくらべ地士」樋口美濃守の娘の妻


 浅野長政の養父長勝が、近江に人脈をもっていたことを示すデータがあります。「寛政重修諸家譜」によると、浅野長勝は杉原家利の娘と結婚するまえ、樋口美濃守の娘を妻としていますが、浅野氏の「御家御系図」は、樋口美濃守を「たけくらべ地士」と記しています。すなわち、近江と美濃の国境にある長比(たけくらべ)城(米原市)を拠点とする武士ということです。浅野長勝は、近江の武将の娘を妻としているのです。その姉が近江に嫁いでいても不自然とはいえません。


 長比城は堀氏の居城ですが、当主が幼少であったため、家老の樋口直房が実権を握っていました。樋口美濃守がいかなる人物かはわかりませんが、この一族ということになります。

 

 宝賀論文の(a)と(b)での論述を総合すると、浅野長政の養父の浅野長勝が杉原家利の娘と結婚するまえ、近江国坂田郡の樋口美濃守の娘を妻としていたことから、浅野長政と近江の在地領主層との間には人間関係が構築されていたので、近江の大名浅井長政に仕えていた近江国浅井郡小谷の在地領主の安井五兵衛重継の子を養子にしたことは無理がない想定であり、尾張国丹羽郡宮後村(江南市内)の安井弥兵衛という人が浅野長政の実父だという所伝は、おそらく誤りであったと考えられる。

 

 もしかしたら、安井五兵衛重継の一族で尾張国に住んでいたのが安井弥兵衛であったので、後世、混同されたのかもしれないとも考えられる。

 

(c)土岐氏の流れという浅野氏の系譜は偽系図

 

 菊池浩之の「角川新書 豊臣家臣団の系図(角川書店)」(以下「菊池論文」という)は、浅野家の系譜について、以下のようにいう。

 

1)長勝以前の「長」が付く名は、後世に創作されたもの

 

 浅野弾正少弼長政(一五四七~一六一一)は、通称を弥兵衛といい、天正十六年に従五位下弾正少弼に叙任された。


 諱ははじめ長吉。文禄元(一五九二)年頃に長政と改名したという(以下、長政に表記を統一する)。素直に考えるなら、秀吉の義兄として信長から偏諱をもらい、秀吉から一字もらって「長吉」と名乗ったのだろう(そう考えると、長政の養父の諱にたまたま「長」の字が付いているのは不自然で、長勝という名前も後世に創作したものと考えた方が良さそうだ)。

 

2)浅野家の家紋は土岐一族が家紋とする桔梗ではなく、違い鷹の羽である

 

 浅野家は土岐氏の流れで、土岐美濃守光衡の子・次郎光時が尾張国丹羽郡浅野村(愛知県一宮市浅野)に住んで浅野を名乗ったという。たしかに土岐氏の一族に浅野家は存在するが、長政の家系がその末裔であるとは限らない。浅野家の家紋が、土岐一族が家紋とする桔梗ではなく、違い鷹の羽であるのも奇妙である。

 

 以上の(1)(2)の菊池論文の指摘から、浅野家は有名な一族の滅栄などではなく、尾張国丹羽郡浅野村の在地領主であったと考えられる。

 

 浅野長勝が杉原家利の娘と結婚する前に妻としていた樋口美濃守も、在地の賀茂氏に起源する近江国坂田郡の在地領主であり、こうした婚姻関係からも、浅野家は樋口家と同様の在地領主であったと考えられる。

 

 杉原家利は「おね」の母の鍛冶職人の家系から、おそらく連雀商人であった同族の杉原家に養子に入ったと想定されるが、そうすると、在地領主の浅野家が、「鉄炮張工」という鍛冶職人の娘で「行商人」であった連雀商人の妹と結婚したことになり、両者の婚姻は身分違いの婚姻となる。

 

 こうした身分違いの婚姻が行われたのは、おそらく、連雀商人であった同族の杉原家が、行商して商品を売り歩く連雀商人ではなく、そうした連雀商人の集団の頭の様な地位にいて大名権力から保護されていた特権商人であり、その地位を引き継いだ杉原家利が、「商人司」の伊藤伊藤宗十郎の配下として活躍していたという事情によるものであったと考えられる。

 

 そして、身分に囚われず実力主義で人材を登用しようとしていた織田信長の下であったということも考えると、杉原家利の妹と浅野長勝の婚姻は、不自然なものではなかったと考えられる。

 

(e)近江国と美濃国の国境地帯の人間関係の存在

 

 堀氏は大名浅井氏に属していたのですが、元亀元年(一五七〇)、信長と浅井氏がにらみ合っていたころ、「信長公御調略を以て、堀、樋口、御忠節仕るべき旨御請なり」(「信長公記」巻三)ということがあり、織田家に鞍替えしています。これによって、織田方は美濃と近江の国境地帯を掌握し、近江領内に切り込む体制を築くことに成功しています。

 

 この調略にあたったのが秀吉ですが、樋口氏を説得したのは竹中半兵衛であったという話が、小瀬甫庵の「太閤記」「浅井三代記」などによって伝わっています。半兵衛は美濃と近江の国境地帯の人なのでよく知る間柄であったのかもしれません。

 

 秀吉の父方系図は浅井郡を先祖の地と記しています。「諸系譜」では秀吉の父方を浅井氏の支流とし、「中興武家諸系図」では、浅井郡の長野を先祖の地としています。現在の住所表示で「小谷丁野」という地名があるように、小谷と丁野は同一地域です。浅野氏は、秀吉の父方との縁も考えられます。織田家に仕えた当初、浅野長勝は、父親のいない秀吉の後見人のような立場にあったことも別の意味を帯びることになります。

 

 こうして関連する所伝を見ていくと、国境エリアで織りなされる人脈に、浅野一族がかかわっているのは確かなことに思えます。

 

 宝賀論文がいう「秀吉の父方系図」とは、(木下)弥右衛門の系図であるが、これは秀吉の実夫の系図ではなく、秀吉の継父か、あるいは秀吉の母「なか」の奉公先の主人の系図であったので、近江国浅井郡丁野村が、秀吉の父系系譜に係るわけではない。

 

 そうではあるが、秀吉の母「なか」の出自が鍛冶職人の家系であり、秀吉の家族や親類縁者たちも鍛冶職人や鍛冶職人に係る人たちであり、彼ら尾張国の鍛冶職人のルーツが美濃国にあり、遡及すれば美濃国西部と近江国東部にまたがる地帯にあったということも事実であったので、鍛冶職人のネットワークの拠点という意味では、近江国浅井郡丁野村は秀吉に係る地であったと考えられる。

 

(d)安井重継の系譜

 

 浅井長政の実父、安井重継の系譜については、ほとんどわかっていませんが、本姓を源氏とする所伝を目にします。「姓氏家系大辞典」の安井氏の系図には、重継の先祖を甲斐武田の一族、逸見冠者清光の子の安井四郎清隆としていますが、疑問の多い系譜です。


 「諸系譜」は、安井重継の本姓を善滋(あるいは源氏)と記しています。善滋という姓はあまり目にしませんが、平安中期に賀茂朝臣忠行の子の保胤、保章、保遠の三兄弟が朝廷から賜った慶滋朝臣のことです。賀茂朝臣氏は三輪君同族の鴨君の後裔で、よく間違われがちですが、鴨県主などを出した鴨氏族とは別系統です。 

 

 たまたま入ったレストランで、私たちのテーブルに来てくれたウェイトレスさんの名札を見ると、「慶滋」と書かれ、「かも」とルビをふっていました。この苗字を「かも」と読ませていることにも驚きました。慶滋という苗字のルーツが賀茂氏にあることを体現しているからです。「慶滋」は本姓賀茂の読み替えとして生じた新しい姓といわれています。

 

 安井氏の系図を見てみると、通称に善左衛門を名乗る人が数多く存在します。善左衛門を、善滋氏の「善」に由来すると考えるならば、これこそが善滋朝臣姓の出自を示す傍証なのではないでしょうか。旗本の安井氏の系図が「寛政重修諸家譜」の清和源氏の項目に出ており、その注釈に本来は賀茂氏だが詳細はわからないという記事があります。この一族も、慶滋姓の安井氏だと思われます。

 

 須恵器製作と同じように鍛冶も高熱処理の技術が必要で、そのためには大量の木材がその燃料として必要になる。

 

 古代では、この燃料を確保する人たちは、秦氏の末裔の賀茂氏とされており、須恵器製作の窯の近くには賀茂市が配置された、もしくは、木材を確保しやすいところに住んでいた人たちが賀茂氏に組織された。

 

 以前「徳川氏と松平一族について」の(18)から(20)で述べたように、松平氏も秦氏に起源する賀茂氏であったと考えられるが、安井氏も同様に秦氏に起源する賀茂氏であったと考えられ、近江国浅井郡小谷村の鍛冶職人が必要とする木材を伊吹山系の山から切り出して供給していた人たちの末裔が、安井氏であったと考えられる。 

 

(e)秀吉の人間関係は美濃国に地縁をもっ人たちが多い


 秀吉の正妻おねにかかわる一族の系図を検討したのですが、美濃国に地縁をもっ人たちが目に付きます。それと対照的に、本来の出生地である尾張国に土着の人が少ない印象があります。これは秀吉の血縁者についてもいえることで、加藤清正、青木秀以の系譜は美濃との結び付きが濃厚です。秀吉の系譜研究にとどまらず、その家臣団がいかにして形成されたかを研究するうえでも、美濃国人脈の重要性は明らかです。 

 

 秀吉の正妻おねにかかわる一族の系図では、美濃国に地縁をもっ人たちが目に付くのは、美濃国と尾張国は木曽川を挟んだ隣国であり、木曽川の水運が両国を繋いでいたので、両国の人達の交流は盛んであったからであると考えられる。

 

 秀吉の血縁者についても美濃国に地縁をもっ人たちが目に付くのは、秀吉の血縁者の多くが鍛冶職人や鍛冶職人に出自する人たちであり、尾張国の鍛冶職人の多くは美濃国の鍛冶職人の系譜に連なっていたからであったと考えられる。

 

 そして、美濃国の鍛冶職人が、近江国の鍛冶職人と国境を挟んで交流していた、広く見れば、実体としては一体の集団であったことから、尾張国の鍛冶職人と近江国の鍛冶職員の関係が形成されており、近江国、美濃国、尾張国を繋げる鍛冶職人のネットワークが、相互の婚姻などを媒介として、存在していたと考えられる。

 

(12)隣接する秀吉・おねの先祖伝承地

 

(a)稱名寺と木下半介吉隆

 

 木下半介吉隆。右筆として秀吉が発給する文書にかかわり、三万石クラスですが大名にもなっています。秀吉の先祖伝承がある近江国浅井郡の出身であることに加え、木下の苗字で、「吉」のつく名乗り。血縁者かどうかもふくめてその関係ははっきりしません。「改選諸家系譜続編」所収の木下氏系図には木下吉隆の名が記されています。

 

 木下吉隆は近江国東浅井郡尊勝寺村の称名寺(浄土真宗)で住職を父親としています。往時に比べると規模こそ縮小しているものの、寺は長浜市で継承されています。

 

 文禄四年(一五九五)、関白秀次が自死に追い込まれた、いわゆる秀次事件のとき、吉隆自身が秀次の謀反の一味だと断罪され、薩摩国に流刑となり、当地で切腹したと伝わっています。吉隆は秀吉と秀次の連絡窓口であったので、事件の際、秀次の意志を秀吉に伝える過程で、秀次を擁護するような言動でもあったのでしょうか。

 

1)織田信長に抵抗した称名寺

 

 織田信長が近江に攻め入ろうとしていた時期、称名寺は領主の浅井氏とともに信長に抵抗しました。湖北の十か寺の筆頭格であったため、浅井氏の滅亡とともに寺は廃絶、住職は当地を追放され、各地を転々としていたことが寺伝に記されています。

 

2)秀吉の母親やおねたちを長浜城から脱出させた称名寺

 

 称名寺が隆盛を取り戻すきっかけとなったのが、天正十年(一五八二)の本能寺の変でした。このとき、称名寺住職の性慶が、秀吉の母親やおねたちを長浜城から脱出させ、明智軍から守っているのです。住職の性慶は、木下吉隆の甥です。

 

 時あたかも長浜に在った秀吉の母大政所と夫人お禰の危機を救うため、称名寺性慶はいち早く、長浜城の留守居役であった広瀬兵庫助と協力し、二人をまずは称名寺に保護。さらに危険を察知して兵庫助を先導させ、東草野谷を辿り、伊吹山麓を美濃国広瀬(現在の揖斐川町坂内広瀬)まで二人を無事に避難させた。秀吉は大いに喜びその労に報いるため、退散浪々の身となっていた称名寺性慶に対し、尊勝寺への還住を許すとともに六十三石の寺領を安堵、二か所の屋敷を与えた。

 

 この救出劇のもうひとりの功労者である広瀬兵庫助は、このときの褒賞として五百石の所領があてがわれており、秀吉の花押のある古文書の写しが伝来しています。この武将の苗字の地である美濃国広瀬とは、現在の住所表示では岐阜県揖斐川町坂内広瀬です。

 

 竹中半兵衛の子、重門が書いた秀吉伝記「豊鑑」には、このときのこととして、「とても防べき様にもあらねば、唯身を隠すにはしかじとて、伊吹の麓広瀬といふ山の奥に逃げ迷ふ」と記述されています。

 

 宝賀論文が指摘するように、近江国浅井郡尊勝寺村の称名寺の住職の次男が木下吉隆で性慶が木下吉隆の甥であったとすると、吉隆の実家は寺の住職の家系であり、吉隆は初めは右筆として秀吉に仕えたとされるので、おそらく秀吉に見いだされて武士になったのだと考えられ、そうであれな彼の「木下」という姓は、秀吉が下賜したものであったと考えられる。

 

 なお、吉隆美が美濃国庵八郡聿布良庄奥村にあった称名寺の住職の次男であったという説は、移転前の称名寺と移転後の称名寺を混同したための、誤った説であると考えられる。

 

(b)杉原、広瀬のある岐阜県揖斐川町は、滋賀県長浜市と県境をはさんで隣接

 

 美濃国の武将の広瀬兵庫助が、琵琶湖東岸の長浜城に詰めていたと書くと、他国の武将がどうして長浜にいたのかと疑問に思われそうですが、県境をなす国道三〇三号線の八草トンネルを抜けると、五、六キロメートルで広瀬です。長浜城からの避難場所としては、ちょうどいい距離であったといえます。広瀬兵庫助の在地である広瀬から直線距離にして、北東ハキロメートルほどのところに東杉原があります。江戸時代の地誌「美濃国諸旧記」が、その昔、おねの実家の杉原氏が居住していた在所であると記している、あの杉原です。


 このエピソードによって、近江の丁野(秀吉父方のルーツ?)と美濃の杉原(おねのルーツ?)は、国境で隔てられてはいるものの、一日で歩ける距離だということがわかります。直線距離にして約三十キロメートルほどです。改めて地図を見ると、杉原、広瀬のある岐阜県揖斐川町は、滋賀県長浜市と県境をはさんで隣接しています。現代の自治体の区分において、隣どうしの関係なのです。

 

 宝賀論文が指摘するように、伊吹山系を挟んで至近距離で隣接していた近江国の頭部と美濃国の西部は交流があり、そこでの人間関係はほぼ一体であったと考えられる。

 

 なお、宝賀論文が指摘する長浜から廣瀬への退避ルートの存在から、古くは、鍛冶職人の拠点の近江国浅井郡丁野村から美濃の関鍛冶の拠点で鉄鉱石の産地近くであった美濃国不破郡赤坂村に至るルートの一つが、長浜から広瀬、杉原を経由して揖斐川を下って赤坂に至るものであったと推定され、このルートを通って、鍛冶に係る物資や人間が往来していたと考えられる。

 

 杉原氏が、杉原から赤坂の近隣の市橋に移住してきたのは、こうした揖斐川を下る鍛冶の交通ルートの存在があったからであったと考えられる。

 

 そうすると、杉原氏が故郷の杉原村から揖斐川を下って、赤坂や市橋に移住して来たのは、おそらく事実であったと考えられる。


(c)美濃から近江へ移転してきた称名寺

 

 称名寺は現在も長浜市尊勝寺町にあり、寺号を津布良山といいます。元来は美濃国安八郡の聿布良庄奥村(岐阜県大垣市津村町)にあったので、この荘園の地名をもって寺号としています。現在、称名寺の住職家は津布良の苗字ですが、この発祥地にちなむものです。

 

 宝賀論文が指摘している、称名寺の移転も、近江国の頭部と美濃国の西部との交流を反映しているものであったと考えられる。

 

(d)称名寺と赤坂

 

 秀吉の一族の系譜を詳細に追ってきた私たちにとって、非常に気になる情報があります。称名寺の創始された場所である大垣市津村町から、西に五、六キロメートルのところに、鉄鉱石の山のある赤坂があるのです。この山をめぐるように織りなされている秀吉の人脈に、称名寺もかかわりがあるのでしょうか。

 

 宝賀論文が指摘するように、称名寺があった美濃国安八郡聿布良庄奥村の近隣には鉄鉱石の山のある赤坂があるが、近江国に移転した称名寺が小谷城の南側にあり、小谷城の北側が鍛冶職人の村だった丁野なので、称名寺の立地は鍛冶に係わっていると考えられる。

 

 おそらく、称名寺に係わっていた檀家衆は多くが鍛冶職人であったと考えられ、そこから、称名寺の住職も、鍛冶職人の出自であったと考えられる。

 

 そして、そうだとすると、初名寺の住職の次男であったという木下吉隆も、その先祖は鍛冶職人であったものと考えられる。

 

(e)美濃と近江を結ぶ街道が系譜の舞台

 

 北国街道は他の主要街道と比べて、本道がはっきりしていないのですが、今日のJRの東海道本線で米原まで行き、そこから北陸本線に入って琵琶湖東岸を北上するルートを本道とすると、岐阜県の大垣方面から滋賀県の長浜市の木之本に至る近道を「北国脇往還」といっています。大垣、米原、長浜の三点がつくる直角三角形の斜辺が「北国脇往還」で、国道三六五号線に相当します。この街道を東に行くと尾張国、北へ向かうと越前国に至ります。本書で見てきた種々の系図の舞台は、おおむね美濃と近江を結ぶこの街道に沿っていたことがわかります。

 

 宝賀論文が指摘するように、美濃と近江を結ぶ、現在の国道三六五号線に相当する「北国脇往還」に沿った地域に、豊臣秀吉に係る系図類の舞台があるが、その理由は、秀吉の母系が鍛冶職人の家系であり、秀吉の「父系」とされる(木下)弥右衛門の家系も、鍛冶職人の家系であったからであったと考えられる。