豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(10) | 気まぐれな梟

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 今日は、「愛と青春のうた [Disc 1]」から、因幡晃の「わかってください」を聞いている。

 

 宝賀寿男の「豊臣秀吉の系図学(桃山堂)」(以下「宝賀論文」という)は、秀吉の母親やその兄弟姉妹、秀吉の兄弟姉妹は、鍛冶と係わりがあったと以下のようにいう。

 

(9)福島正則と秀吉の母系

 

(a)鍛冶と大工

 

 福島正則と加藤清正の二人は秀吉子飼いの大名といわれ、少年のころから秀吉、おね夫妻の身近で育てられ、一人前の武将となっています。清正には鍛冶をめぐる所伝があるのに対し、正則には大工(番匠)をめぐる所伝があります。

 

 大工と鍛冶は今日においては全く別の職業ですが、時代をさかのぼるほど、その境界線はあいまいになり、大工の道具置き場の片隅には、鍛冶のための施設があり、大工自ら鍛冶仕事をなして道具を工夫するということがあったといいます。産業史においても、播州三木(兵庫県三木市)など大工の集住地に刃物産地が形成されています。岐阜県関市は有能な大工によっても知られる土地であったようです。大工は「鉄」と密接にかかわる職能であり、鍛冶とは裏表の関係にあります。

 

 福島正則で注目すべきは、大工(あるいは樽工)をめぐる所伝で、地誌的な間接情報が大半ですが、多くの史料が正則の父親を「番匠」、すなわち大工としています。「尾張群書系図部集」の編者、加藤國光氏も地元の伝来史料などをもとに、番匠説に従っています。

 

 福島正則の父が大工とか樽職人であったという所伝は、加藤清正の父の鍛冶の話と同様、史実とは確定されていませんが、そういう伝承が存在していたことは事実です。

 

 宝賀論文が指摘するように、福島正則の父が大工とか樽職人であったという所伝は、おそらく事実であったと考えられる。

 

(b)混乱している福島正則の系譜

 

 福島正則の系譜は著しく混乱しています。美濃源氏の流れとする系図が伝来している一方で、幕府編纂の「寛政重修諸家譜」千四百三十九巻では、「はじめは平氏であったが藤原氏に改姓した」とあるので、頭を抱えてしまいます。

 

 宝賀論文が指摘する福島正則の系譜の著しい混乱は、福島正則の系譜が創作された架空のものであることを証明している。

 

(c)秀吉の母系と繋がる説もあるが、秀吉の父系と繋がる説もある

 

 「寛政重修諸家譜」の福島氏の系図では、福島正則の母は秀吉の「伯母木下氏」と書かれていますが、多くの所伝で目に付くのは、福島正則の父は、秀吉の父の母親違いの弟というものです。


 「諧系譜」にある福島正則の系図は、秀吉の父の異母弟として正則の父を位置づけています。こちらは浅井氏から分かれた支族という系図です。大道寺友山の「落穂集」でも正則の父について、「秀吉公の父木下弥右衛門と腹替りの兄弟の由、一説これ有り」と書かれています。「中興武家諧系図」の「福島家」系図も、秀吉の父と正則の父は異母兄弟であるとしているのですが、正則の父とされており、秀吉の父親の「別腹舎弟。尾州清須町に住み、樽商売をす」という記述です。


 宝賀論文が指摘するような鍛冶と大工の一体性からすると、福島正則の父が大工とか樽職人であったという所伝は、福島正則の家系が鍛冶の家系であったことを示すものであると考えられる。

 

 福島正則の母は秀吉の「伯母」であったとすれば、鍛冶職人であったと推定される秀吉の母系の家系と、福島正紀の父は秀吉の母の妹と生業の共通性で婚姻したと考えられ、そこからも、福島正則の家系も鍛冶職人の家系であったと考えられる。

 

 福島正則の父が秀吉の父の異母弟であったという伝承の、「秀吉の父」とは(木下)弥右衛門を指すと考えられるが、この伝承は「秀吉の父」が(木下)弥右衛門であったということを前提にした伝承であり、「秀吉の父」が(木下)弥右衛門ではないならば、(木下)弥右衛門の生業と秀吉の家系は直接的には係わらないことになる。

 

 しかし、秀吉の母「なか」は(木下)弥右衛門と結婚したのではなく(木下)弥右衛門の「下女」であったとすれば、彼女が(木下)弥右衛門の家に奉公に上がったのは、「なか」の家系の生業と(木下)弥右衛門の家系の生業に何らかの共通点があったからであり、おそらくは、「なか」の家系の親類縁者の誰かの仲介で「なか」は(木下)弥右衛門に奉公に上がったのだと考えられる。

 

 なお、使用人の女性と性交渉をして、いわゆる「妾」や「側室」のように扱う例は、非常に多い。

 

 マルクスも使用人の女性を妊娠させて子どもを産ませているし、徳川吉宗の母は紀州徳川家の大奥の湯殿番をしていたときに、湯殿で藩主の徳川光貞に見初められて徳川吉宗を産んでいるとされる。

 

 そうであれば、(木下)弥右衛門の家に「下女」として奉公していたときに、(木下)弥右衛門と性交渉をし、実質的な「妾」や「側室」と同じ立場に立ったのかもしれず、それが、後世、(木下)弥右衛門と「なか」が婚姻していたとされたのかもしれないが、そうであったとしても、秀吉の生物学的な父親は(木下)弥右衛門ではなかったと考えられる。

 

 (木下)弥右衛門と秀吉の間に血縁関係がなかったとすると、(木下)弥右衛門の系譜はそれ自体で検討されることになるが、福島正則の、「番匠」であった父が秀吉の父の異母弟であったという伝承から、秀吉の父も鍛冶職人と関係が深かった、あるいは鍛冶職人か「番匠」であったと考えられる。

 

 そうであれば、秀吉の母系の家系は鍛冶職人の血縁集団のネットワークの中に存在していて、そのネットワークこそが秀吉が生育していった環境であったと考えられる。

 

 なお、福島正則が福島正信の実子ではなく、星野成政の子で福島家に養子に貼ったという伝承もあり、その場合は、弥右衛門の異母兄弟であったとされているが、この場合でも星野成政は鍛冶に係ると考えられるので、福島正則の家系は実父でも養父でも鍛冶に係わることになる。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

(10)(木下)弥右衛門の家系

 

(a)尾張国よりも美濃国に係る秀吉の家系と伝承

 

 弥右衛門を秀吉の実父とする系図はいくつか伝来しており、細部において異なった記述がなされているものの、共通するのは、秀吉の曾祖父にあたる人物が近江国(滋賀県)から尾張国(愛知県西部)に移住したという点です。

 

 秀吉のル-ツは尾張国であると思われがちですが、今回、系図史料を渉猟した結果、先祖代々、何百年もまえから尾張国に住んでいたという所伝はひとつとして見つかりません。系図にとどまらず、伝承、伝説に範囲を広げても、秀吉の先祖が室町時代前期あるいは鎌倉時代から尾張国に住んでいたという話は残っていないのです。

 

 加藤清正をはじめ、尾張出身の血縁者が家臣団に加わっていますが、その数は意外なほどの少なさです。これは秀吉の先祖が尾張国に居住した時間の短さを反映していると考えられます。

 

 宝賀論文は、加藤清正を尾張出身の血縁者だというが、確かに加藤清正が生まれたのは尾張国愛知郡中村なのであるが、加藤清正の父は尾張国海西郡津島村に住む刀鍛冶であったが、そこに移住してくる前には美濃国の斎藤道三に仕えていてとされているので、元々は美濃国の人であったと考えられる。

 

 なお、加藤清正の父は、正式な武士として斎藤道三に仕えていたのではなく、平時は刀鍛冶をしながら、戦時には雑兵として、斎藤道三の戦いに参加していたのだと考えられる。

 

 そうすると、秀吉のル-ツは母系でしか辿れず、「諸系譜」の「太閤母公系」が秀吉の母系を美濃国の関鍛冶としているように、それは美濃国の人間関係を基盤にしていて、尾張国での人間関係はその実の国での人間関係から派生したものであったとかんがえられる。

 

(b)秀吉の(父系)系図


 秀吉の系図は「塩尻」十一巻にあります。「国吉-吉高-昌吉-秀吉」という直系が記されているだけの略系図です。それぞれの兄弟、配偶者も書かれていません。初代にあたる国吉については、近江の浅井郡に生まれ、昌盛法師と号して、山門すなわち比叡山延暦寺にいたが、のちに還俗して、尾張に中村に移ったことが記されています。その三代後が秀吉で、これが父方系図に共通する形です。 

 

 「太閤母公系」を収める「諸系譜」第二冊には父方の系譜を記す「豊臣氏系図」もあります。比叡山の僧侶(昌盛法師こと国吉。系図上は秀吉曾祖父)が還俗して、尾張に移住するという基本構造は「塩尻」などと同じですが、こちらには曾祖父をさかのぼる系譜が記されています。この系図は、藤原鎌足ー不比等ー房前から始まる藤原北家の系図となっています。これは秀吉の父方系図といっても、その骨格をなしているのは、北近江の戦国大名、浅井氏の系譜です。浅井氏から枝分かれした支流として、秀吉の父方が位置づけられているのです。

 

 「中興武家諸系図」の編者や成立年代は全く不明ですが、豊臣秀吉とその一族にかかわる系図や所伝がけっこうな数、収められています。玉石混淆の情報ですが、「中興武家諧系図」の父方系図は「羽柴家」として掲載されています。曾祖父にあたる人物が比叡山から下りて、尾張国中村に移住したという内容で、これは他の系図と同じ内容です。

 

 「諸系譜」の「豊臣氏系図」や「中興武家諸系図」が秀吉の父系系譜を、曾祖父にあたる人物が比叡山から下りて、尾張国中村に移住したとしているのは、(木下)弥右衛門が豊臣秀吉の実譜であるということを前提にしているからであり、これらの系譜と伝承は、鍛冶職人に出自する(木下)弥右衛門が保持していた伝承であって、豊臣秀𠮷とは、その限りにおいては関係のないものであったと考えられる。

 

 「諸系譜」の「豊臣氏系図」では藤原鎌足ー不比等ー房前から始まる藤原北家の系図となっているが、これは、鍛冶氏の系譜の多くが藤原氏の出自を主張しているので、史実ではなく、このことから、(木下)弥右衛門が鍛冶職人であったこと、鍛冶職人に出自していることを表すものであると考えられる。

 

 「諸系譜」の「豊臣氏系図」や「中興武家諧系図」で、秀吉の曾祖父にあたる人物が比叡山から下りて、尾張国中村に移住したとしているのは、(木下)弥右衛門の祖先伝承であって、おそらく、(木下)弥右衛門の先祖は近江国の人で、比叡山から下りて尾張国中村に移住したてきたのであり、その後裔が(木下)弥右衛門であったと考えられる。

 

 「諸系譜」の「豊臣氏系図」の秀吉の父方系図が、北近江の戦国大名、浅井氏の系譜となっていて、浅井氏から枝分かれした支流として、秀吉の父方が位置づけられているのは、(木下)弥右衛門の家系が、近江国浅井郡の出自であったので、その出自を飾るために、木下)弥右衛門の家系の系譜を近江国浅井郡の有名な大名であった浅井氏の系譜に接続してたのであって、彼らの、自分たちは浅井氏から枝分かれした支流であるという主張は、事実ではないと考えられる。

 

 しかし、こうした系譜や伝承から、(木下)弥右衛門の家系が鍛冶職人の家系であった可能性は高いと考えられる。

 

(C)(木下)弥右衛門の家系は近江国浅井郡丁野村の出自

 

 「中興武家諸系図」では、曾祖父とされる昌盛法師こと中村弥助国吉には、このような略伝が添えられています。

 

 父は江州浅井郡長野村、長介二男にて長右衛門舎弟。毋は同所、清左衛門女、岩女。妻は中村住人、弥五右衛門女、鷹女。俗に還りて武家を好むといへども、その甲斐なく、むなしく死去。

 

 「諸系譜」では、秀吉の父方を北近江の戦国大名浅井氏の支流としていましたが、「中興武家諸系図」では、浅井氏との血縁についての記述はなく、浅井郡の住人というだけです。

 

 宝賀論文によれば、「中興武家諸系図」では、浅井氏との血縁についての記述はなく、浅井郡の住人というだけであるというが、おそらくこちらの伝承の方が「諸系譜」の「豊臣氏系図」の伝承よりも本来的なものであり、(木下)弥右衛門の家系は、戦国大名の浅井氏の支流などではなく、近江国浅井郡の鍛冶職人の出自であったと考えられる。

 

(d)秀吉の(父系)系図の構想と史実の核 

 

 浅井氏の居城である小谷城の本丸は標高五百メートルに近い山の中腹に築かれていたのですが、そこから西におりた麓に丁野という地名があります。浅井氏はもともと丁野を地盤とする地侍ですが、守護大名であった京極氏の没落に乗じて、戦国期に大名に成長しています。
 

 秀吉の先祖は「長野村」にいたと記されていますが、浅井郡に長野という地名は見当たらないので、これは丁野のことではないかと考えています。「華族諸家伝」をはじめ、丁野を秀吉の先祖の地とする所伝があるからです。

 

 丁野は戦国大名浅井氏の本来の居住地なのですから、秀吉の先祖が丁野にいたのであれば、主従関係であるとか、領主と領民という関係であるとか、なにがしかの縁があった可能性はあります。血縁はなかったとしても、もしかすると、地縁があったかもしれない、と考えられます。

 

 宝賀論文は、秀吉の先祖は丁野にいたといい、秀吉の先祖と戦国大名浅井氏は、血縁はなかったとしても、もしかすると、地縁があったかもしれない、という。

 

 しかし、(木下)弥右衛門は豊臣秀吉の実父ではなく、秀吉の先祖と戦国大名浅井氏は無関係である。

 

 そして、(木下)弥右衛門と戦国大名の浅井氏との関係も、浅井氏が、古代氏族の浅井直の系譜をひくとは言え、(木下)弥右衛門の出身地の近江国浅井郡丁野村の出自の、おそらく、その初期には地侍であったこと以外にはないと考えられる。

 

 なお、これもおそらくではあるが、浅井氏がその勢力を拡大できた理由の一つが、浅井郡の鍛冶氏族を掌握したことであり、その拠点に一つが丁野村であったと考えられる。

 

(e)美濃国から尾張国への移住と「傘師」


 「中興武家諸系図」では、秀吉の祖父にあたる吉高は、美濃の大名斎藤義龍に仕えたが、のちに浪人となり中村に戻ったと記されています。秀吉の父親である弥右衛門昌吉については、織田信長の父、信秀に仕える「鉄炮の者、足軽」であり、三河で今川氏の軍勢と戦ったときの傷で歩行が困難となり、二十八歳のとき中村に戻って「傘師」となったと記されています。「傘師」を除けば、よく知られている「太閤素生記」の記述とほぼ同じです。

 

 宝賀論文によれば、「中興武家諸系図」では、秀吉の祖父にあたる吉高は、美濃の大名斎藤義龍に仕えたが、のちに浪人となり中村に戻ったと記されているというが、尾張国愛知郡野中村に住んでいた、おそらく鍛冶職人であった(木下)弥右衛門の父親が、尾張国愛知郡野中村からわざわざ美濃国にまで行って、雑兵として美濃の大名斎藤義龍に仕えたという話は、斎藤義龍が武将として活躍した年代とも合わないし、極めて不自然な内容であると考えられる。

 

 この話を合理的に解釈すれば、(木下)弥右衛門の父親は美濃国にいて、斎藤道三の下で雑兵となっていたが、その後、尾張国に移住してきたということになり、そうであれば、(木下)弥右衛門の父親がも美濃国の関鍛冶の仲間であったと考えられる。

 

 なお、(木下)弥右衛門は、信秀に仕える「鉄炮の者、足軽」であり、三河で今川氏の軍勢と戦ったときの傷で歩行が困難となり、二十八歳のとき中村に戻ったとされているが、加藤清正の父親も、美濃国の斎藤道三に仕えていたが、戦中に負傷してしまったことをきっかけに斎藤家から離れ、尾張国海西郡津島村の鍛冶職人清兵衛の娘を娶ってかたなかじになったという伝承がある。

 

 おそらく馬を持たない徒歩の雑兵であった彼らは、戦場で負傷することがい多く、負傷によって雑兵をやめて鍛冶職人に戻る場合は、かなり多かったのだと考えられる。

 

 戦場での馬の必要性について、服部英雄の「河原ノ者・非人・秀吉(山川出版社)」(以下「服部論文」という)は、以下のようにいう。

 

 武士には馬が必要である。敵陣に馬で駆け入ることによって、歩兵(雑兵)を蹴散らすことができる。馬がなければ、騎馬武者に蹴散らされる陣笠足軽にしかなれず、戦死する確率も増える。馬さえあれば戦いに勝てることが多かった。

 

 暦応二年(一三三九)合戦に馬を失い、馬・鞍・具足を至急送れと手紙を書き続けた武士がいたが、あえなく戦死している(高幡不動・不動明王胎内文書)。北条時頼の「鉢の木」、山内一豊妻のエピソード、騎馬民族と万里の長城からも馬の軍事的重要性がわかる(服部「歴史を読み解く」。

 

 服部論文が指摘しているように、戦場では、馬を持たない雑兵は、馬に乗った武士に蹴散らされる存在であり、死亡したり負傷したりする確率はかなり高かったのだと考えらえる。

 

 なお、宝賀論文は、「中興武家諸系図」では、(木下)弥右衛門が中村に戻って「傘師」となったとされているというが、そうであれば、(木下)弥右衛門は農民ではなく、農民との兼業であったのかもしれないが、職人であったということになる。

 

 そして、「傘師」には小物のなどの工具が必須であったとすれば、それらの工具を自作できた(木下)弥右衛門はは、鍛冶職人でもあったと考えられる。

 

 そうすると、秀吉の継父の(木下)弥右衛門も、秀吉の実母の「なか」も、鍛冶職人の家系の人間であったと考えられる。