豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(9) | 気まぐれな梟

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 今日は、「愛と青春のうた [Disc 1]」から、ガロの「学生街の喫茶店」を聞いている。

 

 服部英雄の「河原ノ者・非人・秀吉(山川出版社)」(以下「服部論文」という)は、秀吉の妻「おね」の兄の杉原家次は、行商人の「連雀商人」に出自する新興商人であったと以下のようにいう。

 

(6)杉原家との関係2(杉原家次と連雀商人)

 

 「祖父物語」「清須翁物語」に、ね(寧)の出た家(杉原)は連雀商人であったとある。

 

 其比清須に七郎左衛門とて、れんぢやく商していけるものあり、是は藤吉郎がために、おは聟也(略)後に杉原伯耆と申しけるハ七郎左衛門が事なり

 

(a)行商人の連雀商人は低い身分

 

 「れんじゃく」とは、商品を連尺で背負って売り歩くこと。また、そのあきない、つまり行商をいう。キレンジャク・ヒレンジャクという鳥がいる。柳田国男「綜合日本民俗語彙」に(背負った時)「端二本の長く垂れたところが、連雀という鳥に似ているところからか」とある。


 豊田武氏がいうように、中世史料に見える「商人」は行商人、「町人」は店舗をもつ商人を指す。石井氏は、行商をするレンジャク商人は低い身分だと規定した。

 

 服部論文が指摘するように、中世史料に見える「商人」は行商人、「町人」は店舗をもつ商人を指すもので。おそらく代々に渡って街中に店を構えてそこで商売し、寺社などの古くからの権力によって保護され、「座」を構成して新規参入を制限して自分たちの権益を守り、町の祭りの担い手でもあった「町人」と、容易に参入が可能ではあったが、店を持たず、あちこちを放浪して僅かな商品を売って、その日暮らしをするような「行商人」とは、大きな格差があったと考えられる。

 

(b)特権商人だった連雀商人

 
 石井氏に先行する専論研究に、伊東弥之助「連雀町、連雀座、連雀商人」(「三田学会雑誌」三九-六、昭和二十一年)があって、ここではイメージが異なつて、彼ら連雀は特権商人だった。城下の中心部に連雀町があった。古文書に登場する側の特権商人・連雀商いの姿を確認しておこう。                             
 

○後北条氏・川越領

 

 れんちゃく町、新宿に立申候上は、諸役ゆるし置候、若火事出来候共、其まゝ居申候て、けし可申候、但法度書江戸次第たるべき者也、仍如件
  天正十九年卯七月十六日   酒井重忠(花押)
 かわこへれんちゃく衆中

 

 川越の連雀衆を保護する内容で、新宿に連雀町を立てたとある。新宿に誘致したのである。火事の際、消火責任を義務とするが、他の諸役負担を免除するという内容である(伊東論文所引)。

 

○後北条氏・松山領


 「新編武蔵風土記稿」比企郡・「埼玉県史」資料編6

 

 一二七三・上田憲定(ヵ)印判状写

 

 一 当知行分に有之候れんちやく衆、棟別赦免之事、永代差置候、為其印形出置者也、仍如件
甲申十二月十三日   岡部越中守 申次
  岩崎対馬守殿
  池谷肥前守殿

 

 甲申は天正十二年(一五八四)年である。「新編武蔵風土記」にみえるもので、宝暦の頃の町場の争論に提出され、岩崎子孫が勝訴したが、文書の現物は上に差し出したとある。

 

 この文書に続き、岩崎対馬守が池谷肥前守および大畠備後守の両名に出した乙酉(天正十三年)十一月十四日書状(同上、「埼玉県史」コ三三)があって、「本郷宿の地形が結ばれて、新市場を割添えたこと、三人の者に相触れて祝着である」とある。また「土貢は毎年五百疋(疋は一文、よって五貫文)を出せ」とある。新市開設にあたって、まず平坦地を造成したのであろう。積極的誘致である。造成経費は毎年五貫文と少しずつ回収した。

 

 つづいて丙戌(天正十四年)二月晦日・本郷新市場宛の制札が出されるが(同上、「埼玉県史」(一三三上田憲定制札写)、その条項のなかに「一於当市商売之物、諸色共に役有之間敷事」とある。新市場非課税策、つまり楽市政策である。

 

 新市開設にあたっては連雀町における連雀頭のような、自治的組織での強力な統制者を必要とし、誘致し優遇した。
 

 服部論文が指摘するように、都の寺社な貴族といった既存の権威に対抗して、新たに地方で権力を掌握していった戦国大名は、既存の権力と結合しその保護を受けていた「町人」層に対抗して、自分たチュの影響力が及ぶ信仰商人層を育成し、自分達の領国の経済活動を活性化することで、他の戦国大名たちと戦える経済力を確保しようとした。

 

 そうした戦国大名たちが組織したのが、容易に参入が可能ではあったが、店を持たず、あちこちを放浪して僅かな商品を売って、その日暮らしをするような「行商人」たちであり、彼らの商活動を保護することで彼らを育成し、その多くは新たの形成されたものであったが、戦国大名の城下町に「行商人」から頭角を現して成長した商人たちの店を出させ、彼らを大名権力に直結した「新興商人」としていったのである。

 

 この延長線上に、織田信長の「楽市・楽座」政策があり、こうした「振興商人」の育成・保護策は、出自や身分に拘らずに人材登用を進めた織田信長の人事政策とパラレルであり、時代の転換点では「規制緩和」によって社会構造の「構造改革」が不可避であることの表れでもある。

 

 豊臣秀吉が初めて仕えた松下之綱のもとを去ったのは、おそらくは彼の出自と猿の様な顔面や右手の指が六本であったという身体的特徴によって、彼が同僚の武士たちから攻撃された個tが直接的な原因であったと推測されるが、おしらく根本的にはそうしたトラブルに松下之綱が明確に対応しなかったことに失望し、松下之綱のもとでは秀吉の立身出世は絶望的であることを悟ったためであったと考えられる。

 

 そうであれば、織田信長が戦国大名として飛躍できたのは、彼が「楽市・楽座」政策や出自や身分に拘らない人材登用政策などの、流動化する時代の潮流に乗った「構造改革」を推進したからでもあったと考えられる。

 

 豊臣秀吉の出自の検討からは、こうした、今日の日本の「時代の閉塞感」を打破するためのヒントを考える個tができるんかもしれない。

 

(c)連雀商人は大名に直結した新興商人団

 

 このように文献をみるかぎり、連雀衆は集団をなし、その統領である連雀頭は大名権力の保護を得つつ、新市場の一角を占有するなど有利な活動を進めていた。大名に直結した新興商人団である。


 連雀町の地名は東日本の城下町に多く残る。ほとんどが大手前など城下の中心地域にあった(岡崎・浜松、掛川、前橋、高崎など多数)。江戸の神田連雀町(のち三鷹に移転)は江戸城の城門に近かった。伊東氏はこの現象は市が置かれた場所に近接して特権商人が住んだからだとしている。


 三斎市、六斎市の巾日二日市なら一目、二日市なら二旦に、市を求めて毎日毎日移動して歩く行商人の商品は、軽い物が主体である。境内地や路上の露天で商売をした。米や酒のような重い物はあまり行商には向かない。

 

 彼らの一部は、市場在家と呼ばれる市場の中にある常設店舗で商売した。米、酒は店舗で売る。米や酒は生産地である農村では売れず、都市でしか売れない。

 

 服部論文が指摘するように、戦国時代には、中世では零細な「行商人」であった連雀商人の中から、連雀衆という組織を結成し、その統領である連雀頭は大名権力の保護を得つつ、新市場の一角を占有するような、大名に直結した新興商人団が形成されていたのであった。

 

(d)連雀商人の多くは卑しい出自


 新興商人だから出自には身分が低いものが多かった。店をもちえず、店をもつ商人(町人)からは低くみられていた。狂言連雀はそのイメージを強調したものだ。だが新興商人は新興の大名と結びついて急成長した。大名も商人も、いずれも多くは卑しい出自だった。

 

 服部論文が指摘するように、連雀衆を結成して新市場の一角を占有していた新興商人の連雀商人の成り立ちは、別業態の人々が生業に参入してきたもので、彼らは最初は零細な「行商人」から出発していたと思われる。

 

 そして、そうした零細な「行商人」たちには、様々な理由で農村や街中から離脱して生活に困った人たちが多く含まれており、そこには、生活に困窮した農民や職人とともに、機会を掴んで身分を向上させようとした非人達も含まれていたと考えらっる。

 

 そうすると、村の百姓たちや街中の町人たち、戦国大名の下にいた古くからの武士たちからそれば、彼らは「連雀商人」を、生活に困窮して各地を放浪する卑賎な人たち、非人達と同類の人達だと認識していたと推定される。

 

 こうした「連雀商人」に対する卑賎感は、彼ら「連雀商人」の上層部が戦国大名権力の保護を受ける新興の特権商人となった後でも、おそらく長く残存したものだったが、戦国時代が終わって「天下泰平」の時代が到来するとともに、「連雀商人」自体が無くなっていくこともあって、「連雀商人」への差別意識も消失していったのだと考えられる。

 

(e)七郎左衛門(杉原家次)は「商人司」伊藤宗十郎の配下

 

 以上をふまえて清須の連雀商人、秀吉伯父であった七郎左衛門(杉原家次)の地位を考える。

 

 尾張には元亀・天正に「尾濃両国の唐人方并呉服方商人司」といわれる伊藤宗十郎がいた。織田政権に直結する商人司(連雀頭)である。秀吉幼年期はこの時代より前だが、この元亀朱印状には「改而巾付記」とあって、それ以前から伊藤氏の権益は織田氏によって保証されていた(「金鱗九十九之塵」所収、元亀三年十二月十一日織田信長朱印状、桜井英治「商人司の支配構造と商人役」「日本中世の経済構造」所収)。


 連雀商人七郎左衛門(杉原家次)は、長浜入城時、最初から厚遇された。自分の十分の一禄を与え、おとな(老名、家老)にした。七郎左衛門はそれまでにかなりの支援をしたはずで、それへの報賞だった。彼にははるかに資産があった。おそらく複数の馬をもっていた。連雀商人ではあったが、伊藤の配下にあって、それなりの地位があったのではないか。極端に差別された存在ではなかったはずである。


 連尺町、連雀町が各地の町名に残る。新興でなりあがりかもしれないが、もはや差別の対象ではなかった。連雀商人の頭は城下の大手に店を構え、連雀商人を取り仕切った。頭の手代もそこに店を構えた。七郎左衛門はその一画にいただろう。市で貧しい品物を売り、賤視されるような存在ではなかったと考える。

 

 服部論文が指摘するように、連雀商人七郎左衛門(杉原家次)は、「商人司」といわれる伊藤宗十郎の配下にあって、それなりの地位があったと考えられる。

 

 杉原家次の妹が織田信長の家臣で弓衆の頭であった浅野長勝と結婚しているのは、織田信長によって保護・育成されていた新興商人としての杉原家次の家格が浅野長勝とほぼ同格であると評価されていたからであった。

 

 しかし、宝賀寿男の「豊臣秀吉の系図学(桃山堂)」(以下「宝賀論文」という)によれば、杉原家利の唯一の男子であった家次は、杉原家の本家の養子になったのであって、家次の妹の「あさひ」が杉原(旧姓林と伝える説もある)定利を婿養子に迎えて家利の家業を継がせたのであるが、定利は「鉄炮張工」という鍛冶職人であったとされる。

 

 そうすると、杉原家の分家であった杉原家利の家系の職業は鍛冶職人であり、家次が養子に入った先の本家の杉原家が「行商人」の「連雀商人」であったと考えられる。

 

 さらに、そこから、杉原家の本家が兄弟の兄の家系で、分家の杉原家が弟の家系であったとすると、弟が旧来の家を守り、兄が新規独立するという「兄弟の道」があったとすれば、杉原家の本来の家業は鍛冶職人であり、「連雀商人」は新たな稼業であったと考えられる。

 

 そうであれば、おそらく、杉原家の「連雀商人」としての最初の出発は、鍛冶で制作した小さな道具類を行商して歩くということから始まったのかもそれない。

 

 平成の時代でも、軽トラックに金物や刃物類を載せて行商をする人たちがいたし、物干しざおの行商もよく見かけたので、腐ってしまうことがなく重さも大きさもそれ程でもない金物や刃物類は行商には適していたのかもしれないし、鍛冶の知識があれば、行く先々で刃物を研いだり金物を補修したりするような付加サービスを行うこともできて、それなりに重宝されたのかもしれない。

 

 こうした検討の結果から、杉原家次は、新興の有力な「連雀商人」であったが、彼の本来の出自は鍛冶職人の家系であったと推定することが出来る。