豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(8) | 気まぐれな梟

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 今日は、「愛と青春のうた [Disc 1]」から、松山千春の「旅立ち」を聞いている。

 

 宝賀寿男の「豊臣秀吉の系図学(桃山堂)」(以下「宝賀論文」という)は、秀吉の母親やその兄弟姉妹、秀吉の兄弟姉妹は、鍛冶とかかわりがあったと以下のようにいう。

 

(6)杉原家との関係1(杉原家利と鍛冶)

 

(a)「おね」の一族は杉原氏で、秀吉が木下姓を下賜した

 

1)秀吉の母親の姉が、杉原家利(おねの母方祖父)の妻

 

 「諸系譜」の「太閤母公系」によると、秀吉の祖父、兼員には四人の娘があり、長女は杉原七郎右衛門家利の妻と書かれています。杉原家利とは、秀吉の正妻(おね)の母方祖父にあたる人です。「太閤母公系」が史実であれば、秀吉とおねは結婚する前から、縁戚関係にあったことになり、同族的なつながりによって婚姻が成立した可能性が出てきます。秀吉の母親の姉が、杉原家利(おねの母方祖父)の妻であるという記述は、「青木紀伊守秀以の事蹟」にもあります。

 

 おねの両親はいずれも杉原氏で、双方の親族を見渡しても木下の苗字は確認できません。

 

 「諧系譜」第二冊は「太閤母公系」の少し後に「杉原家系」を載せています。おねの実家の系図ですが、代々の人の結婚相手として、浅野氏、市橋(一橋)氏が見えますが、木下の苗字はありません。

 

 宝賀論文が指摘するように、秀吉の母系と「おね」の家系は婚姻関係を重ねており、そのいみでは、秀吉と「おね」の結婚は、同族結婚であったと言え、「おね」の家系の婚姻関係は、浅野家、市橋家との間にもあったが、それらのどこにも木下の名は出てこない。

 

 つまり、木下は後から作られた姓であり、おそらく秀吉が下賜したものであったと考えられる。

 

2)「おね」の父親は「鉄炮張工」


 おねの父親は、「道松」という出家の名乗りで登場しており、実名は定利、職業は「鉄炮張工」であると書かれています。武士身分ではなく、鉄砲を製造する職人だというのです。一般にはあまり耳にしない所伝ですが、鉄砲づくりも鍛冶のひとつであり注目されます。秀吉の伯母の嫁ぎ先とされる杉原家利の弟が、この「杉原家系」では道松の父とされています。

 

 宝賀論文が指摘するように、「おね」の父親は「鉄炮張工」であったので、「おね」の家系は武士ではなく、鍛冶職人であったと考えられる。

 

3)「おね」の母親の兄は連雀商人


 おねの母親には家次という兄がいて、のちに秀吉に仕えて、近江の坂本城主、丹波の福知山城主などをつとめる大名になっていますが、江戸時代はじめに成立したとされる「祖父物語(朝日物語)」に、家次は連雀商人であったと書かれています。「諸系譜」の「杉原家系」でも「連雀商人」です。連雀とは行商人が荷物を背負うための木製の道具。連雀商人は諸国を経巡って商売をすることもあります。

 

 「鉄炮張工」といい、「連雀商人」といい、おねの一族は典型的な武家とはいえない感触があります。


 「美濃国諸家系譜」の杉原氏の系図を見てみると、おねの両親(道松、朝日)のそれぞれの祖父が兄弟という系図なので少し違っていますが、杉原一族のなかでの同族結婚という点では共通しています。ここでも木下の苗字は見つかりません。

 

 宝賀論文が指摘するように、「おね」の家系は、母系も父系も杉原の姓なので、杉原一族のなかでの同族結婚が繰り返されてきたと考えられるが、「おね」の家系が武士の家系でなかったとすると、そもそも杉原の姓は、同じ杉原村の出身者という意味しか持たず、杉原精を持ってはいても血縁関係にはなかった場合も多かったと考えられる。

 

 そすると、おねの両親(道松、朝日)のそれぞれの祖父が兄弟という系図も、それほど事実を反映しているものとも思えないが、婚姻関係を繰り返したっ結果として、同族のようになった人間集団は存在していたはずで、それを杉原一族と呼ぶことはできると考えられる。

 

 伝承のように、「おね」の母親が婿養子をとって父の家業を継ぎ、彼女の兄が同族の養子になって別家を継いだとすれば、「おね」の家業は「鉄炮張工」の鍛冶職人で「おね」の母親の兄の家次が継いだ家系の家業は「連雀商人」であったと考えられる。

 

 そうすると、どちらも武士ではなく、普通の百姓でもなく、清須の職人や行商人であったと考えられる。

 

4)「寛政重修諸家譜」の系図では「おね」の父は「某」と表記

 

 おねの父親は「寛政重修諸家譜」の系図で、「某」と記されています。実名はもとより、経歴、その両親をふくめて一族的な背景もはっきりしないというのです。関白という最高位まで昇った人物の正妻の父親が、「某」というのはいかにも不審なことです、秀吉にしても父親は不詳なので、夫婦そろって父親の実像がはっきりしないわけです。

 

 宝賀論文によれば、おねの父親は「寛政重修諸家譜」の系図で「某」と記されているというが、おねの父親が武士ではなく「鉄炮張工」の鍛冶職人であったとすれば、そして、普段は「道松」という出家名で呼ばれていたのだとすれば、その実名が伝わってはいなかったのは無理もないことであり、「定利」という武士のような名は、後になって武士のような系図を創作するときに、一緒に創作されたものであったと考えられる。

 

5)「おね」の一族は杉原氏で、秀吉が木下姓を下賜した

 

 「寛政重修諸家譜」千百八十三巻は、おねの実家である木下氏の系図の冒頭に、次のような説明を加えています。

 

 もとは平氏にして杉原を称す。家定がとき豊臣太閤より豊臣氏及び木下の称号を与えらる。

 

 これが意味するところは、おねの一族はもともと平氏の流れをくむ杉原氏であったが、おねの結婚により、その兄である家定は、秀吉からその姓である豊臣およびその苗字である木下を与えられたということです。

 

 宝賀論文は、「諸系譜」の「太閤母公系」や「杉原家系」には木下の苗字は見つからないというが、その訳は、家定が秀吉に仕えた時に初めて家定の一族に木下の姓が下賜されたからであり、それまでは彼らは、出身地の美濃国大野郡杉原村にちなんで杉原を名乗っていたからであったと考えられる。

 

 なお、「おね」の父は「鉄砲張工」という鍛冶職人であり、「寛政重修諸家譜」の系図では「おね」の父は「某」と表記されており、「おね」の母の兄は新興の連雀商人であった。

 

 「平姓杉原氏御系図附言」がいうように、「おね」の祖父が、家業を娘に入り婿に入った「おね」の父に譲ったのだとすると、「おね」の祖父の家業も「鉄炮張工」ないし鍛冶職人であったと考えられる。

 

 そして、「おね」の祖父が杉原家の本流ではなく、杉原家の本流を養子として継いだ「おね」の母の兄が新興の連雀商人であったとすれば、杉原家の本流の家業は連雀商人であり、傍流の家業が鍛冶職人であったことになるが、本来の家業を弟が継いで、新しい家業を兄が始めるという「兄弟の道」を参考にすると、杉原家の本来の家業は鍛冶職人であったと考えられる。

 

 そうであれば、杉原家の「杉原」という名字は、杉原村の出身者とでもいう程度のものであり、日常的にはその名字を名乗ることもなく、「おね」の祖父の名の家利は「おね」の母の兄の家次が豊臣秀吉に仕えるようになって以降、杉原家の系譜を創作するときに武士らしい名を設定したものであり、家次の名も、彼が豊臣秀吉に仕えるようになったときに、つまり、彼が武士になった時に設定されたものであったと考えられる。

 

 こうして杉原の系譜が創作され、その後、「おね」の異母兄の家定が豊臣秀吉から木下の姓を下賜されることで、木下氏が創設されたと考えられる。

 

(b)杉原家の系譜 

 

1)「寛政重修諸家譜」の杉原氏の系図は偽系図


 「寛政重修諸家譜」五百三巻の杉原氏の系図は、貞衡流の伊勢平氏で、おねの母方祖父にあたる家利のまえに空白部分があるのですが、その先は「満盛―賢盛―長恒―孝盛―時盛」となっています。この五代は「尊卑分脈」の杉原系図とほぼ同じです。おねの一族がこの杉原氏の子孫であるならば、武門平氏の名家の末裔であるのですが、そう簡単ではない事情が「寛政重修諸家譜」を見ると明らかです。

 

 杉原氏の系図は、時盛の後に系譜の中絶を示す空白があって、再び、家利(おねの祖父)から系図が始まっています。つまり、幕府の編纂スタッフは、「尊卑分脈」にある平姓杉原氏の系図が、おねの実家の系図に結びつくのは疑問であると見ていたのです。地域的に考えても、備後の杉原氏が伊勢平氏の一派ということには問題があります。

 

 宝賀論文が指摘するように、「寛政重修諸家譜」の杉原氏の系図は偽系図であると考えられる。

 

2)「美濃国諸家系譜」にある杉原氏の系図の美濃国大野郡杉原が発祥の地という伝承は妥当

 

 「美濃国諸家系譜」にある杉原氏の系図には、杉原氏の始祖とされる光平について、「母は美濃国大野檜坂住人の檜坂太郎、源頼季の娘。母の縁により、美濃国大野郡杉原に住み、はじめて杉原を号す」という内容の記述があり、苗字の地は、母親の出身地である美濃国の杉原ということになります。現在も岐阜県揖斐郡揖斐川町東杉原という住所表示として、杉原の地名が残っています。

 

 宝賀論文が指摘するように、「おね」の実家の杉原氏は美濃国大野郡杉原が発祥の地であったと考えられるが、杉原氏はそこを支配していた在地領主の武士ではなく、鍛冶職人であったと推定されるので、「杉原」は武士の名乗りではなく、杉原村から来たというだけのことで、いわゆる姓ではなかったと考えられる。

 

3)「美濃国諸旧記」に書かれた、おねの実家は美濃の杉原(現岐阜県揖斐郡揖斐川町、旧美濃国大野郡杉原)を発祥地とし、その後、尾張に移住したという伝承

 

 江戸時代の地誌「美濃国諸旧記」は岐阜県域についての歴史、地理をまとめたものですが、戦国期の土豪クラスの武士について詳細な記述があって、「美濃国諸旧記」の十一巻「城主所主諸士伝記」のひとつに、「大野郡杉原の住人は、杉原六郎左衛門家盛」として、以下の所伝が記されています。

 

 当家の本姓は平なり。その元祖と申すは、平相国清盛の二男小松三位重盛、その子惟盛、その子秀衡、その二男伯耆守光平といふ。平家の一族没落の後、所々に散在す。光衡は、当国大野郡小山の奥に落人りて、杉原村に住す。故にこれより杉原氏と改む。光衡より数十世の後、杉原平太夫家幸といふ者あり。その子すなわち六郎左衛門家盛なり。さて二男を杉原七郎兵衛尉家則と申しけるが、これは故ありて尾州に至り、愛智郡に住す。この人一男二女を設く。嫡子を杉原七郎左衛門家次と申して、木下藤吉郎秀吉に属せり。女子は朝日といへり。杉原助左衛門入道道松に嫁す。

 

 宝賀論文は、「美濃国諸旧記」では、杉原家の本姓は平であるとしているというが、杉原家が鍛冶職人の家系であったとすれば、美濃国の有名な関鍛冶が平氏の出自を主張していたのを模倣して、自分たちの系譜を平氏に繋ごうとしたのだと考えられる。

 

 そして、揖斐川の奥地から美濃国の赤坂の近くの市橋などの関鍛冶の拠点に出てきた杉原家は、おそらくそこで関鍛冶の鍛冶職となって、その技術をもって、尾張国愛知郡に移住したのだと考えられるが、この大まかな流れが、「美濃国諸旧記」の記載に反映しているのだと考えられる。

 

(c)揖斐川に沿った地域の氏族と杉原氏のあいだの血縁、地縁の強い結びつき

 

 朝日、道松がおねの両親ですから、おねの実家は「美濃国諸旧記」が説くように、美濃の杉原(現岐阜県揖斐郡揖斐川町、旧美濃国大野郡杉原)を発祥地とし、その後、尾張に移住したという経緯はわりあい自然ではないかという感触を私は得ています。根拠のひとつは、揖斐川に沿ったこの地域の氏族と杉原氏のあいだに、血縁、地縁の強い結びつきを確認できることです。それは秀吉の人脈とも重なるものです。

 

1)杉原


 美濃の杉原は揖斐川の源流近くにある集落です。国内最大の徳山ダムのすぐ南側に位置し、岐阜県揖斐川町に東杉原という地名が大字で残っています。

 

2)市橋

 

 揖斐川は南流し、大垣市を経て、伊勢湾に注いでいます。「諸系譜」の杉原系図を無視しがたいのは、おねの先祖で美濃国の一橋(市橋)に住んでいた人たちがいたと書かれていることです。現在の岐阜県揖斐郡池田町市橋、大垣市南市橋町のあたりで、市橋荘という荘園のあったところです。当地の土豪、市橋氏と杉原氏の結婚も記載されています。

 

 編者、成立年代ともに不詳ですが、江戸時代に書かれた尾張の地誌「尾陽雑記」の「杉原(木下 市橋)」と題した系図では、おねの祖父杉原家利と市橋長勝が兄弟とされ、同じ一族として扱われています。両氏の間で婚姻が繰り返され、同族めいた関係であったことを示しています。


 市橋長勝は秀吉に仕えて大名に浮上し、江戸時代も大名家として続いています。この市橋氏についても系譜や所伝の混乱は見られますが、「尊卑分脈」で確認できる一族で、江戸時代の地誌「新撰美濃志」には、鎌倉時代、承久の変の功で美濃国市橋荘の地頭となり、そのころから豊後国(大分県)の領主であった大友氏に代々仕えたことが書かれています。

 

 宝賀論文が指摘するように、市橋氏は美濃国池田郡市橋荘の地頭の有力武士であったので、「尾陽雑記」系図でおねの祖父杉原家利と市橋長勝が兄弟とされているのは偽系図であり、鍛冶職人と地頭クラスの在地領主が婚姻関係を結ぶことは考えられないので、杉原氏と市橋氏の両氏の間で婚姻が繰り返され、同族めいた関係であったとは言えないと考えられる。

 

 そうすると、「おね」の家系が婚姻していた市橋家とは、おそらく地頭であった武家の市橋家などではなく、市橋層に住んでいた人という意味で「市橋」を名乗った人たちであり、おそらく彼らも「おね」の家系と同じような鍛冶職人であったと考えられる。

 

 そして、「おね」の家系が秀吉の出世とともに身分を上昇させ、地頭の在地領主と秀吉が関係を持っていく過程で、「おね」の家系が婚姻していた市橋家の系譜が、武士で地頭であった市橋氏の系譜に接合されていったのだと考えられる。

 

3)赤坂

 

 おねの先祖の移住先と伝わる市橋は、赤坂の近所というよりほとんど同じ場所です。鉄鉱石の採れた金生山の北側のふもとが市橋で、現在の地図では南側に赤坂町、東側に青木町があります。こちらは青木氏にゆかりの地です。杉原一族は揖斐川をくだって、この地で秀吉の母方縁者の先祖たちと関係をもったのかもしれないと思います。

 

 宝賀論文がいう杉原氏は、秀吉が出世し、家次や家定が秀吉に仕える武士になったときに誕生した名であり、同じく宝賀論文がいう、秀吉の母の家系の「関氏」という名も、おそらく、美濃の関鍛冶の一族という意味で、秀吉の母系を飾るために誕生した名であったと考えられる。

 

 それを前提として、その上で便宜的に杉原氏や関氏を使用していうと、杉原氏と関氏の婚姻関係は、市橋や赤坂などでの近隣の鍛冶職人としての交流によって生じたものであったと考えられる。

 

 そして、杉原氏も関氏も、美濃国から尾張国に移住していくのだが、この移住過程や移住後の生活についても、相互の交流は継続していたと考えられる。 

 

(d)「平姓杉原氏御系図附言」

 

 「平姓杉原氏御系図附言」は十八世紀半ばに日出藩の家老、菅沼政常が書いたものですから、かなり後世の文書ですが、面白い話がいくつか載っています。

 

1)「野合」の婚姻と養女


 同書が伝える有名な所伝に、「一説によると、おねと秀吉の結婚は野合である。おねの母(朝日)は秀吉の卑賤を嫌い、結婚を許そうとしなかったため、妹(七曲)夫妻がおねを養子ということにして秀吉との結婚を成立させた」というものがあります。七曲の夫が浅野長政の養父(血縁上はおじ)の長勝です。おねが浅野長勝の養女であったため、浅野長政は豊臣家において一門衆として遇されています。

 

2)浅野家と杉原家の繋がり

 

 「寛政重修諸家譜」にも、「浅野又右衛門長勝に養はれて、豊臣太閤の北の政所となり」と書かれているものの、おねには養子の内実があったのか、「平姓杉原氏御系図附言」が記すように名目的なものであったのか、よくわからないところがあります。しかし杉原家と浅野家は、結婚や養子をとおして重層的な関係をもっていることは確かです。

 

3)複雑なおねの家系


 「平姓杉原氏御系図附言」によると、「おねの祖父、家利は杉原家の嫡流(本家筋)ではなかったが、嫡流の正重という人に実子がなかったので、家利の子の家次が養子となって杉原家の嫡流をついだ。家利には一男二女の子どもがいたが、唯一の男子である家次を養子に出してしまったので、長女の朝日の夫、道松を跡目として領地を譲った」というのです。自分の家の相続者であるべき長男を他家の養子に出したのは、そちらが本家筋であるからだという推測をし、そのうえで、家利と正重は兄弟あるいは従兄弟の関係であろうと記しています。


 おねの家系は複雑で実態をつかみにくいのですが、杉原家利は家督を娘(おねの母親、朝日)に譲ったと考えられます。

 

4)おねの父親道松

 

 おねの父親道松については記録が少なく一種の謎の人物ですが、「平姓杉原氏御系図附言」に「助左衛門尉道松公(実の諱、これを知らず)は杉原氏の麁流なり。一説に林氏と云り」という記述があります。「麁流」とは、本家筋ではなく、傍流ということ。おねの父親は血筋のうえでは林氏ではないかという見解です。この史料でも、木下という苗字は見当たりません。

 

 宝賀論文の3)4)の記述から、杉原家利は家督を娘(おねの母親、朝日)に譲ったのであれば、おねの母親、朝日の夫の道松が「鉄炮張工」という鍛冶職人であったので、「おね」の家系は鍛冶職人の家系であったということになる。

 

 その上で、宝賀論文が指摘するように、「平姓杉原氏御系図附言」に「助左衛門尉道松公(実の諱、これを知らず)と書かれていることから考えると、おねの父親道松は武士などではなかったので、その実名も伝わってはいないと推定できる。

 

 そうすると、逆に、杉原定利の実名が伝わっていないことは、おねの父親道松が武士ではなく鍛冶職人であったことの証拠にもなりうると考えられる。

 

 なお、宝賀論文が紹介している、おねの父親道松が林氏の出自でったという説の当否やその場合の林氏の系譜などは、不明である。