豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(7) | 気まぐれな梟

気まぐれな梟

ブログの説明を入力します。

 今日は、「愛と青春のうた [Disc 1]」から、泉谷しげるの「春夏秋冬」を聞いている。

 

 宝賀寿男の「豊臣秀吉の系図学(桃山堂)」(以下「宝賀論文1」という)は、秀吉の母親やその兄弟姉妹、秀吉の兄弟姉妹は、鍛冶とかかわりがあったと以下のようにいう。

 

(4)加藤清正と鍛冶

 

(a)婚姻を重ねながら形成される血縁集団の同質性の存在

 

 「諧系譜」の「太閤母公系」が示す鍛冶の系譜は、安易に無視することができないのは、母方の血縁者とされる加藤清正の一族に鍛冶にかかわる言説が濃厚に残っているからです。


 私は古代から近世に至るおびただしい系図に目をとおしていますが、結婚する男女は、同じ社会階層に属していることが圧倒的に多いものです。したがって、婚姻を重ねながら形成される血縁集団は、それぞれに他とは違う特徴をもつことになります。多少、薄らいだとはいえ、これは現代においてもあてはまる傾向です。加藤清正の系譜を探ることを通して、秀吉が属する血縁集団の色合いを知ることができるということです。
 

 「諸系譜」の「太閤母公系」によると、秀吉の母と加藤清正の母は姉妹とされているのですが、秀吉の祖父にあたる兼員の妹が、加藤清正の祖父清信の妻であるとも書かれています。これが史実であれば、秀吉と加藤清正の家は二代に及ぶ縁組を重ねたことになります。「断家譜」に加藤清正の系図が出ており、「母 秀吉公伯母」とあるので、こちらは姉妹説です。

 

(b)加藤清正の父親は刀鍛冶であった


 加藤清正の父親は刀鍛冶であった。この話は書状や日記など、同じ時代に書かれた歴史記録(一次史料)によって史実として確定しているわけではありません。とはいえ、系図をふくむ多くの文献に鍛冶の所伝が書かれており、単なる民間伝承というには輪郭が鮮明すぎる印象があります。


 「中興武家諸系図」の加藤清正の系図は、父親の清忠について「初め鍛冶を業とす」、祖父の清信については、二十五歳のとき眼病で亡くなると記しています。鉄工にかかわる職人は火に目をさらすことが多く、眼病は深刻な職業病です。祖父も鍛冶であったことをうかがわせる間接的な情報ですが、かえって説得力があります。

 

 「系図纂要」は、明治時代を目前とした幕末期に編纂されたにもかかわらず、編者が不詳なのですが、国学者の飯田忠彦(一七九九~一八六〇)だとする説が有力です。

 

 清正の父、清忠について、美濃国大名の斎藤義龍に仕えていたが、その暴悪を嫌って同国を去り、尾張国の鍛冶の家に身を寄せ、そこの娘と結婚したことが「系図纂要」に書かれていますが、清正の父親自身が鍛冶になったようにも読めます。

 

 義龍の暴悪を憎み、今須城を去り、稲葉山に入り、母を奪いて尾州へ走る。鍛工清兵衛に寓し、その女を娶る。清兵衛を称す時、年、二十四。

 
 加藤國光氏の編んだ「尾張群書系図部集」は、清正の父親については、姓氏不詳の「某」で、「尾州愛知郡中村の住人。鍛冶職人か」、その弟については「尾州海東郡津島村の住人。鍛冶職」としています。 

 

 このように、清正の父親を刀鍛冶とする所伝は枚挙に暇がないほどです。

 

(c)加藤清正の藤原姓は関鍛冶の集団に由来する

 

 加藤清正系図は、関白藤原道長の子孫で忠家の子の正家という人物が美濃に定着して武門に転じ、加藤家の始祖となったとしていますが、「尊卑分脈」の該当箇所を見ると、藤原忠家の男児に加藤清正の先祖とされる正家という名は見当たらず、藤原道長から忠家に至る公家部分にも混乱、があります。

 

 加藤清正の家が、なぜ藤原氏を称していたかという理由は、現在の岐阜県関市を拠点とした関鍛冶の集団は、「惣氏神の春日神社を本所とあおぎ、これを拠点とした自治組織(鍛冶座)」(「関鍛冶の起源をさぐる」所収「関鍛冶刀柤調査報告」)であったと考えられます。

 

 春日神社は大和国から勧請されたものですが、公家の藤原氏の氏であるため、「江戸時代以降の関鍛冶に関する由緒書には、これを古代の藤原氏との関連につなごうとするものも現れる」(同)のです。藤原姓を自称する刀鍛冶は多数、存在しています。加藤清正の藤原姓はこれに由来すると考えられます。

 

(d)鍛冶職人と陶工の同質性


 愛知県瀬戸市から岐阜県多治見市、可児市、土岐市にかけては、わが国で最大の焼き物産地ですが、この地で陶芸産業に携わる人の多くは加藤を苗字としています。陶工の加藤一族は、四郎左衛門景正という人物を始祖として祀っています。景正は、道元禅師とともに中国の宋に渡り、高温焼成と釉薬をともなう高度な陶芸技術を持ち帰って、瀬戸焼を創始したと伝わりますが、実在の人物かどうかをふくめて謎だらけです。

 

 製鉄や鍛冶には工程のうえで良質の耐火粘土が欠かせないので、地理的にも歴史的にも陶工と刀工の人脈は重なっています。一番わかりやすい事例でいえば、備前焼の産地は備前長船で知られる日本刀の産地と同じエリアです。


 加藤清正の家系が鍛冶にかかわるのであれば、陶工の一族と血縁があったとしてもそれほど不自然とはいえないはずです。

 

(e)鍛冶職人、陶工と地侍

 

 志野、織部、黄瀬戸など、桃山時代から江戸初期に隆盛した茶陶を再興し、人間国宝に指定された加藤唐九郎氏(一八九七~一九八五)が先祖について記した文章をみると、戦国時代、美濃や尾張の陶工は、戦いがあれば刀を持って馳せ参じたといい、地侍のような性格があったようです。

 

 宝賀論文1 が指摘するように、戦国時代、美濃や尾張の陶工は、戦いがあれば刀を持って馳せ参じたといい、地侍のような性格があったのならば、陶工と同類の鍛冶職人、特にその中でも刀鍛冶の鍛冶職人は、おそらく自分自身で作った刀などの武具をもって、ときには雑兵として、戦場を走り回っていたと推定でき、そうであれば、線香をあげた彼らが武士に転化していくのは、それぼど困難な過程でもなかったと考えられる。

 

 そうであれば、豊臣秀吉が登用していった鍛冶職人の出自を持った人たちが、武士に転化して有力武将や有力大名になっていったのも、ごく自然なことであったと考えられる。

 

(5)小池秀政と鍛冶

 

 宝賀寿男の「古代史軸の研究⑱鴨氏・服部氏(以下「宝賀論文2」という)は、小出氏について以下のようにいう。

 

(a)阿智族

 

1)思金神

 

 少彦名神と同様の性格で、知恵の神とか学業成就の神とされるものに「思金神」がある。この神は、大工が家を建築する時に最初に行う「手斧初」(ちょうなはじめ)の儀式の主祭神ともされる。高御産巣日神の子と伝える系譜も少彦名神と同様で、異名が常世思金神、思兼神、八意思兼神ともされるから、常世国に行ったという知恵神の少彦名神に通じる。

 

 「旧事本紀」の「神代本紀」では、高皇産霊尊(亦名が高魂尊)の児、天思兼命は信濃国に天降りして阿智祝部等の祖となるとし、同「天神本紀」では、思兼神は信乃阿智祝部の祖(子の表春命の後)や武蔵秩父国造の祖(子の下春命の後)になると記される。

 

2)阿智祝部

 

 天表春命の後裔諸氏は、「阿智氏族」として一括されよう。この系統は信濃南部の伊那郡及び武蔵西北部の秩父郡という東国にのみ存続した。阿智氏族は、発生・初期段階で伊豆と関係が深く、むしろ伊豆国造と同族の流れとみられる。


 阿智祝部は、実際には伊那郡南部に後裔を長く存続させており、それが「小町谷系図」として鈴木真年が明治期に採集して現在まで伝えられる(その著「列国諸侍伝」に「信乃国阿智祝系図 阿智祝」と原典が見える)。

 

3)阿智神社

 

 伊那郡には式内社が二社あったうちに、阿智神社があげられ、その論社が下伊那郡阿智村の智里(昼神)と駒場にある。いま智里の地に阿智神社の前宮と奥宮があって、祭神を天八意思兼命・天表春命とし、建御名方命・大山咋命を配祀するというが、一説に、「昔は駒場の社(現・安布知神社)を前宮、昼神(現・阿智神社)を奥の宮と言へり」と記すものがある。これが正しければ、当初鎮座の地が昼神で、これが後に奥宮(元宮)になるものか。

 

 智里では、阿知川(天竜川支流)左岸の小丘の上に前宮が鎮座し、この前宮から阿知川に沿ってニキロほど進んだその上流部(黒川)と本谷川との合流点の「山王の森」に奥宮(「山王さま」と呼ばれる)がある。社殿の奥の高所の小丘を、阿智族の祖・天表春命の墳墓として「河合の陵」(川合陵)と呼ばれ、丘の頂、玉垣に囲まれて苔蒸した巨石(高さ・幅が各々一片余)の露頭がある。かつて大場磐雄博士により磐座(上代における祭祀遺蹟)だと認定された。

 

 これらの諸事情から、奥宮の地が阿智神社の祭神、八意思兼命・天表春命の鎮座地だと窺われる。阿智祝は吾道祝とも書き、同族で同じ伊那郡の北方の大御食社の神主家と通婚・養子縁組など密接な関係をもって系を長く続けた。

 

 阿智族は、上古代の伊那谷西南部一帯を開拓したとみられる。阿智村の地は、古代東山道の阿智駅がおかれた交通の要衝であり、駅馬三十頭をおき、西隣の美濃国に通じる険難な神坂峠に備えた。この阿智駅の守護神とされるのが当社で、古来、重要な位置を占めた。


 阿智神社が鎮座する昼神は、いま南信の温泉地として著名である。正徳元年(一七一一)に「湯屋権現」の記載もあり、古代からなんらかの形で温泉の湧出が知られていた可能性もある。前宮の看板には「奥宮近くの河原から、昔、暖かい水が出てきたといわれている」と記される。少彦名神が「温泉神」とされてきた事情も、想起される。

 

 阿智神社の南方、下伊那郡の南端部近くには、南宮神社(天竜川中の巨大な奇巌の島である中ノ島に鎮座。同郡泰阜村温田)や伊豆社(伊豆権現。同郡阿南町新野)もあって、これら神社は阿智族との関係が窺われる。

 

4)系譜

 

 系図では、阿智山祇命に二子あり、長が味見命、次が味津彦命として、味見命の子が知々夫彦命とされるが、その後は記さない。ここでは、天表春命の七世孫(八意思兼命からは八世孫の位置)におかれるが、「国造本紀」には知々夫彦が八意思兼命の十世孫とされる。この辺について、他の古代氏族諸氏の各世代と比較すると、「思兼命の七世孫」とするのが妥当なところであろう(「国造本紀」の「十」は「七」の誤解か誤記か。

 

 次ぎに、知々夫彦命の弟を欠名にして、この者が「阿智宮主(阿智宮之祝)」の流れの祖だとし、かつ、味津彦命の孫が日本武尊を饗応した赤須彦だとして、この系統が大御食社を奉祀して長く明治まで系図を伝えたとされる。阿智祝の本拠は、伊那郡中央部の天竜川沿岸の平野部、駒ヶ根市の赤須あたりに居て、赤須彦は大御食社家の先祖ばかりではなく、併せて阿智祝の先祖でもあるとみるのが自然だ。

 

5)阿智社と大御食社

 

 応神朝の瑞健彦が、阿知真主(宮主)篠建大人と同人(御食津彦の孫)だとしたら、ここまでは阿智祝の系が一本であって、その次の代、仁徳朝頃以降に(允恭・雄略朝頃か)、阿智祝本宗で阿智社奉祀の家と大御食社奉祀の家との二系統に分かれたことが推せられる。

 

 前者の系統は敏達朝の八葉別までが知られるが、その後の約二七〇年間の動向は社伝等に見えず、不明である(そもそも、「阿智祝」の姓氏すら不明である)。中世には原という苗字をもち、江戸中期にも原清大夫の名が史料に見える。


 後者の大御食社奉祀家は、南北朝期に赤須を苗字としたが、十五世紀前葉頃に赤須里のなかの地名の小町谷(現在、赤穂の小字に小町屋あり、「御待饗」に因むという。この名のJR駅もある)を名乗るから、赤須本宗は絶えたものか。

 

(b)阿智祝家と諏訪神家

 

 南北朝期にも伊那郡小井弖郷(小出郷。赤須のハキロほどの北方で、現・伊那市西春近あたり)に因む小出氏が分かれたが、後に室町中期頃に越後国蒲原郡に行き上杉氏に仕えた。

 

 同じ小出氏では、藤原姓(南家藤原氏為憲流)を称するものが尾張国愛知郡に行き、幕藩大名(但馬出石藩、丹波園部藩など)にもなったが、その実際の系譜は諏訪神家一党(諏訪上社五官の一の小出氏と同族。神人部宿袮姓)となんらかの所縁ありか。

 

 ただ、諏訪神党の系譜のなかに小出氏の分岐が見えず、神家一族が主に用いた梶葉紋を小出氏が用いないのも、本来は諏訪神族とは別族という傍証かもしれない。

 

 幕藩大名の小出氏は、父祖が尾張中村の出であり、藩祖の小出甚左衛門(播磨守)秀政は同郷の豊臣秀吉の縁者といわれる。甚左衛門の「甚」は神に通じ、神姓の者の通称、称号に見える。


 小出のすぐ南には原(伊那市南端部。阿智祝本宗家の苗字)という地名も見えるから、このあたりの伊那郡には阿智祝一族が繁居したと窺われる。伊那郡赤穂に起こり橘姓と称した上穂・宮田・赤津・小平(古平)の一族も、地理的な近住と上記社記に里名が見える事情から見て、同族の出かとみられる。

 

(c)諏訪神党の小出氏

 

 諏訪神党とは、諏訪神社上社大祝家諏訪氏や神氏を中核として諏訪明神の氏人によって形成された武士団であり、神党に属する一族は「神」を本姓とする神氏を称し、通称に「神」を加えて(神左衛門など)諏訪神党であることを示した。

 

 諏訪神党は諏訪明神の氏人であることが条件とされ、諏訪一族以外にも滋野氏三家の根津氏などの諸族が含まれており、越後との国境に近い奥信濃志久見郷の市河氏も神氏を名乗った記録があり、諏訪氏と婚姻関係を結んでいる氏族が大半を占めるが、明確な婚姻関係が確認できない氏族もある。

 

 諏訪神党は、諏訪氏の一族である神家一党三十三家とその他の諏訪氏一族に区分されるが、小井弖氏(小出氏)はその他の諏訪氏一族に含まれる。

 

 諏訪氏の一族である神家一党三十三家には、伊那郡座光寺村の座光寺氏、伊那郡知久沢の知久氏、甲斐国八代郡平井村から信濃国諏訪墳境村に移住し、さらに伊那郡に移住した平井氏、伊那郡高遠の高遠氏、信濃国から駿河国に移住した安部氏、甲斐国八代郡向山郷の向山氏、伊那郡遠山郷の遠山氏、甲斐巨摩郡若尾郷の若尾氏など、諏訪郡以外の地に拠点を持っていた一族が含まれており、諏訪神党に結集した武士たちの勢力圏は、諏訪郡周辺を越えて拡大していた。

 

 宝賀論文2が指摘するように、小出氏は阿智祝家に出自し、諏訪氏との関係は明確ではなく、その他の諏訪氏一族に区分される諏訪神党の正式な構成員だったと考えられる。 

 

(d)鍛冶と小出氏

 

 「豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(3)」では、宝賀寿男の「豊臣秀吉の系図学(桃山堂)」(以下「宝賀論文1」という)を引用して、以下のように述べた。

 

 「寛政重修諸家譜」によると、小出氏は信濃国伊那郡から尾張国の中村に移住したとされています。小出氏の系譜については、小出秀政の通称の甚左衛門の「甚」は同音の「神」に通じるので、諏訪神党(神人部姓)にかかわる家系であると思われます。

 

 宝賀論文の指摘から、小出氏が諏訪神党(神人部姓)にかかわる家系であって、信濃国伊那郡から尾張国の中村に移住したとすれば、この神人部は須恵器生産の部であったので、須恵器生産のための高熱処理の技術が鍛冶の技術でもあったとすると、もしかしたら、小出氏も鍛冶の技術をもって中村に移住してきた鍛冶職人であったのかもしれない。

 

 諏訪神党の正式構成員の小出氏は、諏訪神党の一員として名前に「神」字を使用していたが、宝賀論文2によれば神人部姓ではなく、伊那郡小井弖郷(小出郷)の阿智祝家の一族の出自であったと考えられる。

 

 そうすると、小出氏は須恵器生産の部であった神人部に起源するものではないが、信濃南部の伊那郡及び武蔵西北部の秩父郡という東国にのみ存続した阿智祝部は、おそらく鉱山での採掘や鍛冶に係る古代氏族であって、そうした技術によって信濃南部や武蔵の秩父地方を開発していったのであったので、小出氏も鍛冶に係る氏族であったと考えられる。

 

 秀吉の母「なか」の妹と結婚したとされる小出秀政は、信濃国伊那郡から来た巡礼であったとされるが、鍛冶職人の家系だった「なか」の妹と結婚したということは、小出秀政も鍛冶に係わっていたからであったと考えられる。

 

 その意味では「豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(3)」で述べた結論と変わりはなく、「なか」の家系と姻族はみな鍛冶に係わっていたと考えられる。

 

 なお、宝賀論文2は、阿智族が渡来系氏族であることを否定するが、阿智祝部の「阿智」は、「日本書紀」「応神天皇二十(二九一)年九月条」に「倭漢直の祖阿知使主、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率いて、来帰けり」とある、阿知使主の「阿知=阿智」であり、渡来系氏族である。