豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(6) | 気まぐれな梟

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 今日は、「愛と青春のうた [Disc 1]」から、竹下孝蔵の「初恋」を聞いている。

 

 宝賀寿男の「豊臣秀吉の系図学(桃山堂)」(以下「宝賀論文」という)は、系図に表現される血縁集団について、以下のようにいう。

 

(3)青木秀以と鍛冶

 

(a)「太閤母公系」[「祖父物語(朝日物語)」

 

 「諸系譜」の「太閤母公系」によると、青木秀以の毋は兼員の三女、すなわち秀吉の母の妹とされています。これが正しければ、秀吉と青木秀以はイトコです。江戸時代に尾張国で書かれた「祖父物語(朝日物語)」でも、「太閤の従弟なり」とあります。 

 

(b)「青木系図」

 

 青木秀以の養嗣子、俊矩(秀以の甥)は越前で二万石を領していましたが、養父と同様、改易となります。その長子、久矩は関ヶ原のあと浪人となっていましたが、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入り、大坂夏の陣で討ち死にします。大坂の陣のとき、豊臣家に殉じた青木久矩の弟の家系が、越前国の武生(福井県越前市)で平吹屋という屋号で酒造業を営み、青木氏関連の史料を伝来させています。

 

 福井県越前市の平吹屋に伝わる「青木系図」[東大史料 青木長之助呂印政]は青木紀伊守秀以の母親について、「豊臣秀吉公伯母」と記しています。伯母は正確には母親の姉のことですが、叔母(母親の妹)のことだと思われます。

 

(c)「青木紀伊守秀以の事蹟」

 

 越前市の青木家に保管されている「青木紀伊守秀以の事蹟」によると、秀以の父、勘兵衛一董は「濃州大野郡揖斐庄に住す」と記されています。揖斐荘(庄)とは、現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町に平安時代から室町時代にかけてあった荘園です。

 

 秀吉の一族とのかかわりを「青木紀伊守秀以の事蹟」は以下のように記しています。

 

 紀伊守の父勘兵衛一董に至る七世の間、該地に居住し、その室は尾州愛知郡に住したる関弥五郎兼員の三女なり。

 

 「太閤母公系」とおおむね同じ内容で、四姉妹の三女が青木紀伊守秀以の母、したがって秀吉と秀以はイトコであると記述されています。

 

(d)「明智軍記」

 

 明智光秀の一代記である「明智軍記」に、清洲の工人青木勘兵衛といふ者の妻は、姨女なる故、という記述があります。刀鍛冶とは明記されていませんが、「工人」とは、ものづくりの職人にほかなりません。ここでも勘兵衛の妻は秀吉のおばとされています。少年期の秀吉が武家奉公をしたいというので、このおばが衣装などを調え、三河国に送り出したという内容です。

 

 (a)から(d)までの宝賀論文の記述によれば、青木秀以は勘兵衛と名乗り、その毋は秀吉の母の妹であり、その先祖は美濃国大野郡揖斐荘(現、岐阜県揖斐郡揖斐川町付近)に住んでいたが、「清洲の工人青木勘兵衛」というので鍛冶職人で、尾張国愛知郡清須に移住してきて秀吉の母の妹と結婚したということになる。

 

 そうすると、青木秀以は清須の鍛冶職人の出自であったと考えられる。

 

(e)二人の青木氏

 

 豊臣家臣団には、青木を苗字とする大名クラスの武将が二人います。青木紀伊守秀以と青木所右衛門一重です。

 

 「美濃国諸家系譜」の「青木氏之家譜」は、青木一重の家の系図ですが、多治比氏の系図となっており、後醍醐天皇のとき、美濃国安八郡青木村(大垣市内)に住んだことにより、青木氏を称するようになったと書かれています。こちらの青木氏は江戸時代に大名として継続したので、「寛政重修諸家譜」六百六十二巻に出ていますが、一重の父、重直からはじまる系図です。


 父親の重直(刑部卿法印浄憲)は信長の重臣、丹羽長秀さらには秀吉に仕えていたとされます。理由は不明ですが、一重は父親とは離れて行動しており、はじめ今川氏真に仕え、今川家の没落後は徳川家康の召しでその配下となっています。

 

 宝賀論文の記述によれば、青木所右衛門一重は美濃国安八郡青木村(大垣市内)に住んだ武士で、戦国大名に使える上層の在地領主であったと考えられる。

 

 菊池浩之の「角川新書 豊臣家臣団の系譜(角川書店)」(以下「菊池論文」という)は、青木一重とその父親や兄弟について、以下のようにいう。

 

 七手組の一人・青木民部少輔一重(一五五一~二(二八)は、通称を忠助、所右衛門、民部少輔と名乗った。
 

 一重は美濃に生まれ、はじめ今川氏真に仕え、氏真没落後の元亀元(一五七〇)年、家康に仕えた。姉川の合戦では、真柄十郎左衛門直隆の子・十郎を討ち果たして武功をあげたが、元亀三(一五七二)年の三方原の合戦後、家康の下を離れ、丹羽長秀に転じた。天正二二年、長秀が死去すると、秀吉の家臣となり、使番になって黄母衣衆に列した。また、摂津国豊島郡のうちで所領を与えられ、その後、伊予、備中で加増され、一万石余を賜った。 天正一六年、聚楽第の行幸の際、従五位下民部少輔に叙任。七手組の一人となった。 慶長一九年の大坂の冬の陣では豊臣方として戰ったが、二一月の和議で家康の下を訪れた。弟・青木次郎右衛門可直(一五六一~二(二二)を人質に取られ、大坂城に戻ることを許されなかった。父の遺領と合わせ、摂津麻田藩一万二〇〇〇石を領し、のち弟・可直に二〇〇〇石を分知した。子孫は大名として存続した。

 

 一重は今川‘徳川・丹羽・羽柴・徳川と、主君をころころと変えているが、一重の父や弟たちの主君もパラパラである。


 一重の父・青木加賀右衛門重直(一五二八~一六匸二)が美濃に配流になり、土岐家、斎藤家、さらに信長、秀吉に仕えたという。重直は文禄三(一五九四)年一〇月に秀吉から摂津国豊島郡のうちで一四〇〇石を与えられ、その後、加増されて一七六〇石を賜った。


 一重には少なくとも三人の弟がいる。


 次弟・青木源五重経(?~一五七二)は若年の頃より家康に仕え、元亀三年の三方原の合戦で討ち死にしている。三弟・青木太郎兵衛直継(?~一五七八)は秀吉に仕え、天正六(一五七八)年九月、播磨で討ち死にしている。末弟・可直は池田輝政に仕えた後、慶長一五(一六一〇)年から家康に仕え、美濃国大野郡など五郡で三〇〇〇石を賜った(一重から二〇〇〇石を分知され、計五〇〇〇石を領した)。


 以上から推測すると、美濃斎藤家の没落後、父・重直と幼い弟たちは信長に仕えたが、一重はそれを潔しとせず、今川家、さらには家康に転じたのだろう。次弟・重経も一重に従ったようだ。ところが、三方原の合戦で重経が討ち死にしたことを契機に、一重は家康の下を離れ、丹羽長秀、秀吉と奉公先を変えていった。一方、信長に仕えた父・重直と三弟の直継は秀吉の与力、末弟・可直は池田輝政の与力となり、三弟・直継は秀吉の中国経略で討ち死に、末弟・可直は池田家から家康に転じたのだろう。

 

 菊池論文が指摘する、こうした青木氏の奉公先の戦国大名の変遷経過から、青木一重の一族は、美濃国安八郡青木村(大垣市内)に出自する専業の武士であったと考えられる。

 

 しかし、青木一重の青木氏が居住し、苗字の発祥地となったとされる美濃国安八郡青木村は、鍛冶と係わりが深い地で、青木一族も古代の鍛冶に係わる集団に出自していたと考えられる。

 

(f)鉄鉱石の産地の赤坂に隣接する青木

 

 青木一重の青木氏が居住し、苗字の発祥地となったとされるのは、美濃国安八郡青木村、今日の地名でいえば岐阜県大垣市青木町。金生山の小高い山容が目前にあります。この山は古代より昭和時代に至るまで、中断をはさみつつも鉄鉱石の採取地でした。砂鉄を主たる原料として発展した日本の製鉄史において、鉄鉱石鉱山として希少な事例となっています。この鉄の山の存在によって、青木町に隣接する赤坂地区は、美濃鍛冶の居住地となっていた時期があります。このように青木氏のルーツの地は、美濃というより、日本列島における「鉄」の文化のひとつの中心でした。

 

 かつて美濃国と呼ばれた岐阜県南部には関市があり、岡山県東部の備前と並び称される日本刀の産地であったことは広く知られています。現在も伝統的な刀剣づくりが継承されている一方、包丁やナイフなどにおいても世界的に知られた産地です。それもあって、美濃の刀匠は代々、関市のあたりに住んでいたと誤解している方もいるようですが、初期の美濃鍛冶が住んでいたのは美濃国でもずっと西寄りで、近江国との国境に近い地域でした。現在の行政区分でいえば岐阜県大垣市とその周辺地区です。

 

 岐阜市歴史博物館の展示図録「兼定と兼元 戦国時代の美濃刀」(二〇〇八年)に美濃の刀鍛冶の略史があるので引用してみます。

 

 鎌倉末から南北朝期にかけてのおよそ六十年の間に他国からの刀工の流入を契機に急激な興隆をみせ、(中略)美濃の刀剣産業は直江、赤坂を中心に発展した。(中略)第二の画期が訪れるのは、応仁の乱から戦国時代へと世の中が移る頃である。(中略)およそこの時期をもって美濃伝の確立を見ると同時に刀剣生産量は最大となり、関を中心とした美濃鍛冶が全盛期を迎えることとなるのである。

 

 赤坂というのは、大垣市赤坂のことで、鉄鉱石、石灰石、大理石のとれる地域です。JR美濃赤坂駅の南側あたりが、刀鍛冶の居住エリアであったと伝わっています。大垣市にも直江町という地名がありますが、美濃鍛冶がいたのは大垣市の南に接する養老郡養老町の直江地区だとされています。もうひとつ、現在の揖斐川町と大野町にまたがるエリアに西郡という荘園があり、刀工の集落があったようです。


 かつては、鉄脈が露出していたともいわれます。ここで採取される鉄は赤鉄鉱と分類されるもので、ベンガラと呼ばれる赤絵の具の原料でもあります。「赤坂」という地名がこの赤い鉄鉱石に由来しているのは言うまでもありません。


 日本列島における製鉄では主に砂鉄が素材として使われていますが、美濃の赤坂は国内には珍しい鉄鉱石の産地です。古代から鉄の産地として知られていたようで、刀工たちが定住したのもそのためです。

 

 赤坂に隣接して青木という地名がありますが、青木一重の一族の苗字の地です。

 

 宝賀論文が指摘するように、青木一重の青木氏が居住し苗字の発祥地となったとされる美濃国安八郡青木村(現、岐阜県大垣市青木町)は、古代より昭和時代に至るまで、中断をはさみつつも鉄鉱石の採取地であった、金生山の山麓にあり、この鉄の山の存在によって、青木町に隣接する赤坂地区は、美濃鍛冶の居住地となっていた時期があるので、青木氏がここに居住したのはこの鉄の山と鍛冶職人の掌握のためでもあったと考えられる。

 

 そうすると、青木一重の青木氏と青木秀以の青木氏は、一方が専業の武士で有力な在地領主であり、もう一方が鍛冶職人であったが、両者とも鍛冶に係わっていたと考えられる。

 

(g)青木氏のネットワーク

 

 福井県越前市の平吹屋に伝わる「青木系図」では、秀以と一重はともに持通という人を曾祖父としており、血縁でつながっています。「美濃国諸家系譜」の「青木氏之家譜」は、一重の家の系図ですが、こちらでは秀吉や青木秀以との血縁は示されていません。一重の家の系図は「寛政重修諸家譜」六百六十二巻に出ていますが、一重の父、重直からはじまる系図で、同じく秀吉や秀以とのつながりは書かれていません。

 

 青木を苗字とする二人の大名、秀以と一重が血縁関係にあることは確定されていません、が、別系統とは考えにくい根拠は居住地の距離的な近さです。越前の大名であった青木秀以の代々が住んでいたとされる揖斐荘とは、揖斐川町の中心部と重なるエリアなので、赤坂に隣接する青木という土地から直線距離で十数キロです。近江国坂田郡(滋賀県米原市)の山津照神社の社司であった青木氏は、青木の地名のある大垣市は県境を隔てて米原市と接しています。近江、美濃と国は分かれていますが、このあたりが青木氏の活動エリアであったことがわかります。

 

 宝賀論文が指摘から、近江国坂田郡(滋賀県米原市)の山津照神社の社司であった青木氏と美濃国安八郡青木村(現、岐阜県大垣市青木町)の在地領主の青木氏は、おそらく鉱山資源が豊富な伊吹山系の東西に広がる古代の鍛冶氏族の後裔としての青木氏のネットワークによって、古くは繋がっていたと考えられる。

 

 しかし、古くからの有力武士であった青木一重の青木氏とただの鍛冶職人の青木秀以の青木氏が同系統であったとは考えられず、おおらく、美濃国大野郡揖斐荘(現、岐阜県揖斐郡揖斐川町付近)に住んでいた青木秀以の青木氏の祖先が、揖斐川を下って金生山の山麓に移住し、そこの有力な在地領主の名を取って青木氏を名乗ったのか、あるいは、そこからさらに尾張国愛知郡清須に移住してきて、やがて青木秀以が武士となって豊臣秀吉に仕えるようになったときに姓を名乗る必要が生じ、先祖が居住していた地の名を取って青木氏を名乗り、さらに、青木秀以の出世に伴って、創作された青木秀以の青木氏の系譜を古くからあった青木一重の青木氏の系譜に接合したのだと考えられる。

 

 なお、青木一重の青木氏の系譜が多治比氏の系図となっているのは、おそらく青木一重の青木氏が、伊吹山系の東西に広がっていた古代の鍛冶氏族の末裔だったという、かすかな記憶の残滓に起因するものであると考えられる。

 

 以上みてきたように、青木秀以は清須の鍛冶職人に出自するので、秀吉の母の「なか」の妹の嫁ぎ先の青木秀以も鍛冶に係わっていたと考えられ、おそらく、中村か御器所村に住んでいた「なか」の妹は、清須で青木秀以と知り合ったのだと考えられる。