豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(5) | 気まぐれな梟

気まぐれな梟

ブログの説明を入力します。

 今日は、「愛と青春のうた [Disc 1]」から、竹下孝蔵の「初恋」を聞いている。

 

 宝賀寿男の「豊臣秀吉の系図学(桃山堂)」(以下「宝賀論文」という)は、系図に表現される血縁集団について、以下のようにいう。

 

 私は古代から近世に至るおびただしい系図に目をとおしていますが、結婚する男女は、同じ社会階層に属していることが圧倒的に多いものです。したがって、婚姻を重ねながら形成される血縁集団は、それぞれに他とは違う特徴をもつことになります。多少、薄らいだとはいえ、これは現代においてもあてはまる傾向です。加藤清正の系譜を探ることを通して、秀吉が属する血縁集団の色合いを知ることができるということです。
 

 宝賀論文が指摘するように、古代や中世、近世では、「結婚する男女は、同じ社会階層に属していることが圧倒的に多い」のは事実であったと考えられ、その結果として、「婚姻を重ねながら形成される血縁集団は、それぞれに他とは違う特徴をもつことにな」るというのはそのとおりである。

 

 そうであれば、豊臣秀吉が武士として立身出世を遂げる前に、彼の家族がどのような婚姻関係を結んでいたのかということは、豊臣秀吉が生育した人間環境がどのようなものであったのかを推測することで、確実な史料が存在しない豊臣秀吉の出自を検討する際の重要な手掛かりになると考えられる。

 

 そこで、以下、宝賀論文が紹介する豊臣秀吉に係る系図や伝承と服部英雄の「河原ノ者・非人・秀吉(山川出版社)」(以下「服部論文」という)が紹介する豊臣秀吉に係る人たちの社会階層とで、豊臣秀吉と彼の家族や親類縁者の婚姻関係とそれらの人達の社会階層を明らかにすることで、秀吉の出自を検討していきたい。

 

 宝賀論文は、秀吉の母親やその兄弟姉妹、秀吉の兄弟姉妹は、鍛冶とかかわりがあったと以下のようにいう。

 

(1)秀吉の母親の生家

 

 秀吉の母親の生家については、農民という通説のほか、従来、二つの説が知られています。

 

 第一の説は、鍛冶です。

 

 秀吉研究の先駆けである渡辺世祐氏(明治大教授など歴任)に、大正八年刊の「豊太閤と其家族」という著作があり、のち一部加筆のうえで「豊太閤の私的生活」と改題され、講談社学術文庫にも収められていますが、この中では「美濃(岐阜県)の鍛冶関兼貞の女であるともいう」と記されています。

 

 戦国史の研究者、小和田哲男氏(静岡大教授など歴任)はこの説を紹介したうえで、「秀吉の父母ないしはその周辺の人びとが、木地師や鍛冶師、さらには鋳物師といった職人集団につながる存在であったことはほぼまちがいないのではないかと考えている」と述べています(「戦国期職人の系譜」所収「秀吉の出自と職人集団」)。


 もうひとつは、櫻井成廣氏(青山学院大学教授など歴任)が提示した「禰宜」すなわち神社の神官という説です。櫻井氏の本職は哲学教授でしたが、有名な城郭研究者で、秀吉研究者でもあったので、この神官説もしばしば引用されています。

 

 残念ながら、渡辺、櫻井両氏ともに根拠となる史料を示していません。
 

 鍛冶といっても、名のある刀鍛冶もいれば、農具専門の野鍛冶もいてピンキリですが、禰宜についても同様です。神社や寺院に従属していた鍛冶師も少なくないので、この両説がまったく別物であるともいえません。洋の東西を問わず、古代の鍛冶は呪術や宗教行為と隣接しているという一面もあります。

 

 宝賀論文は、秀吉の母親の生家について、鍛冶と禰宜(神官)という説を紹介しているが、「神社や寺院に従属していた鍛冶師も少なくない」のであれば、以前「中臣氏の出自について」で論述したが、中臣氏が枚方神社に隷従していた卜部氏の出自であったように、秀吉の母親の生家も、その出自は、どこかの神社に所属(=隷従)していた鍛冶職であったと考えられる。

 

 宝賀論文によれば、秀吉の母親の生家の系譜は、美濃の名高い鍛冶職人に繋げられているが、おそらくこれは、後世、秀吉の母系の系譜を創作する際に、秀吉の母親の生家が鍛冶職人だったので、美濃の名高い鍛冶職人の末裔ということにしたのだと考えられる。

 

 宝賀論文によれば、秀吉の母親の生家は関氏とされているが、この「関氏」も、美濃の関鍛冶の末裔という意味で、秀吉の母親の生家が「関」という名字を名乗っていたわけではなく、関兼貞の名の「兼貞」も、美濃の関鍛冶の有力な名一族の名を模倣して創作されたものであったと考えられる。

 

 しかし、後述するように、秀吉の母親の親類縁者には鍛冶職人や鍛冶に係る伝承を持つ人たちが頻出しているので、秀吉の母親の生家も鍛冶職人の家系であり、おそらく、どこかの神社に所属(=隷従)していた鍛冶職に出自する鍛冶職人であったと考えられる。

 

 秀吉の母「なか」出生地は尾張国愛知郡御器所村とされるが、この御器所村の名の由来は、この村では古くから熱田神宮で祭事に使用する土器を作っていたからであったという説があり、御器所村にはそのための陶工が住んでいたと考えられる。

 

 御器所村で作られていた土器はおそらく須恵器であったと考えられるが、須恵器の処理は鍛冶の高温処理と同じであり、陶工と鍛冶職人は重なりあう存在であったと考えられる

 

 「なか」が御器所村で生まれたということは、彼女も父や母も御器所村に住んでいたということであるが、秀吉の母親の生家もどこかの神社に所属(=隷従)していた鍛冶職であったとすれば、移住先の尾張国でも同様の生業についたんと考えられ、そのために神社と関係が深い御器所村に住んだのだと考えられる。

 

 このように、秀吉の母親一家が御器所村に住んだことが偶然ではなく、そこに何らかの根拠があったとすれば、秀吉の母の生家は、古くは神社の隷従していた鍛冶職人の家系であったと考えられる。

 

 そして、服部論文が推定するように、秀吉が生まれたのが清須であって、秀吉一家がそこから中村に移住して来たしてきたとすれば、おそらく「なか」の両親一家は、ある時点で御器所村を出て中村に住むようになり、「なか」はそこから清須に嫁いでいったと考えられる。

 

 また、「なか」は初産で実家のあった萱都村に戻って初産で出産したという伝承もあるが、この萱都村の近隣には萱津神社があり、おそらく「なか」の家族は、萱津神社に係わる鍛冶の仕事のために萱都村に移住していたと考えられる。

 

 おそらく、清須に嫁いでいった「なか」はそこで結婚生活の破綻に始まる貧困と困窮の暮らしの中で辛酸をなめ、子どもたちを連れて中村に戻ってきたのだと考えられる。

 

 なお、中村の在地領主は、菊池浩之の「織田家臣団の謎 角川選書598(角川書店)」によれば、那古野今川家の家臣の中村氏であったとされている。

 

(2)秀吉の母親の兄弟姉妹

 

(a)「諸系譜」

 

 「諸系譜」は、鈴木真年(一八三一~一八九四)の死後、その同学の士である中田憲信(一八三五~一九一〇)が、鈴木真年の収集資料などをペースとしつつ、自身の収集史料も織り込んで、最終的に編纂したと考えられています。


 「諸系譜」には、約千六百という膨大な数の系図が記載されていますが、数が多いというだけでなく、従来、知られていなかった系図が所収されているという価値があります。これは秀吉関係の系図についてもいえることで、「太閤母公系」のほか、父方、竹阿弥についてほかの史料にはない珍しい系譜や所伝が記されています。そのすべてが史実とは思えませんが、秀吉の系譜調査のうえでは避けて通れない史料です。

 

 宝賀論文が指摘するように、「諸系譜」に所収された膨大な数の系図とその中の秀吉関係の系図は、それらがそのまま史実ではないとしても、それらの総体的な傾向からわかることも多いと考えられる。

 

(b)秀吉の母親とその姉妹の嫁ぎ先

 

1)秀吉の母親

 

 「諸系譜」の「太閤母公系」によると、天文年間、美濃から尾張に移住したとされる秀吉祖父、兼員(弥五郎)には四人の娘がいて、秀吉の母親はその二女とされています。

 

 秀吉の母親については、別途、後述したい。

 

2)杉原七郎左衛門家利の妻

 

 四姉妹の長女は杉原七郎左衛門家利の妻とされていますが、家利は、秀吉の正妻おねの母方祖父です。

 

 杉原七郎左衛門家利の妻については、秀吉の妻の「おね」とともに、別途、後述したい。

 

3)青木勘兵衛一董の妻

 

 三女は美濃国大野郡揖斐荘(岐阜県揖斐川町内)に住む青木勘兵衛一董という人の妻となっています。豊臣政権のとき、越前国(福井県東部)の北ノ庄城を守る大名であった青木紀伊守秀以(一炬)はこの夫婦のあいだの子です。青木秀以は、「太閤母公系」では秀吉のイトコです。

 

 青木勘兵衛一董の妻については、別途、後述したい。

 

4)加藤清正の母


 四女が加藤清正の母です。「太閤母公系」を見ると、加藤清正の祖父(小次郎清信)の妻は、秀吉の母方祖父の妹とされています。秀吉と清正の家系は二代にわたって婚姻関係を結んでいることになります。

 

 加藤清正の母については、別途、後述したい。

 

5)「ほうろく売人」又右衛門

 

 四姉妹の間に、又右衛門という人がいて、尾張国海東郡の「ほうろく売人」とあります。焙烙とは食器や調理器具に使う土器、すなわち釉薬をかけていない安価な焼き物です。秀吉には叔父がいて、織田信長に出仕した当初の秀吉から、馬を貸してくれと頼まれたのにそれを断ったことがたたり、その後、豊臣一族として処遇される機会を失ったという話が、「祖父物語(朝日物語)」に書かれています。同書はおねの実家があったとされる尾張国朝日郷の古老による昔語りを記録したもので、江戸時代はじめに成立しています。

 

 この「ほうろく売人」又右衛門については、服部英雄のの「河原ノ者・非人・秀吉(山川出版社)」(以下「服部論文」という)では、秀吉の周囲の人たちの社会階層という視点で論述されているので、その検討は後述したいが、「焙烙とは食器や調理器具に使う土器、すなわち釉薬をかけていない安価な焼き物」であるならば、「ほうろく売人」又右衛門が販売していた「焙烙」は彼が製作したものであったはずで、土器の製作が鍛冶とも係わるものであったとすれば、彼の生業も鍛冶に係わっていたということになる。

 

 秀吉の母「なか」は尾張国愛知郡御器所村の生まれとされるが、御器所村は熱田神宮の祭事に使用する土器を製作する村であり、土器の製作が鍛冶とも係わるものであったとすれば、御器所村で「なか」の両親は鍛冶とともに土器製作にも関わっていたはずであり、その土器製作を「ほうろく売人」又右衛門が受け継いだか、そこで作っていた土器を行商で売り歩いていたのだと考えられる。

 

6)小出秀政の「妻」


 「太閤母公系」には出ていないのですが、もうひとり秀吉のおばを妻としたと史料に記される武将がいます。小出甚左衛門秀政です。尾張国中村の出身で、秀吉より四歳くらい年下なので、秀吉の弟の秀長と同年代です。奈良の興福寺多聞院の記録「多聞院日記」には、「大政所の妹を女房に沙汰し、一段の御意吉なり」と記され、幕府編纂の「寛政重修諸家譜」九百二十五巻の小出氏の系図にも秀政の妻が「豊臣太閤秀吉の姑」と記されます。秀吉より年下の小出秀政が、秀吉の母親の妹を配偶者とするのは不自然なので、血縁者であったとしてもイトコ程度なのかもしれません。


 「寛政重修諸家譜」によると、小出氏は信濃国伊那郡から尾張国の中村に移住したとされています。小出氏の系譜については、小出秀政の通称の甚左衛門の「甚」は同音の「神」に通じるので、諏訪神党(神人部姓)にかかわる家系であると思われます。

 

 宝賀論文の指摘から、小出氏が諏訪神党(神人部姓)にかかわる家系であって、信濃国伊那郡から尾張国の中村に移住したとすれば、この神人部は須恵器生産の部であったので、須恵器生産のための高熱処理の技術が鍛冶の技術でもあったとすると、もしかしたら、小出氏も鍛冶の技術をもって中村に移住してきた鍛冶職人であったのかも入れない。

 

 そして、「なか」の両親が、美濃国から尾張国に移住してきて、熱田神宮が祭事で使用する土器を製作していた御器所ぬらに住んだように、おそらく、小出秀政も御器所村に住んでいたことがあって、そこで「なか」の妹と知り合ったのだと考えられる。

 

 なお、小出秀政について、菊池浩之の「角川新書 豊臣家臣団の系譜(角川書店)」(以下「菊池論文」という)は、以下のようにいう。

 

 「秀政は秀吉が羽柴を称していた時代、秀吉の弟秀長以外では唯一、羽柴を称したほど、秀吉の寵愛を受けていた」という(「豊臣大坂城」)。さらに慶長元年には豊臣姓を下賜された。限りなく親族衆に近い扱いにもかかわらず、官位は従五位下播磨守、天正二二(一五八五)年に和泉岸和田城三万石を与えられただけで終わった。


 目立った武功もなく、豊臣家の家政を担当する裏方に位置づけられたようだ。

 

7)福島正則の母

 

 「寛政重修諸家譜」の福島氏の系図では、福島正則の母は秀吉の「伯母木下氏」と書かれていますが、多くの所伝で目に付くのは、福島正則の父は、秀吉の父の母親違いの弟というものです。


 「諧系譜」にある福島正則の系図は、秀吉の父の異母弟として正則の父を位置づけています。こちらは浅井氏から分かれた支族という系図です。大道寺友山の「落穂集」でも正則の父について、「秀吉公の父木下弥右衛門と腹替りの兄弟の由、一説これ有り」と書かれています。「中興武家諧系図」の「福島家」系図も、秀吉の父と正則の父は異母兄弟であるとしているのですが、正則の父とされており、秀吉の父親の「別腹舎弟。尾州清須町に住み、樽商売をす」という記述です。

 

 宝賀論文の指摘から、福島正則には、母が秀吉の「伯母」だったという伝承と父が秀吉の父の母親違いの弟だったという伝承があり、後者の伝承の「秀吉の父」が(木下)弥右衛門を指すのだとすれば、(木下)弥右衛門の生業と鍛冶の係わりという論点にもなるので、別途、(木下)弥右衛門の生業について検討する際に、別途そこで福島正則の生家の生業と鍛冶との係わりを検討したい。