豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(4) | 気まぐれな梟

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 今日は、「愛と青春のうた [Disc 1]」から、吉田拓郎の「結婚しようよ」を聞いている。

 

 服部英雄の「河原ノ者・非人・秀吉(山川出版社)」(以下「服部論文」という)は、秀吉の父母について以下のようにいう。

 

(7)秀吉の生物学的父親は特定不能
 

(g)「多指症」だった秀吉

 

 服部論文は、秀吉が右手の親指が二本ある「多指症」であったと、以下のようにいう。

 

 フロイスの記述には日本史研究者があまり知らない内容が多く含まれる。


 たとえばフロイスは秀吉には一つの手に六本の指がある(Tinha seis dedos em huma mao)と書いた(第十六章三一七頁)。


 すでに古く三上参次「豊太閤に就て」という論考に紹介されていたのだが(「安土桃山時代史論」一九一五、二六八頁、三上は慶応元年生まれで昭和十四年〈一九三九〉没)、前田利家の伝記である「国柤遺言」(金沢市立図書館・加越能文庫)に、秀吉は六本指であると記述されていた。

 

 大閤様は右之手おやゆひ一ツ多、六御座候、然時蒲生飛騨殿・肥前様・金森法印御三人しゆらくにて大納言様へ御出入ませす御居間のそは四畳半敷御かこいにて夜半迄御咄候、其時上様ほとの御人成か御若キ時六ツゆひを御きりすて候ハん事にて候ヲ、左なく事二候、信長公大こう様ヲ異名に六ツめか、なと、御意候由御物語共候、色々御物語然之事(東大史料編纂所写真帳、一八表-裏)

 

 織田信長は六本指の秀吉を、「六つ目」と呼んでいたという。秀吉は天正十五年(一五八七)、五十歳まで六本指だったから、死ぬまで切り落とさなかった。


 今日情報が増加して、日本人の多指多趾例も明らかにされている。多趾者の会があるという。


 「カラマーゾフの兄弟」では六本指の息子(赤ん坊)の誕生がひとつのテーマとなっている(江川卓「謎とき「カラマーゾフの兄弟」新潮選書)。キリスト者・宗教者が多指の子を見る感覚はこの小説からも読み取りうる。フロイスたちは、秀吉が何かの大きな罪を負っているとみただろう。


 六本指だった秀吉は、大道芸でそれを活用したのかも知れない。
 

 服部論文の指摘によれば、秀吉は右手の親指が二本ある「多指症」であったと考えられる。

 

 秀吉が自分の右手の親指の日本のうちの一本を切り落とさなかったのは、そのことでできた傷口が完全に治癒せずに、右手が不自由になったり、最悪の場合は死亡しかねないことを冷静に判断したのだと考えられる。

 

 そして、秀吉は、おそらく大道芸で、猿の様な顔や姿とともに、その六本の指をも活用して集客していたのだと考えられる。これは、ある意味では、エレファントマンの世界でもある。

 

 しかし、秀吉が、特にその幼少期のころには、その六本の指によって、周囲からの激しいいじめや差別・迫害に直面したことは、想像に難くはない。

 

 そうであれば、彼が八歳で入れられた光明寺で起こした騒動は、彼の六本指に起因するものであったのかもしれず、九歳から十歳で家に送り返された秀吉が、報復に僧達を打殺して寺を焼き払ったというのは、まだ幼かった秀吉にとって、光明寺での僧達のいじめや差別・迫害が、耐え難かったものであったことを示していると考えられる。

 

 服部論文によれば、秀吉はおそらく無精子症で、秀頼は秀吉の実子ではなく、淀の方が秀吉の承認・黙認の下で、大阪城の大奥に出入りしていた修験僧との性交渉を行って生まれた子であったという。

 

 そうであれば、異能の人秀吉は、生物学的には、無精子症で多指症という疾病を持った人でもあったことになる。 

 

 秀吉が武士として立身出世していったときの最大の武器は、おそらく彼の「人たらし」の能力であったと考えられるが、彼のこの能力は、彼が、多指症と猿の様な顔かたちを攻撃・差別され、家族に愛されずに家を出て、困窮して各地を放浪するという生活の中でつかみ取ったもの、彼の戦いの武器であったと考えられる。

 

 困難な状況の中で才能を開花させる準備をした有名人は多い。

 

 「喜劇王」チャールズ・チャップリンの母は精神障害者で、彼の一家は困窮し、チャップリンは生活のために子供のころから舞台に立って喜劇を演じてきた。彼の喜劇の才能はそこで磨かれたものだが、同時に、大人の気持ちを把握して、その場面で求められた対応をするという、その才能こそが彼と母親が生き抜くための武器でもあった。

 

 「百万ドルの笑顔」マリリン・モンローは複雑な家庭に育ち、モンローの「笑顔」は、そんな家庭で彼女が虐待や不利益な扱いを逃れ、生き抜くための「武器」でもあった。

 

 なお、虐待されている子どもたちの中には、いつも笑顔の子がかなりいて、そういった笑顔を「モンロー・スマイル」といい、その笑顔を持つ子どもがいたら、その子どもへの虐待の存在を疑えと教えられることがある。

 

 彼らは、過度な虐待から逃れるために、いつも大人の顔色を窺い、自分の感情を無意識のうちに押し殺して、いつも笑顔でいる。笑顔は彼らの仮面であり武器。

 

 そして、虐待された彼や、彼女らは、大きくなると、彼ら、彼女らを虐待していた身近な大人に、家庭内暴力という形で反撃することもある。そして、虐待の連鎖が始まる。

 

 あるいは、その怒りが自分自身に向き、拒食症や自傷行為などの発症に繋がることもある。

 

 だから、「大人びた振る舞いはその子の弱さの表れ」であり、「いい子、できる子に、明日はない」のである。

 

 秀吉は、大人への無駄な反抗もせずに、自分自身に怒りをぶつけることもなく、不利で困難な状況でも、生きるための戦いをやめようとはしなかった。秀吉はおそらく、絶望に負けるのではなく、どう状況を打開するか必死に考え、行動に移していった。そして、その過程で、秀吉は「人たらし」になったのだと考えられる。

 

 そう考えると、ある意味、サバイバーであった秀吉は、右手の六本目の指を切らずにいたことも含めて、頭のいい、本当に強い人だったのだと思う。

 

 なお、中国ドラマ「風起洛陽~神都に翔ける蒼き炎~」では、三人の主人公のうちの一人の百里弘毅の兄の百里寛仁(春秋道の掌春使)の手の指が六本という設定になっていて、それが百里寛仁が春秋道に入る大きな動機となっている。

 

(h)秀吉の父親については「さだかならず」という伝承も

 

 宝賀寿男の「豊臣秀吉の系図学(桃山堂)」(以下「宝賀論文」という)は、「「明智軍記」によると、秀吉の母親は「清洲の近所、中村弥助といふ土民の召しえし下女」であり、秀吉の父親については「さだかならず」と書かれてい」るという。

 

 秀吉の父親については「さだかならず」とであったとすると、秀吉の母「なか」と(木下)弥右衛門との間の子ではなかったことになり、「なか」が木下弥右衛門と同居していた最中に、「なか」が別の男と性交渉を持ち、そのことを(木下)弥右衛門も容認していたということでなければ、おそらく、(木下)弥右衛門と「なかの同居が始まる前に「なか」は秀吉を身籠っていたか、あるいは秀吉を出産してから(木下)弥右衛門と同居するようになったのだと考えられる。

 

 そして、秀吉がそうであるのなら、秀吉の姉の「とも」も、おそらく(木下)弥右衛門の子ではなかったと考えられる。

 

 そうであれば、(木下)弥右衛門の死後、筑阿弥のところに転がり込む以前の「なか」の母子四人の生活は、「なか」一人で四人の子を養うという、まさに貧困と困窮の中にあったと考えられる。

 

 そして、服部論文が指摘しているように、「祖父物語(朝日物語)」(「史籍集覧」所収)には「秀吉は清須ミツノガウ戸の生まれ」とあり、「清須翁物語」(「清須翁書付」)の記載内容が「祖父物語(朝日物語)」とほぼ同じ内容であって、そこに記載された「ミツノ」が、清須城の御園橋やその北側の御園神明社付近の「御園」であったとすれば、少なくても秀吉と姉の「とも」は清須の街で生まれたのであり、農民身分ではなかったと考えられる。

 

 なお、この秀吉が清須の御園の生まれであったという伝承の意味は、母の「なか」が秀吉を出産したのが清須であったというわけでもなく、女性が実家に帰って子供を出産するという風習があり、「なか」の実家が、例えば御器所村や萱津村、中村村などの清須の近隣にあったとすれば、彼女はその実家で出産した可能性が考えられる。

 

 そして、伝承によれば、「なか」は、実家のあった萱津村で初産の出産をしたというが、初産であれば、その出産は秀吉の姉の「とも」の出産であったと考えられる。

 

 そうであれば、秀吉が清須の御園の生まれであったという伝承は、秀吉が幼少期を過ごした地が清須であったということであり、中中村に移住してくる前の、「なか」母子の生活基盤が清須にあったということ、そして、そうであれば、おそらく、「なか」は清須の住人に嫁いだと考えられる。

 

 秀吉の母の「なか」は、清須から中村に子どもを、少なくとも二人は連れて移住してきた、正確には、清須で暮らしていけなくなって、中村に転がり込んできたのだと考えられるが、「なか」が移住先を中村にしたのは、おそらく中村に親類縁者がいたからであったと考えられる。

 

 秀吉の姉の「とも」が天文三年(一五三四)に、秀吉が天文六年(一五三七)に清須で生まれ、秀吉の弟の秀長が天文九年(一五四〇)に、秀吉の妹の「旭」が天文十二年(一五四三)に生まれ、(木下)弥右衛門が天文十二年(一五四三)に死亡しているとすれば、そして、秀吉の姉の「とも」や秀吉が(木下)弥右衛門の子ではなかったとすれば、秀吉の母の「なか」が(木下)弥右衛門と中村村で同居していた期間は長くても、おそらく、天文八年(一五三九)から天文十二年(一五四三)までの四年間になり、場合によってはもっと短かったかもしれない。

 

 そうであれば、「なか」と(木下)弥右衛門が「正式」な婚姻関係であったかどうかも分からないし、その事情は、「なか」と筑阿弥との関係にもいえるのかもしれない。

 

 秀吉の妹の「旭」が(木下)弥右衛門の子ではなかったとすれば、おそらく彼女は筑阿弥の子であったのであり、その関係から、(木下)弥右衛門の死後に、「なか」が筑阿弥と同居を開始したのかもしれない。

 

 そうすると、「なか」と(木下)弥右衛門の同居期間がもっと短く、その間に、幼い子度をを抱えて困窮した「なか」が、中中村や近隣の村の不特定多数の男とたちと性交渉を持ちながら生活していたということは、おそらくありうることだったと考えられる。

 

 「なか」にとって、(木下)弥右衛門や筑阿弥が「行きづりの男」であったのならば、秀吉が彼の父方の供養などするわけはないのである。

 

 そうであれば、秀吉の父の(木下)弥右衛門という存在は、秀吉が織田信長に仕えるようになったときに、秀吉が主張し説明した、彼の出生経過の物語の登場人物であり、秀吉の「実父」としての(木下)弥右衛門は虚構の話であったと考えられる。

 

 そして、服部論文や宝賀論文の指摘も参考にすると、困窮した秀吉の母が、おそらく生活のために金銭や物資の対価を得て、その時々で様々な男と性交渉をもって生活していた、きつい言葉でいえば、いわゆる「売春」に相当するような暮らしをしていたという想定は、それほど間違った想定でもなくなると考えられる。

 

 そして、そうであれば、秀吉の生物学的父親の特定は、どう考えても不可能である。

 

 また、おそらく秀吉と「おね」の結婚に「おね」の母親が反対したのは、二人が「おね」の両親の許可なく交際し、おそらく性交渉まで行ったことだけではなく、秀吉自身だけでなく秀吉の母や兄弟・姉妹の貧困と困窮、その中での壮絶な生き様を、そうした生き方が当時の最底辺層の女性に共通したものであったとしても、同じ女性として嫌悪したのかもしれない。

 

 なお、「おね」が秀吉と結婚する際に、「おね」は、弓衆頭というれっきとした士分の浅野家の養女となっているが、これは秀吉と「おね」が結婚するためだったと言われている。

 

 服部論文によれば、「おね」の実家の杉原家は武士ではなく、そのなかでも杉原家は上層の身分ではあったようだが、行商人の連雀商人であったという。

 

 そうであれば、「おね」が士分の浅野家の養女になってその身分を上昇させることとの引き換えで、それを交換条件として、おそらく秀吉の同輩に相当した浅野長政が仲介して、卑賎で困窮した生活を経験してきた秀吉との婚姻と、それによってそういう秀吉の家族と親族になることを、「おね」の母親に認めさせたのだと考えられる。

 

 なお、秀吉が妻の実家の杉原家(=木下家)を加増して大大名にしなかったのは、後々までこの時の杉原家の「おね」の母親の対応を恨んで根に持ったからであったという説がある。