豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(3) | 気まぐれな梟

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 今日は、「愛と青春のうた [Disc 1]」から、吉田拓郎の「結婚しようよ」を聞いている。

 

 服部英雄の「河原ノ者・非人・秀吉(山川出版社)」(以下「服部論文」という)は、秀吉の父母について以下のようにいう。

 

(7)秀吉の生物学的父親は特定不能

 

(d)筑阿弥の子はいなかった

 

 (木下)弥右衛門は天文十二年(一五四三)一月二日に死亡したとされているが、秀吉の母「なか」の長女の「とも」は天文三年(一五三四)の生まれで、長男の秀吉は天文六年二月六日の生まれ、次男の秀長は天文九年(一五四〇)の生まれ、次女の「旭」は天文十二年(一五四三)の生まれであると伝承されている。

 

 これらがすべて正しければ、次男の「秀長」を筑阿弥の子とするならば、母「なか」は(木下)弥右衛門と死別吸う前に筑阿弥と性交渉を持ったことになり、次女の「旭」を筑阿弥の子とするならば、母「なか」は(木下)弥右衛門と死別してすぐに筑阿弥と性交渉を持ったことになる。

 

 そうでなければ、母「なか」の四人の子は全て筑阿弥の子ではなく、母「なか」は、四人の連れ子を伴って筑阿弥に嫁いできたことになる。

 

(e)放浪する秀吉と母「なか」の困窮

 

 「太閤素性記」によると、秀吉は七歳で実父・弥右衛門と死別し、八歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し、十五歳のとき亡父の遺産の一部をもらい家を出て、針売りなどしながら放浪したとなっており、「太閤記」では、秀吉は寺で騒動を起こして家に送り返されると、父の折檻を恐れて報復に僧達を打殺して寺を焼き払ったが、家が貧しがゆえに十歳の頃より放浪することになったとされている。

 

 秀吉が光明寺に入れられたのは、おそらく口減らしのためで、寺から追放された秀吉を筑阿弥が養うことは不可能だったので、秀吉は、おそらく十歳ごろから家を出て放浪の生活を送り、伝手を頼って色んな仕事を転々としながら、その過程では清須の乞食村に流入したこともあったのだと考えられる。

 

 なお、服部論文によれば、乞食村は、清須だけではなく、秀吉の母「なか」が出産したという伝承がある萱都村や秀吉が子ども時代を過ごした中中村の近隣にあった甚目寺村にもあったという。そうであれば、秀吉は清須の乞食村に流入する以前に、乞食村があること、そこがどういうところで、どのように利用したらいいのかについて知る機会はあったはずである。もしかしたら、家から出て放浪していた秀吉は、清須に流入する以前に甚目寺村の乞食村を利用したことがあったのかもしれない。

 

 また、萱都村で「なか」が秀吉を出産したという伝承があるが、その伝承には、その出産が「なか」の「初産」であったという伝承もある。「初産」であったのなら、そのとき生まれた子は秀吉ではなく、秀吉の姉の「とも」であったことになる。

 

 そして、実家に戻って出産したということは、おそらく、その時点ではまだ「なか」の生活はそれほど困窮してはおらず、もしかしたら、「なか」はその時点では正式な婚姻関係、あるいはそれに準じる関係の下にあったのかもしれない。

 

 そうであれば、秀吉は、「なか」の生活が困窮し、婚姻関係もない状況で、おそらく清須で生まれたのだと考えられる。それが正式な婚姻関係がなく、金銭などの対価を得て行われた「密通」であったのであれば、その「密通」の相手方として伝えられる光明寺支院の僧や蓮華寺の僧は、おそらく清須に行ったときに「なか」に出会って性交渉の関係を持ったのだったと考えられる。

 

 そうであれば、それは基本的に一夜限りの関係であり、「なか」の元に残ったのは、わずかな金銭だけだったのかもしれない。

 

 そして、「なか」の周囲の人たちが、「なか」と光明寺支院の僧や蓮華寺の僧との関係を見聞きしていたことで、秀吉が生まれたときに「なか」には正式な婚姻関係にある人がいなかったので、秀吉は彼らの子では?という噂が飛び交ったのだと考えられ、それが、秀吉の生物学的な父親が彼らのどちらかであったという伝承を生んだのだと考えられる。

 

 そうであれば、秀吉が、「なか」と光明寺支院の僧や蓮華寺の僧との子であった確実な証拠もなく、「なか」と対価を媒介にした性交渉を行っていた別の人物の子が秀吉であった可能性も高い。

 

 渡邊大門「戦国大名は経歴詐称する(柏書房)」(以下「渡邊論文」という)が紹介する、秀吉が農民に雇われて薪拾いをしていたという伝承は、秀吉が家を出て放浪していた過程の一コマであったと考えられる。

 

 なお、秀吉が光明寺で騒動を起こしたのは、後述のように、おそらく秀吉の右手の指が六本であったことも関係していたと考えられる。

 

(f)中村村と秀吉

 

 「豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(2)」で述べたように、秀吉が預けられた光明寺は尾張国葉栗郡光明寺村にあった安照院光明寺で、「なか」の密通の相手がいたとされるのはこの光明寺の支院であり、 「なか」の密通のもう一人の相手がいたとされる蓮華寺は尾張国海東郡蜂須賀村にあった寺で、蜂須賀氏の菩提寺でもあった。

 

 「なか」の出生地の伝承は、尾張国愛知郡御器所村、尾張国愛知郡中村村、尾張国海東郡萱都村、尾張国葉栗郡曽根村がある。

 

 宝賀論文によれば「なか」の家系は美濃国の関鍛冶の末裔を主張する鍛冶職人であり、櫻井成廣の「豊臣女系図(桃山堂)」(以下「櫻井論文」という)によれば禰宜の家系でもあったという。

 

 御器所村が熱田神宮が使用する土器を製作する村で、萱津村の近隣に萱津神社があり、土器つくりと鍛冶は高温処理で共通する仕事であったとすれば、「なか」の一族や家族は神社と関係があった御器所村や萱都村に住んだことがあったと考えられる。

 

 「なか」の最終的な居所が中中村だったとすると、「なか」の一族や家族は、例えば、美濃国から木曽川を越えて尾張国葉栗郡曽根村に移住し、次に、熱田神宮で使用する土器の製作の仕事に従事するために尾張国愛知郡御器所村に移住し、次に萱津神社に係る鍛冶の仕事に従事するために尾張国海東郡萱都村に移住し、おそらくそこから鎌倉街道を通って尾張国愛知郡中村村に移住したのだと考えられる。

 

 そして、「なか」は、尾張国海東郡萱都村もしくは尾張国愛知郡中村村から清須に、おそらくは嫁いでいき、そこで辛酸をなめて、二人の子を抱えて尾張国愛知郡中村村に戻ってきたのだと考えられる。

 

 こうした「なか」の一族や家族の移住の過程の伝承が、その後、「なか」の出生地の異伝を生むことになったと考えられる。

 

 なお、秀吉と蜂須賀小六正勝との関係は、もしかしたら、「なか」の一族や家族が尾張国海東郡萱都村にいたときに、尾張国海東郡蜂須賀村の土豪であった蜂須賀氏と、おそらく何らかの関係があったことにも起因していたのかもしれない。

 

 そして、おそらく何もかもなくして中中村に流入した「なか」母子と、尾張国海東郡蜂須賀村の蓮華寺の僧との「密通」が生起したのかもしれないと考えられる。

 

 また、「なか」の密通のもう一人の相手とされる光明寺分院の僧がいた光明寺分院とは、おそらく、尾張国愛知郡中村村からは遠い尾張国葉栗郡光明寺村にあった安照院光明寺の境内やその近隣にあったのではなく、尾張国愛知郡中村村の近くにあったのだと考えられる。

 

 「なか」が清須に嫁いで、おそらく夫と別離して以降に、不特定多数の男と性交渉をもって、その結果として清須で秀吉が誕生したのであれば、尾張国葉栗郡光明寺村はもとより尾張国海東郡蜂須賀村も、尾張国愛知郡中村村も、清須からは少し遠いかもしれないので、そうであれば、秀吉生物学的父は光明寺分院の僧や蓮華寺の僧ではなかったのかもしれない。

 

 それでもこうした伝承が語られるのは、尾張国愛知郡中村村に帰ってきた「なか」が、生活のために中村村で不特定多数の男と性交渉をしていたことと、そのことをおそらく中中村の村人たちも知っていたことの反映であったのかもしれない。

 

 (木下)弥右衛門が足軽をやめて帰農した農民で、小作人としてでも、自分が耕作する土地を持っていたとしても、彼が負傷して体が不自由であったとすれば、通常の百姓仕事は十分には出来ず、「なか」の「稼ぎ」に依存していたのかもしれない。

 

 もしかしたら、その事情は筑阿弥も同様であったのかもしれず、筑阿弥が「なか」の元に「入夫」したという伝承は、筑阿弥が「なか」の「稼ぎ」に依存していた、きつい言葉でいえば「情夫」であったことを反映したものであったのかもしれない。

 

 そうであれば、子ども時代の秀吉にとっては、中村村は、懐かしい故郷などではなく、そこには嫌な思いでしかなかったのだと考えられる。

 

 服部論文は、秀吉と中村村について、以下のようにいう。

 

 すなわち「つくしに侍う」小早川が丈夫者として清須の留守居にあったときの話とある。筑前名島城主小早川隆景は天正十八年(一五九〇)の小田原攻めに際し、清須の留守居役になっていた。


 小早川(隆景)が清須から中村まで秀吉の供をした。「小早川には恥じるような話だが、自分はこの中村で育ち、わやく(無茶。非道)なることもして遠江に落行し、松下石見に仕えた。侍ほどおもしろいことはない」。
 

 「いざ、この中村を百姓どもの作り取り(無年貢地)にさせてみよう」と秀吉がいうので、小早川は「このようなめでたい御代、お取らせなされるのがよろしいでしょう」といった(隆景は減収にはなるが、秀吉のために賛成したのである)。

 

 すると秀吉が、「この村に仁王というわっぱがいるはずだ。自分より少し年長だが、あるときこの道筋で、自分が仁王が刈った草を少し取ったら、「遅くきて草も刈らないやつ!」といってひどくおこり、鎌柄でわれを叩いた。その遺恨は今に忘れられない。その仁王を、まず斬ってから取らせよう」といった。

 

 そのとき仁王は生きていたけれども、村人は「死んでしまった」と陳じた。「子はいないのか」と再び聞かれたので、「子も死んだ、孫はいる」と答えたところ、「孫なら遠いから仕方がない」といって、中村一円を百姓に下されたとある。


 なお、高麗陣に中村の人々が陣中見舞いにこなかったので、「にくい奴らだ、見舞いにくれば路銀は渡し、大坂までの船にも乗せてやったのに」、といって「作り取り」を召し上げたことになっている。


 天正十八年(一五九〇)の話だから、秀吉は当時満五十三歳、それより年長の仁王は五十五か五十六ぐらい、たしかに小さな孫がいてもおかしくない年齢だった。仁王の消息を知らなかった秀吉は、村の情報には詳しくなかったのなら、長い間中村を訪れたことがなかったのだろう。またいったん免許した「作り取り」(年貢皆免)を二年後の高麗陣(一五九二)で取り上げたというのだから、同世代であっただろう当時の村役たちを含め、村人への思いもあまりなさそうである。

 

 清須も中村も、秀吉を受け入れなかった。だから遠江に行ったのだろう。秀吉に冷淡だったほうろく売り
の伯父も含めて、清須も中村も、自分を追い出した町や村ではなかろうか。


 親にも親戚にも見捨てられた幼年期の秀吉は、乞食町や玄海に身を寄せることがあっただろう。
 

 こうした服部論文の指摘から、秀吉が彼が子ども時代に育った中村に愛着を感じておらず、かえって嫌な思いでを抱えていたということが想像できる。

 

 その嫌な思い出は、秀吉の家族と秀吉の貧困と困窮の他に、そうした貧困と困窮ゆえに、母「なか」が生活のために不特定多数の男と性交渉をして収入を得ていたこと、そのことや秀吉の右手の指が六本あったことによって、秀吉が村人たちから差別されいじめられ攻撃されていたということに起因していたのかもしれない。

 

 秀吉の「侍ほどおもしろいことはない」という発言は、秀吉の貧困で卑賎な出自、猿の様な顔形、右手の六本の指を全く問題にもせずに、純粋に能力と実績で登用していった織田信長との出会いこそが、秀吉の自己実現の出発点であったことを物語っている。

 

 ベルンハルト・ホルストマンの「野戦病院でヒトラーに何があったのか(草思社)」(以下「ホルストマン論文」という)は、以下のようにいう。

 

 ヒトラーは連隊生活での四年間、ひたすら自分に課せられた任務だけをはたした。そのとき見せた死をかえりみない勇気のおかげて、彼は戦争が終わりに近づいたころ、あこがれの第一級鉄十字勲章を授与されたのである。


 ただ軍隊生活ではまわりからなにかと親しみのないやつだと非難された。基本的に無感動な性格で、彼の態度はかたくななまでに卑屈だった。軍隊の命令にはどんな緇かなことでも真摯に従った。そのため戦友たちのなかには彼を面白く思わない者が多くいた。ようするに。仲間はずれの暗い奴だったのである。


 戦争がはじまって、軍隊はヒトラーにとって第二の故郷になった。彼はそこでそれまで見出すことのできなかった人生の生きがいを見つけたのである。それは手柄を立てて認められるということだった。

 

 総じていえば一九一四年のヒトラーというのは、けっして不器用ではないが、社会の規範から外れたボヘミアン、早く親をなくして根無し草となり、無気力で自堕落な放蕩生活に転がり落ちて、戦争がおこるまでは定職にもっかず、またつこうともしない、そんなつかみどころのない夢想家だった。

 

 だが戦争の勃発は彼をどっちつかずの不安定な境遇から解放した。それはまさに外から転がり込んできたチャンスだった。自分のまえには洋々たる前途がひらけている、そう彼は思い込んだ。そしてこうした期待感に溶け合ったのが、彼がウィーン時代からいだいていた民族主義への熱き思い、すなわちドイツ民族至上主義だった。彼が自国のオーストリア・ハンガリーの軍隊にではなく、わざわざ義勇兵としてバイエルン軍に志願したのはこのためである。

 

 ホルストマン論文による、「戦争がはじまって、軍隊はヒトラーにとって第二の故郷になった。彼はそこでそれまで見出すことのできなかった人生の生きがいを見つけたのである。それは手柄を立てて認められるということだった」という指摘は、秀吉の「侍ほどおもしろいことはない」という発言と同じことである。

 

 「外から転がり込んできたチャンス」があるとか、「自分のまえには洋々たる前途がひらけている」とか、おそらく秀吉も思ったはずである。

 

 秀吉にとっての「故郷」とは、彼を拒絶した中村村などではなく、彼を受け入れてくれた織田家の家中だったと考えられる。