豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(2) | 気まぐれな梟

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 今日は、「愛と青春のうた [Disc 1]」から、山本コウタローとウイークエンドの「岬めぐり」を聞いている。

 

 渡邊大門「戦国大名は経歴詐称する(柏書房)」(以下「渡邊論文」という)は豊臣秀吉の出自について、以下のようにいう。

 

(6)薪売り

 

(a)「16-17世紀 日本・スペイン交渉史」


 パブロ・パステルスの「16-17世紀 日本・スペイン交渉史」に引用された史料には、「関白殿は(かつては)薪売りに過ぎなかったのに、(今や)皇帝になったことを誇りとし、もはや全国を従え……(以下略)」(松田毅一訳。大修館書店)と書かれている。


 翻訳した歴史家の松田毅一氏は同書の注の中で、「薪売り」の箇所を「台所奉行であったことの誤聞であろう」と注記している。これは、秀吉が信長のもとで薪奉行を務めていたことを考慮してのことだろう(「甫庵太閤記」)。しかし、先の報告書などを見る限りにおいては、文字とおり「薪売り」と解してよいはずである。秀吉が若い頃、薪売りで生計を立てていたのは、諸外国まで広く知られた事実であったのだ。

 

 渡邊論文の「秀吉が若い頃、薪売りで生計を立てていたのは、諸外国まで広く知られた事実であった」という指摘は事実で、おそらく秀吉のことがから身近な近習や側室、側近の大名や大阪城に招待した有力大名などに、自分から得意になって話していたんだと思う。

 

 こんな底辺にいた自分がここまで立身出世をしたんだ、すごいだろ、って。

 

(b)「日本教会史」


 フランス人でイエズス会宣教師のクラッセは、自身の著作「日本教会史」(日本では「日本西教史」として明治十一年〈一八七八〉に刊行された)の中で「羽柴(屡自ラ其僥倖ノ事ヲ語リ、鄙賤(地位や身分が低く、いやしいこと。田舎びていやしいこと)ヨリ国主へ昇リシコトヲ述べ夕リ」(太政官飜訳係訳)と書いている。


 著者のクラッセは、フランスのディエップに生まれ、一六三八年にイエズス会に入会した。「日本教会史」が刊行されたのは、一六八九年のことである。これはソリェーの「日本教会史」やフロイスの「日本史」、そして「十六・七世紀イエズス会日本報告集」を利用して執筆されているが、史料価値は低いと評価されている。

 

 渡邊論文が述べるように、おそらく、秀吉が卑賎の出自であったという情報は、重要情報として宣教師たちに共有されていたと考えられる。

 

(c)信長仕官前に薪売りで生活


 ただ残念なことに、秀吉が薪売りであった時期がいつ頃のことなのか、時間的な経過が一切記されていない。

 

 秀吉が確実な一次史料に登場するのは、水禄八年(一五六五)十一月のことである(「坪内文書」)。秀吉は天文六年(一五三七)の生まれといわれているので、史上に登場したときには、もう二十九歳になっていた。少なくとも、信長から登用される以前に薪売りとして囗を糊していたのは、あながち間違いとはいえない可能性が高い。


 宣教師たちの間においても、秀吉が極貧の百姓出身であることは周知の事実だったのである。

 

 渡邊論文のこの指摘は正しいと考えられるが、そうであれば、フロイスの「日本史」に書かれた、豊臣秀吉が多指症で、彼の手の指が六本だったという記述や、秀吉の兄弟・姉妹を名乗って面会しに来た人たちを皆殺しにしたという記述も、同じように史実であったと考えられる。

 

 秀吉の出自と、彼が織田信長の登用されるまで、どのように生活してきたかということを検討するうえでは、「薪売り」の情報よりも、これらの情報の方が価値があると考えられる。

 

 これらの情報は、服部英雄の「河原ノ者・非人・秀吉(山川出版社)」(以下「服部論文」という)がすでに指摘していることであるが、渡邊論文はこれを無視して、「「賎(いやしい)」には「あやし」という読み方はない」ことのみを根拠として服部論文を否定しているが、渡邊論文は服部論文の指摘に向き合って議論を進めるべきだと思う。

 

(d)薪奉行の話は薪拾いとしての経験から創作されたもの


 「甫庵太閤記」によると、信長から薪奉行を申し付けられた秀吉は、一年間にどれだけ薪が必要かを分析し、現行の三分の一の量で済むのではないかと考えた。その結果、年間に一千石ばかりを無駄にしているとの報告を信長にしたのである。


 この提案によって、秀吉は信長に改めて才覚を認められ、さらに出世を遂げることになった。よく知られている逸話の一つである。具体的な年次は不明であるが、おおむね永禄初年のことと考えてよいであろう。

 

 しかし、この話を史実として認めるには、あまりに話ができ過ぎているといわざるを得ない。秀吉が薪売りをしていたことは史実の可能性が高いが、秀吉が信長のもとで薪奉行をしていたという話は創作ではないだろうか。秀吉が有能であったことは事実と認められるが、薪奉行だった話は若き頃の薪拾いとしての経験を膨らましたものと考えられる。

 

 渡邊論文は、「秀吉が信長のもとで薪奉行をしていたという話」は秀吉が「若き頃の薪拾いとしての経験を膨らましたもの」で「創作ではないだろうか」というが、秀吉はいきなり戦場に出て武勲で勝幡織田家の家中で頭角を現したのではなく、伝承では、信長の草履と利から始めて、その機転が利くところを信長に買われ、薪奉行や普請奉行などのパックヤードの仕事で成果を上げて認められていったことは事実であったと考えられる。

 

 そうであれば、「秀吉が信長のもとで薪奉行をしていたという話」を、秀吉が「若い頃に薪拾いをしていた」ということだけで否定するのは、根拠薄弱であると考えられ、この主張には従えない。

 

 なお、「豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(1)」では、この秀吉の「薪拾い」が、秀吉の母系の家系に係るものであったと述べたが、この「薪拾い」の経験こそが、秀吉が信長のもとで薪奉行をして成果を上げられた遠因でもあったと考えられるが、このことも後述する。

 

(7)「羽柴」と「豊臣」


 秀吉の発給文書を確認すると、当初は木下を用いている。秀吉が木下から羽柴に名字を改めたのは、元亀四年(一五七三)七月のことである。先に挙げた「豊鑑」によると、羽柴は丹羽長秀と柴田勝家の名字から、それぞれ一字を取ったとされている。もっともらしい見解ではあるが、「豊鑑」の記述内容と羽柴と名乗った時期に齟齬があるので、今となっては疑わしいとの指摘がある。


 秀吉の主君である織田信長は、配下の武将にたびたび姓を与えたことで知られている。羽柴姓は九州の名族とは関係ないが、信長が与えたのは疑いないと考えられる。

 

 渡邊論文の豊臣秀吉の出自についての論述はこれで終わりである。

 

 豊臣秀吉の「羽柴」の姓が主君の織田信長から与えられたものであるということは、特に異論もなく、多くの人達に受け入れられていると考えられるので、問題は、「羽柴」の前の「木下」の姓を秀吉が名乗る経過と、彼の父親とされる「弥右衛門」や「筑阿弥」がこの「木下」の姓を名乗っていたのか、ということのはずである。

 

 この「木下」の姓についての検討を放棄して秀吉の出自を議論しようとする渡邊論文の姿勢は、表面的で無内容だと思う。

 

 それに加えて、渡邊論文の議論では、豊臣秀吉の父系の系譜や母系の系譜、若いころの秀吉がどういう生活を送っていたのか、秀吉の妻や秀吉の親類縁者、初期の家臣団はどんな人だったのか、などについての検討は、まったく手つかずで放棄されている。

 

 これらのことの検討抜きに、明確な史料の存在しない秀吉の出自について、議論することなどできないのに、それらを放棄する渡邊論文の姿勢は、ちょっと信じられない。

 

 しかし、これらの検討の材料がないわけではなく、これらの検討は、丁寧に資料を集めて状況証拠を積み上げていけば、十分可能なことであろうと考えられるので、以下服部論文に依拠して、まず、秀吉の出自を検討していきたい。

 

(7)秀吉の生物学的父親は特定不能

 

 服部論文は、秀吉の父母について以下のようにいう。

 

(a)父がいなかった秀吉

 

 「豊鑑」は秀吉の父母の名を知る人はいないとした。渡邊世祐「豊太閤の私的生活」(一九三九)によれば、古くから秀吉私生児説があった。「尾州志略」「平豊小説」がそれで、前者の「尾州志略」(「尾陽志略」か)は地方の伝説を根拠とし、後者の「平豊小説」は父の菩提寺を建立しなかったこと、贈官の追福もしなかったことが根拠である。渡邊はたんなる想像として退けた。しかし寺がないというのは説得的ではないか。


 秀𠮷は母や妻の縁戚者を多く部将にとりあげた。たとえば小出秀政は母方義叔父である。同郷、尾張中村出身で、秀吉の叔母(大政所妹)を妻とした(「寛政重修諸家譜」の秀政の項に「室は秀吉姑をば」、吉政・秀家母の項も同じ)。おなじく中村の出である加藤清正は、その母が秀吉母と従姉妹だった。天野貞景の「塩尻」に高台院母朝日局(木下家利女子)は大谷刑部吉隆母(東)の伯母であると記述がある(「尾張徇行記」朝日村)。大谷吉継も杉原(木下)一統に含まれるかもしれない。母の親戚(加藤・小出)や妻の親戚(杉原・木下・浅野・大谷)は積極的に取り立てた(秀政の母は「とら」といい、彼女に宛てた秀吉書簡は「太閤書信」一二四、二九六頁)。しかし父の縁戚飭が登場しない。


 福島正則は宣教師の報告に、「秀吉の甥福島」として登場する。すなわち一六〇四年イエズス会年報(「一六・七世紀イエズス会日本報告集」第一期四巻)に、「太閤様の甥にて二ヶ国の守護・福島の望みによりて」とあり、フロイス「日本史」I(一五九一年、天正十九=文禄元。松田・川崎訳ではlー二四章、七五頁)では「秀吉の甥はYyoの国・半領の主君」であった。
 
 Yyoは伊予国の別表記で、ポルトガル語ではH音は発音しない。天正十五年(一五八七)福島正則は伊予半分十一万三千石の領主であったから、記述はきわめて正確である。

 

 しかし甥、つまり秀吉姉弟妹の子とすると該当者がいないから、従姉妹・従兄弟の子であろう。
 

 福島正則画像(正則家臣上月文右衛門筆、妙心寺海福院藏)の妙心寺嶺南和尚賛に「太閤相公ノ閥閲テンテ弱冠ヨリ武ヲ以テ」「豊臣閥閲 尾陽生縁」とある。「寛政重修諸家譜」では正則母は秀吉伯母木下氏(ほか)とある。


 しかし「寛政重修諸家譜」には、母は「秀吉の伯母木下氏」(父正信の項)とのみある。木下氏とは誰か。大政所なかの氏姓は不明、というよりは苗字・姓ともなかっただろうけれど、某氏ではなく木下氏と呼ばれた可能性がある。ね(北政所)の系統も木下氏であった。伯母であって叔母ではないから、母の姉となるけれど、正則は秀吉より二十五歳も下であって、不自然である。正則とほぼ同年の加藤清正は大政所・従姉妹の子である。

 

 母の係累は数人を数え得る。妻の係累も重用された。しかし父方では思い浮かぶ人物はいない。父の菩提寺はなかった。それは父がいなかったからだ。秀吉縁者が秀吉を頼ってきたことはフロイスがくわしく記述している。父方の伯叔父や従兄弟たちがいたのなら、仕官を希望しないわけはない。不思議だが、父がいなかったから、その係累もいなかったと考えれば当然のこととなる。


 再度、渡邊世祐が引用した文献をみよう。

 

 「尾州志略」-蜂須賀郷蓮華寺有僧密通干子女、即有身、於此嫁于中村郷筑阿弥者、天文五年春生男子於中村、秀吉是也


 「平豊小説」-秀吉は其の母野合の子なり、そのいとけなかりしとき、つれ子にして木下弥右衛門に嫁したるに、弥右衛門早く世を去りければ、其の頃織田家の茶坊主にして、筑阿弥といひしもの、浪人して近村にあるをもって、すなはち之れを入夫したり。この故に弥右衛門は秀吉の継父にして、筑阿弥は仮父なり。

 

 渡邊は史料が後世のものであることを強調し、「何処まで信用すべきか疑わしい」「想像力のみに據ったもの」としたけれど、フロイスの記述の基調にはよく合致する。大政所は木下弥右衛門ないしは筑阿弥と接触する以前にすでにお腹に子がいて、その父親が誰かはわからなかった(「尾州志略」では蓮華寺僧)。


 秀吉にとって木下弥右衛門も義父であるらしい。「祖父物語」は父を尾州ハサマ村(甚目寺町廻間)生まれの竹アミ(筑阿弥)とし、秀吉幼名をコチク(小竹)とする。この点は「太閤記」も同じで童名日吉としながらも、信長はしばらく小筑と呼んだとある(「太閤素性記」では秀吉幼名は日吉丸、竹アミは義父で、小竹は秀長)。折り合いの悪かった義父が竹アミであって、少なくとも秀吉には父親と意識し、尊敬できる人物はいなかった。弥右衛門は秀吉にはほとんど無関係な人物だった。後世になってつくられた人物なのかもしれない。秀吉に父はいない。竹アミに苗字がなかったように、彼にも苗字がなかった。

 

 服部論文は、秀吉が「父の菩提寺を建立しなかったこと、贈官の追福もしなかったこと」と、「母や妻の縁戚者を多く部将にとりあげた」が「父方では思い浮かぶ人物はいない」のは、「父がいなかったから、その係累もいなかった」からであったと考えられることから、秀吉には実父に該当するような人はいなかったと推定する。

 

 服部論文が指摘するように、秀吉の「折り合いの悪かった義父が竹アミ」で「秀吉にとって木下弥右衛門も義父である」のなら、誰か別の人物が秀吉の生物学的な父親であったが、その人物が誰かは分からないということになる。

 

 服部論文によれば、秀吉の子の秀頼も、秀吉の生物学的な子ではなかったという。

 

 そうであれば、秀吉と秀頼は、「親子」二代にわたって、正式な婚姻関係から生まれた子ではなかったということになる。 

 

(b)母の「野合」の子、秀吉

 

 フロイス「日本史」(松田・川崎訳、第一部第二一章二五五頁)の記事をみる。

 

 関白が都に出発する数日前(一五八七年二月〈天正十五年正月初旬〉)、全員がきれいな服装をした貴族二、三〇人を従えて、ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。その若者の知りあいのほとんどがそれ(弟だというの)は事実だと証明した。秀吉(の出)は王家の血ではなく、むしろ汚くて最低な血乱であった。一族親戚たちは農業や漁業(釣りの技術)や他に似たような産業(生業)をやっていた。あと(そのほかの親戚)は、彼(関白)が大きな力とプライド(名誉)に囲まれているのをみ、(関白が)大きな尊厳をもっているから、自分の貧しさと、苦しさの低い地位から抜け出て、関白から新しい生活と名誉を与えてもらえるよう、(伊勢からやってきた若者が期待したのと同しように)招待されるものがいた(松田訳によれば、杉原家次や三好秀次を指す)。


 関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度で、あの男(伊勢の若者)が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。母はその男を息子として認めることがとても恥ずかしかったし、神様をあまり恐れなかったし、神様の正義を知らなかったので(本当のことを告白しなければならなかったのに)、まるで人間であることを否定するかのように、「そのような者を生んだ覚えはない」といった。


 その母の話かまだ終わらないうちに、秀吉は、ただちに若者、そしていっしよに来た人々を捕縛し、秀吉の前に連れてこさせて、首を切った。首は都に行く道沿いに棒で串刺しにされた。(関白は)彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己れに不都合とあれば)許すことはなかった。


 その三ヶ月か、四ヶ月あとに、関白は尾張王国に他に(自分の)姉妹がいて、貧しい農民(耕作者)であるらしいことを耳にした。そこで彼女に興味はなかったが、同じ血をもっているものたちの低さ(己れの血統が賤しいこと)を打ち消そうとし、裏切り偽る気持ちを隠しつつ、彼女に名誉を与える、よい知らせと幸せがあるから(それ相応の待遇をする)というメッセージをだして、京都へくるように命じた。彼女もできる限りの準備をして、他に何人かをつれて都にきたが、到着するや否や、冷酷で残酷にも首を切られた。

 

 天正十五年ならば秀吉は五十歳を過ぎているから、若者なら弟妹の話になる。フロイスにしたがえば、秀吉には弟秀長や姉(日秀、秀次母)や妹(旭姫)以外にも、弟妹がいた。大政所(なか)の「結婚」歴も三度以上あった。「結婚」とはみなしがたいものも含まれよう。問題の子(伊勢)は彼女自身も隠すような存在だったが、母の過去と秀吉の出自を消すための犠牲になった。自分の肉親であったのに、男(弟)を殺害したとすると、現代の目からは異常である。空白期の大政所に秘密があったように読める。


 秀吉の母は男運が悪かった。母子ともに極貧のなか、知られてはまずいような生活も経験した。秀吉の出自・生い立ち、そしてその母には秘密があった。

 

 服部論文が紹介するフロイス「日本史」の、秀吉が彼の弟や妹と名乗る人たちを殺害した話と、「平豊小説」の「秀吉は其の母野合の子」で、母が木下弥右衛門に嫁いだときの「つれ子」であり、「弥右衛門は秀吉の継父にして、筑阿弥は仮父なり」という話を重ね合わせると、「野合」とは婚姻関係に無い男女の性交渉のことであるので、母子ともに極貧のなかで秀吉の母は、おそらく生活のために金銭や物資の対価を得て、その時々で様々な男と性交渉をもって生活していた、きつい言葉でいえば、いわゆる「売春」に相当するような暮らしをしていたのかもしれない。

 

 そして、こうした生き様は、「なか」のような境遇の女性たちは、みんな誰でも行っていたことだったのかもしれないが、そうであったのならば、大政所となった秀吉の母が、彼女の昔の行いの結果であった、秀吉の弟や妹の存在を必死に否定したのは、良く理解できる。

 

 そして、秀吉の母が木下弥右衛門に嫁いだときには、秀吉を妊娠中であったとすれば、秀吉が自分の生物学的父親を知るすべはないのである。

 

(c)蓮華寺の僧侶との不義の子、光明寺支院福阿弥の子という伝承

 

 なお、宝賀寿男の「豊臣秀吉の系図学(桃山堂)」(以下「宝賀論文」という)では、秀吉の出自について、以下のように述べている。

 

 渡辺世祐氏(明治大教授など歴任)に、大正八年刊の「豊太閤と其家族」という著作がおり、のち一部加筆のうえで「豊太閤の私的生活」と改題され、講談社学術文庫にも収められていますが、この中では、母親が蓮華寺という寺の僧侶と密通して生まれた不義の子が秀吉という民間伝承が取り上げられており、「塩尻」という著名な随筆では「光明寺支院福阿弥の子なり」という所伝が紹介されています。

 

 服部論文が指摘する、秀吉の母の「知られてはまずいような生活」が、「「結婚」歴も三度以上あ」り、それには「「結婚」とはみなしがたいものも含まれ」ていたものだったとすれば、宝賀論文が指摘する、秀吉は母と蓮華寺の僧侶との不義の子、光明寺支院福阿弥の子という伝承から、秀吉の母が蓮華寺の僧侶や光明寺支院福阿弥と「密通」していたということがあったこと自体は事実であったと考えられる。

 

 なお、それでも、秀吉の生物学的父親が蓮華寺の僧侶や光明寺支院福阿弥以外の誰かであった可能性も否定はできず、おそらく確かなことは、(木下)弥右衛門は秀吉の生物学的父親ではなかったということ、秀吉の生物学的父親は特定できないということであると考えられる。

 

 光明寺は安照院光明寺といい、尾張国葉栗郡光明寺村にある寺で、この光明寺で徳川家康が松平元康から改名した。蓮華寺は尾張国海東郡蜂須賀村にある寺で、蜂須賀村の蜂須賀城は、蜂須賀正勝が出た蜂須賀氏の城で、蓮華寺は蜂須賀氏の菩提寺であった。秀吉が預けられたのは安照院光明寺であり、「なか」の密通の相手とされる人がいたのは、この蓮華寺と安照院光明寺近くにあったと思われるその支院であったと思われる。

 

 「なか」が生まれたのは、尾張国海東郡萱都村であったという伝承と尾張国愛知郡御器所村であったという伝承と尾張国葉栗郡曽根村であったという伝承があるが、後述するが、宝賀論文が指摘するように「なか」の家系が鍛冶職人で、美濃国の関鍛冶の集団の関係者を名乗っていた、あるいは後世になってそう主張したのなら、これらの伝承はおそらく、曽根村→御器所村→萱都村、そして中村村という、美濃国から尾張国に南下・移住してきた「なか」の家族の移動経路を反映しているのだとも考えられる。

 

 そして、これらの伝承から、海東郡萱都村や同蜂須賀村から愛知郡中村村を中心とした地域が、秀吉と「なか」の生育域であったと考えられる、

 

 (d)筑阿弥の子はいなかった

 

 (木下)弥右衛門は天文十二年(一五四三)一月二日に死亡したとされているが、秀吉の母「なか」の長女の「とも」は天文三年(一五三四)の生まれで、長男の秀吉は天文六年二月六日の生まれ、次男の秀長は天文九年(一五四〇)の生まれ、次女の「旭」は天文十二年(一五四三)の生まれであると伝承されている。

 

 これらがすべて正しければ、次女の「旭」を筑阿弥の子とするならば、母「なか」は(木下)弥右衛門と死別してすぐに筑阿弥と性交渉を持ったことになり、そうでなければ、母「なか」の四人の子は全て筑阿弥の子ではなく、母「なか」は、四人の連れ子を伴って筑阿弥に嫁いできたことになる。

 

 「太閤素性記」によると、秀吉は七歳で実父・弥右衛門と死別し、八歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し、十五歳のとき亡父の遺産の一部をもらい家を出て、針売りなどしながら放浪したとなっており、「太閤記」では、秀吉は寺で騒動を起こして家に送り返されると、父の折檻を恐れて報復に僧達を打殺して寺を焼き払ったが、家が貧しがゆえに十歳の頃より放浪することになったとされている。

 

 秀吉が光明寺に入れられたのは、おそらく口減らしのためで、寺から追放された秀吉を筑阿弥が養うことは不可能だったので、秀吉は、おそらく十歳ごろから家を出て放浪の生活を送り、伝手を頼って色んな仕事を転々としながら、その過程では清須の乞食村に流入したこともあったのだと考えられる。

 

 秀吉が農民に雇われて薪拾いをしていたというのは、秀吉が家を出て放浪していた過程の一コマであったと考えられる。

 

 なお、秀吉が光明寺で騒動を起こしたのは、おそらく秀吉の右手に指が六本であったことも関係していたと考えられる。